2010年11月30日 第99回「今月の言葉」
ふたたび SWING ME AGAIN

映画「ふたたび」と「ハンセン病」について

監督:塩屋俊  主演:鈴木亮平  財津一郎  MINJI  藤村俊二  犬塚弘  佐川光男  織本順吉  渡辺貞夫  小手川裕子  陣内孝則

●(1)映画「ふたたび・SWING ME AGAIN」・・・「ライ病」と恐れられた「ハンセン病」。若くて有望なトランペッターが、ある日、突然、「ライ病」と診断され、瀬戸内海のある島に収容される。名前も変えられ、家族とも断絶させられるという悲惨な病気。

ハンセン病について(パンフレットより)
ハンセン病は、ノルウェーの医師ハンセン氏が発見した「らい病」という細菌による感染症。かつては「らい病」と呼ばれ、体の末梢神経が麻痺したり、皮膚に発疹が出ることなどが特徴で、病気が進むと顔や手足が変形することから、患者は差別の対象になりやすかった。ただ、「らい病」の病原性は弱く、たとえ感染しても発病することは稀であり、特効薬により早期完治可能である。しかし、1953年「らい予防法」が制定され、国立療養所に全ての患者が強制隔離される体制がとられたことで、世間の偏見や差別が一層助長され、1996年にこの法律が廃止されても尚その偏見や差別は残り、今も全国のハンセン病療養所には2,500名余の入所者がいる。(厚生労働省HPより抜粋・引用)

いろいろな経緯の後に、50年前に組んだジャズのグループが一同に会して演奏するジャズが非常に素晴らしかった!!!ジャズファンでなくても、ジャズが好きになるような感動的な演奏でした。
最後の場面でのジャズの演奏と、ハンセン病をより正しく理解するためにも、是非、是非、この映画をご覧ください。

数年前、東村山市のハンセン病療養所「多磨全生園」で草壁焔太先生も参加され「五行歌の会」が開かれ、私(藤森)も参加しました。療養所内を見学させていただきましたが、体中に「戦慄」が走りました。「知らない」ということは恐ろしいもので、私自身、もし、この病気の本質を知らない昔に生きていたならば、同様の差別を行なったことと思います。知らないということは恐ろしいものです<2004年2月、「今月の言葉」第18回「痴(ち)」ご参照>

○(2)<パンフレットより> <INTRODUCTION>

<人生でやり残したこと、ありませんか?>

 人は誰しも、長い人生の中でやり残したことを思い出すことがある。若いうちのそれは「野望」とも言え換えられるが、年を取るに諦めたり、後悔したりする。あなたには、何年かけてでも、どれだけ苦労しても、どうしてもやらずには死ねないと思うことがありますか?本作は、そんな信念を持った男の物語である。

貴島健三郎、78歳。50年間心に抱えてきた想いを、頑固で偏屈だけど懸命に伝えようと旅をするその姿に、家族、仲間たちの心は大きく動かされていく。その生き様は、“いくつになってもやり残したことにチャレンジしよう”という前向きなメッセージとして、私たちの心の背中を押してくれる応援歌のようだ。

そして本作は“初めて会って旅をする祖父と孫”のバディームービーであり、ロードムービーでもある。旅の途中で孫は祖父から、家族の絆を重んじることの大切さを学び、祖父にとっての“最後の旅”を共に成し遂げたいと切に願うようになる。その旅の予想外の結末に、観客は涙を流さずにはいられない。

重要なキャスティングには、祖父と一緒に旅に出ることになる大学生・大翔(ヒロト)役に、TVドラマやCM、映画で大人気上昇中の鈴木亮平が、50年間の想いを抱えて旅に出る祖父・健三郎役に、満を持しての映画登場となる名優・財津一郎が決まり、年齢差焼く50歳のコンビが誕生するにいたった。

また、2人を見守る女性看護師と健三郎のかつての恋人という2つのヒロイン難役に挑戦したのは、日本で本格的に女優活動を開始したMINJI。さらに、往年のジャズバンド「COOL JAZZ QUINTETTE」のメンバーに、独特の存在感で輝き続ける藤村俊二、クレイジーキャッツのベーシストで数々の主演映画を持つ犬塚弘、歌手・佐川ミツオから今や俳優へと定着した佐川光男が、味のある演技で脇を固める。

そして、大翔の両親を陣内孝則、古手川祐子というベテランの二人が演じ、祖父の出現で揺れる家族が見事に描き出され、映画を重厚なものにしている。
監督の塩屋俊自身、5年間温めて来た企画だという本作は、ハンセン病という難しい背景を持ちながらも、祖父と孫のロードムービーとして爽やかな余韻を持たせることに成功している。。全編流れるジャズは中村幸代によるもので、往年の名曲を彷彿とさせるオリジナルナンバーから、「MY BLUE HEAVEN」など誰もが知っているスタンダードナンバーまで色彩鮮やかな音楽で観客を魅了する。また、“世界のナベサダ”こと渡辺貞夫がジャズクラブのオーナー役で出演し、華麗なサックスプレイを聴かせるのも見所である。

○(2)<STORY>

いつもどこかでジャズが流れる街、神戸。
大学生の貴島大翔(21)には、密かに憧れるジャズバンドがあった。
“COOL JAZZ QUINTETT”・・・・・
それは、たった1枚のLP盤を残して忽然と姿を消してしまった幻のバンドである。大翔は家に保管されていたコレクションの中に偶然そのLPを見つけ、熱烈なファンになった。

ある日、父・良雄が重い口を開いた。亡くなったと伝えていた祖父は生きている。ハンセン病療養所から50年ぶりに戻るから、我が家へ引き取ることにした、と。
大翔には、生まれて初めて会う祖父・健三郎との接し方がわからない。頑固一徹。会話もない。ところが何の気なしに聴かせた一枚のレコードに、健三郎の表情が一転した。
「嘘だろ?爺ちゃんが、COOL JAZZ QUINTETTEのトランペッター?」
しかし、健三郎は多くを語らなかった。

そんな健三郎が、黙って家を出た。
「人生でやり残したことがある。50年前のバンド仲間を探したい」

巻き込まれるようにして、大翔はこの旅に同行することとなる。
こうして、急ごしらえの祖父と孫の旅は、かつてのバンドメンバーを訪ねる形で、神戸から京都、そして和歌山へ・・・・・。
50年ぶりの再会に戸惑いながら、健三郎の訪問に喜び、泣き、笑い、興奮する友人たち。

そんな中、一人の女性の存在が明らかになる。
彼女は、COOL JAZZ QUINTETTEのピアニストで、ハンセン病の健三郎の子供を産んだことで、家族からも子供からも引き離され、一人さびしく死んで行ったのだという。
大翔は、この旅を通して祖父から父・良雄を経て、自分へと繋がる家族の絆を知るのだった。

2人の旅が終わりを迎える時、そこには思いがけないサプライズが待っていた。
神戸の憧れのジャズクラブ“SONE”で、50年間果たせなかったCOOL JAZZ QUINTETTEのライブを実現出来ることになったのだ。
感動のラストステージが、今、幕を開ける・・・・・。

○(3)<夢を追い求めることを忘れない大人たちへの応援歌>渡辺祥子(映画評論家)

『ふたたび』に興味を持ったきっかけは、“ジャズが聴ける映画”だったから。『上海バンスキング』や『この世の外へ クラブ進駐軍』も、まずはジャズメンやジャズを愛している人々の話だから、と飛びついた。昭和の初めから、太平洋戦争をあいだに挟んで戦後の日本で流行ったジャズを聴くのが大好きだ。そしてそういう音楽の聞こえる映画を見るたびに、日本のジャズメンがたどった、決して平坦ではない道を考えさせられてきた。

矢城潤一の原作・脚本を塩屋俊が監督して映画化した『ふたたび』には、ジャズだけでなく、かつては治療の術がなく、伝染力が強いと恐れられたハンセン病の苦しみがある。この病気の生んだ苦悩が主人公の人生に暗いかげを落とした『砂の器』も音楽に関係のある映画だったが、つい数年前まで病気の本人だけでなく、家族まで巻き込んで苦しめてきたことは、患者を閉じ込める法律がやっと改訂されたことで広く知られるようになってきた。

古い映画ではチャールトン・ヘストンが頼もしかったハリウッドの名作『ベン・ハー』でも、主人公ベン・ハーの母親と妹がハンセン病で死の谷に隠れて辛うじて生きている、という設定だったりして、多くの人々を苦しめてきた長い歴史がある。

『ふたたび』の主人公、ハンセン病によって愛する人との仲を裂かれ、生まれた子の顔も知らないまま隔離された貴島健三郎の苦労も、他人には計り知れないものがあるだろう。が、映画はその苦労を深追いするよりも、78歳になってやっと自由を得た貴島がもう一度かつての仲間と共に演奏する、という夢を忘れず、その夢の実現に向かって一途に突き進む姿を描くことで見る者の心に深く入り込む。夢にはどんな苦難をも乗り越える力があると思わせてくれる。それに、この役を演じるのが、シリアス・ドラマもコメディでも独特の持ち味を発揮している財津一郎、というのが愉しい。彼のコメディ・センスの良さは音感の良さに通じるものがあり、張りのある声には魅力があって、日頃から、こういう人が本物の役者なのだろう、と思っているので、本格主演が見られるのはうれしかった。

貴島がかつての仲間を訪ねる旅の相棒になる孫の貴島大翔は、それと知らないまま祖父とその仲間“COOL JAZZ QUINTETTE”の演奏に魅了されている。そこへ突然現れて同居することになった祖父が、このバンドのトランペッターだったことを知って驚いた。
どう接せすればよいのかわからないお祖父ちゃんが、憧れのバンドで、しかも大翔自身も吹くトランペットを演奏していたとは。

そんなジャズとトランペットを通して長らく隔離生活を送ってきた老人と、いかにも現代の若者らしい爽やか青年の気持ちが自然に結ばれていくことの歓び。音楽っていいな、としみじみ思い、演じている鈴木亮平の伸びやかな演技にも好感を持った。

この若者と老人の旅に温かな思いやりを忘れない看護師が加わった三人の旅で出会うお祖父ちゃんのかつての仲間たちの今と昔。自分たちの演奏がレコードになる、という喜びのあとに思いもかけず訪れた若い日の悲劇。

その後の長らくの空白をへて再会には、いまの日本の老人の置かれた状況も語られて誰もがハッピーとは言えないが、それでも、念願の彼らのライブ・ステージを見れば、みんなそれぞれに「生きていて良かった」と言えるだろう。大翔のお祖父ちゃんだって、長い不幸な生活をがんばって生き抜いたからこそ、この日が迎えられたわけで、一途にステージでの演奏を夢見てきて本当に良かった、としみじみさせられた。

それにしても、このステージに集まったメンバーの、長い人生を無駄に過ごしてこなかったことが読み取れる顔立ちのステキなこと!
いくら若さって素晴らしい、と言われても、いえ、こっちだって悪くない、と反論できるほどカッコ良い顔のベテランの大人たち。これにはりりしいハンサム青年の鈴木亮平クンもかなわない。人間には歳月の作る良さというものがあるのだ。

犬塚弘、藤村俊二、佐川満男、財津一郎、そして渡辺貞夫、と見ているだけで年輪の重みに圧倒されそうになるベテランのエンターテイナーたち。彼らから滲み出る人生の重みを感じさせる滋味にほれぼれ見とれ、映画って俳優の力も大きい、とあらためて思うことになった。彼らの長いキャリアが作りだした深い味わいがいかにこの映画を支えていることか。彼らのいぶし銀の輝きの前では、大翔の父親役陣内孝則や母の古手川祐子も失礼ながら“まだまだ若い”。同じ世代の側の塩屋監督もそのことを十分に承知して、渋い大人たちの魅力をたくみに引き出し、そこに懐かしいジャズの調べを重ねている。この映画は、長い時間がかかっても夢を追い求めることを忘れない大人たちへの応援歌。見ているこちらもしっかり励まされた。

●(4)「ハンセン病の向こう側」<発効日・平成22年9月 発行・厚生労働省>

長い間、偏見や差別に苦しんでいる人たちがいる。
ハンセン病問題は、決して特別な問題じゃない。
それは、私たちの姿を映し出す鏡だと思う。
この問題を、どうやって乗り越えていけばいいのだろう。
   (厚生労働省)

<ハンセン病の悲しい歴史>

みんなハンセン病を知ってる?
私は最近まで知らなかったんだ。
話を聞いて、かなりショックを受けた。

<ハンセン病って、どんな病気か知ってる?>

ハンセン病とは、「らい菌」に感染することで起こる病気です。感染すると手足などの末梢神経が麻痺したり、皮膚にさまざまな病的な変化が起こったりします。早期に適切な治療を行なわないと、手足などの末梢神経に障害が起き、汗が出なくなったり、痛い、熱い、冷たいといった感覚がなくなることがあります。また、体の一部が変形するといった後遺症が残ることもありました。かつては「らい病」と呼ばれていましたが、明治6年(1873年)に「らい菌」を発見したノルウェーの医師・ハンセン氏の名前をとって、現在は「ハンセン病」と呼ばれています。

<ハンセン病は感染症だけど、とてもうつりにくい病気なんだって>

「らい菌」は感染力が弱く、非常にうつりにくい病気です。発病には個人の免疫力や衛生状態、栄養事情などんが関係しますが、たとえ感染しても発病することはまれです。現在の日本の衛生状態や医療状況、生活環境を考えると、「らい菌」に感染しても、ハンセン病になることはほとんどありません。
(日本人新規患者数:2007年1人、2008年3人、2009年0人)

<早く見つけて適切な治療をすれば治る病気なんだよ>

昭和18年(1943年)、米国で「プロピン」という薬がハンセン病によく効くことが報告されました。わが国では、昭和21年(1946年)から患者に試用され始めましたが、その数はわずかであったため、もっと多くの人に投与できるようにしてほしいと患者が国に働きかけ、昭和24年(1949年)から広く使用されるようになりました。その後、さまざまな薬が開発され、現在はWHO(世界保健機関)が推奨する3種類の飲み薬を組み合わせて服用する治療が行なわれています。ハンセン病は早期に発見し、適切な治療を行なえば、顔や手足に後遺症を残すことなく、治るようになっています。

 <どうしてもっと優しくできなかったんだろう?・・・強制的に患者を隔離してしまうなんて・・・・・>

19世紀後半、ハンセン病はコレラやペストなどと同じような恐ろしい伝染病であると考えられていました。当初は、家を出て各地を放浪する患者が施設に収容されましたが、やがて自宅で療養する患者も収容されるようになりました。ハンセン病と診断されると、市町村の療養所の職員、医師らが警察官を伴ってたびたび患者のもとを訪れました。そのうち近所に知られるようになり、家族も偏見や差別の対象にされることがあったため、患者は自ら療養所に行くより仕方ない状況に追い込まれていったのです。このような状況のもとで、昭和6年(1931年)にすべての患者の隔離を目指した「癩予防法」が成立し、各地に療養所が建設されました。また、各県では無癩県運動という名のもとに、患者を見つけ出し療養所に送り込む施策が行われました。保健所の職員が患者の自宅を徹底的に消毒し、人里離れた場所に作られた療養所に送られていくという光景が、人々の心の中にハンセン病は恐ろしいというイメージを植え付け、それが偏見や差別を助長していったのです。

<ハンセン病問題の歩み>

■中世~近世・・・・体の一部が変形したりする外観の特徴などから偏見や差別の対象にされることがあった。
■明治後期(1900年代)~昭和前期(1940年代)・・・・・患者を強制的に収容し、療養所から一生出られなくする「ハンセン病絶滅政策」が行なわれ、偏見や差別が一層助長された。
■昭和前期(1940年代)~平成8年(1996年)・・・・・有効な薬が開発され、治療法が確立されたが、患者の隔離政策はそのまま継続された。
■平成8年(1996年)~・・・・・「らい予防法」(「癩予防法」を昭和28年に改正)が廃止され、患者隔離政策に終止符が打たれた。

<ハンセン病は治る病気になったのにどうして療養所に収容されたままだったの?>

ハンセン病患者の隔離政策は、「癩予防法」という法律のもとで進められました。昭和28年、患者の反対を押し切ってこの法律を引きつぐ「らい予防法」が成立しました。この法律の問題点は、患者隔離が継続され、退所規定が設けられていないことでした。つまり、ハンセン病患者は療養所に収容されると、一生そこから出ることが出来なかったのです。昭和21年にハンセン病の特効薬「プロミン」が登場し、その後、新しい飲み薬タイプの治療薬が開発され、ハンセン病は適切な治療をすれば治る病気になっていました。にもかかわらず、昭和30年前後から徐々に規制が緩和され、病気が治って自主的に退所する人たちも出てきました。しかし彼らは療養所に入所する際に、社会や家族と断絶させられており、療養所の外では頼る人はなく、救いの手を差し伸べる人も、受け皿もなかったのです。そのような状況の中で、生活苦で体を壊したり、病気を再発させたりして、やむなく療養所に戻る人も少なくありませんでした。

<ハンセン病の隔離政策が終わったのはつい最近のことなんだって>

「らい予防法」は平成8年にようやく廃止されました。平成10年には入所者らによって熊本地裁に国のハンセン病政策の転換が遅れたことなどの責任を問う「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」が提起されました。続いて東京、岡山でも提訴が行なわれました。平成13年、熊本地裁で原告勝訴の判決が下されました。国はハンセン病問題は早期に全面解決する必要があると判断し、原告の主張を受け入れ、控訴をしませんでした。その後、国は入所者たちにおわびし、新たに補償を行なう法律を作り、入所者や社会復帰者たちの名誉回復、社会復帰支援及びハンセン病問題の啓発活動等に取り組んでいます。

<それなのに入所者や社会復帰者、その家族に対する偏見や差別は今でも根強く残っている>

熊本地裁の判決に対し、国は控訴断念を決めるとともに、内閣総理大臣談話を発表し、ハンセン病問題の早期解決に取り組む決意を表明しました。しかし判決後も、熊本県で入所者に対するホテル宿泊拒否事件が起きるなど、残念ながら入所者や社会復帰者、その家族に対する偏見や差別には根強いものがあります。そのため、療養所の外で暮らすことに不安を感じ、安心して退所することができないという人もいます。

<療養所を出られるようになっても故郷に帰れず、肉親と再会できない人もいるんだって>

高齢や後遺症、周囲の偏見などを乗り越えて、療養所を退所して社会復帰した人もいますが、その数は決して多いとはいえません。療養所に入所したときに、家族に迷惑が及ぶことを心配して本名や戸籍を捨てた人もいるため、現在も故郷に帰ることなく、肉親との再会が果たせない人もいます。療養所で亡くなった人の遺骨の多くが実家のお墓に入れず、各療養所内の遺骨堂に納められています。

■親や兄弟姉妹と一緒に暮らすことができない。
■実名を名乗ることができない。
■結婚しても子供を生むことが許されない。
■一生療養所から出て暮らすことができない。
■死んでも故郷の墓に埋葬してもらえない。

こうした生活をハンセン病患者は長い間強いられてきました。あなたは想像できますか?

<文責:藤森弘司>

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