2008年8月31日 第73回「今月の映画」
ラストゲーム・・最後の早慶戦

監督:神山征二郎   主演:渡辺大   石坂浩二   藤田まこと   柄本明   富士純子   原田圭奈

●(1)宮崎駿監督の作品は、私(藤森)は、どうも好きになれません。
今、「崖の上のポニョ」が大盛況です。ベネチア国際映画祭で、観衆総立ちのスタンディング・オベーションだったと、テレビが放送していました。しかし、私は「ポニョ」も好きではありません。
今まで、幾つか宮崎監督の作品を観て来ましたが、どれも好きになれません。いろいろな情報によりますと、素晴らしい意味が込められているようですが、私はまったく好きになれません。でもこれは、作品の良し悪しではなく、私の個人的好みからの意見ですが、これだけ大好評であり、凄い意味が込められているのだといわれると、好きでないというのは、少々、「勇気」がいりますね。
昔、故・淀川長治氏が週刊誌で述べていました。自分が担当する映画を解説するとき、とてもつまらない映画の場合、テレビ局の中を、「これはつまらない映画だ!つまらない映画だ!」と、歩きながら、何度も何度も言うそうです。そして、テレビの画面に出るときは、ニコニコ笑顔で最大限の賛辞を述べたそうです。●(2)さて、今回は「ラストゲーム・最後の早慶戦」です。これは偶然、切符をいただいたのですが、何となく、最初から、この映画を取り上げたくなるような気がしていました。
当時の慶応大学の塾長、小泉信三役の石坂浩二氏は、私(藤森)には思い出があります。
二十代半ば頃(もう40年近く前になります)、私はあるビール会社に勤めていました。その頃、石坂浩二氏と遠縁にあたるという典型的な慶応ボーイで、英語力は社内随一と言われていたS氏と一緒に仕事をしていました。
私は、仕事の傍ら、社内報の連絡委員のようなことをしていたので、彼が、あるとき、「石坂浩二氏はビールが好きだから、インタビューを申し込んでみたら」とアドバイスしてくれました。しかも、「コネを使うよりも、藤森さんが一人で全部やってみるといいよ」とアドバイスもしてくれました。
そこで、手探りでプロダクションというのでしょうか、石坂氏が所属している事務所に連絡して、単独インタビューにこぎつけました。終了後、事務所のマネージャーの方に「インタビューがうまかった」と褒められて嬉しかったことを思い出します。その当時、石坂氏は、30歳くらいではなかったかと思います。
同席した同僚が撮ったその時の写真が、社内報の表紙を飾り、私が文章を書きました。全国、1万人くらいの社員に配布され、しかも、いろいろなところにも配布されるでしょうから、私の人生、最大のベストセラー作品(!!??)となりました。そんな思い出があるので、石坂浩二氏は私の中で、印象が強く刻まれている方のお一人です。
石坂浩二氏は、慶応大学卒業。この「最後の早慶戦」が行なわれる直前の1941年に生まれていらっしゃいます。1941年12月8日、日米開戦。1943年4月、文部省が東京六大学野球連盟に解散を命ずる。そして、この映画のような経緯があって、「最後の早慶戦」がこの年の10月、早稲田大学の戸田球場で行なわれました。
そもそもは、慶応大学の小泉塾長からの提案で「最後の早慶戦」が実施されました。学生達と同じ席で観戦したいといい、塾長・小泉信三(石坂浩二氏)は学生たちに囲まれる席で観戦。試合終了後、早稲田大学の応援団が慶応の校歌を歌いだします。
このエールの交換に、慶応側は全員起立します。小泉信三(石坂浩二)は嗚咽しますが、役柄で嗚咽しているというよりも、石坂浩二氏自身の歴史をダブらせて、深い感動を味わっているように、私には感じました。
●(3)戦争とは残酷ですね。「学徒出陣」、誰が出陣しようが、戦争は残酷ですが、でも「学徒出陣」には、さらなる悲愴感が漂います。いかなる戦争も、絶対にしてはいけないと思いますが、世界中で、今も戦争が行なわれ、何千、何万単位の人たちが死んでいます。
片一方では、わずか一人の命、わずか1匹の動物を守るために膨大な費用と時間をかけたりする反面、膨大な数の人間が虫けらのように殺されるという不思議・不条理なことが行なわれています。
第二次世界大戦で、米軍は日本を空襲後、余った爆弾を日本の上空で捨てていっています。それで一体何人の日本人が犠牲になったのでしょう。また、アメリカは、数年に一度戦争を起こして、兵器を実験したり、兵器の在庫処分をして、常に世界の最先端の兵器を準備することに利用しているとも聞きます。最新兵器の展覧会場みたいに利用されてはたまったものではありません。●(4)戦争は、絶対にやってはいけません。
と同時に、戦争に代わる何かが必要な気もします。これはいつか詳しく述べたいと思いますが、最近の日本社会の人格の壊れ具合は、チョッとではなく、非常に酷すぎます。
学校における「モンスターペアレント」と呼ばれる人たち。生活が豊かであるのに、我が子の給食費を支払わない神経。支払いを要求すると、それならば給食を食べさせないでくれという。恐ろしい話です。
授業参観でも、子供よりも親の側がペチャクチャやっています。しかも、保護者の中に別の学校の先生がいることもあります。何か「クソとミソがグチャグチャになった社会」という気がします。まさに、曽野綾子氏がおっしゃる「魂の酸欠状態」<2007年5月第58回、今月の映画「バベルBABEL」(6)ご参照>です。
そういえば、以前、私(藤森)が剣道をやっているとき、「シニアクラスで全国優勝」をした方のお祝い会を開いたことがあります。この会で「全国優勝」した方が挨拶をしているとき、私以外、誰も話を聞かず、隣同士でペチャクチャやっているのには、驚きを通り越して、唖然呆然、言葉を失いました。優勝した方は、始めから終わりまで、ずっと私の顔を見ながら挨拶をしていました。
世の中、一体全体、どうなっているのでしょう!!!●(5)2008年8月29日号、週刊ポスト<「急増!トンデモ110番」にお巡りさん、本日も出動!><彼女にふられた>
<タクシー代がない>
<パチンコが1回も出ない>
<水道の水が出ない>
<夫が家を飛び出した>
<公園に蛇がいる>
などなど???
「モンスターペアレンツ」「モンスターペイシェント」「モンスター通報者」も急増中だそうですが、「食品偽装事件」も同質の問題だと、私は思っています。多分、「総中流意識」が根底にあるからであろうというのが私の考えです。これはいつかまた、機会があったら解説したいテーマです。
●(6)福田総理大臣が急遽、辞任しました。今昔の総理大臣の姿勢はいかがでしょうか?

平成20年9月2日、夕刊フジ<福沢諭吉紀行>(126)、佐高信著

<昭和7年5月15日>
昭和7年5月15日は日曜日だった。夕刻、護衛の巡査を撃ち殺して、犬養毅邸に暴漢が乱入して来る。
「お逃げ下さい!お逃げ下さい!」
と、まだ撃たれていない護衛が叫んだが、当時77歳の老首相は、
「いいや、逃げぬ」
と言い、彼らと会って話そうとする。
その言葉も終わらぬうちに、海軍少尉の制服を着た二人と陸軍士官候補生姿の三人が土足のまま現われた。中の一人がいきなり拳銃を突き出し、引き金を引いたが、なぜか、弾丸は出なかった。
「まあ、急ぐな。撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう・・・ついて来い」
犬養は嫁と孫を暴漢たちから引き離すように、「突き出た日本間」に彼らを誘導する。
そして床の間を背にゆったりと坐り、座卓の上の煙草盆を引き寄せ、拳銃を擬して立つ若者たちにもすすめてから、
「まあ、靴でも脱げや。話を聞こう・・・・・」
と言った。
しかし、そのとき、そこにいた五人よりはるかに殺気立った四人が入って来て、
 「問答無用、撃て!」
の大声と共に次々と九発の銃声を響かせる。
それだけの弾丸を浴びながら、犬養は両手を卓にかけ、しゃんと坐っていた。指にはさんだ煙草も落としていない。そして、
「呼んで来い、いまの若いモン。話して聞かせることがある」

と、そばの者に命じた。
多分、犬養は首相を引き受けた時から、この日のあることを覚悟していたに違いない。

<首相になった時から軍との衝突を覚悟>
<しょせん相容れなかった>

「じいさん、軍に盾つきおって」
こうした声は軍部だけでなく、犬養を支持すべき政党の中にもあった。
不況と農村の疲弊は中国大陸への侵略と満蒙(満州蒙古)進出によってしか突破できないとする軍部と、日中友好を基本とする犬養の考えは、しょせん、相容れなかった。
「支那のものは支那へ返せ」と主張する犬養と、支那(中国)のものを自分のものとしようとする軍部とは水と油の対立関係にあったからである。
犬養の女房役であるべき内閣書記官長、森恪は軍部と通じており、犬養が進めていた中国との平和工作を見抜き、その旨を記した秘密電報を関東軍中佐の石原莞爾に送っていた。
「犬養がよこす使者は一刀両断にブッタ斬ってやる!」
石原がそう叫んだと伝えられるのはそのころのことである。森は森で、犬養の息子健に、
「判読不明の電報が犬養家に行きすぎると陸軍が言ってるぞ」
と脅していた。
(つづく)

○(7)<プログラムより>

野球(ベースボール)、
生きてわが家(ホーム)に
還(かえ)るスポーツ

○(8)<禁じられた野球にすべてを捧げた男たちの
実話から生まれた感動大作!>

<1943年10月16日、それは今も語り継がれる伝説の試合>
知っていますか?日本で野球が禁じられた時代があったことを・・・。太平洋戦争真っただ中の1943年、「野球は敵国アメリカのスポーツだから」と、東京六大学リーグが中止されたのだ。さらに戦争の激化に伴い、それまで猶予されていた学生に対する徴兵も開始される。青春の日々を奪われた彼らは、バットを捨て、銃をとることになったのだ。
そんな中、学生たちの徴兵検査のわずか9日前にあたる10月16日、早稲田大学戸塚球場で、早慶戦が行なわれた。『ラストゲーム最後の早慶戦』は、幾多の困難を乗り越えて、歴史に残る試合を実現した男たちの、実話から生まれた感動作である。

<「もう一度、試合をしたい」選手たちの熱き想いと、愛する人たちの切なる願い>
青い空の下、グランドで無心に白球を追いかける若者たち。早稲田大学野球部の選手たちは、日に日に太平洋戦争が激化するなか、今日も練習に励んでいる。顧問の飛田穂洲(すいしゅう)が、たとえ六大学野球は廃止されても、部員たちの出陣のその日まで、野球を続けると誓ったのだ。
しかし、周囲からの圧力は強く、たとえば部員の戸田順治は父親から、「この非常時に外国の球遊びにうつつを抜かして」などとなじられていた。それでも戸田は、志願した兄の「戦争は俺に任せて、お前は野球をやれ」という言葉を胸に、合宿所生活を続けていた。選手たちの願いは一つ、「試合がしたい」・・・・・ただ、それだけだった。

ある日、慶応義塾塾長の小泉信三が、飛田に「早慶戦」を申し込む。二度と帰れないかもしれない若者たちに生きた証しを残してやりたい・・・小泉の切なる願いを飛田も喜んで受けとめるが、早稲田大学総長は頑として拒絶する。様々な努力を重ねた後、強行突破を決意する飛田。
しかし、総長は飛田のすべてをかけた熱意に打たれ、遂に試合を許可する。待ちに待った最後の早慶戦。それは、別れの試合であると同時に、逆境の中でも夢を追い続ける若者たちの、明日への希望に満ちたゲームだった・・・・・。

<文責:藤森弘司>

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