2009年2月28日 第79回「今月の映画」
ハイスクール・ミュージカル

監督:ケニー・オルテガ  主演:トロイ・ボルトン   ガブリエラ・モンテス   シャーペイ・エヴァンス

●(1)今回取り上げた映画はミュージカルです。
私の長年の人生を考えてみて、ミュージカルはトロ過ぎて、むしろ嫌いでした。数十年の人生の中で、ミュージカルで強い印象があるのは、二十代のときにみた「サウンドミュージック」だけです。
しかし、最近、ミュージカルが楽しいのです。雰囲気をガラッと変えることができたり、大勢の人数での歌やダンスがそのまま私の中に飛び込んできて、それを楽しめるようになりました。
「マンマミーア」にしても、今回の「ハイスクール・ミュージカル」にしても、内容は他愛も無いものでしたが、ミュージカルの盛り上がりを十分に楽しむことができました。
「何故だろうか?」と考えてみました。それは多分、私(藤森)の狂った人生、「交流分析」的に言えば、重い「脚本」からそれなりに「脱却」してきているからではないかと思いました。だから今、目の前で繰り広げられている他愛も無いこと、むしろ、バカバカしいくらいに「能天気」、バカバカしいほどの陽気で明るい場面をそのまま楽しめるようになってきているのではないかと思いました。●(2)さて、今回取り上げた「ハイスクール・ミュージカル」は、ひとつには、上記のような理由、能天気なほど陽気で明るい、楽しい気分になれる映画だからです。
もうひとつは、映画の内容を下記にご紹介してから、その後に説明させていただきます。「交流分析」の大事なことに関係してきますので。あるいは、<2007年12月31日、第65回「今月の映画」「再会の街で」>の中の<(16)>に通じるものが感じられましたので。
○(3)<プログラムより>

<「ハイスクール・ミュージカル①」あらすじ>

大晦日のカウント・パーティで運命的に出会う!トロイとガブリエラ。
イースト高校バスケットボール部のキャプテンで学校の人気者のトロイと数学界の天才で優等生のガブリエラ。2人は偶然にも大晦日に訪れた家族旅行先で出会う。子どもだけのカウントダウン・パーティに親に無理やり出席させられた2人は、抽選によりカラオケでデュエットすることに。嫌がっていた2人だが、歌ってみると、今までに感じたことのない楽しさを知り、そして、お互い好意をもち始める。ところが新学期が始まると、なんと、ガブリエラが、トロイの通う高校に転校生としてやってきた。
そして、2人は高校で開かれるミュージカルのオーデションに一緒に参加してみることに!そんな2人の行動にトロイのバスケット仲間やガブリエラの友人は大反対!しかし、本当に2人の邪魔をしようとしているのは学校のミュージカルで常に主役を演じてきた双子の姉弟、シャーペイとライアンだった!

<「ハイスクール・ミュージカル②」あらすじ>

待ちに待った夏休み。バケーションとアルバイトは両立する!?
夏休みを満喫できる楽しいアルバイト先を探すトロイとガブリエラたち。そんなトロイになんと超豪華カントリークラブでのアルバイトの話が!だが、実はこのカントリークラブはシャーペイの親が経営していて、シャーペイ&ライアン姉弟が毎年バカンスを楽しんでいる場所だった・・・・・。
ガブリエラからトロイを引き離し、一緒に夏を過ごそうと考えたシャーペイがトロイを採用させたのだ。そんなことは知らないトロイは、ガブリエラ、チャド、テイラーの仲良しメンバーとワイルドキャッツのメンバー全員を雇ってもらった。これを知ったシャーペイは激怒!このクラブでは、毎年、彼女が独占して優勝してきたタレントショーが開催されている。今年はトロイと一緒に参加しようと思っていたシャーペイは、邪魔なガブリエラも一緒にきたことを知り、何としても2人を引き離そうと画策する。

○(4)<Story>

州の高校バスケットボール選手権決勝戦。最上級生のトロイとチャドが所属するイースト高校のバスケットボールチーム「ワイルドキャッツ」は、逆転優勝を果たした。トロイたちにとっては卒業前の最後の試合だ。だが、その優勝パーティでトロイとガブリエラは沈んでいた。原因は、卒業後、トロイはアルバカーキー大学へ、ガブリエラはスタンフォード大学へ行くことが決まり、離ればなれになってしまうことにあった。その距離1600キロ・・・・・。
本当にもうすぐ終わりだなんて、信じられない。家を出て自立した人生を探求することは、ワクワクすることと同時に、不安なことでもあった。

学校では、相変わらず自分中心のシャーペイの前に、とてもよく気が付くイギリスからの転校生ティアラがパーソナルアシスタントとして登場。また、なぜかクラス全員が恒例のスプリング・ミュージカルのオーデションを受けることに・・・・・。
みんな不満タラタラだが、ガブリエラの「みんなで一緒に何か楽しいことをする最後のチャンス」という一言で、やる気になる。しかも、その舞台がジュリアード音楽院の奨学生選考となることを演劇部のダーバス先生が告げる。選考の候補になっているのはシャーペイ、ライアン、ケルシー、それと申し込んでいないはずのトロイ・・・・・。
いったい誰が?よくわからないまま、練習が始まる。ダーバス先生はみんなに問いかける。「あなたたちみんながこの舞台を作るのだから、あなたたちは将来に向けた自分の希望、自分の夢について徹底的に考えなければなりません」と。みんなが自分の夢に盛り上がる中、トロイとガブリエラは迷っていた。

○(5)翌朝、学校の屋上でトロイはガブリエラにプロムの申し込みをした。幸せな時間が流れる中、ガブリエラはトロイに「あなたは舞台が好きなのよ。認めるのがそんなに難しい?」と問いかける。トロイは今ではバスケットと同じくらい舞台が好きになっていた。そんな自分の心の変化をトロイは認める。
「僕の人生はこうなるだろうって話をずっと聞かされてきた。でも高校3年生の今、世界が以前とは違うものに見えるんだ。もっと大きく、もっと興味深いものにさえ思えるんだ」

仲間たちがプロムの相手探しに夢中な頃、トロイとガブリエラは悩み続けた。ガブリエラは母親に「スタンフォード大を選ぶと私はすべてを失ってしまうわ!」と、心の内を言い放つと、「高校生活はこの世で一番大切なものに思えるわ。その真っ只中にいるときはね。でも、変わるものよ」と母は言う。
だがガブリエラは「すべてが変わらなければならない訳ではないわ。そんなこと、信じないわ」と気持ちをぶつけ、親友のテイラーの説得もきかずスタンフォード大に行くのをやめて、「アルバカーキ大を受講してもいいわ」とまで言い出す。

○(6)トロイはアルバカーキ大を選ぶと人生のレールがすっかり敷かれてしまうと感じ、<もしジュリアード音楽院がイエスと言ったら?>などと思いながら、目の前に置かれたアルバカーキ大の新品のウエアを見ていた。
アルバカーキ大への入学を誰より喜んでいる父の期待を裏切ってもいいのだろうか?トロイはせめて、ガブリエラと一緒にいられる時間を大切にしようと思う。だが、スタンフォード大に行かないと言い始めたガブリエラのことをテイラーに相談され、彼女を説得する。
ガブリエラは「これまで私は人生をフル・スピードで突き進んできた。スローダウンしたいと思ったのは、これがはじめてなの・・・・・立ち止まりたいのよ」と言う。トロイはそんな彼女に、「僕たちは卒業するんだ。それは変わらないんだ。僕たちが望もうと望むまいと」と答える。
ガブリエラは泣きそうになりながら「私は来週、スタンフォードに行く」と告げ、「プロムと卒業式に戻ってくる。そしてスタンフォードに進学する。そんな風に簡単にものごとは進んでいく。それでいいのよね?」と、まるで自分を納得させるかのように言った。

○(7)翌週、ガブリエラがスタンフォード大学に行ってしまった後、トロイはついに決意をし、父に「僕はもう子どもじゃない。進路は僕が決めることなんだ。親父でも、チャドでも、誰でもない」と自分の気持ちを告げた。
トロイは気持ちを抑えきれず学校へ向かい、自分が感じていた困惑と胸の痛みを表現したミュージカルの歌を誰もいない舞台で唄った。偶然居合わせたダーバス先生は、「自分を見出すプロセスにおいて、舞台は最高のパートナーなの。あなたはここに上がると本当に落ち着くみたいね。だから、あなたの名前でジュリアード音楽院に志願所を提出したの」と告げる。

一方、主役を演じるガブリエラがスタンフォード大の研修で参加できないミュージカルはバラバラになってしまい、まともな練習にならないほど。みんなはガブリエラが戻ってくると信じていたが、ガブリエラは「もう戻らない」とトロイに電話で告げる。それを聞いたトロイはある決断をする。
ミュージカル本番の日、スタンフォード大の中庭で、ガブリエラはタキシードにバスケットシューズを履いたトロイを発見する。トロイの決断とは一体・・・・・?
そして、2人は今夜、・・・ハイスクール・ミュージカル・・・「Senior Year」に間に合うのか?

●(8)さて、以前、このホームページのどこかで、アメリカの育児は、早くから両親と離されて育てられる、未確認ですが、多分、2才くらいからではないかと書きましたが、どうやら「0歳児」から、もう両親とは離されてしまうようです。
日本の場合は、「川の字になって育てられる、それも遅すぎるほどの長期にわたって」と言われます。そういうことに代表される育児で、「甘え」や「親離れ」が出来ない子、「マザコン」的な人間が育つと言われています。
それに対して、早くから「自立」「独立」を強調されて、アメリカ人は育てられると言われています。財閥のケネディ大統領さえもが、大学時代、アルバイトをしたと記憶しています。これはアメリカでは、ごく普通のことのようです。それに対して、日本の財閥の御曹司はいかがでしょうか?例えば、麻生総理大臣。私(藤森)の記憶では学習院大学時代、ロールスロイスに乗って大学に通っていたそうですが、それは一体誰のお金だったのでしょうか?誰が考えても、彼が働いて稼いだお金には思えないでしょう?若きケネディ大統領は、キューバ危機のとき、ソ連が核戦力をキューバに持ち込もうとした軍艦を、戦争も辞さずと腕力で捻じ伏せ、引き返えさせました。
その「自立」「独立」した男の「凛(りん)」とした姿勢と、我が総理大臣の「定額給付金」に対するブレや、100年に1度の大不況、1929年の大恐慌以来だといわれているこの大不況、日本という国の重大な局面での「不凛(?)」とした姿勢、ブレまくりの姿勢は、まさに「育児」の違いが如実に反映されているように思えます。
衆議院と参議院の第一党が違うために、法案を通すのに苦労をしているというのは、単なるいい訳に過ぎません。この100年に1度の大不況であることが本当に認識されているのならば、そして国会議員の本来の仕事がしっかり認識されているのならば、国家国民のために身を捨てて政策を立案して、世に問うたならば、必ずやれると私(藤森)は思うし、身を捨てて立案したものが通らないのならば、潔く辞すれば良いのではありませんか?
その覚悟がなく、世間の苦しさが、ロールスロイスを乗り回した人間にはわからないから、あのような醜態を晒しているのではないかと思います。良し悪しや好き嫌いは別にして、郵政民営化のときの小泉純一郎元総理大臣のような捨て身の覚悟を示せば、民主党も協力せざるを得ないのではないかと、私(藤森)は素人の考えですが思います。●(9)まるで有史以来の、まさに未曾有(みぞゆう?)の危機に直面した幕府のうろたえと、今の自民党は非常に似ているように思えます。日本は「神の国(?)」と言いたくなるほど、過去の未曾有の危機はうまく避けられてきました。
「蒙古襲来」のときは、本当に神風(?)が吹いて退治できたし、幕末の黒船は、南北戦争でアメリカが撤退したから占領されずに済んだし、太平洋戦争では、壊滅的な打撃を受けたが、アメリカの占領政策や朝鮮戦争の特需で世界第二位の経済復興を遂げたり・・・・・(私<藤森>は歴史に詳しくないので、正確でないところはお許しください。大まかにこんな感じだとご理解ください)。

さてこういう体験は、長期的に見て「果たして良かったのだろうか」と思います。その結果、「男の矜持」とか、「日本の文化や道徳」「武士道精神(?)」などが完全なまでに壊されてしまいました。
直接聞いたり、メディアを通した情報によりますと、「モンスターペアレント」の酷さは想像を絶するものがあります。教師や学校に対して、モンスターペアレントはやりたい放題の状況です。
そのやりたい放題のモンスターペアレントに対して、教師や学校側は、まるで「乙女」のように只管腰を低くして、穏便に穏便に対応しなくてはならない現場の状況を知れば知るほど、暗澹たる気持ちになってきます。

●(10)ご存じない方のために、2、3の実例を上げます。
例えば、子どもの給食費を払わない。それも貧しいからではなく、車を乗り回していても払わない親がいるそうです。それを請求すると、「勝手に給食を出しているのだろう。いけないのならば、家の子どもには給食をだすな」と言うのだそうです。成績のことにも苦情を言ってくるそうです。
最近の話ですが、子どもがどうも虐待を受けているようなので、担任の先生が学校と相談して相談所に連絡をした。その結果、両親が呼び出されて注意をされた。それからは、親が担任の先生の自宅に脅迫電話をかけてきて、先生が体調を崩してしまったそうです。
日本の文化に対してはいろいろな議論があるところでしょうが、メチャクチャになっていることは事実でしょう。江戸時代に日本に来た宣教師が、貧しい庶民が道徳的な明るい生き方をしているのに驚いたようですが、それと比較して、こんなに豊かになった日本の「道徳の廃れ具合」はいかがなものでしょう。

●(11)さて、何を言いたいのかといいますと・・・・・・・。
表面的には、日米に大きな隔たりがありますが、深層の部分に触れると、日米共にあまり変わらないのではないかということを申し上げたいのです。
最初にご紹介したように、<「再会の街で」の中の(16)>を再掲載します。故・池見酉次郎先生の名著・「続セルフ・コントロール」(池見酉次郎、杉田峰康、新里里春著、創元社刊、1980年)の8ページに、下記の図が載っています。<私(藤森)の下手な説明よりも、この本をそのまま転載させていただきます。「TA」とは、「交流分析」の略です。>

ここでは、知性(A)中心のTA(大脳前頭葉の働きによるTA)がもつ効用と限界について述べよう。この種のTAは社交レベルでのTAとして、「世間の子」として生きてゆくうえでは大いに役立つものであり、米国式のTAでは、これが主要な部分を占めている。これはまた、西欧的自我にもとづくクールなTAともいわれる。
しかし、社交レベルにとどまらず、人格的なふれ合いにまで立ちいるホットなTAをコントロールするためには、自他についての、より深い人間理解を必要とする。これを社交的TAに対して、人格的TAとよんでおこう。
企業における接遇訓練、職場での皮相な人間関係のセルフ・コントロールで重視されているのは、主として社交的で、クールなTAである。しかしこの種の知的なコントロールによるTAには、大いに限界があるものである。
職場においても、安定した持続的な人間関係が発展するためには、より深い人格的TAをスムーズに運ばせるための自己訓練と、人間理解がどうしても必要になってくる。
ところで、人格的TAということになると、気ごころの合った者どうしの間ではうまく運んでも、虫が好かない相手とのTAには、あつれきが起こりやすいものである。しかし、人間の世の中では、気ごころの合わない上役や同僚、さらには家族たちと、生活や起居を共にせざるをえないことも多い。
とくに近年のように、各人の個性や主体性が重んじられる時代になってくると、人格的TAをいかにうまくコントロールするかということが、健康な自己実現にとって不可欠なこととなってくる。

ここまでくると、人生早期にまでさかのぼって、自他の人格のなりたちについての気づきを深めてゆく、本格的な自己分析も必要になってくる。このような自己についての深い気づきによって、対人関係でのセルフ・コントロールの力が増してくるものである。
また、それぞれ人がもつ生い立ちの歴史が、今ここでの(P)(A)(C)のあり方、対人態度をいかに強く支配するものであるかについての理解が進んでくる。これにともなって、各人がもつ生活歴の重みを背負いながら、世間に適応してゆこうとする他人の懸命な営みに対しても、温かい思いやりの心が生まれてこようというものである。
このような自他の人格の成り立ちについての必然性への気づきを通して、相互の理解とふれ合いを深めるところに、いわゆる精神分析の本来の役割があるといえる。

しかし、このような脚本分析的な人間関係を深めれば深めるほど、われわれは、再び、その限界のきびしさにぶち当たらざるをえない。実は、これこそが現代人の孤独の源をなすものである。このような限界を突破せしめるものは、「世間の子」としてのしつけや教育による人格形成が行なわれる以前の、自己の実体への気づきである。これを私は「自然の子」と呼んでいる。
われわれは、人の間に生きる人間として育まれる以前から、この地上の生きとし生けるものと、同じいのちに生かされて生きている「自然の子」なのである。現代文明による人類の危機の根源も、いわゆる人間的な悩みの根っこも、つづまるところ、本来は、「自然の子」として生まれてきながら、結局は、「世間の子」として生きなければならない、人間としての宿命にあるといえよう。現代社会におけるように、「自然の子」としてのあり方と、「世間の子」としてのあり方とのズレが急速に大きくなってゆく状態では、とくにそうである。

TAでいわれる自己への気づきで、一番深いものは、「自然の子」としての、われの根っこ、さらにはいのちへの気づきなのである。このいのちに、生かされて生きているものどうしとしての共感の前には、もはや、社交のテクニックは無用であり、肌の色、身分や学歴、個性や人となりを超えた温かいTAが可能になるものである。
このような、いのちといのちのふれ合いを根底にもつTAこそが、本当の意味での「親交」なのである。またこれは、言葉を介しないハート・ツウ・ハートのTAである。

以上のところを図にまとめてみると、第1図(a)のように、私的セルフがふれ合わず、社会的セルフの範囲でTAが行なわれるのは、社交的でクールなTAである。アメリカ人の場合、日本人に比べて、社会的セルフの幅がずっと広く、アメリカ式TAでは、社交的TAのもつ比重が大きくなるのも当然のことといえよう。
日本では、第1図(b)のように、社交的セルフに比べて、私的セルフの範囲が広いので、社交的なTAの場でも、ついつい私的なことに立ち入りやすく、人格的なTAまで深入りしやすくなることが考えられる。いわゆる「ハダカのつき合い」「腹を割って話す」などといった状況では、私的セルフのふれ合いが主体となるわけである。
社交の場でのTAよりも、家庭内でのTAの方が、思いの外むずかしい理由の一つは、家庭内では社交をはなれた、生の人格的ふれ合いの場面が多くなり、互いに、相手に対する依存や期待が大きくなるためである。
TAをはじめとする自己発見への道が、いろいろと案出されているのも、その端的なあらわれの一つといえよう。

●(12)上図のように、日本とアメリカの自我の違いが非常にわかりやすく解説されています。ここで述べられているように、「私的な私」の部分の大きさがかなり違うために、表面に現われるもの、現象として現われるものに大きな違いがありますが、「私的な私」の部分に触れれば「日本とアメリカ」にあまり差がないのではないかという「問題提起」をしたいのです。

まず、上図が掲載された「再会の街で」でもそうですが、「9.11テロ」で大きく傷ついた主人公が、名医と言われる精神科医に治療を受けるのですが、「傷ついた心(トラウマ)」を無理矢理ほじくられたとき、パニックになり、ほとんど精神錯乱状態になっています。
精神科医は「公的な私」の部分で治療をしようとしますが、主人公のクライエントは、「私的な私の中の心(トラウマ)」を安直にいじくられ、その結果、精神錯乱状態に陥ります。
これは、少しずつ表面的な部分、つまり軽い部分が癒される度合いに応じて、より深く掘り下げていくべきところを、外科手術的に、早く心の傷を掘り返せば治療できるという誠に幼稚かつ乱暴な手法です。
それは名医と言われる精神科医ですら、池見先生が喝破したように「社交的なTA」程度にしか人間をみていない証拠で、アメリカ式心理学の全般がいかに浅薄なものであるかを証明しています。そして、そういうアメリカに、喩え短期間でも留学して勉強してきた人間が一流の心理学者であり、一流の専門家の証明みたく思われている日本の「心理学の社会」の狂いは相当なものです。

現に、故・古沢平作先生は、3歳前後の問題である「エディプス・コンプレックス」より以前の「アジャセ・コンプレックス」の論文を持って、フロイドに会いに行ったが、フロイドは理解できなかったようです。
「禅」や「内観法」にしても「森田療法」にしても、日本発のもの凄い技法があるのに、横文字を縦にしただけの安直なアメリカ式心理学を崇拝しすぎます。これも、「三日月会」ではよく話題になりますが、敗戦後の占領軍による「日本の文化」を壊されてしまった結果であろうと思われます。どこの国のものであろうが、誰が主張しようが「良いものは良い!!!」「よくないものはよくない!!!」と主張し、理解できる能力や文化が失われてしまっているようです。

●(13)さて、本題です。今回の映画の中で、

<<○(6)トロイはアルバカーキ大を選ぶと人生のレールがすっかり敷かれてしまうと感じ、<もしジュリアード音楽院がイエスと言ったら?>などと思いながら、目の前に置かれたアルバカーキ大の新品のウエアを見ていた。
アルバカーキ大への入学を誰より喜んでいる父の期待を裏切ってもいいのだろうか?トロイはせめて、ガブリエラと一緒にいられる時間を大切にしようと思う。だが、スタンフォード大に行かないと言い始めたガブリエラのことをテイラーに相談され、彼女を説得する。
ガブリエラは「これまで私は人生をフル・スピードで突き進んできた。スローダウンしたいと思ったのは、これがはじめてなの・・・・・立ち止まりたいのよ」と言う。トロイはそんな彼女に、「僕たちは卒業するんだ。それは変わらないんだ。僕たちが望もうと望むまいと」と答える。
ガブリエラは泣きそうになりながら「私は来週、スタンフォードに行く」と告げ、「プロムと卒業式に戻ってくる。そしてスタンフォードに進学する。そんな風に簡単にものごとは進んでいく。それでいいのよね?」と、まるで自分を納得させるかのように言った。>>

という部分があります。その中の
<<アルバカーキ大への入学を誰より喜んでいる父の期待を裏切ってもいいのだろうか?>>あれ!!これって日本によくあることではないでしょうか?

<<ガブリエラは「これまで私は人生をフル・スピードで突き進んできた。スローダウンしたいと思ったのは、これがはじめてなの・・・・・立ち止まりたいのよ」と言う。>>
この疑問は何だかわかりますか?自称、「深層心理の専門家」である私(藤森)は、この文章が意味するところをこのように分析します。
この疑問の深層心理は、まさに親の願望に沿って生きてきたことへの疑問です。主人公の二人が、同時に、同じ疑問に直面しました。何故でしょうか?それは、親の思い通りに生きてきたであろう二人の間に、他人が介入してきたからです。そこで初めて「我」に返ったのだと思われます。

結論:なんだ、結局、我に返れば、同じ人間であって、日本もアメリカも無いじゃん!!!

<文責:藤森弘司>

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