2009年4月31日 第81回「今月の言葉」
アライブ -生還者-

監督:ゴンサロ・アリホン   実際の生還者達16人の証言

○(1)<プログラムより>東京国際映画祭2008 特別招待作品 

アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭2007 グランプリ受賞

○(2)<解説>

1972年10月、世界史にその名を残し、タイタニック号の沈没やスペースシャトルの爆発にも劣らない衝撃を全世界に与えた“アンデスの聖餐”事故。墜落死した乗客の人肉を食いつなぐことによって、氷点下の雪山で72日間を生き抜き、ついに脱出に成功した16人の生存者の事故記録と証言は世界中で好奇と理解の両方の反応によって迎えられた。当初、これを現代のカニバリズムとして捉えるものもいれば、これを神が自分たちに与えた試練だったという生存者たちの説明を歓迎するものもいた。その後、事件の詳細を綿密な調査と関係者の証言をもとに構成されたルポルタージュ作品「生存者」(P・P・リード著)が発表され、また、サバイバル映画の名作「生きてこそ」(93)の中で、事故の詳細と生存者たちの脱出に向けた過酷な戦いが描かれた。その両作品に共通して流れている熾烈な状況下における団結と友情、そして生きるための強い意思の表現は事故の真実を誠実に語るものである。

しかし、同じウルグアイのモンテビデオの出身で、生き残った生還者たちの友達であるゴンサロ・アリホン監督は、彼らと話を交わす度に必ず話題に上るこの事件の話を聞き、そこに前記の2つの表現方法(著作、フィクション)では語り尽くせなかった、生還者の言葉だからこそ伝えることのできる事故の真実がまだ残されていることを発見する。

すでに国際的に著名なドキュメンタリー作家であったアリホンは、生還者たちのインタビューを採録するとともに、その証言をもとに当時の事故状況を再現して、その時、サバイバルの現場で何が起こったのかを忠実に追究してゆく。また、特筆すべきことは、この作品が生還者たちと事故で亡くなった人々の遺族との交流も、同時に描いていることであろう。彼らが事故を封印せず、互いに交流を保ち癒しあう姿は、見る者に“それでも生き残ることの大切さ”を強く訴え掛ける。モノクロームの抑えた映像で描かれる再現ドラマの詩的な表現と対照的な映像は、まさにドキュメンタリーという手法だからこそ迫ることのできた優れたアプローチであろう。

この「アライブー生還者ー」は、2007年に国際的なドキュメンタリー映画祭として名高いアムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭(IDFA)でグランプリに当たるVPRO Joris Ivens賞を受賞し、大変な反響を呼んでいる。究極の状況の中で生きることを選ぶ人間の意志と団結力の物語は、崇高な人命がたやすく失われるようになった現代社会において、必ずや日本でも多くの人々の賛同を集めることだろう。

○(3)<ストーリー>

1972年10月12日、ウルグアイ空軍の軍用機がモンテビデオから45名の人々を乗せてチリのサンチアゴに向けて飛び立った。飛行機は、ウルグアイ郊外の高級住宅地カラスコから来たラグビーチーム“クリスチャン・ブラザース”によってチャーターされたものだった。若者たちは親善試合に遠征する予定で、何人かの親や友人たちと共に、太平洋の海岸で楽しい週末を過ごそうと考えていた。

しかし、アンデス山脈付近の悪天候のため、飛行機は山脈のアルゼンチン側山麓にある平凡な町メンドーサに着陸せざるを得なかった。天候の回復を待ち翌13日、飛行機は再び飛び立った。15:30、パイロットはサンチアゴの管制塔に飛行機の位置と高度を連絡した。しかし、その1分後、管制塔が再び飛行機と通信を試みたが、今度は何の返答もない・・・・・チリ、アルゼンチン、そして、ウルグアイが共同で飛行機の捜索を始めたが、その年のアンデス山脈は記録的な大雪に見舞われており、機体を白く塗られていた飛行機を発見する可能性は非常に低く、45人の乗客のうち一人でも生き残っている可能性はさらに低かった。惨事から10日後、捜索は打ち切られた。生き残った遭難者たちはこの事実をまだ動いていたラジオで知った・・・・・そして、そこには食べるものは何も残されていなかった・・・・・

10週後、アンデス山脈の麓を流れる谷で羊の群れを追っていたチリ人の羊飼いは、その急流の向こう岸に二人の男の姿を発見した。彼らは熱狂的に身振りを繰り返すと、膝をつき、両手を大きく広げた。羊飼いは彼らを旅行者と・・・テロリストとさえ・・・思い込み、彼らを置き去りにした。しかし、翌日、彼は同じ場所に戻るとその二人の人物がまだそこにいるのを知った。川の水音は大きく、両岸の三人がお互いに言ってることを理解することは難しかった。そこで、羊飼いは紙とペンを丸め、ハンカチにくるんで向こう岸に投げた。ボロボロの服に髭だらけの男たちは、紙に何かを書き込むと羊飼いに向かって投げ返した:
「我々は山腹に墜落した飛行機からやってきた。14人の仲間がまだ生き残っている。ここはどこだ?」

墜落事故から70日、フェルナンド・パラード(20)とロベルト・カネッサ(19)は70キロの山道を歩き、アンデス山脈の4分の3を徒歩で渡り、ラグビーブーツ以外にはいかなる装備も持たないまま、高度4000メートル以上の頂群を乗り越えてきたのだ・・・・・その2日後に救出はなされたが、72日間の地獄のような日々、ある者は母親を失い、ある者は妹を失い、そして、すべての者たちが親友を失っていた。結局、16人の生存者がいた。ロベルトは世界に向けて、この生還劇を“16人の世紀の生還者”、そして、彼らが救助されたのがクリスマスの2日前だったことから、“アンデスの奇跡”と語った。

救出されてから5日後、熱気に包まれた記者会見の中、生還者たちは熟慮の末、思い切って真実を語った。
「・・・ついに食料が底を尽いた日、我々は思った。最後の晩餐の時にその血と肉を捧げたように、キリストが我々にも同じようにしなければならないということを指し示しているのだと・・・我々の死せる友人たちの中に具現化したその血と肉を受け取らなければならない・・・これは、我々すべての間で共感されたことだ・・・それが我々を生き延びさせてくれたのだ・・・・・」
それは社会における最大のタブーの一つが破られ、公に明るみとなり、世界中が大きな衝撃を受けた事件だった。

35年後、“アンデスの聖餐”の生還者と事故で亡くなった者の子供たちが、慰霊のためにアンデス山脈の事故現場を訪れた。冬の季節は終わり、そこにはあの真っ白な雪原はないが、亡くなった者たちの墓標として十字架が立てられている。彼らはそこで互いに肩を組み、鎮魂のために祈りを捧げる。亡くなった者たちの肉体は今の生きる生還者たちの中に生き続けているのだと感じながら。

○(4)<COMMENT  生還者たちの言葉>

<ロベルト・カネッサ>
「時が経つにつれて、私は次第に自分たちが『実験の演習』を体験しているのだと感じるようになった。
30人かそこらの都会に住む西洋の若者を雪の世界に投げ出す。救助も補給も取り上げてしまう。しかし、全部ではない。彼らのうちの多数を雪崩で消して、しかし、逆説的に、残された他の者に生き残るために必要なたんぱく質をあたえるというわけだ・・・・・そして、あとは待つだけだ・・・・・」

「我々がやったことは、現実的且つ物質的な観点から事実を考え抜いての結論だった。
石油でタンクを満たすようなものだ。時間を稼ぐには、致命的な問題を遅らせるにはこれが唯一の道だった。その間に、この状況を脱出するために我々に何ができるかを見つけて待った。そして、我々の戦略が成功したんだ」

「死んだ友人たちの魂は私の中にはいない。一方、私は彼らの魂が私の周りに漂っているのを感じることができる。最初、その感覚が起こった後すぐには、もはやそこには存在しない人たちが、同時に存在しているようだった。
彼らが我々に向かって叫んでいるようで、彼らの両親や家族から遠ざけようとしているように感じられた。全員が同じ学校に行き、同じ地域に住み、長い間、お互いのことをよく知っているにも関わらずだ。多分、最初は、彼らが死ぬには若すぎたため、純粋な魂になるために何をすべきかを知らなかったのだ。彼らは未だに生ける者たちの世界の一部であろうとした。
それは我々と彼らの間で対立を引き起こした。そして、少しずつ、彼らは自分の居場所を見つけていった。さもなければ、彼らを目に見えなくすることを学んでいったのは我々だったのだろう。
それにもかかわらず、今、毎日、私は自分のことをもうここにはいない彼らの父親のように感じている・・・・・
時が流れ、私は彼らの声をより良く聞くことができるようになったことを認めなければならない。彼らはそこに変わらずにいて、我々に囁きかけている・・・・・」

<グスタボ・セルビーノ>
「我々のグループが問題に直面して決断を下した時、私は自分が次のように言ったことを覚えている・・・・・
『もし僕がこの雪の中で死んだら、生き残るために僕の体を使おうか議論するだろう・・・(そんなことになったら)たとえ死んでいても起き上がってきて、君らのケツを叩いてやるよ、この馬鹿どもが!』
皆は僕の言うことを黙って聞いていた。僕は自分の言葉が皆を前に踏み出させる役に立ったと思う」

<アドルフォ・ストラウチ>
「ロベルトが最初に薄く肉を切り取って、飛行機のキャビンに置いた。
私はこっそりと急いで食べに行った・・・・・そこにいる間中、後ろめたさを感じたよ。私はそれを隠したかった。長い間、私の心はこの人肉の話に取りつかれていて・・・・・しかも、それを認めることができなかった・・・・・」

<カリートス・パエス>
「ロベルトとナンドがついに焼け焦げた飛行機を離れ、西へ向かって徒歩でアンデスを越えようと試みた時、ナンドは墜落時にすでに母親と妹を喪っていた。彼は振り向くと僕に言った・・・・・
『カリートス、もし僕らの帰りが予定よりも遅れた場合は、母と妹の体をそれにふさわしいように使ってくれるように、君に任せるよ』
彼はそんなことを我々に言う必要はなかったが、彼はそうしたかった。私にとってそれはできる限り最も勇気ある行為だった」

「もし、私がもう一度同じ体験をするとしたら、今度はそう長くは待たないだろう・・・人肉を食べようと決意するのに、10日もかからない。我々がしたことは、我々の前にも他にもやっている・・・例えば戦争中とか。我々はこの行いに“名前”を付けただけだ。
我々人類は地球上で毎日カニバリズムを経験している、そこでは弱き者が潰される。個人的な利権への争いがその道の上にいる者すべてを押しつぶすのだ・・・それは、我々があそこで経験したことの対極にあるものだ。我々は、他の者たち、弱きもののために自分のできる最大限の努力を行なおうとしていた」

<グスタボ・セルビーノ>
「救助隊の第一陣がヘリコプターから降りてきた時、キャビンの周りにいる者が生き残った者たち全員だと言われたら、とてもショックを受けたに違いなかったろう。彼らは嵐が去るまで、一晩を我々と一緒に胴体の中で過ごさなければならなかった。彼らの存在が我々を歓喜で満たした、何故なら我々は救われたからだ。
そして、猛烈に腹が減った。彼らの粉スープは数が足りなくて、我々はその目の前で人肉を食べた。何も隠すものなどなかったから。結局、彼らは飛行機から50メートル離れたところにテントを建ててそこで眠ることにした、リボルバーを抱えてね・・・・・ひどい奴らさ!」

<ホセ・ルイ・インシアルテ>
「我々が山を降りた時、やせ細り、飢えに悩まされていて、私は神父を見つけると考えもなしにすべてを話してしまったんだ。洗いざらいすべてさ。それは浄罪のようで、私の中に押し止めてあった何かを押し出さなければならないように、次から次へと出てきた。
その直後に、私は彼に告解を聞いてくれるように頼んだ。彼は答えた・・・・・
『息子よ。あなたはすでに告解をしています。神が共にありますように』このことが私に自分のしたことを受け入れるための大きな助けとなってくれた・・・・・」

<エドゥアルド・ストラウチ>
「ヴァチカンは我々の行為を是認した。しかし、それが非難だったとしても、私にとっては同じ効果をもたらしただろう。私には良心の呵責はなかったし、自分のした行為に罪悪感を持っていなかった。私はそれを受け入れている。
人生は・詩的に言いかえれば、創造、聖霊は・死より重要だ。それが私のただ一つのルールだ」

○(5)<INTERVIEW>

<ゴンサロ・アリホン監督・・・ロングインタビュー>

Q・・・何故あなたはこの映画を作ろうと思ったのですか?

アリホン・・・ウルグアイ人として、私は最初からこの話をとても身近に感じていました。事故が起きた時私は15歳で、とても強い衝撃を受けました。彼らが生還した時、とても胸をうたれましたが、それというのも彼らの内の何人かを個人的に知っていたからです。事故の後、遭難者の何人かが現われたというニュースを耳にした時、それを信じようとはしませんでした。

後に生還者たちが普通の生活に復帰した時、私はこの物語に深く迫り、次第に彼らの内の何人かとより親しく知り合うようになりました。ロベルト・カネッサ、グスタボ・セルビーノ、フェルナンド・パラード、カリートス・パエスといった人たちです。そして、年月が経つにつれて、いつも感じていました・・・特に彼らと共に過ごし、いわゆる「それ」を乗り越えてきたという彼ら自身の話とこの事件を伝えるマスコミの手法を聞いた後では・・・P・Pリードのとても素晴らしい本(「生存者」新潮文庫刊)は別ですが、あれは事実に基づいたことしか書かれていませんし、非常に優れた作品です。

私は他に何本かのドキュメンタリーと幾つかの報道記録をそこかしこで見ましたが、どれもが逸話的で、物語自体が持つ可能性に比べて力強さがありません。映画「生きてこそ」(1993年制作、アメリカ映画)でさえ、脚色されていて大衆向けになっていました。そこで、私はまだ、この事件を語る映画が作られる余地があると思ったのです。
事故後30年を経て、生還者たちが事故を平穏に語ることができるようになったという利点を活かしてです。彼らは今、時間だけが癒さすことのできる平常心で事故を振りかえることができます。そして、私は、この作品は事実に基づくだけでなく、生還者たちがこの体験から達成したことをも描こうと思ったのです。

<略>

Q・・・映画の中にカニバリズムの主題を持ち込むに当たって、どのようなアプローチをしたのですか?

アリホン・・・実際問題として、カニバリズム(人肉嗜好、食人)という言葉はここでは正しくないですね。正しい言葉はアンソロパファジー/ネクラファジー(食人風習/死食性)で、すでに死んだ肉体を食べるか、食べるために他人を殺すかという違いがあります。明らかにこの部分は物語の中で最もデリケートな部分です。タブーに触れる部分ですが、これは西洋文化の中のみならず、知る限りでは世界的にあらゆる年代に渡って浸透しています。

では、どのようにアプローチすべきか?それは敬意をもって接するということです。この主題について、私は生還者たちに無理強いはしませんでした。彼らに何も求めることなしに、好きに話させたのです。何時の時もこの主題はインタビューの中に現われます。その時は広いスペースで、何の指示や報道的感覚での結論を求めるような押しつけもなく話したいように話させたのです。そのため、度々彼らが話をできなくなることもありました。それは彼らの中でも曖昧にしてあった部分で、言葉にすることができなくなったのです。私はそれを尊重し、紳士的態度でそれを受け止めました。彼らがこの話しに差し掛かった時は厳しく当たらず、黙って配慮を見せ、いかにそれが困難なことであるか共感を示しました。そして思うに、この配慮ある態度、事実を分け合おうとする態度が彼らに自らの言葉でこの部分を表現させることを助け、満足させたのだと思います。それは、彼らからセンセーショナルな話を引き出そうと意気込むジャーナリストのやり方とは正反対のやり方でした。

この作品では、時に沈黙や表情が言葉と同じくらいの重みを持ちます。そして、この方法が彼らにインタビューを気持ちよく受けさせ、この主題についてより正確な表現方法を見つけることができるようにしました。事実、生還者の誰もがそのことを表現する自分自身のボキャブラリーを発見したのです。

<略>

Q・・・映画の中で特に心を動かされたり、共感したシーンがあればお聞かせください。

アリホン・・・死んだ友人を食べなければならないかもしれないという考えが頭に浮かび、それを話し合いから実際に実行に移していく過程は映画の白眉というべき点ですが、これは生還者たちにとっても人生最大の体験でしょう。それは結局、人類最大のタブーからの逸脱行為ですから。我々がその話に近づいた時・・・生還者たちがそのことを考えることと実行することの違いを語ろうとした時が最も情感あふれ、困難で、力強い瞬間でした。それは単にインタビューについてだけではなく、一連のイメージをこれらの供述に合わせてどのように調整してゆくかについても同様に言えることです。

若い役者たちやスタッフとともに事故を自由な解釈で撮影していくことはとても難しいことでした。それは冬の午後・・・土曜日の午後・・・で、我々はモンテビデオ近郊の砂浜に飛行機の残骸を使って、ほとんどのシーンを撮影しました。生還者の何人かは、妻や子供たちを連れて撮影現場に現われました。そこを訪れ、自分たちの考えたことが撮影されてゆくことはちょっぴり楽しみでしたでしょうし、彼らは(人肉を食べる)という発想が実行されたシーンの撮影に立ち合いに来たのです。それゆえ、これは我々にも彼らにも、とても困難で力の入る撮影でした。何人かは耐えきれずその場を後にしました。何人かはストイックにその場に残り、ロベルト・カネッサ(事故の生還者の一人)のように我々のもとにやってきて、そのシーンの再現がもっと正確で信憑性が高まるようにいくつか指摘をしてくれる者もいました。このシーンは、インタビューにおいてもその後の再現撮影においても、最も挑戦的な部分でした。

●(6)「新型インフルエンザ(H1N1)」の脅威が増している最中にこの映画をみました。そして5月1日現在、「新型インフルエンザ」の脅威は「フェーズ5」になりました。「感染大爆発(パンデミック)」の一歩手前です。
今回のインフルエンザは、警戒していた「鳥インフルエンザ(H5N1)」ではなく、奇襲攻撃を受けたように「豚インフルエンザ」でした。「鳥インフルエンザ」は「強毒性」ですが、今回の「豚インフルエンザ」は今のところ「弱毒性」ですので、脅威はかなり薄れています。
また、報道されている範囲内では、今のところ死亡や重症になるのは発展途上国(メキシコ)に限られていて、四方が海に囲まれている日本では、今のところ封じ込めに成功しているようです。とはいえ、ウィルスの変異が早いので、いつどのように「変異」するのかわかりませんので、油断は禁物です。感染性がさらに増大するのか、減少するのか、毒性が強まるのか、弱まるのか、感染を広げる過程で変異を続けて、とんでもないことにもなりかねませんので、くれぐれもご注意ください。
また、従来からの「強毒性の鳥インフルエンザ」の脅威はそのまま存在していますので、今回の「新型インフルエンザ」が日本では、思った以上に楽にやり過ごす事が、仮にできたとしても、予行演習をやれたと思って、対応をさらに上手になるように工夫されることをおすすめします。●(7)日本は幸いにもこれから、高温多湿の気候になりますので、検疫の強化と共に、かなり無事に経過する可能性がありますが、「第二波」「第三波」が押し寄せてきます。
多分、秋口には「第二波」が来る可能性が高いです。今回の体験を教訓として、今後に備えることが大事です。また、従来の「鳥インフルエンザ」は「強毒性」ですので、今回の比ではありません。
外国の感染者が、仮に今回の10倍死亡したならば、日本人の感染者が発生していなくても、多分、パニックになってしまったことと思います。死者が少ないので、今年の連休の海外旅行はほとんどの方が出発したようですが、「強毒性の鳥インフルエンザ」の場合ならば、多分、全てストップした可能性があります。そういう意味では、私たちは幸運だったと思います。ほとんど「予行演習」ができた、それも実戦的な「予行演習」ができているのですから、この体験を大事にしたいものです。
くれぐれも「喉もと過ぎて・・・・」になりませんように。

●(8)さて、今回、この映画「アライブ -生還者-」を取り上げたのは、万一、「強毒性の鳥インフルエンザ」が「フェーズ4や5」になったならば、この映画のようなことになるのではないかと思って、ちょうど「新型インフルエンザ」の脅威が増す中でしたが、見に行きました。
内容は、上記に紹介しましたが、飛行機がアンデス山脈に墜落、記録的な大雪の中、氷点下の寒さと飢えと絶望感の中、72日間も生き延びた精神力には驚きました。
「強毒性の鳥インフルエンザ」が大変なことになっても、生き延びる精神力こそが重要だと思いました。事実、私が読んだ本にもそのように書いてありました。

この映画の生還者たちは、何故、生き延びることができたのか?
敢えて、私なりに理由を拾ってみると・・・・・
①同じラグビーチームのメンバーだけだった事
②ラグビーで鍛えた強靭な体力や精神力があった事
③まとまるにはほど良い人数だった事
④ラグビーでの経験から、チームプレーが出来たのではないか?
⑤キリスト教の裏づけだろうか?

しかし、それにしてもです。
完全装備していても困難を極める行程を、登山の装備一切無しで、十分な体力が無い上に、絶望感の真っ只中!!!さらには記録的な降雪量の中、4000メートルを超えるアンデスの70キロメートルの山道・・・アンデスの4分の3を徒歩で歩いた!!!
驚異!!驚異!!!驚異以外の何物でもありません。事実、救助のヘリコプターのパイロットが、救援を求めた生還者が「もっと先だ」という言葉に、「そんな先は無理だ」と思わず叫ぶほどの、困難を極める高くて長距離の雪山を、何の装備も無く乗り越えたのですから驚きです。

簡単に言ってしまえば、最後は「精神力」ということでしょうか?

●(9)このパンフレットを読んで、もう一つ感動を覚えたことがあります。
それは監督の態度、対応です。

<<それは彼らの中でも曖昧にしてあった部分で、言葉にすることができなくなったのです。私はそれを尊重し、紳士的態度でそれを受け止めました。彼らがこの話しに差し掛かった時は厳しく当たらず、黙って配慮を見せ、いかにそれが困難なことであるか共感を示しました。そして思うに、この配慮ある態度、事実を分け合おうとする態度が彼らに自らの言葉でこの部分を表現させることを助け、満足させたのだと思います。それは、彼らからセンセーショナルな話を引き出そうと意気込むジャーナリストのやり方とは正反対のやり方でした。>>

<<この作品では、時に沈黙や表情が言葉と同じくらいの重みを持ちます。そして、この方法が彼らにインタビューを気持ちよく受けさせ、この主題についてより正確な表現方法を見つけることができるようにしました。事実、生還者の誰もがそのことを表現する自分自身のボキャブラリーを発見したのです。>>

これは「カウンセリング」・・・・・という言葉は、私(藤森)は好きでありませんが、この言葉を使わないと一般に理解しにくいので、敢えて使います・・・・・の「究極の態度・姿勢」です。
アリホン監督が「カウンセラー」になったら、第一級のカウンセラーになることと思います。「再会の街で」という映画の中の、実力があるとされる精神科医と比較してみても、アリホン監督の素晴らしさは際立っています<「今月の映画」、第65回「再会の街で」をご参照ください>。
アリホン監督の姿勢を、私(藤森)自身も参考にさせていただきたいと思っています。

<文責:藤森弘司>

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