2009年6月30日 第83回「今月の映画」
レスラー THE WRESTLER

監督:ダーレン・アロノフスキー   主演:ミッキー・ローク   マリサ・トメイ   エヴァン・レイチェル・ウッド

●(1)「剣岳」は、久し振りに、最後まで、気を抜くことなく観賞できた映画でしたが、今回は「レスラー」を取り上げたいと思います。この映画は、前回の「60歳のラブレター」の続編みたいな映画になりました。

今回の映画を取り上げた直接の理由は、下記(2)の新聞の紹介を読んで、非常に感じるものがあったからです。前回の「60歳のラブレター」もそうですが、「いかに老いるか?」ということは、特に還暦を過ぎると非常に大事になってきます。日本の心身医学の創始者・池見酉次郎先生は、生前「いかに上手に年を取るか?」ということをしばしばおっしゃっていました。

「上手に年を取る」とは、身体の面からも、心理的な面からも大事ですが、若者にいかに立場を譲っていくか、若者との違いをいかに理解していくかということも、とても大事なことです。名経営者がやがて「老害」と言われたり、若者のファッションを批判したり、あるいは「まだまだ若い者には負けない」と力んでみたり・・・・・体力を過信してみたり、若者達との関係においても、よほど注意をしないと「軋轢」を起こしかねません。私たちは、確実に「死」に向かって生きています。老いるということは、死が近づいていることを意味しますが、無意識のうちに、その「死」を否定しながら生きているように思われます。そこにいろいろな「軋轢」や「問題」が起きています。

もし、「実感」として・・・「死」に一歩一歩近づいていることを「実感」しながら生きていられれば、日々の中の多くの悩みは、ほとんど問題でなくなるものと、私(藤森)は思っています。永遠に生きられるような「錯覚」の中で生きているときに、様々な物事が「問題や苦悩」として発生してきます。

そういう意味で、前回の映画に続いて、今回の映画「レスラー」は、主演のミッキー・ローク自身の生き様と共に、私たちに大変、示唆に富んだ映画であろうと思います。
ちょうど同じ日に、日本の実際の一流プロレスラー・三沢光晴氏が試合中に相手選手から「バックドロップ」を受け、「頭部を強打したことによる頚髄離断」により死亡しています。私は前々から、このバックドロップは危険な技だと思っていましたが、やはりそうだったのですね。
この映画「レスラー」も、心臓のバイパス手術をしたランディが、最後の最後の場面、ロープの上段から、横たわっている相手レスラーに飛びかかった瞬間の映像で終わっています。日本のレスラー・三沢光晴氏を想起させる場面でした。

下記の新聞に紹介されている主演の「ミッキー・ローク」の人生は、私(藤森)の人生とダブります。

●(2)2009年6月13日、日刊ゲンダイ「映画『レスラー』主演、ミッキー・ローク激白」

<“若い頃”を諦めれば「ちっぽけな自分がOKだと思える」>

暴力沙汰やスキャンダルなどで10年以上も映画の表舞台から“消えて”いたミッキー・ローク(56)。その彼が、あす(13日)公開の映画「レスラー」で見事に復活を果たした。ただ、一般的なカムバックとは意味が違うらしい。

<落ちぶれた男が復活する条件とは?>
トレーラーハウスで暮らす元人気プロレスラーのランディ。心臓発作を起こし、医師に引退を勧告される。スーパーの惣菜売場で働くが、うまくいかず、近所の子どもにさえ、相手にされない日々。ボロボロの心と体を鼓舞し、かつての栄光を求めてリングに戻るが・・・・・。
85年の「ナインハーフ」で全盛期を築いたミッキー・ローク。そんな彼を知る人は、プロレスラーの落ちぶれた姿と重ね合わせるはず。ロークの本格主演は、90年の「蘭の女」以来になる。

・・・見事なカムバックですね?
「ただ、カムバックの定義が難しいな。サンドイッチを食べて戻ってくるのもカムバックなら、イラクで片足をなくして帰国するのもカムバックだろ。幸いなことに、オレには自分を認めてくれる監督がいて、とことん闘ってくれた。おれの4倍は金が集まる人気俳優がいたんだが、映画会社の反対を抑えて起用してくれたんだ。まあ、役をもらって、正直ほっとしたね。自分がもう落ちぶれた、大成しない役者だと長く思い知らされてきたから・・・・・」

・・・・・ストーリーが、あなた自身の人生と重なる部分も多いのでは?
14~15年前にすべてを失った。家、妻、金もキャリアも、そして自尊心も・・・・・。すべてをなくして暗闇の中に立っていた。ある日、真っ暗な中で鏡に映る自分の姿を見つめ、『こんなにしたのは誰だ?』と自問したんだ。稲妻に照らされた自分の顔を見て、赤ん坊のように泣き叫んだ。そして気付いたんだ。『こんなオレにしたのは、オレ自身じゃないか!』」

・・・・・なぜ変わろうと気付いたのか?
「回りくどい答え方をしていいかな。映画の主人公ランディは、自分の絶頂期はすでに来て、もう過ぎ去ってしまったことを理解できる生き方をしていないんだ。彼にとって、リングのライトの下、それがすべてだ。でも、ライトはいつか消されてしまう。スポーツ選手が分かりやすいが、年を取ったなと思う瞬間が必ずやってくる。サヨナラと手を振られ、他のチームに安く売り飛ばされたり、もっと若くて強い選手に取って代わられる。これは、ビジネスの世界の人たちにも共感してもらえるだろう。皆、絶頂期の栄光が戻ってくるのを望んでいるけど、パーティーはもうお開き寸前なんだ。それが現実なんだよ。若い頃のオレは、肩を怒らせて“ハードマン”を装っていたが、自分を取るに足らないヤツだと見せたくなかったから。今は、ちっぽけな自分をオーケーだと思える。そう思うまで10年以上かかったけどね」

<4番バッターを外された時、何ができるか>
老いは、誰にも平等にやってくる。サラリーマンだって「年を取った」と思う瞬間が来るのだ。その時、ロークのように若い頃の自分を諦め、変化させる必要がある。
映画評論家の秋本鉄次氏がこう言う。
「米アカデミー賞主演男優賞候補にもなったロークを“復活”と言う人がいますが、私は違うと思います。なにしろ、『レスラー』を演じた彼と、『ナインハーフ』の格好いい彼とでは、まったく別人だからです。二枚目を引きずっていたら、カムバックはできなかった。56歳になって男くささや人間の愚かさを出せるようになったのです」
実は、映画会社の最初の企画では、主演は売れっ子のニコラス・ケイジだったという。
「商業的にはニコラスが正解ですが、アロノフスキー監督はガンとして首をタテに振らなかった。深い挫折や劣等感を知ったロークのバックボーンを信じたからでしょう」(秋本氏=前出)

限界を知った人ほど強いものはない。不眠症に悩まされた石油王のロックフェラーは56歳でセミリタイア。ビル・ゲイツも昨年6月、52歳で引退した。
どんな人も認めたがらないが、老いは来る。ただ、4番バッターから外された時、『次に何ができるか』で人の価値は変わります。阪神の金本は元気だが、後輩に席を譲る選択だってある。サラリーマンなら50代や60代は老け込む年ではないが、若い人のアイデアについていけなかったりしてくる。若手が理解できないといって、足を引っ張るのだけはいけません」(人事コンサルタント・菅野宏三氏)
さすがの金本も41歳。練習量は若手に比べて少なくなった。だが、「今年は若手の嫌われ役」とシーズン前に目標を語っていた。そんなやり方もあるのだ。

○(3)<プログラムより>

<STORY>

ランディ(ミッキー・ローク)は、ザ・ラムのニックネームで知られるプロレスラー。全盛期にはマジソン・スクエア・ガーデンを満杯にし雑誌の表紙を飾るほどの栄華を極めた彼だが、20年を経たいまは、ニュージャージー周辺のどさ廻りの興行に出場し、糊口をしのぐ日々を送っている。住まいは、侘しいトレーラーハウス。その家賃さえも近所のスーパーのアルバイトをしなければ支払えない状態だったが、ランディには、いまさら別の生き方をする気概もゆとりさえも残されていなかった。
しかし、その考えを改めざるをえない時がやってくる。試合のあとで心臓発作を起こしたランディは、「もう一度リングにあがったら命の保証はない」と、医師から引退を勧告されたのだ。退院後、トレーラーハウスに戻った彼は、いまの自分には行く場所もなければ頼る人もいないことに気づく。
その孤独を紛らわそうと場末のクラブを訪れたランディは、なじみのストリッパーのキャシディ(マリサ・トメイ)に発作で倒れたことを打ち明ける。「独りはつらくて、君と話したくなった」。すがりつくようなまなざしでそう訴えるランディに、キャシディは、「家族に連絡を」とすすめた。
ランディにはひとり娘のステファニーがいた。ずっと親らしいことをしてこなかったせいで心はとっくに通わなくなっているが、唯一の身内であることには変わりない。迷ったあげく彼は、キャシディのアドバイスに従って、娘に会いに行くことにした。

案の定、ステファニー(エヴァン・レイチェル・ウッド)は、突然たずねてきた父にあからさまな嫌悪を示した。心臓発作の話も、彼女のさらなる怒りを誘発するだけ。「私の知ったことじゃないわ」と、憎しみを露にして去っていく娘の背中を、ランディはただ黙って見送るしかなかった。
その顛末を聞き、ランディを不憫に思ったキャシディは、ステファニーへのプレゼントを買いに行くというランディに、自分もつきあうと申し出る。
待ち合わせの土曜日。素顔のキャシディを見て、ときめくランディ。古着屋でプレゼントを買ったあとにパブでビールを飲んだふたりは、はずみでキスを交わす。
その日から、ランディは不器用な足取りで第二の人生を歩み始めた。フルタイムの仕事はスーパーの惣菜売り場。接客は得意ではなかったが、割り切ればどうにかこなせた。さらに、プレゼントを携えて再訪したステファニーは、ランディに心を開き、彼の謝罪を受け入れてくれた。全ては順調に滑り出したかに見えたが、ちょっとしたボタンのかけ違いで、再びランディの人生は平穏な軌道から外れていく。
きっかけは、お互いに好意を持ちあっていると思っていたキャシディに、個人的な交際を断られたこと。彼女と口論になったあげく、行きずりの女と一夜を過ごしたランディは、ステファニーとのディナーの約束をすっぽかしてしまう。再び裏切られたことに傷つき激怒したステファニーは、父に絶縁を宣言。そのショックに追い打ちをかけるように、スーパーの客に嘲笑を浴びせられたランディは、キレて仕事を放り出してしまう。
怒りと情けなさが腹の底から突き上げてくるなかで、ランディは悟る。たとえ命を危険にさらすことになっても、自分はプロレスラーのザ・ラムとしてしか生きることができない男なのだ、と。

カムバックを決めたランディは、さっそくプロモーターに連絡。引退を撤回し、全盛期の宿敵アヤトッラーとの20年ぶりの再試合を組み直してくれと申し出る。
かくして迎えた再試合の日、髪を染め直し、意気揚々とウィルミントンの試合場に出かけていくランディ。そんな彼を愛していることに気づいたキャシディは、ウィルミントンまで車を飛ばし、試合直前のランディを引きとめようとする。
だが、時すでに遅し。ファンの声援と喝采を耳にしたランディに、キャシディの言葉は届かなかった。
「あそこが俺の居場所だ」
そう言い放ち、ランディは躍り出ていく。自分が最も輝き、最も誇り高くいられるリングの上に――。

○(4)<居場所(ホーム)を探し続ける
ランディ=ミッキー・ロークの心のたび>

先日、本棚を見ていたら、ある映画の本が出てきた。表紙に打たれた文字はミッキー・ローク。その昔、筆者がミッキー・ファンであることを知る友人が英国みやげに買ってきた本だった。その出版は約20年前。誰でも年月と共に容姿が変わるが、それにしても時の流れは残酷だ。そこにいるのは今のデコボコ顔の男優とはまるで別人。若いミッキーの初々しさにこちらの青春時代の思いも重ね、一瞬、切ない気持ちに襲われた。しかし、すぐに思い直す。「レスラー」のミッキーもすばらしかった。たとえ、その人生が間違いだらけだったとしても。この映画を初めて見た時の興奮は忘れられない。エンドマークの後、すぐには椅子から立てず、その後も映画の熱が残った。なぜ、こんなに胸を打たれるのだろう? 頭よりも先に体が震えた。いや、魂が? そう、魂の演技だ。この時、アカデミー賞はノミネート段階で、ミッキーにも受賞の可能性が残されていたが、映画を見た後、賞はどうでもいいような気がした。もう、賞とか、そういう既成を超えた圧倒的な気迫を見てしまったからだ。
主人公のランディはプロレス界のヒーローだった男。今は忍び寄る老いを感じながら、かろうじて小さなリングで闘い続けている。やがて、心臓発作を起こして引退を決意。家族的なつきあいの中に、自身のホーム(=居場所)を見つけようとする。しかし、疎遠だったひとり娘とは絶交状態だし、思いを寄せるストリッパーとの距離も、もうひとつ縮まらない。そして、まわり道をした後、彼は本当のホーム(=リング)を再発見する。映画ではそんなホーム探しを続けるランディの心の旅が淡々と描かれていく。セリフは控えめで、ランディの後ろ姿が何度も登場する。がっしりした肩。無造作に結ばれた長髪。何の変哲もないのに、そこにランディが、いや、ミッキーがいるだけで、なんだか、ドキドキしてしまう。
それを見ながら考えた。ミッキーはいつの間に、後ろ姿でリアルな演技ができる男優になっていたんだろう?
冒頭に書いた本の中にミッキーには有無を言わせぬ美しさがある。ちょっと上目使いのまなざしを見せた写真。あー、これこそ、80年代に「ナインハーフ」で見せたレディキラーの顔。その甘えるような目で見つめられ、マシュマロのような声でささやかれたら、女はだれだって……。一方、男のナルシシズムをくすぐるおしゃれな男優でもあり、ミッキー流ダンディズム映画の最高傑作ともいえる「エンゼルハート」が公開された後、「あんなネクタイがほしいー」と目がウルウルの男性ファンが急増。女たちを魅了し、男たちの羨望の的ともいえるセクシー男優でもあった。「レスラー」のミッキーは、お世辞にもおしゃれとはいえないし、色気もとんだ。でも、それでいて、あの今はくぼんでしまった目の奥に小さな光が宿る。特に疎遠だった娘ステファニーの前で涙を流す場面。その目の温かさに彼女の心が揺らいでしまうのも納得できる。
およそ家庭的な男性ではなく、家族にしてみれば失望の連続だろうが、それでも、なんだか情にほだされ、ふと許したくなる。それというのも、彼があまりにも不器用すぎるせいだろうか(スーパーの総菜売り場での危なっかしさといったら……)。
ランディ同様、ミッキー・ロークという男優も、どう見ても不器用で、生きるための戦略など無縁の男優ではないだろうか。私生活でも仕事がどん底まで落ち込み、2度目の結婚にも失敗。自殺を考えたこともあったという。昨年、〈ニューヨーク・タイムズ〉に載ったインタビューで、「俺は傲慢すぎて、スターとしての人生をうまくコントロールできなかった」と語っているミッキー。しかし、彼が間違いだらけの人間だからこそ、ファンは彼を愛さずにはいられない。「レスラー」の演技に関していえば、そんな彼自身の不器用さ、ぶざまさが役と重なり、逆に人間的魅力になっている。利口な人から見れば、彼は場当たり的で、愚かな男かもしれないが、そんな人間だけが持つ本物の純粋さを才人監督、ダーレン・アロノフスキーは見抜いている。彼がそこにいるだけで、ウソのない誠実なドラマが作れる。そう思ったからこそ、監督はへんな細工はナシで、その後ろ姿にこだわったのだろう。一方、厳しい人生を重ねたミッキー自身も中年の哀感を肩で表現できる男優に成長していたのだ。
この新作を見て改めて彼は男の夢を代弁する男優だなとも思った。「ランブルフィッシュ」の伝説のプリンスと呼ばれるバイクボーイ、「エンゼルハート」の堕ちていく私立探偵、「バーフライ」のお金よりも自由を愛する酔っ払い。世間の束縛を嫌い、路地裏を漂う夢追い人たち。「レスラー」の主人公ランディも、また、自身の夢を追い続けてきた人物だ。
彼の最後の選択。それは男にとって究極のロマンではないだろうか? 同じように肉体の衰えを感じながらも、マリサ・トメイ演じるストリッパーの女性は現実との接点を見つけ出そうとする。しかし、ランディの場合は……。
自身がボクサーでもあったミッキー・ロークは肉体を使って生きる男のサガを本能的につかんでいたはずだ。だから、その永遠の夢は静かな衝撃となって、見る人をいつまでも揺さぶり続ける。

※映画の結末について触られている箇所がございますので、後鑑賞後にお読み下さい。

○(5)<CRITIQUE>

<プロレスラーはキリストである
町山智浩(映画評論家)>

映画『レスラー』はランディ栄光の日々、80年代のプロレスのポスターで始まる。ランディはアラトーヤ(イスラムの指導者)と果てしなき抗争を続けていた。
これはハルク・ボーガンとアイアン・シークの抗争をモデルにしている。80年代当時、イランでイスラム革命が起こり、アメリカ大使館が占拠され、アメリカ人が人質にされていた。そこでWWF(現WWE)は、イランの国旗を振り回すイラン人レスラー、アイアン・シークを星条旗を掲げたハルク・ホーガンが「退治」するという愛国ショーで米国民を熱狂させたのだ。
ランディにはホーガンだけでなく、いろいろな実在のレスラーたちが投影されている。脚本家ロバート・シーゲルは、『ビヨンド・ザ・マット』というドキュメンタリー映画を観て感動して、ランディの物語を書いたという。
『ビヨンド・ザ・マット』にはホーガンと並ぶ80年代WWFのスター、ジェイク・ロバーツが登場する。ロバーツは酒と麻薬と女に溺れて離婚、WWFも解雇され、全財産を失い、60歳をすぎているのに田舎町のドサ回りで細々と暮らしている。孤独なロバーツは、十年以上会っていない一人娘に会いに行く。しかし「あたしと母さんを捨てたくせに!」と娘に拒絶されて、泣き崩れる。
『ビヨンド・ザ・マット』は画期的な映画だった。たとえば世界最大のプロレス団体WWFのザ・ロック(ドウェイン・ジョンソン)とマンカインド(ミック・フォーリー)の試合。試合前に二人は楽屋で和気藹々と談笑しているが、リングに上がるとロックはミックを後手に手錠をかけて無抵抗にしてから、その頭をパイプ椅子で殴りつける。ミックの頭から血しぶきがほとばしる。そして試合後、楽屋で割れた頭を何針も縫われながらミックは再びロックと談笑している。
敵同士が仲良く打ち合わせ。これぞプロレスが八百長である決定的証拠だ。ところが『ビヨンド・ザ・マット』を見ても誰もプロレスを軽蔑しなかった。むしろ逆に、友人に自分の頭を叩き割らせる聖なる狂気に畏敬の念を抱いたのだ。
ミック・フォーリーは引退したが、彼の後継者といわれるネクロ・ブッチャーは『レスラー』に出演している。CZW(コンバット・ゾーン・レスリング)という実在のインディー団体のリングで、ランディと凶器なんでもOKのデスマッチを戦う。有刺鉄線を巻きつけた机、蛍光灯、それに工業用ホッチキスまで使って互いをボロボロにする。ミックとネクロの共通点は攻撃技がないことだ。二人の得意技はどんな技でも反則でも受けること。ネクロは金属製の階段にバックドロップで後頭部から叩きつけられたりする。もちろん事前に打ち合わせ済みだ。でも、賭けた命にウソはない。
実際、プロレスは非常に死者の多い、最も危険なスポーツなのだ。2000年以降だけでも日本で知られているレスラーが10人以上死んでいる。クラッシュ・ホーリーが32歳で、ヨコヅナが34歳で、ゲイリー・オルブライトが36歳で、ラティーノ・ヒートことエディ・ゲレロが38歳で、デイビー・ボーイ・スミスが39歳で、ペガサス・キッドことクリス・ベノワが40歳で、人間魚雷テリー・ゴーディが40歳で、ミスター・パーフェクトことカート・へニングが44歳で、バンバン・ビガロが45歳で、ロード・ウォリアーズのホークが46歳で死んだ。無名のレスラーまで入れると死者の数は倍以上になる。
死因で最も多いのは心臓発作だ。レスラーは体を大きくするが、心臓そのものは大きくできない。巨大なトラックを2リットルのエンジンで全力疾走させ続ければエンジンはボロボロになる。しかも、他のスポーツ選手が30歳ぐらいで引退した後もレスラーは20年も現役を続ける。試合数は年間100以上。さらに、筋肉増強のためのステロイドと、痛み止めが心臓を痛めつける。
「試合後、ホテルに帰ると全身が痛くて眠れない。痛み止めを飲んで睡眠薬を飲んで……それが毎日続くんだ」
ロディ・パイパーはレスラー生活をそう述懐している。彼は薬物使用でWWEを解雇されたこともあったが、今は世間に対してレスラーと薬物使用の現実を訴えている。そのロディ・パイパーは映画『レスラー』を観て号泣したという。
『レスラー』はランディの背中を映し続ける。マジソンスクエア・ガーデンで2万人の観衆の声援を受けた背中が、今、口下手な男の孤独と人生を語る。その背中には十字架に磔られたキリストの姿が刺青されている。なぜキリストは拷問を黙って受け続けたのか? なぜそれを群集に見せたのか? 彼もきっとプロレスラーだったのだ。
「プロレスは八百長だからインチキだ」と言う奴らがいる。わざわざ投げられ、わざと殴られ、隠し持ったカミソリで自分の額を切って流血するからインチキだと言う。ボクシングや格闘技はガチンコ(真剣勝負)だから本物だと言う。真剣勝負ではダメージをできるだけ受けないように防御する。避ける。でも、それは人として普通のことだ。
普通でないのは、敵の攻撃をわざと受け、逆に「もっと来い」と顔を突き出すこと。自ら死のダイブを敢行すること。自らそんなことをする人間はいない。
プロレスラーとキリストの他には。
そして、ランディは両腕を左右に広げ、十字架を描いてリングに身を捧げたのだ。

○(6)<PRODUCTION NOTE>

<主人公ランディと重なりあう
ミッキー・ロークの波瀾万丈な人生>

独特の囁くようなセリフまわしを武器に、ミッキー・ロークがスターの座に登り詰めたのは80年代の半ばごろのことだ。フランシス・フォード・コッポラ監督の実験的青春映画『ランブルフィッシュ』(83)でマット・ディロンの兄を演じ、コアな映画ファンの間でアイドル的な人気を得たのち、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(85)のスタイリッシュな刑事役でブレイク。さらに、キム・ベイシンガーとアブない恋のゲームを繰り広げる『ナインハーフ』(86)でセックス・シンボルのイメージを定着させた。
当時は、物量アクションがハリウッド映画の主流になりつつある時代だった。同ジャンルの作品で成功をつかんだスターには、『ターミネーター』(84)のアーノルド・シュワルツェネッガー、『トップガン』(86)のトム・クルーズ、『リーサル・ウェポン』(87)のメル・ギブソンなどがいる。そんななかでロークは、チャールズ・ブコウスキーの脚本を映画化した『バーフライ』(87)、誤爆に苦しむテロリストを演じた『死にゆく者への祈り』(87)、流れ者のボクサーに扮する『ホームボーイ』(88)、全裸シーンが話題を呼んだ聖人映画『フランチェスコ』(89)など、メインストリームからあえて外れた作品をチョイス。そのアウトサイダーぶりが受けた日本では、サントリー・リザーブのCM(88年)に起用されるほどのメジャーな人気を得た。
しかし、同じようにアウトサイダー路線を歩みながらも作品に恵まれたジョニー・デップと違い、代表作が出ないロークのキャリアは次第に低迷。結局、91年にプロボクサーへの転向を宣言するにいたる。いまや伝説と化した日本でのボクシング試合が行われたのは、92年6月23日のこと。豹柄のシースルーのトランクスでリングに登場したロークは、ダリル・ミラーと対戦し、1ラウンドでKO勝ちをおさめたが、「猫パンチ」で観衆の失笑を買う彼に、もはやスターのオーラは感じられなかった。
この試合直後の6月26日に、『蘭の女』(89)で共演したキャリー・オーティスと結婚。だが、94年に家庭内暴力事件を起こし、警察に逮捕される。翌95年、プロボクサーの道を断念したロークは、映画界へのカムバックを志すが、パンチと整形によって顔が崩れ、スキャンダルによってイメージも崩れた彼に、チョイ役以上の仕事はまわってこなかった。
この時期のことを、「家、妻、金、キャリア、自尊心。すべてをなくして暗闇の中に立っていた」と、振り返るローク。以来13年間、彼は落ちぶれる原因を作ったのは自分であることを痛感しながら、細々と映画に出演し、犬を友に生きる日々を送ってきた。それは、栄光が過ぎ去ってしまったことを自覚し、ガムテープでつぎをあてたダウンをはおって地方の体育館を巡るランディ“ザ・ラム”ロビンソンそのもの――。
しかし、人生は何が起こるかわからない。すべてを失った人間の魂を投影できるランディという役を得たロークは、俳優人生のどん底から一転、全盛時代にも手にしたことのなかった大量の賞を受賞することになったのだ。
今回のドラマティックな復活劇でロークが体現したのは、人間の可能性には限りがないという事実。それが、『レスラー』という作品の感動の原点になっていると言っても過言ではないだろう。

<文責:藤森弘司>

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