2010年4月30日 第92回「今月の映画」
監督:ラデュ・ミヘイレアニュ 主演:アレクセイ・グシュコブ ドミトリー・ナザロフ メラニー・ロラン
○(1)<パンフレットより>
<破天荒で情熱的な音楽>(佐藤忠男) これは破天荒な映画である。喜劇であり、悲劇であり、社会派映画であり、大、メロドラマでもある。そしてなによりもやはり情熱的な音楽映画である。そんな映画ってあるだろうか。それがあるのだ。 じつはアンドレイは、30年前の旧ソヴィエト時代にはこの管弦楽団で世界に知られた天才的な指揮者であり、優秀な楽団員たちを巻き込んで一途にチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の“究極のハーモニー”と信じる音色を狂ったように追求していた。ところがブレジネフ政権のユダヤ人排斥で楽団員の多くが解雇され、それをかばおうとしたアンドレイも失脚したのである。当時クビになった楽団員たちは、いまはそれぞれにしがない仕事に埋もれているが、夢を捨ててはいない。だから誘うと、このチャンスにみんな一緒に見果てぬ夢の“究極のハーモニー”をとらえたいと夢中になる。 世界に知られた管弦楽団のニセモノを編成してパリの一流劇場に乗り込むなんて話は、現実的なストーリーとしては成り立ちそうにない。だからこれは喜劇になっている。とても起こりそうにない出来事を成り立たせるために、映画ならではの面白いギャグ仕立ての話の飛躍がふんだんに仕掛けられていて、笑いながら観客は彼らの夢の実現を期待する気持ちになっている。 アンドレイがニセの楽団のマネージメントを頼むのは、かつて彼らをクビにした元支配人のイワン。かつての行動は職務上やむを得なかったことなのだということで喜んで引き受けて、あの手この手と知恵をしぼってこのインチキを成り立たせて笑わせてくれるが、では彼はアンドレイたちと同じように共産党体制の誤りを反省しているかというとそうではない。むしろ党の復活を願い、同じように力を失ったフランス共産党の同志と連帯したいと思っている。ここらが突飛なギャグの軽い笑いを超えた社会風刺的な重い笑いにもなっているところだ。笑いの質も重層的になっている。 チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は誰がソロのヴァイオリン奏者であるかが決定的に重要な曲目である。アンドレイはフランスの若手で最高の人気者であるアンヌ=マリーにこだわる。彼女はかつてアンドレイが天才とうたわれた指揮者であることを知っていて喜んで応じるが、無理に無理を重ね、ゴマカシにゴマカシを重ねて入国したニセの楽団としては楽器が足りなかったり、パリの街に浮かれたりで彼女とのリハーサルができなくなって出演を拒否される。 それでもなんとか彼女に出演してもらおうとアンドレイはこだわるが、このあとの物語の展開の中でその隠された理由が徐々に明らかになってゆく。ここはもう、殆んど大メロドラマと言ってよく、それまでの喜劇ぶりとはうって変わったような激情が噴き上げてくるのである。 隠されていた悲劇の謎はクライマックスのオーケストラの演奏の中で明らかになるのだが、そこはもう、涙、涙、また涙の、愛と芸術への賛歌だ。そして私は、ここでついに、この映画でなぜチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が演奏されなければならなかったのかを理解する。 この曲には悲痛なまでの激しい感情のうねりがあり、からみ合いがある。音楽はあくまで音の音色やメロディやハーモニーの美しさを楽しむものであって、個々のメロディやリズムに文学作品のように具体的な意味があるわけではないことは言うまでもないが、われわれは興にのると、とかくそのメロディの流れなどに物語や絵画や演劇のような具体的な意味を求めたくなる。この曲の音色やメロディなどとくにそうである。それがこの映画のばあい、主人公たちの心の中に渦巻く激情の、このうえなく悲しく美しく、ナマナマしいまでに現実的な表現であるようにさえ感じられる。 本来抽象的なものである音楽の美を、こうして現実化して受け止めるのは通俗化だろうか。そうかもしれないがこれは止めようのない欲求であり、この映画はそういう欲求に進んで応じることで音楽映画として成功していると思う。ラデュ・ミヘイレアニュ監督のねらいも正にそこにあったのだろう。映画の中には、逆境に生きるミュージシャンたちの弾く、ジプシー音楽っぽい演奏なども入っているが、そこにいっそう、音楽に人生の意味を盛り込もうという思いを感じて私は打たれた。 |
○(2)<解説>
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をモチーフに描く奇跡の物語。 表現する術に長けた人たち、とりわけ、楽器を巧みに奏で、聴く者のさまざまな感情や想像力かきたてる演奏家は、その一点だけでも素晴らしい存在だといえます。音楽は言葉や習慣、文化の違いを越えて心に沁みこんでくるもの。演奏する曲に自らの思いをこめて、聴衆とコミュニケーションを図る演奏家たちには、素直に拍手を贈りたくなります。 本作に登場するのは、共産主義時代の旧ソ連でユダヤ人排斥運動によって不遇に陥った演奏家たち。彼らを擁護したために、指揮者の地位を剥奪され清掃係に甘んじてきた主人公アンドレイの起死回生のアイデアによって、再びコンサートホールのステージに上り、スポートライトを浴びることになります。 生き延びるためにしたたかになった演奏家たちがクライマックスには呼吸を合わせ、見事な演奏を繰り広げる。演奏家としての意地とプライドを取り戻した瞬間です。コミカルかつ軽快に語られる流れのなかで、本作が圧倒的な感動を呼ぶのは演奏家たちが音楽とひとつになって聴衆をぐいぐいと惹きこんでいく、このクライマックスがあるからです。 自ら脚本を書き、監督を務めたのは、ルーマニア出身のラデュ・ミヘイレアニュ。残念ながら日本では、ベルリン国際映画祭で話題になった『約束の旅路』が公開されただけですが、他の作品もモントリオール世界映画祭やヴェネツィア国際映画祭などで高く評価されたものばかり。自らがユダヤ人の移民であることから、ユダヤ人問題を題材にすることが多いミヘイレアニュ、本作でもユダヤ人迫害の史実を踏まえ、巧まざるユーモア・センスを発揮し、素敵な娯楽作品として仕立てあげています。 若手脚本家のへクトール・カベッロ・レイエスとティエリー・ドゥグランディによる原案をもとに、ミヘイレアニュは、『約束の旅路』で組んだ脚本家アラン=ミシェル・ブランとともにロシアに赴き、リサーチをし、想像力を働かせて脚本を執筆。さらに『続・激突!カージャック』の脚本家マシュー・ロビンスが協力することで磨きがかけられていきました。 本作に登場するユダヤ人やジプシーの演奏家たちは、いずれも逞しく、少しこすからいキャラクターばかり。ミヘイレアニュは笑いを交えつつ、今もそうした逆境を生き抜いている人たちに、共感をこめてエールを送っているのです。 もちろん、本作の最大の魅力は演奏される楽曲の数々にあります。『サガン・・・悲しみよこんにちわ・・・』などで知られるアルマン・アマールが音楽を担当。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を軸に、モーツァルト、バッハ、ハチャトゥリアン、パガニーニ、ドビュッシーといったクラシックの名曲を巧みにストーリーに織り込んでいきます。一方でジプシーの音楽やエジプトの民族音楽もさりげなく挿入するなど、まことに音楽の多様な楽しさが満喫できる仕上がりとなっています。 ロシアとフランスを舞台にすることもあって、出演者もそれぞれの国の魅力的な俳優が選りすぐられています。主人公アンドレイには、ソ連時代から舞台・映画で活躍してきたアレクセイ・グシュコブ。さらにドミトリー・ナザロフ、ヴァレリー・バリノフ。アンナ・カメンコヴァ・パヴロヴァといったロシアの個性豊かな俳優たちが顔を揃えました。フランスからは『PARIS』やクエンティン・タランティーノ作品『イングロリアス・バスターズ』によって、一躍、注目の星となったメラニー・ロラン。『トランスポーター』シリーズのフランソワ・ベルレアンに、『ドライ・クリーニング』の演技派ミュウ=ミュウまで、多彩な顔ぶれ。このキャスティングの妙が映画の魅力をいっそう高めています。 ミヘイレアニュが生み出した音楽と演奏家への讃歌。あなたは堪能されましたか。(T.I.) |
○(3)<物語>
劇場の清掃係に身をやつしている元指揮者アンドレイは、 ロシア。ボリショイ劇場で清掃係として働くアンドレイ・フィリポフ。見るからにさえない中年のこの男が、かつては天才と讃えられた伝説の指揮者だと聞いても、信じる者は少ないだろう。 そんなある夜、アンドレイが支配人に命じられて居残りで彼の部屋を掃除していると、1枚のFAXが届く。パリのシャトレ座からの出演依頼だ。2週間後に予定していたLAフィルの公演が中止になったため、代わりに出演してほしいというのだ。アンドレイの頭の中で突然、とんでもないアイデアが閃いた。かつての仲間を集め、ボリショイ管弦楽団としてパリに乗り込むのだ! アンドレイは、チェロ奏者だった親友サーシャに話を持ちかける。家族に去られ救急車の運転手をしているサーシャは、呆気にとられるが、アンドレイの熱意に押され、気がつけば彼を救急車に乗せて街中を走り回っていた。 アンドレイとサーシャは、昔の仲間たちを次々と訪ねる。タクシー運転手、蚤の市の業者、果てはポルノ映画のアフレコまで、様々な仕事で生計を立てている彼らのほとんどが、アンドレイの誘いに二つ返事で応じた。肝心のパスポートとビザは、ジプシーのヴァイオリン奏者ヴァシリが、団員55人とアンドレイ、イワンの分の偽造を手配。ついに寄せ集めオーケストラは、パリに旅立った。 しかし、パリに着いた団員たちは自由奔放、勝手気ままなマイペース。迎えに来たシャトレ座の支配人助手ジャン=ポールに、ギャラを今すぐ払え、酒だ、煙草だと要求。スケジュールは完全に無視で、翌日のリハーサルにも現れない。トランペット奏者のヴィクトルとその息子は行商を始め、他の皆も思い思いにアルバイトに精を出すのだった。 コンサートの前夜、食事を共にするアンヌ=マリーとアンドレイ。初めてのオーケストラと一緒に初めてチャイコフスキーに挑戦するアンヌ=マリーは、アンドレイと本音で語りあいたいと願い、赤ん坊の頃に両親を飛行機事故で喪ったと身の上を語る。そして、なぜ自分を選んでくれたのかと尋ねるが、アンドレイは急に酒をあおり始め、究極のハーモニーに到達できたはずの素晴らしヴァイオリニスト、レアの悲しい運命を語る。私はレアの代わり?失望したアンヌ=マリーは公演中止を宣言する。 夢は終わった、と誰もが思った。しかし、アンヌ=マリーを説得しようとして思わず「コンサートの最後に両親が見つかるかも」と口走るサーシャ。するとギレーヌは、「嘘をついてごめんなさい」という置手紙と、アンドレイから昔預かったレアの注釈付の楽譜を残して消える。彼らの思いに打たれ、演奏する決心をするアンヌ=マリー。「レアのために戻れ!」というメールが団員たちを呼び戻し、いよいよコンサートの幕が開く。果たして、アンドレイたちは究極のハーモニーに到達できるのか? |
○(4)♪ 高く舞い上がる音楽と、 地を這う猥雑な音楽の狭間のドラマ(林田直樹) 映画『オーケストラ』の音楽的な意味での主人公、それはクラシック音楽であると同時に、ロシア(旧ソ連)で抑圧されてきたユダヤ人たちの大衆音楽である。この両者の対比の妙が、この音楽の第一の音楽的な特徴だ。クラシック音楽のオーケストラの格調高い響きの一方で、主人公の元指揮者アンドレイの昔の仲間たちが町で演奏する音楽の、何と泥臭いことだろう。だが、そこには抗いようにない魅惑がある。ロシア語やロシアなまりのフランス語のセリフの言葉とあいまって、そこには、調子っぱずれで、野暮ったくて、いびつで、まがりくねった響きがある。だが、この騒々しさとセンチメンタリズムのないまぜになった音楽の、何という妖しい魅力だろう。彼らの演奏の根源的な力の、何という底知れぬ強さだろう。これは、近頃日本でも急速に注目されるようになった、東欧ユダヤ人の伝統的な大衆音楽「クレズマー」の特徴を思わせる。映画での彼ら、すなわち落ちぶれたユダヤ人演奏家たちは、メンデルスゾーンだろうがロシア民謡だろうがシャンソンだろうがフレンチポップスだろうが、みないっしょくたにして、笑いのめし、同化し、けろりと自分のものにしてしまう、そこには苦境に負けないしぶとく逞しい生命力がある。 主人公アンドレイの哀感あふれるテーマを始め、いくつかの重要なシーンで、本作のトーンを決定づけているのは、音楽を担当している作曲家アルマン・アマールである。近年アマールは『ぜんぶ、フィデルのせい』『サガン・・・悲しみよこんにちわ・・・』など主にフランス映画で20本近い実績がある。フランスとモロッコにルーツを持ち、エルサレムで1953年に生まれたアマールは、ヨーロッパ全域はおろか、中近東やインドの音楽語法にも詳しい。さらに、現代舞踊のピーター・ゴスや映画監督・演出家のパトリス・シェローのもとでも経験を積んでいる。こうしたドラマ・映画音楽の優れた才能を起用したことも本作の成功の理由のひとつだろう。 いわゆる『挿入曲』で参加しているミュージシャンもバラエティに富んでいる。ケク・ランは東ハンガリーを源流とするロマのバンドだが、ボブ・ディランの影響も受けている。フランスのレジュ・ノワール(黒い瞳)というバンドは、ロマとクレズマーとジャズが融合され、ジャンゴ・ラインハルトの精神を継承する。そしてレ・ミュジシャン・デュ・ナイルは、北部エジプトを代表する民族音楽グループ。つまり、ロシア、フランス、ユダヤのみならず、実に雑多な響きが、この映画にはさりげなく取り入れられているのだ。 ところで『オーケストラ!』の音楽上の最大の主人公は、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲である。でも一体なぜ? 指揮者がこれほどまでに協奏曲にこだわりを持つというのは、主人公アンドレイの悲劇的な体験のトラウマのような曲だから、というドラマ上の理由はあるにせよ、クラシックにある程度詳しい人なら多少不思議に思うかもしれない。 だが、さすがに映画である。フィクションは事実よりも真に迫る。特に、シャトレ座支配人やスター・ヴァイオリニストのアンヌ=マリー・ジャケのマネージメント周辺の金の絡んだやりとり、そしてロシアのオーケストラのはちゃめちゃぶりは、いかにもありそうなパロディとしてよくできていて、リアルである。クラシック音楽マネージメント業界のプロでも、思わずニヤリとさせられるのではないか。 特に印象的だったのは、エリート的なスター街道を歩んできたアンヌ=マリーが、最初のリハーサルとのきに、オーケストラの泥臭いヴァイオリニストの一人が即興的にパガニーニのカプリースの一節を見事に弾くのに心を打たれた場面だ。そこでアンヌ=マリーが思わず発した「あなたどこで勉強したの?」という一言に対して、「なんだこの女は?」とヴァイオリニストは怒る。生きることと音楽することが完全に一致しているストリート・ミュージシャン的な演奏家である彼には、「どこで勉強した」かなんてどうでもいいことなのだ。キャリア重視、競争主義、エリート教育一辺倒のいまのクラシック界を、見事に皮肉った一シーンである。 この映画のクライマックスとなるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のシャトレ座での本番演奏シーンは、映像とドラマの力によって、通常の演奏とは違った新たな雄弁な力を獲得している。そして、いつのまにか気づかされるのだ・・・・・冒頭にあげたような雑多な生命力あふれる大衆音楽と、遥か高みで神々しく鳴り響いているチャイコフスキーが、どこか深いところで通じ合っているのではないかということに。 もしかすると、チャイコフスキーは、東方ユダヤ人たちのクレズマー音楽を聴いていて、それをヴァイオリン協奏曲の中に盛り込んだのかもしれない。この曲は初演当初、「悪臭のする音楽」だという手ひどい批評を受けたことがあるが、それは東方ユダヤ人の匂いだったのではなかろうか?いまや問答無用の世界的名曲を、そんなふうな新たな視点で再発見し、万人に訴えかけるドラマとして構築した「オーケストラ!」は、一見高尚なクラシックが持つ深い「根」への洞察を踏まえた、とても優れた音楽映画となっている。 |
文責:藤森弘司
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