2009年11月30日 第88回「今月の言葉」
CHRISTMAS CAROL 

監督:ロバート・ゼメキス   主演:エベニザー・スクルージ  ジム・キャリー  ゲイリー・オールドマン  コリン・ファース

●今月見た映画「2012」、これは凄まじかったです。衝撃的という意味では、かなりの衝撃でした。2012年に地球が滅亡するという映画でしたが、今は、映像技術が進んでいるので、滅亡する様子が迫真的でハラハラドキドキしました。一見の価値ありです。
 「マイケル・ジャクソン<THIS IS IT>」も良かったです。マイケル・ジャクソンは天才だったのですね。晩年の彼は、整形手術したり、なんとも妙な人間のような気がしていましたが、この映画を見る限り、音楽に関する天性のものがあり、舞台に取り組む真摯な人間性がよくわかりました。 この映画は、ヨーロッパでの公演を控えて練習に励む様子を録画したものです。万一、彼が死なず、ヨーロッパ公演が実行されていたならば、映画にならなかったかも知れない映画です。
私は知らなかったのですが、彼は、世界中から愛されていたのですね。踊りもうまいし、歌もうまいし、歌や舞台の演出に関する感性は「天才」だったことが、この映画でよくわかりました。登場する人たちは、皆、彼を愛し、尊敬していて、中には彼の「天才性と謙虚さ」を絶賛する人もいました。

今回はこの映画を取り上げる予定でしたが、映画のために撮ったものではなく、しかも、彼が急死したために編集したものを特別上映しているために、劇場で販売するパンフレットが無いとのことでした。そこで今回の映画は、「クリスマス・キャロル」です。キャロル(carol)を辞書で引きますと、「祝い歌」とあり、特に、「クリスマス・キャロル=クリスマス祝歌」とあります。
さて、今回、この映画を取り上げたのは、なんと言いましても12月に相応しい映画だからではありますが、ここのホームページに相応しい内容でもあるからです。
私が表現したいことは、ほぼ、下記の監督の言葉(3)に集約jされますので、それに代えさせていただきます。

●(2)<パンフレットより>
チャールズ・ディケンズの原作をご存じない方でも、「クリスマス・キャロル」という言葉には、なぜか温かな響きを感じるのではないでしょうか。
この物語が誕生した19世紀半ばのロンドンでは、産業革命により貧富の格差が広がり、多くの市民が貧困に苦しんでいました。そんな時代に希望の光を灯した“奇跡の小説”――それが「クリスマス・キャロル」だったのです。金銭欲の亡者であった主人公のスクルージが、不可思議な体験を通して自分の人生を見つめ直すまでを描く物語は、それ以来、時を超えて世界中で愛され続けてきました。 そして2009年――未曾有の経済不安の中で、私たちはいままで以上に希望に満ちた物語を求めています。経済に束縛された価値観から解放され、今の自分を変える勇気を持つこと。自分が変わることで、未来も変えられると信じること。自分だけの幸せを求めても、人は決して幸せにはなれないと気づくこと……。スクルージを通して描かれるこうした真実は、心の時代をめざす現代にあってこそ、その輝きを増すと、私は信じています。
“2009年を生きる、全ての人々とともに、希望に溢れる未来を築いていきたい”という願いをこめて、皆様にこの映画をお届けします。監督:ロバート・セメギス
●(3)<パンフレットより>

<Introduction>

未来は変えられる――。ある一夜の出来事が、それまでの人生を変えるとしたら……。
金が全ての嫌われ者、エベニザー・スクルージ。クリスマス・イヴの夜、彼の前に3人の“クリスマスの精霊”が現れる。それは、人生を変えるための“最悪のプレゼント”。彼らに連れ出されたスクルージは、時空を超えて、過去、現在、未来のクリスマスの時へと旅を続ける。目を背けていた人生の真実や、広い世の中を知り、いままで侮蔑していた人々の愛や善意をはじめて感じるスクルージ。だが、やがて彼は、自らの驚愕の未来を見て、絶望のどん底に突き落とされる。

文豪チャールズ・ディケンズの短編小説「クリスマス・キャロル」。それは、160年以上前に書かれながら、いまなお愛され続け、世界で最も親しまれているクリスマスの物語だ。この不朽の名作を、ストーリーはそのままに、エンターテイメント超大作として、ディズニーが完全映画化した。それは、贖罪や再生というテーマで心を揺さぶる、絶望と希望に満ちたヒューマン・ドラマ。そして「史上最高のタイムトラベル」のスペクタクルで心躍らされる、誰もまだ体験したことの無いエンターテイメント。そんな奇跡の映画『DISNEY’Sクリスマス・キャロル』が、いま、ベールを脱ぐ。

脚本・監督を担ったのは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ(85、89、90)や、アカデミー賞6部門を制覇した『フォレストガンプ/一期一会』(94)で世界を熱狂の渦に巻き込み、『ロジャー・ラビット』(88)や『ポーラー・エクスプレス』(04)で新しい映像世界を開拓するなど、常に映画に驚きと革新をもたらしてきたロバート・セメギス。いままで何度も映画化されながら、その世界観を再現しきった作品は存在しないといわれるほど、小説「クリスマス・キャロル」はシュールな幻想と躍動感に満ちている。今回、表現不可能と思われたそのディケンズのヴィジョンが、ゼメキスのイマジネーションを通して、史上はじめてスクリーンにその姿を現す。表現のツールとなったのが、パフォーマンス・キャプチャーの革新的な技術である。私たちは、映画の中で、奇跡のような「史上最高のタイムトラベル」を体験するだろう。

そして、何といっても強烈なのは、主人公スクルージの史上最悪のキャラクターだ。強欲でエゴイスト、貧しい者や弱い者に対して冷酷。金やそれを生み出す仕事がすべてであり、クリスマスも愛も「くだらん!」と吐き捨てる、世の中に背を向けた獰猛なひねくれ者。私たちは、そんなスクルージとともに旅をしながら、嫌われ者の彼がはじめからそうだったわけではないことを知る。そして、人生を変えられるかどうかの瀬戸際に追い込まれるこの最悪なキャラクターにいつの間にか感情移入し、ひいては自身の人生に思いを馳せている自分に気づくはずだ。いまの私は、昔なりたいと思っていた自分だろうか、と。

スクルージに生命を吹き込んだのは、コメディもシリアスな演技も絶賛されるジム・キャリー。彼は、さまざまな時代のスクルージや、3人のクリスマスの精霊たちなど、何と全7役を演じ分けている。
忠実な雇い人ボブ・クラチットとその息子のティム、そして共同経営者だったマーレイの幽霊を演じるのは、ゲイリー・オールドマン。陽気な甥のフレッドを演じるのは、コリン・ファース。さらに、ボブ・ホスキンスが、かつての雇い主フェジウィッグ他を、ロビン・ライト・ペンが昔の恋人ベルと妹ファンを演じるなど、実力派俳優たちの豪華な共演も大きな魅力だ。

極度の拝金主義の行く末が露となり、未曾有の経済不安で揺れるこの世界、私たちは、いままで以上に希望に満ちた心の物語を求めている。人を愛し自分を変えることで未来は変えられる。この冬、そんな希望と驚きに満ちた『DISNEY’Sクリスマス・キャロル』が、全世界に感動と興奮の嵐を巻き起こす!

●(4)<パンフレットより>

<STORY 1>
<彼の名前は、スクルージ。金がすべての嫌われ者>

クリスマス・イヴ、ロンドン。マーレイが死んだ。ビジネス・パートナーだったエベニザー・スクルージは、悲しみも見せずに指定遺言執行者の欄のサインをし、棺の中のマーレイの両まぶたに置かれた銅貨をひったくる。強欲で冷酷で心の歪んだ老人の罰当たりな行為に、葬儀屋は息を飲む。

それから7年後、1843年のクリスマス・イヴ。街のにぎわいをよそに、金貸業“スクルージ&マーレイ商会”には、金庫の金を数えるスクルージがいた。暖炉もない事務所では、事務員のボブ・クラチットが凍えながら働いている。訪れた甥のフレッドを怒鳴り散らし、貧しい人々への寄付を乞われれば、「余分な人口が減った方がマシだ」と毒づくスクルージ。
その晩、スクルージが荒れ果てた我が家に帰ると、目の前でドアノッカーが死んだマーレイの顔に変わり、その目をカッと見開いた。恐る恐る見直すと、それはただのノッカーだ。うちの中でも奇妙なことが起こりだした。突然何かを警告するかのように、家中のベルが鳴り始め、そして訪れた静寂の中で、ガシャン、ドシンと誰かが近づいて来る足音が……。寝室のドアをすり抜けて現れたのは、いくつもの金庫がついた重い鎖を身体に巻き付けたマーレイの幽霊だった。幽霊は、恐怖におののくスクルージに向かって、彷徨い続ける自らの運命を泣き叫び、「お前のもとには3人の精霊が訪れるだろう」と告げて夜空へ消えた。

教会の鐘の音とともに、強烈な光が寝室に射した。まぶしさのあまり顔を手で覆ったスクルージの前には、炎のようにゆらめく光を頭から放ち、老成した表情を浮かべた奇妙な子供が立っていた。マーレイが予言した精霊のひとり、“過去のクリスマスの精霊”だ。精霊は、尻込みするスクルージを宙にうかべ、ともに窓から外へ飛び出し、過去のクリスマスの日々へと誘う。
誰もがクリスマスで家に帰ってしまった学校で、ひとりでクリスマス・キャロルを歌う少年のスクルージ。愛する妹ファンの迎えで家に帰れる、喜びに満ちた17歳の時。奉公先の店主フェジウィッグが開いてくれたパーティを楽しむ27歳のスクルージ。それらはみな、抱きしめたくなるほど優しく温かい時間。だが、5年後、スクルージはすべてを損得で計る、金がすべての男に変わっていた。彼のもとから、恋人のベルが離れてゆく。スクルージには思い出したくもない、つらい記憶。「もう、連れ出してくれ!」
すると精霊の顔が、かつてのスクルージに温かく接してくれた人々の顔を映し出した。スクルージは居たたまれなくなり、“過去のクリスマスの精霊”の光を帽子で押さえつけようとするが、強いパワーで宇宙へ吹き飛ばされ、気づけば、寝室の床に転がっていた。

●(5)<パンフレットより>

<STORY 2>
<未来は、まだ変えられるかもしれない・・・・・>

再び鐘が鳴った。居間のドアの隙間から、光がもれている。スクルージの名を呼ぶ大声とともにドアが開く。スクルージは強い力でベッドごと揺さぶられて床を滑り、ドアの前に投げ出された。居間は巨大に膨張しており、光に満ち、クリスマスの飾りやご馳走が溢れ、中央には松明を掲げた巨人“現在のクリスマスの精霊”が座っている。恐怖と諦めで、よろめくように居間に入るスクルージ。精霊が、松明から魔法の粉をふりかけると床は透明になり、部屋全体が上昇してゆく。スクルージは、驚きながら、漂う部屋の透明な床からクリスマスの街を眺める。

狭い通りの安アパートの上に、漂う部屋は止まる。そこは、スクルージの雇い人、クラチットの家だ。精いっぱいのご馳走のガチョウを買いに走る子供たちの笑顔や、楽しそうに料理を作るクラチット夫人の姿。奉公先から戻った長女マーサは、キスの嵐で迎えられる。足が悪い末っ子ティムを肩車して帰宅したクラチットは、外出先でのティムとのやりとりをそっと夫人に話して聞かせる。長くは生きられないだろう我が子の健気な心に、夫婦の目から涙が溢れる。
クラチットは、冷酷なスクルージの健康も祈って乾杯する。ティムも言う。「神様の祝福を。僕たちみんなに!」クラチットは、絶対離さないというようにティムを強く抱きしめた。

侮蔑していたクラチットの貧しくも愛に溢れた家庭を見て、思わず精霊にティムの命乞いをしているスクルージ。だが、精霊は言う。「この子は死ぬだろう。“余分な人口が減った方がマシだ”」それは、かつてスクルージが吐いた言葉。スクルージは、ショックを受けてよろめく。
閃光のあと、スクルージはツリーが飾られ、笑い声が響くフレッドの家の中にいた。スクルージの性格をゲームのネタにして遊んでいるフレッド夫妻やその友人たちがいる。彼らには、スクルージの姿は見えない。スクルージの悪口を言い合う出席者に「気の毒なのは伯父さんの方だ。どんなに悪態をつかれても、僕は毎年クリスマスの挨拶に行くよ」とスクルージを擁護し、彼のために乾杯するフレッド。

彼は、スクルージにとって、いまは亡き愛する妹ファンが残したたったひとりの子供なのだ。
次の瞬間、スクルージは、精霊とともに時計台に立っていた。巨人は老いて身体は縮み、地球上での命を終えようとしていた。精霊のローブの下には痩せ細った鉤ヅメのような手が見える。ローブをめくるとふたりの子供が現れた。少年は“無知”で、少女は“貧困”。少年は邪悪な大人の姿に変わり、スクルージに襲いかかり、少女は醜い売春婦となって気が触れて拘束衣に包まれた。鐘の音とともにふたりは消え、“現在のクリスマスの精霊”も塵となった。

スクルージは、自分の影がふたつに分裂し、ひとつが漂い始めるのを見る。それは、顔も体もなく、フード付きマントから腕だけを突き出した影の怪物“未来の精霊”だ。スクルージはもう覚悟ができていた。「さあ、わしを早く連れていってくれ」次の瞬間、影は実体となってスクルージに飛びかかり、闇に包まれたスクルージは大階段を転げ落ちる。
落ちたところはビジネス街だった。通りがかりのビジネスマンたちが、誰にも愛されずにクリスマスに死んだ男の葬式の噂話をしている。そこに再び現れた精霊の影。その影が指を動かすと、黒馬に曳かれた葬儀用馬車がスクルージ目がけて突進してきた。全力で逃げ回るスクルージ。だが貧民街にまぎれこみ、通りを往来する人々が彼の行く手を邪魔する。いつもスクルージが忌み嫌う貧民街の人々がどんどん巨大化していくように見えた。いや、そうではなく、スクルージがいつの間にか小さくなったのだったが……。

弾き飛ばされ、屋根から氷柱にしがみついたスクルージが辿りついたのは、貧民街の女のバスケットの中。女は、奉公していた主人がクリスマスに死んで、ほくそ笑んでいた。ひとりぼっちで孤独だった主人の遺した高価なベッドカーテンやシャツを根こそぎ盗んできたのだ。
”未来の精霊”が次に案内したのは、件の死者がベッドに横たわる暗い部屋の中だった。死者の顔はシーツに覆われていて見えないが、そのあまりに孤独な死に、スクルージはいずれ訪れる自分の人生最後の時を思わずにはいられなかった。「どこかに、この男の死を悲しんでいるものはいないのか?」スクルージは叫ぶ。だが精霊が見せたものは、きびしい債権者だったこの男の死によって、皮肉にも生きる希望を見出せた若いカップルの姿だった。

そして“未来の精霊”は、最後にその男の墓地へスクルージを案内した。誰にも見守られることのない荒れ果てた墓は、墓碑銘が雪に覆われている。だがスクルージが近づいて、精霊が影のような腕を下げると、その雪が取り払われた。
そこに現れた名前とは……?

●(6)<パンフレットより>

<Column>

< あなた自身もときどき
スクルージになっていませんか?>小池 滋(東京都立大学名誉教授/英文学)>

チャールズ・ディケンズが「クリスマス・キャロル」という中編小説を発表したのは、1843年のクリスマス直前のことでした。発表するとたちまち初版は売り切れ、何度も増刷するというわけで、ベストセラーとなりました。気をよくした彼は、1844、45、46、48年のそれぞれのクリスマス直前に季節に合った物語を発表し、後に5篇を1冊にまとめて「クリスマス・ブックス」と名づけました。
それぞれの作品も好評でしたが、いまに至るまでダントツに人気が続いているのは、第1作「クリスマス・キャロル」で、原作版はもちろん、多くの外国語に翻訳され、お芝居、映画、ミュージカル、TVドラマその他もろもろに姿を変えて永い生命を保っています。いまでも、別に文学に関心を持っていない人でも、ディケンズの代表作は?と尋ねられれば、すぐ「クリスマス・キャロル」と答える人が多いはずです。

いや、それどころか、ディケンズがサンタクロース、クリスマス精神の化身だと信じていた人も多くいました。1870年6月9日、彼が死んだという知らせは、たちまち全世界に広がり、多くの人が親友か近所のおじさんに死なれたような気持ちで悲しみました。ある子供が「ねえ、パパ、ディケンズおじちゃん死んじゃったの?じゃあ今年からクリスマスになっても、サンタさんは来ないんだね」と言ったそうです。
どうもこの話は作り話くさいですが、作り話としてはうまくできています。多くの人の気持ちをうまく代弁しているからこそ、今日に至るまで伝説となって生き残っているのでしょう。
ところが作者が死んで、20世紀になると、こうした人気に嫌悪の情を抱く人が増えてきました。純粋な芸術性の高さ以外の点ばかりが強調されるために、「クリスマス・キャロル」は軽蔑されるようになりました。

「無情冷酷なケチン坊が、一晩夢を見ただけで一挙に心やさしい人間に変わるなんてバカバカしい話は、いまじゃ子供だって信じられないよ」
と、したり顔で言う人がいましたが、実はこの人、原作をよく読んでいないで噂ばかりで偉そうなことを言っているのだと、自分から証明しているようなものです。原作を読めばすぐ分かることですが、スクルージはけっして生まれながらの無情冷酷人間ではありません。子供の時は心のやさしい素直な人間でした。
ところが、彼が少年から大人に成長していった時代――それはイギリスが世界一の経済大国に成長した時代、つまり19世紀前半のことです――のイギリスの一般風潮は次のようなものでした。
「この世はすべて自己責任。他人の情けや助けに頼るなんて甘ったれは通用しない。人生は他人を押しのけてでも前へ上へと進む競争だ。目標は成功、出世、具体的に言うと金だ。途中で立ち止まって弱い者、負け組に情けなんか掛けていたら、絶対に勝ち組になれんぞ」

素直なスクルージ少年はこれを受け入れて実行に移し、確かに勝ち組に入ることができました。でも、ときどきこれでいいのかと不安に思うことがありました。彼の見た夢の中の幽霊の警告というのは、彼がいつも抑えつけていた生まれながらの良心の咎めなのです。結局、彼は自己責任で、時代の風潮に汚染された心を洗い清め、本来の自分を取り戻したのです。人間が変わったのではありません。
このように考えてみると、「クリスマス・キャロル」の物語は、19世紀中頃のイギリスだけに通用する話ではないことがわかります。スクルージは特別な人間ではなくて、いつの時代のどこにでもいる、ごく普通の人間です。166年経ったいまの日本であたりを見回すと、スクルージがうようよいます。いや、あなた自身もときどきスクルージになっていませんか?

人のことをどうのこうのと言うよりも、私自身のことを正直に白状しましょう。私はスクルージみたいに大金を儲けることはできませんでしたが、彼と同じように考えたことは何度もありました。歳末助け合いの募金を呼びかける人たちの前を素通りしながら、「オレはちゃんと税金を払ってるんだから」と自分で自分に弁解したこともあります。スクルージの夢の中に出てくる彼の仲間たちのように、「昼メシが出るんならヤツの葬式に行ってやってもいいが、出ないんならいやだ」と考えたこともあります。
ですから、私は「クリスマス・キャロル」を読み返すたびごとに、とても19世紀イギリスの話とは思えなくなります。あれはいまの日本の話、中に出てくる人間はどこかオレに似てるなと思って笑い出し、それからギクリとするのです。

166年前のいま頃、ディケンズはこの小説を書きながら、こう警告していたのではありますまいか――「バカげたおとぎ話のように見えるかもしれませんが、バカにしてはいけませんよ。この物語の主人公はあなた自身なのですから。あなたが自分の力で自分の心の汚染を洗い清めることができるかどうか、という大切な話なのですから。そしてクリスマスと同じように、いつの時代でも、どこの国でも通用するのですから」

●(7)さて、毎月、取り上げる映画は、今回を最後にします。これからは、これはと思う映画があったときにご紹介させていただくことにしました。その代わりに、その時々に思ったり、感じたりしたことを、その都度、書いていきたいと思っています。
また、さらには「心理学」を中心にした用語の解説や考えを述べて行きたいと思っています。以前、長期に渡って「認知療法」の「認知の歪み」を連載しましたが、今後は、「交流分析」を中心に、いろいろな「心理学」をご紹介したいと思っています。年を取ってくると、資料を整理するのも面倒くさくなってきて、いろいろな資料が散逸してきています。
少しずつ、資料を整理しながら、学者的でない、シロート的なまとめ方をしてみたいと思っています。一番、長期にわたり、本格的に学んできた「交流分析」でさえ、本格的な解説をするには自信がありません。
そういうことをお許しをいただきながら、アイデアとして、私が尊敬する井沢元彦氏の「逆説の日本史」ではありませんが、「逆説の交流分析」と題して書いてみようかなと思っています。
本格的に心理学に触れないもう一つの理由は、図形が書けないからです。息子に教えてもらう予定でいるのですが、なかなか、時間を取るのが難しいのと、二人の時間を調整したり、本気で学ぶ気持ちに、なかなかならない(わずらわしくて)ために、そのままになっています。
「交流分析」の「P」「A」「C」や矢印、丸や四角などの中に文字を入れたりすることが自由に描けたならば、もう少し、心理学の解説をする気になれるのですが・・・・・。多分、自己成長と同じで、本気で取り組めば、それほど難しいものではないのでしょうが、今現在は、腰が引けています。
機会を見て、少しずつ、心理学に触れて行きたいと思っています。

文責:藤森弘司

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