2010年2月28日 第90回「今月の映画」
インビクタス・・・INVICTUS

監督:クリント・イーストウッド  主演:モーガン・フリーマン(マンデラ大統領)  マット・デイモン(ラグビーの主将)

●(1)映画「おとうと」は非常に良かったです。私と兄の関係(精神分析では「カインコンプレックス」といいます)に似ているので、機会がありましたら、次回にでも取り上げてみたいと思います。兄弟というのは本当に不思議なもので、皆さんの参考になるかもしれません。

さて、今回は「インビクタス」(負けざる者たち)を取り上げました。何故かと言いますと、今、開催されているオリンピックなどもそうですが、極端な状況下にあると、一部の人には驚異的な能力を発揮することがあるようです。
時折、メディアでも報道されますが、例えば、8階とか9階のベランダから落ちてくる我が子を、常識的には受け止め切れない重さの幼児を、猛スピードで落下地点に走って受け止める母親なども同様です。

今、フィギュアスケートの決勝戦を放映していますが、私(藤森)は、技術はもちろんですが、大観衆の中で、広いリンクを一人で舞うことを想像するだけで、心臓が止まりそうです。しかし、一部の人は、逆に、大観衆の応援をエネルギーにして、大活躍をします。
プロ野球でいえば、巨人の終身名誉監督の長嶋茂雄氏などは典型的でしょう。天覧試合のホームランとか・・・・。

●(2)今回の映画「インビクタス」もそうなのです。実際にあった奇跡の物語です。同時に二つの奇跡が起きたと言っても過言ではないでしょう!!!
一つは、南アフリカでは1948年に「アパルトヘイト(人種隔離政策)」が法制化されました。
1923年に「アフリカ民族会議(ANC)」が発足し、1961年にマンデラ氏(後の南アフリカ大統領)が、ANC軍事組織「民族の槍」の司令官になるが、翌年、逮捕され、2年後に終身刑。ロベン島に収監、後に本土の刑務所に移管されます。
1986年、国家非常事態宣言が発令され、米国は「反アパルトヘイト法」を採択する。
1989年、デクラーク政権が成立し、マンデラとの極秘会談が始まる。
1990年、マンデラが27年ぶりに釈放される。
1993年、マンデラ、ノーベル平和賞受賞。
1994年、アパルトヘイト完全撤廃。全人種参加の総選挙でANCが勝利し、マンデラ政権が成立。

マンデラ氏が逮捕されて27年ぶりに解放され、その4年後に大統領になることは、ほとんど奇跡ではないでしょうか。そのマンデラ大統領は、散々虐げられた白人との融和に努めます。
ちょうどその時、南アフリカで開かれるラグビーのワールドカップを1年後に控えていました。弱い南アフリカのチームを、ワールドカップで優勝し、国民全体の融和に活用しようと考えたマンデラ大統領は、主将を招待します。そして、なんと、わずか1年後に優勝します。これは実際にあったことで、奇跡的なことが起こりました。人間は、その気になると凄い力がでるものだと驚きました。

●(3) それにしてもです。時代の大きな変革期には、真の英雄が登場するものですね。日本でいえば、幕末、明治維新期です。今、放映されている大河ドラマ「竜馬伝」の坂本竜馬や勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎、岩崎弥太郎・・・・・等々。
また、太平洋戦争で敗戦し、疲弊した日本を、官僚を始め、多くの政治家や産業人が再興させました。しかし、平和ボケした今の日本はいかがでしょうか。政治家は小粒になるし、経団連の会長もドンドン小粒になっていると、ある評論家が発言していました。

「日本航空」の処理は、発言とブレ、迷走に次ぐ迷走をし、「八ツ場ダム」はその後どうなっているのかワケが分からず、「普天間飛行場」の移設問題は、初めから落としどころの腹案無しで、閣僚があれこれ発言し、どうやら、ほとんど元の木阿弥になりそうな雲行き。
野党から与党になり、官僚の資料をチェックしてみて、野党時代と違ってくるのは止むを得ないことですが、上記の3点は、初めからいろいろ困難なことがあるのは分かっていたはずです。野党も与党もなく、調整が難しいことは、政治家ならば常識なはずです。まるで素人の政治家のようです。

マンデラ氏の爪の垢でも・・・と言いたくなります。今の日本はいろいろな面で「幕末」にそっくりな状況にあると、私(藤森)は思っています。特に経済的に「未曾有の危機」状態にあります。
マンデラ氏がさらに素晴らしいのは、1999年、一期であっさり大統領の座を降り、引退したことです。権力にしがみつく指導者の多いアフリカで、異例のいさぎよさだったそうです。

本日(3月4日)のテレビで放映されていましたが、昨年の衆議院選挙で、8月はわずか2日の任期で1ヶ月分の歳費が出たそうです。7月に行なわれる参議院選挙の場合も、同様のことがありそうです。個別にインタビューすると、多くの議員は「おかしい」といいながら、これを法制化しようとしないいさぎよくない態度と、27年間、投獄されていながら、権力にしがみつかないマンデラ氏とは比較になりませんね。

時代が求める英雄出でよ!!!暗殺される恐れがあっても、日本再興のために、消費税を20%にしようとする政治家はいないのか???民主党が参議院でも多数を取った後に、小沢幹事長を始めとする上層部が、日本再興のために大胆な政策を出してくれば英雄なのだが、ハイパーインフレにして、国の借金をチャラにしようとするならば、果たして、いかがなものでしょうか????

○(4)(パンフレットより)

<ひとつの願いが、ほんとうに世界を変えた物語>

<感動で世界を変える監督、クリント・イーストウッドが、奇跡で世界を変えた大統領、ネルソン・マンデラの不屈の魂を描く>

<INTRODUCTION>

その人の名は、ネルソン・マンデラ。南アフリカの大統領だったと言えば、遠い存在だと思うだろうか。けれども、彼の起こした“奇跡”に触れれば、あなたの中で、きっと何かが変わる・・・。

それは、1995年のこと。マンデラはラグビーのワールドカップで、“国の恥”とまで言われた南アフリカの代表チームを初出場初優勝へと導いた。そして、その勝利の瞬間、一国の歴史が永遠に変わったのだ。いったい彼はどうやって、この偉業を成し遂げたのか・・・?
監督は、米アカデミー賞を4度獲得し、本作で長編映画監督第30作を迎えるクリント・イーストウッド。『ミリオンダラー・ベイビー』(04)、『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』(共に06)、『グラン・トリノ』(08)で惜しみない賞賛を浴びた彼が、『インビクタス/負けざる者たち』では、今の時代にこそ語るべきテーマを得て、さらなる高みへと到達した。

27年間、監獄に囚われ、釈放されて南アフリカ初の黒人大統領になったネルソン・マンデラに扮するのは、『ショーシャンクの空に』(94)、『ミリオンダラー・ベイビー』などで知られる名優、モーガン・フリーマン。他ならぬネルソン・マンデラ本人が「彼に演じてほしい」と願い、彼もマンデラを演じることを熱望し、実現に至った。マンデラから不屈の精神を伝えられる南アフリカ代表チームの主将、フランソワ・ピナールには、『ボーン』シリーズ(02~07)などで名を馳せた、汚れなき心が内面から輝く俳優、マットン・デイモン。

誰もが驚くのは、これが実話だということ。そして、ほとんど知る人がいないこと。イースト・ウッドは、この事実に、人の進むべき明るい未来を見出した。“インビクタス”とは、マンデラが投獄中に心の支えにした詩の題名で、“征服されない”の意味。私たちの前を行くイーストウッドの背中には、この詩の一節が刻まれている。

「私は我が運命の支配者、我が魂の指揮官なのだ」

 これは、遠い時代の遠い国の物語ではない。先の見えない混迷の現代でも、諦めなければ我々の手で世界を変えることができると伝えてくれる、かつてない命を震わす感動作なのだ。

○(5)<STORY>

<その大統領の誕生は、熱い喜びと、激しい怒りで迎えられた>

1994年、南アフリカ共和国初の黒人大統領、ネルソン・マンデラ(モーガン・フリーマン)は、就任早々、国の最大の問題を大統領官邸で目の当たりにする。白人の職員たちが新政権の下を去るべく、荷物をまとめていたのだ。マンデラは、すぐに全職員を集めて、「“過去は過去”だ。皆さんの力が必要だ。我々が努力すれば、我が国は世界を導く光となるだろう」と語りかける。
南アフリカは、問題を山のように抱えていた。不況、失業、犯罪増加・・・・・それらに立ち向かうためには、対立する黒人と白人をひとつにする・・・それがマンデラの願いだ。

手始めにマンデラは、黒人で固められていた新政権の大統領警護班に4人の白人を追加配属する。反発する大統領警護班責任者のジェイソンに、マンデラは「赦しが魂を自由にする」と諭す。前政権に27年間も投獄された人の言葉に、責任者のジェイソンは驚きながらも従うしかなかった。
さらにマンデラは、南アフリカのラグビー代表チーム“スプリングボクス”の試合を観戦する。ラグビーは白人が愛好するスポーツで、黒人にとってはアパルトヘイトの象徴。実際、長らく国際試合から追放されていたチームは、“南アの恥”と言われるほど弱体化しており、黒人はスプリングボクスではなく、対戦相手を応援していた。しかし、そんな光景を目の当たりにしたマンデラのなかで、何かが閃く。

スプリングボクスのチーム名とユニフォーム、エンブレムを変えようといきり立つ国家スポーツ評議会に対し、マンデラは自ら出向いて一同を説得した。「今は卑屈な復讐を果たす時ではない」。それがマンデラの一貫した考えだった。
そして、スプリングボクスの主将、フランソワ・ピナール(マット・デイモン)をお茶に招待し、気さくに語り合った後、マンデラは、投獄中、自分に立ち上がる力をくれたというある詩について語った。マンデラと直に話をしたピナールは、大統領の真の目的を理解し始めていた。

ピナールの理解した通り、翌年のラグビー・ワールドカップに向けて過酷なトレーニングを続けるスプリングボクスの選手たちに、マンデラから「PRの一環として、各地の黒人地区でコーチをするように」とのお達しが出る。「そんな時間はない」と怒っていた選手たちも、子どもたちの輝く瞳と笑顔に触れ、時を忘れて懸命にラグビーの楽しさを伝えるようになっていく。

95年、遂にラグビー・ワールドカップが幕を開ける。黒人たちも、今や夢中でスプリングボクスを応援している。南アフリカの国民4300万人が見守る中、一国の、そして世界の歴史を変える“奇跡”が、始まろうとしていた・・・・・。

○(6)<素晴らしき英雄賛歌>(文・川本三郎、評論家)

とても熱く、まっすぐな映画だ。
クリント・イーストウッドの映画には、どこか照れとというか恥らいというか、感情が最後のところで抑制されたところがある。それはイーストウッドの少し細められた眼で表現されることが多い。
ところがこの映画は、そうした照れや恥じらいを捨ててまっすぐにネルソン・マンデラという英雄にオマージュを捧げている。普通、英雄賛歌はどこかうさんくさいところがあるものだが、この映画にはそれがない。
イーストウッドはマンデラを信じている。尊敬している。それが確実に伝わってくる。
「英雄を必要とする国民は不幸だ」という言葉があるが(例えば、ヒットラーを英雄視したドイツ人はそれだろう)、この映画の、マンデラを愛し、支持し、尊敬する南アフリカの国民は、黒人にせよかつての支配者だった白人にせよ、最終的に幸福そのものだ。

なぜか。それまでの社会があまりにひどかったから。その不幸を変えるために彼らは、マンデラという英雄を必要としたことが分かってくるから。
何よりも、モーガン・フリーマン(この映画のプロデューサーでもある)演じるマンデラは、独裁者的な英雄ではない。いや、むしろ英雄というより、「我らが良き隣人」である。自分でもおそらく英雄などと思っていない。
SPに親しく話しかける。家族は元気かと気づかう。女性たちには、気さくに、今日の服はいいね、髪形はいいねという。それが嫌味にならない。本当に、身近なスタッフに心くばりをしている。

クリント・イーストウッドというと、これまで数々のアクション映画を作ってきたから「闘う男」のイメージが強いが、この映画でイーストウッドが描くマンデラは「闘う男」というより、むしろ「和解を大事にする男」である。別のいい方をすれば、闘い方がこれまでと違ってきている。
アクション映画では、敵がまず存在し、ヒーローはそれと戦う。ところがこの映画のマンデラは、まず「敵」という考え方を捨てる。
「敵」を仲間、同じ国民と考えようとする。「友愛」なとどいってしまうとやわな考えになるが、マンデラには、獄中約30年で身につけた信念がある。この考え方は、普通の人間ではなかなか身につかない。

マンデラはその考え方を国民にまさに身体を張って伝えてゆく。政治家の力は演説、つまり言葉にあるという。
この映画でマンデラの言葉が力を持つ場面がふたつある。
ひとつは、マンデラが旧政権のスタッフに「私は君たちを必要としている」とスピーチする場面。大統領が変わったら当然、自分たちは解雇されると思っていた白人のスタッフたちはマンデラの真情あふれるスピーチに素直に驚き、感動する。
もうひとつ黒人たちによる国家スポーツ評議会がラグビー・チームを廃止すると決めた直後に会場に駆けつけてするスピーチ。
復讐はいけない。敵とこそ一緒に新しい国を作っていこう。素晴らしいスピーチである。

旧スタッフに「協力して欲しい」という時も、国家スポーツ評議会の黒人たちに「復讐はいけない」とスピーチする時もモーガン・フリーマンのマンデラは自分の言葉で喋る。官僚があらかじめ用意した原稿を読むのではない。その場で自分の言葉を話す。
政治家の力量はどれだけ自分の考えを自分の言葉で話せるかの表現力、演説力によってはかられる。この点、モーガン・フリーマン演じるマンデラの表現は抜群である。つねに相手に応じ、的確な言葉で自分の思いを伝えてゆく。
SPに対しても、秘書の女性に対しても、マット・デイモン演じるラグビー・チームの主将に対しても、そしてひとりひとりの選手に対しても。

白人の主将、フランソワー・ピナールが白人としてはじめは警戒心を持ちながらマンデラに会って、いちどに心服してしまうのはマンデラの気さくさもさることながら、「敵対より和解」という信念をマンデラが自分の言葉で話していると分かったからだろう。
それはラグビー・チームの白人の選手たちも同じだったに違いない。マンデラはしばしばSPが心配するのにも関わらず国民のなかにじかに入ってゆこうとする。これもまた自分の信念を自分の言葉で、態度で伝えたいからに違いない。

クリント・イーストウッドは西部劇の出身である。西部劇は一般にはガンファイトを主としたマッチョなドラマと思われがちだが、西部劇の根底には、荒々しいフロンティアの大自然のなかを自分の力で生きようとするセルフ・メイド・マン(自立した男)への共感がある。
権威や権力に頼らない。自分の力で生きる。この独立独歩の男をこそイーストウッドは描き続けてきた。
イーストウッドが描くマンデラは、これまで彼が西部劇で描いてきた自立する男たちと重なり合う。獄中30年を耐えて生きてきた意志の強さがこの背フル・メイド・マンを支えている。

クライマックス、約30分続くラグビー・シーンは素晴らしい。スポーツの強さ、美しさ。そしてスポーツというフェア精神にのっとった競技によって、それまで敵対していた黒人と白人が次第に一体化してゆく。国民あげて感動をわかちあう体験を持った彼らが羨ましくなってくる。競技場の外で、黒人の子供と白人の警官たちがはじめは距離を置きながら最後は抱き合って勝利を喜ぶ姿は微笑ましい。
この映画は単純な英雄賛歌ではない。
この英雄はあくまでも「我らが良き隣人」であり、苦労のなかから自分を鍛えてきた自立する男である。そこに感動がある。

○(7)<マンデラとピナールに見るリーダーシップ>(村田相互・・・7人制ラグビー日本代表監督)

“ONE FOR ALL、ALL FOR ONE.. ”

これはラグビーの精神を表す言葉です。全員が全力を尽くし、ひとりの選手輝かせる・・・・・。『インビクタス/負けざる者たち』で描かれた1995年のラグビー・ワールドカップでも、この言葉が実証された気がします。この大会には僕も選手として参加したのですが、南アフリカのチームが、国全体をひとつに輝かせていく姿を目の当たりにしました。映画が描くように、南アフリカチームの主将、フランソワ・ピナールと、ネルソン・マンデラ大統領のリーダーシップが、その輝きに大きく貢献していたように思えます。

ピナールが体現するのが、ラグビーにおけるキャプテンシー(統率力)です。実際に多くの大会を通し、僕はチームがひとつになる過程を経験してきました。そして団結と平行し、主将の資質が試されます。ラグビーに限らず、主将=リーダーに向いているのは、自ら率先して行動を起こすタイプ。グラウンド内で主将がゲームを司る割合が大きいラグビーでは、この資質がとくに必要とされます。まず重要なのが、“背中で見せる”こと。黙々とボールを追いかけ、果敢にタックルする。そのひたむきさが、チームメートを鼓舞していきます。もうひとつは、言葉でチームを守り立てること。ラグビーのゲームは精神力に左右される場合が多く、ひとりでも気持ちが緩んだ選手がいると、必ずプレーに綻びが生じます。これらの資質を、映画のピナールの姿から感じとってもらいたいですね。

いっぽうマンデラ大統領からは、別のリーダーシップが伝わってきました。95年の大会で僕が目にした彼は、映画と同じ帽子とジャージ姿でしたが、目先の目標だけでなく、10年先、いや100年先の南アフリカを見据えた強い意思が感じられたのです。映画のなかで、マンデラ大統領が官邸にピナールを招待するシーンがありますが、相手に特別な思い出を作ってあげることが、リーダーとしていかに大切なのかと感銘を受けました。
僕自身、リーダーシップの原動力になったのは東福岡高校時代の谷崎監督の言葉でしょうか。それは、「好きなようにやってこい」というアドバイスです。自信をもって好きなようにやることで、まわりもついてくる。そのうえで、リーダーとして細かいことを言わず、相手にやさしく接すること。やさしさの裏には、リーダーとしての自覚や強さが必要とされます。現在、7人制ラグビーのナショナルチームで監督をしている僕は、そんなリーダー像を頭に描きながら、選手の不安を取り去り、結果にこだわらず、経過を大事にしようという指導につなげています。

さらに“諦めない”ことを伝えるのもリーダーの条件でしょう。この『インビクタス』でも、大会で日本がニュージーランドに大敗したと語られますが、まさに僕はそのゲームで9番(スクラムハーフ)を背負って出場していたのです。“大敗ゲームの9番”というレッテルを貼られたわけですが、そこまでドン底に落ちたら、あとは這い上がるしかない。スポーツですから、勝ちもあれば負けもあり、逆に大きく負ければ、這い上がる量も増えるわけです。そこで諦めないことが、“自分に勝つ”ことにつながるのではないでしょうか。

もちろんリーダーには支えが必要です。マンデラ大統領が「インビクタス」の詩をよりどころにしたように、不屈の精神を支えるものを聞かれれば、僕は「家族」と答えます。遠征先のニュージーランドや、2年間、フランスのチームに在籍した時代に、家族の大切さを実感させられました。それまでラグビー一筋だった僕ですが、家族との時間によって視野が広がり、試合とオフの切り替えができるようになったのです。

最後に、リーダーとして大切なのは、自分の原点を忘れないことです。95年の南アフリカ大会で、僕ら日本選手団も、現地の子どもたちにラグビーを教える機会がありました。映画のシーンとまったく同じで、教える僕らも彼らから元気や勇気をもらえたのです。僕にとって、あの瞬間はラグビーの原点のひとつですね。
2019年には日本でラグビーのワールドカップが開かれ、その前の2016年には、僕が監督を務める7人制ラグビーがオリンピックの正式種目となります。この原点を忘れず、今後もラグビーのすばらしさを伝えていければと考えています。スポーツは、国や人種を超えるパワーを秘めているのですから。
(INTERVIEW & TEXT BY 斎藤博昭)

<村田互(7人制ラグビー日本代表監督)・・・・・1985年に福岡県高校選抜主将、89年に専修大学ラグビー部主将、90年よりラグビー日本代表選手として活躍。96年~97年は7人制と10人制ラグビー日本代表主将として活躍する。その後、東芝府中から日本人として初のプロ選手として仏アビロン・バイヨンヌに移籍。2001年に帰国、ヤマハ発動機に入団し、選手として異例の40歳まで現役を貫き、08年に引退。現在、7人制ラグビー日本代表監督を務める傍ら、筑波大学大学院に入学し、スポーツ健康システムマネジメント・プロモーションを研究している。>

○(8)<ネルソン・マンデラという人物①>

<監獄島でシーフードを楽しむ>

ネルソン・マンデラは1962年8月、白人政権の転覆を企てたとして逮捕され、反逆罪で終身刑の判決を受ける。90年2月に釈放されるまで27年半の獄中生活のうち、18年を監獄島ロペン島で過ごした。
ロベン島は、ケープタウンのテーブル湾にある小さな島である。アパルトヘイト(人種隔離政策)が終わってから、私は何度かその島を訪れた。
本土の最も近い海岸までは11キロある。島の南端に立つとケープタウンの街はすぐ近くに見えるが、海流が速くてサメが多いため、泳いで渡るのはむずかしい。脱獄は不可能だった。
監獄の敷地はほぼ300メートル四方である。金網フェンスで二重に囲まれ、その内側にはさらに高さ5メートルの石塀がある。獄舎はその中だ。独房が廊下をはさんでずらりと並んでおり、一室が幅2メートル、奥行き2・5メートルはどのスペースだ。マンデラはその5号室だった。本編中、スプリングボクスの主将、ピナールが、中に入って鉄格子を閉めてみるシーンがあった。まさにあの独房である。

世界から孤絶した監獄島で18年間もの間、彼は何をしていたのだろうか。
ロベン島の囚人の多くは終身刑で、落ち込んだり、生活が荒れる者が多かった。しかしマンデラは服役中、絶望して境遇を嘆いたり将来を悲観したりすることは一度もなかった。つねに自分を失わず、笑顔と遊び心を持ち続けていたという。

ある日、囚人たちはコンブ拾いの労役を命じられた。強風が吹いた翌日は、磯にコンブが大量に打ち上げられる。それを拾い集める作業だ。肥料に日本に輸出するのだといわれた。
作業中にマンデラは、岩場にムール貝やアワビがいっぱいついているのを見つけた。だれも立ち入らない監獄島だから貝は大きく育ち、いくらでもいる。彼らはコンブ拾いを放り出して貝採りに熱中した。大型のロブスターも捕まえた。彼らは貝やエビをドラム缶に放り込み、シーフードシチューをつくる。味付けは海水だけだが、新鮮な魚介類のスープは磯の香りがしておいしく、たいへんなごちそうとなった。

するとマンデラは、離れたところで昼食を食べている看守たちに「あんた方もどうだね」と声をかけたのである。彼らの昼食はぱさぱさに乾いたパンだった。マンデラが渡した熱いシーフードシチューを、看守たちもうまそうに食べた。マンデラは看守を「共犯」にしてしまった。
以後、コンブ拾いの労役の日は看守黙認のシーフードの日となる。囚人たちは強風の日を待ちわびるようになった。マンデラは、苦しい労役を楽しいレジャーに変えてしまう能力を持っていた。苦境に屈することのない人間だったのである。

1973年、英国のアン王女が結婚式を挙げた。その豪華なディナーのメニューとして、ムール貝、アワビ、ロブスターが出たことを新聞で知り、監獄島の囚人たちは顔を見合わせて笑い転げたという。
ロベン島はいま世界遺産となっている。船着き場に土産物屋があるが、その経営者のクリスト・ブラントさんは、マンデラが島にいたころの看守だった。ブラントさんは「彼は堂々としていました。白人にもだめな人間がいるように、黒人にも素晴らしい人間がいる。それを教えてくれた人でした」といった。

<文・松本仁(ジャーナリスト)>

○(9)<ネルソン・マンデラという人物②>

 <単独政権ならば、「じつのところ、ほっとした」>

南アフリカでは、マンデラ政権の誕生をひかえた1994年半、国外に脱出する白人が月平均3000人にも上った。選挙でアパルトヘイト時代の報復が始まるのではないか・・・・・。白人社会のそんな恐怖が原因だった。
しかし混乱や報復はなかった。黒人独裁にもならなかった。マンデラが強く訴えていた「人種和解」が実現したのである。新政権ができて3ヵ月後、白人層の出国は激減した。暴力の事態を恐れていた白人住民はマンデラの政治を信頼し、人種和解路線を受け入れた。「虹の国」である。それが今の南アフリカの繁栄につながった。

マンデラは獄中にあるころから、人種によって区分された支配に反対し続けた。1989年、獄中で書いた覚書で、彼はそれをはっきりと述べている。
・・・・・いかなる形の人種主義も破滅の公式である。政治・経済・文化の国民の諸権利を、ときの多数者の手の届かないところに置いておかなければならない・・・・・
彼にとって最も重要なものは、皮膚の色ではなく、民主主義であり、公平であり、大衆の幸福だった。「人種で評価される社会」ではなく、「能力・努力で評価される社会」を目指していた。そのために自分は半世紀を闘ってきたのだという自負が、この覚書に現われていた。
ロベン島でも、彼はずっとその態度を貫いた。白人看守の中に人間性を見出し、その人間性と付き合った。白人というだけの理由で彼らを敵視することはなかった。

1990年に釈放されてから、マンデラはアフリカ諸国を歴訪する。そのごく短期間の経験で、彼はアフリカ諸国の現実を見抜いた。
1960年代から始まったアフリカ諸国独立の過程で、ほとんどの国が黒人単独支配の体制を取り、白人を追い出した。その結果、白人が持っていた国家運営のノウハウは継承されず、黒人支配層による独裁に陥っていく。指導者の多くは独裁の中で腐敗した。自らの権力維持が政治の最大目標となり、国づくりの理念は消滅し、批判は圧殺された。貧しい大衆の生活は放置され、経済は崩壊し、多くの国家が破綻した。

国づくりには健全な経済の確立が不可欠である。独裁はその最大の敵であり、白人の技術や経験による協力は欠かせない・・・・・。それがマンデラの「虹の国」の基本となった。

マンデラ釈放後の1993年12月、ANCと白人政府の協議に基づいて暫定憲法が成立した。①副大統領は第一党と第二党からひとりずつ出す、②5%以上の得票をした党からは閣僚を出す、という「強制連立」のルールである。ANCの一党独裁におちいるのを防ぐ目的だった。

1994年4月の総選挙で、ANCは62.6%を獲得して第一党となる。しかし3分の2には届かず、単独政権をつくることはできなかった。強制連立条項に基づいて人種強調政府ができあがった。マンデラはのちに自伝で、「じつのところ、ほっとした。3分の2以上を取っていたら、ANCだけで憲法を起草できることになる。それは南ア憲法ではなく、ANC憲法になってしまう。私は国民統一政府がほしかったのだ」と語っている。

本編中、公務を放り出してラグビーに熱中し、秘書に文句をいわれる場面が出てくる。しかしそれは、「国民強調だけが南アという国をつくることができる」というマンデラの信念をあらわすエピソードなのである。

<文・松本仁(ジャーナリスト)>

文責:藤森弘司

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