2009年7月31日 第84回「今月の映画」

part2
●(1)7月25日に封切りの「セントアンナの奇跡」、これは楽しみにしていたのですが、ここで取り上げたいような映画ではありませんでした。最近は、チョッと取り上げたい映画がなく、以前から考えていたプランを実行してみたいと思います。

今回、取り上げる映画は、2002年9月、第2回の今月の映画「海辺の家」、これを「part2」として紹介したいと思います。このホームページに最も相応しい映画が、すでに第2回で紹介されていることの不思議さを感じます。

今、改めて読み直してみて、私が専門とする「深層心理」に、これほどピッタリする映画は、他に無いのではないかと思われます。カウンセリングなどで、最初に見る夢(初回夢)や、小説家の最初の小説などには、その後のことが全て含まれているなどと言われています。この映画は、第2回ではありますが、ほとんど最初と言っても過言ではありません。

私が、最も力を入れて説明したい、心理、自己成長の分野において、最も重要なテーマが、初回同然の2回に紹介されている不思議さを感じずにはいられません。まるで運命のような感じを受けます。
心理学のいかなる分野であっても、人間の「心理」を扱う以上は、全ての専門家が、この映画のストーリーを理解すべきだと思っています。そして、わずかであっても、自分自身がこの問題に取り組み、多少なりとも、ここで取り上げられている課題を処理する体験が必須です。

●(2)ここで改めて、「カウンセリング」という言葉を考えてみたいと思います。「カウンセリング」とは、例えば「交流分析」とか、「精神分析」「ユング心理学」「サイコシンセシス(精神統合)」「ゲシュタルト療法」などと呼ばれる心理学の分野がありますが、それと同様の「一分野」です。
ですから「カウンセリング」をするというと、沢山ある心理学の中の「一分野」で、一人のクライエントの方に対応するというニュアンスになってしまいます。

例えば、「交流分析」で1人のクライエントの方に対応するとか、「精神分析」で対応するとか、「ゲシュタルト療法」で対応するというのと同様に、「カウンセリング」をするということは、「カウンセリング」という一分野の心理学で対応するという意味になってしまいます。それがいかに恐ろしいことか、<第65回「再会の街で」>をご参照ください。

●(3)私(藤森)が、常々、述べていることですが、私のところでは、一般にいう「カウンセリングをする」という表現の代わりに、「自己成長のお手伝いをさせていただく」と表現します。
では、「自己成長のお手伝い」をするとは、一体、何でしょうか?私のところでいう「自己成長」とは、「自己回復」することを意味します(「自己回復」については、ホームページの表紙にある<⑥「自己回復」とは>を参照してください)。

そこにもありますが、「自己回復」していただくために、必要な、そして、可能な限りの「技法」を駆使します。もちろん、一人の人間には限界がありますので、すべてを駆使することは不可能です。
不可能ですが、ベースになるものはあります。少なくても「交流分析」や「生体エネルギー法」「吉本式内観法」「カウンセリング」「ヨーガ」など(或いは、それに代わるもの)には通じている必要があります。さらに、多少なりとも「禅」の心得や「サイコシンセシス(精神統合)」「ゲシュタルト療法」「芸術療法」「自律訓練法」などのリラクゼーション、「論理療法」なども求められるのではないでしょうか?

ベースになるものがあり、それらを補充するものは、専門家それぞれですが、バランスよく、ベースになる技法を補強することです。下記の「海辺の家」を熟読されれば、「傾聴」を中心とした「カウンセリング」程度でどうなるものではないことがおわかりいただけるものと思います。

●(4)また、一般に、事件が起きたときに、マスコミを中心にいろいろ論評されますが、そんな単純なことではないことがお分かりになるのではないでしょうか?「裁判員制度」がいろいろ言われていますが、こういうことまで考えたならば、人を裁くことがいかに困難なことかがわかるのではないでしょうか?
裁判や警察関係はともかく、もっと個人的に一人の人間を考察するときに、この「海辺の家」の物語のように、いかに深く広く「考察(分析)」するか、それがある意味で「愛」と言えるかもしれません。

逆に、こういうより広い面を考察せずに、事件やトラブルを起こした本人だけを問題にしたならば、事態はこじれるばかりであろうと思われます。こういうことが分かれば分かるほど、一人の人間の存在は、悲しく、切ないものであることを感じずにはいられません。かくいう私(藤森)自身がそうです。
そういうものを、恐らく、誰もが内面に抱えながら、学歴や職歴、社会的な立場やお金や物やメダルや勲章やファッションなどに包まれて、幸福そうに、そして平然っぽく生きているのではないでしょうか?

この「海辺の家」は、一人の人間を考察する上で、あるいは、一人の人間をより良く理解する上で、これ以上ない「最高の映画」であろうと思われます。
2002年9月、第2回「今月の映画」で掲載した「海辺の家」を下記にそのまま再録します。

 

 

 この映画の主人公は,ジョージ・モンロー42歳、建築デザイナー。妻と16歳になる反抗期で野蛮な息子は、10年前に彼の元を去っていた。彼の同僚は、ジョージが最近痩せてきて髭も剃らず,尻を引き摺る感じで歩くのを見て、具合悪そうなのを心配している。
ある日、ジョージは20年間勤めてきた建築事務所をいきなり解雇される。会社のビルを出た直後、彼は突然倒れ、病院のベッドで目覚める。末期癌で残り3ヶ月の命。 「3ヶ月の命と言われたら、何をする?」数日後、ジョージを心配した元の妻ロビンが見舞いにくる。ジョージは反抗期で野蛮な息子サムと一緒に、海辺にある今の家を建て直すことを宣言する。
夏休みに友人の別荘に遊びに行く予定の息子サムは、激しく抵抗する。ジョージは残り少ない時間で、サムとの間に失った親子の絆を取り戻そうと必死だった。「お前がどう思おうと、この夏休みは俺と過ごすんだ。ドラッグ、マリファナ,それからアゴにつけたピアスも外すんだ。化粧もな。憎むなら、憎んでくれ、我が家の伝統だ・・・・・」
反抗期の息子サムとの壮絶な争い。やがて親子の愛情、元の妻との愛の復活などでボロ家を取り壊して、新しい家が完成しつつある中、ジョージは亡くなる。さて、私がこの映画を取り上げたのは、まず反抗期で猛烈に荒れているサムに注目したからです。私たちはうっかりすると、今現在の状況だけを根拠に、猛烈に荒れているサムという一人の人間を批判したくなりがちです。しかし、本当はそんなに単純な問題ではありません。そのあたりの深いテーマを、この映画は教えてくれています。
もしかしたら監督のアーウィン・ウインクラーは、深層心理に造詣が深いのかも・・・・・・などと思ってみたりしました。

さて、サムに注目した理由は、上述したようなすさまじい反抗心や非行の由来に興味を持ったからです。映画の中で、それは語られているだろうか?

サムの父親であるジョージは、「職人的な」建築デザイナーです。建築事務所を解雇されるが、本質的には、デザイナーとしての力量はあると私は推測します。
しかし、人間関係の点で問題がありそうです。だから妻と子供は彼の元を去っているのでしょう。このあたりのことは映画の中では語られていませんが、一人でこの海辺の家で生活しているときに、隣人たちからヒンシュクを買うような生活態度をとっていることからも、それは十分に推測できます。

これは往々にして、頑固な人間,職人的な人間に有り勝ちなタイプです。そしてまた彼の人間性に疑問を持つ重要な出来事として、若いころに起こした、重大な交通事故があります。そういう父親であり、また、離婚家庭に育った子供は、どんなに深い心理的な傷を負うかという典型例です。
幼い子供は、毎日のように繰り返す両親の諍いに、どんなに心を傷つけているでしょうか。

では何故ジョージは、そのような頑固で、妻や子供が耐えられないような性格傾向であるのでしょうか。重大な事故を起こしているし、長年勤務した建築事務所を解雇されるし、離婚されるし、近隣の住民からはヒンシュクを買うような生活態度でもあるし、突然倒れて、末期癌に侵されて病院のベッドで目覚めるような・・・・・・・まるで不幸の塊です。

それが次のテーマです。
前述したように「憎むなら、憎んでくれ、我が家の伝統だ・・・・・」とあります。私はこのあたりの部分を失念し、購入したパンフレットにも書かれていないため、上映館に問い合わせました。すると、なんとなんと・・・・・・
「子供は代々愛しちゃいけない」という誠に奇妙な論理で、父親も育てられていました。
「親父のくれたこの家を25年間、憎んできた。そして自分自身をもね。」

まさに、父親のジョージの心の奥底に、息子サムに通じる「荒んだ心」があったのです。社会的に何とか対応していたからこそ、一般の社会人と見られていましたが、内面の心理状態は「息子のサム」そのものだったのです。
それがサムの代になって、内面に抱えきれなくなって表出しただけのことです。

つまり、息子のサムにとって恨み骨髄の父親そのものが、サムと同様に傷ついていたのです。
そしてさらに、そのようなサムの父親、ジョージを育てた両親も傷ついた人間性であったことになります。
何故でしょうか・・・・・・サムから見ると祖父母に当たる、ジョージの両親も、彼らと同様に深い心の傷が無ければ、このように「荒んだジョージ」を育てるわけがありませんし、「憎むなら、憎んでくれ、我が家の伝統だ」という家系になるわけがありません。
「子供を愛しちゃいけない」といわれる家系になった理由は、映画では語られていませんが、すさまじい人生経験があったからであることは、推測に難くありません。まともな神経で、そのようなことができるでしょうか。

結論・・・・・①猛烈な反抗期の息子サムには、このような荒んだ心を持つ父親が存在し、また、両親の多分激しい諍いの中で育ち、さらに両親の「離婚」という体験を経ていること。
(これを「交流分析」という心理学では「脚本」と呼んでいます。「脚本」は9月の「今月のことば」参照

②サムの父親もまた同質の家庭で育っていること。伝統的にそういう家庭のわけで、その一つの結論として表出された答えが、息子のサムです。誰かが悪いと言えることではありません。

悪いと言えば関係者は皆、悪い。悪くないと言えば、誰も悪くない。でもこういう事態であり、荒れているサムがいるという状況をどうしたら良いのか。
そのあたりの深い洞察をもとに、サムに対応することが重要で、誰かが良いとか悪いという問題ではありません。

③父親が末期がんの故ではあるが、こういう事態には父親が本気になることが、解決に真に必要なことであると、改めて思う。例えば、「いじめ」や「不登校」などの問題も、父親が登場すると、それだけでかなり事態が改善されるものです。ましてや「命がけの本気」であれば、なおさらです。
人間とか人生の不可思議さを感じずにはいられません。

監督がそこまでの考えがあって製作したとしたら、恐るべき監督です。

 


文責:藤森弘司

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