2008年5月31日 第70回「今月の言葉」
チャーリー・ウィルソンズ・ウォー

監督:マイク・ニコルズ    主演:トム・ハンクス   ジュリア・ロバーツ   フィリップ・シーモア・ホフマン

●(1)「最高の人生の見つけ方」は、評判が良いようです。私(藤森)も期待していたのですが、私にとっては、いまいちでした。
今月は「光州5・18」を取り上げたかったのですが、少々、残酷過ぎて、止めました。
この映画は1980年5月18日に始まった<光州事件>。韓国では<5・18光州民主化運動>と呼ばれる、10日間にわたる悪夢の勃発。歴史とか「民主化運動」というものを知る上では、大変、貴重な映画だと思います。
時は「パクチョンヒ大統領」で、非常戒厳令の拡大措置による休校令。チョンナム大学校正門に集まり排除された学生たちが、市内へ出てデモを展開。戒厳軍が市内に投入され、残虐な行為が展開される。これは規模こそ違うが<映画(第43回)「ホテル・ルワンダ」>の残虐性に似ていると思いました。
何かの記事で読みましたが、人間はどこまで残酷になれるのでしょう。●(2)今回、取り上げる映画「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」も、「光州5・18」と同じ時代です。1980年から物語が始まり、アメリカが武器を供与して、1989年にアフガニスタンからソ連が完全撤退するまでの時代を取り上げています。
この時に、アメリカが援助し、訓練したムジャヒディン(ジハード(聖戦)を行なう者)の中に、<9・11テロ>の首謀者と目されるアラビア人のオサマ・ビンラディン氏もいた。また、この物語で大活躍をするCIAのアフガニスタン担当・ガスト(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、この映画のストーリーが展開される直前に、有能であるが故に(パンフレットには切れ者だがキレもの、ギリシャ系)、上司と衝突して昇進できず、腐っています。
この辺りは、鈴木宗男氏の事件で有罪判決を受けた外務省の元主任分析官の佐藤優氏を連想させます。以前、彼の書いた本<「国家の罠・・外務省のラスプーチンと呼ばれて」佐藤優著、新潮社>を読みましたが、私の拙い推測では、佐藤優氏は、最高レベルの分析官であり、非常に有能な官吏であったと思われます。
有能な人は、どうしてもハッキリものを言う傾向にあり、あまり有能でない人たちから嫌われる傾向が強いのではないかと思われます。あまり有能でない人は、昇進などの本業以外のことに強い関心を示し、その結果として昇進するために、極端な言い方をすると、無能な人間が有能な人間を管理するようになるために、様々なところで軋轢が発生するものと思われます。
外務省の元主任分析官の佐藤優氏は、そんな流れの中で「国家の罠」にはめられた可能性(?)があるかもしれません。そして、この映画の準主役のアフガニスタン担当のガストも、同様の立場に置かれています。
もしかしたら、脚本家がダブらせているかもしれません(?)。
●(3)2008年5月24日、読売新聞<「インテリジェンス」講義>で、佐藤優氏が紹介されています。

元外務省主任分析官の佐藤優さん(48)が4月から、早稲田大学大学院で、諜報活動などに絡む「インテリジェンス(情報)」をテーマにした講義を始めた。ジャーナリスト志望の学生を相手に、虚々実々の駆け引きを縦横無尽に語る。
「このくだりを実際に応用すると・・・・・」。5月中旬、この日の講義の教材はスパイ小説だった。現役時代の体験を織り交ぜながら、北朝鮮の拉致問題から日本政官界の権力闘争、国家の在り方まで話題は尽きることがない。
「僕が逮捕される前のことだけど」。講義中、そんなフレーズが飛び出す。ロシア情勢に強い異能の外交官として知られたが、2002年、外務省関連団体の予算を不正支出させたとして背任罪などに問われて起訴された。2審まで有罪判決が出ている。捜査の内幕を描いた著書がベストセラーとなり、現在、月約30本の連載を抱える。
ゲスト講師の立場で臨む講義では、苛烈な謀略も紹介される。狙いを聞くと、きっぱりとした答えが返ってきた。
「役人がインテリジェンスを悪用すれば、『知る権利』の侵害につながる。それは許されない。インテリジェンスを理解する人を増やしたい」(文・比嘉清太、写真・鈴木竜三)

○(4)<パンフレットより>

 【 BACKGROUND 】

 <この物語の背景で起こっていた出来事>
当時、アフガニスタンは社会主義を標榜するソビエト連邦の衛星国家であった。1979年9月、時のタラキ首相は対米接近を図るアミン外相に殺害され、クーデターが発生した。衛星国の消失という危機に直面したソ連は、クーデターの3ヶ月後に8万人もの大部隊でアフガニスタンに侵攻した。
攻撃は苛烈を極め、国民の5分の1が難民化するという未曾有の事態となった。ソ連はアミン外相の殺害に成功し、親ソ連派のカルマルを擁立するが、市民は自らをムジャヒディン(アラビア語で「ジハードを行なう者」)として、頑強に抵抗した。

<当時のアメリカとソ連の関係>
第二次世界大戦以降、世界はアメリカを筆頭とする資本主義陣営と、ソ連を盟主とする共産主義陣営に二分された。アメリカとソ連が直接戦火を交えることがなかったため、静かな戦争、すなわち「冷戦」と呼ばれた。
両陣営に属さない発展途上国は「第3世界」と呼ばれ、アメリカとソ連は自分の陣営に引き込むために援助合戦を繰り広げた。また、時には武力による取り込みを図った。当時のアフガニスタンは共産主義圏に属するソ連側の国であった。

<アフガニスタン>
アフガニスタンは20以上の民族が混在する多民族国家であり、国民の98パーセントがイスラム教徒である。正確な人口統計は現在まで出ておらず、人口は約2200万人程度と言われている。
民族構成では、スンナ派のパシュトゥーン人とタジク人が最大勢力であり、70パーセント以上を占めるといわれている。国土の大部分が山地であり、人々は遊牧や農耕で生活している。有史以降、様々な国や民族がアフガニスタンを我が物にしようと侵攻したため、「文明の十字路」と呼ばれている。

<中東諸国との関係について>
ユダヤ教徒とイスラム教徒は、イスラエル建国以来血で血を洗う抗争を繰り返している。1948年、国を持たないユダヤ人は、当時パレスチナと呼ばれていた地域にイスラエルを建国した。
しかし、そこに元々住んでいたイスラム教徒のパレスチナ人は武力によって虐殺、追放された。これを侵略と判断したエジプトやレバノンなど近隣アラブ諸国はイスラエルに宣戦布告し、第一次中東戦争が勃発する。その後も戦争を繰り返し、イスラム教徒とユダヤ教徒はパレスチナを巡り、現在に至るまで激しく敵対している。

<中東と米ソとの関係について>
ソ連のアフガニスタン侵攻に対し、イスラム諸国は義勇兵を組織し、ムジャヒディンを強力に支援した。義勇兵の中には、サウジアラビアの人で後の9・11同時多発テロの首謀者と目されるオサマ・ビンラディン氏もいた。
1979年、アフガニスタンの隣国イランでは、ホメイニ師によりイラン革命が起こった。イランは革命により宗教的なイスラム主義を掲げたが、ソ連は共産主義により無神論を掲げていたため、危機感を募らせていた。

(TEXT BY 白川徹)

○(5)<パンフレットより>

ひとりのお気楽議員の活躍が、世界を劇的に変えた!!

<INTRODUCTION>

チャーリー・ウィルソンは、テキサス出身の国会議員。秘書には“チャーリーズ・エンジェル”と呼ばれる美女軍団を従え、お酒が大好き。再選を果たしたくらいで、目だった功績もなく、政治家のイメージとは程遠い。しかし、持ち前の大らかな人柄でみんなから愛されていた。そんなお気楽な彼に、ちょっとした良心がきっかけで、その後の彼の人生と世界をも大きく変える転機が訪れる!アカデミー賞受賞者の豪華共演で贈る、最も華やかで最も型破りな「奇蹟」のドラマが『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』だ。

チャーリー・ウィルソンを演じるのは、『フォレスト・ガンプ/一期一会』と『フィラデルフィア』で2度のアカデミー賞主演男優賞に輝き、本作ではプロデューサーにも名を連ねている希代の名優トム・ハンクス。“アメリカの良心”を演じさせたら右に出る者がいない彼が、純粋な使命感に駆られ、小国のために立ち上がる下院議員を好演している。
酒と女を愛する伊達男としてならす一方、平和を愛し、悲劇を見過ごせない正義漢でもあるチャーリーの魅力は、誰からも愛され、尊敬されるハンクスが演じているからこそ説得力のあるものになっている。
そのチャーリーにアフガニスタンの現状を突きつけ、彼を立ち上がらせる資産家ジョアンには、『エリン・ブロコビッチ』でアカデミー賞主演女優賞に輝いているジュリア・ロバーツ。切れ者ゆえに組織で浮いた存在となり、後にチャーリーの手足となるCIAエージェント、ガストには、『カポーティ』でアカデミー賞主演男優賞を受賞し、本作の演技でもアカデミー賞助演男優賞にノミネートされたフィリップ・シーモア・ホフマン。

○(6)<パンフレットより>

たったひとりで世界を変えた本当にウソみたいな話

<STORY>

チャーリー・ウィルソン(トム・ハンクス)はテキサス州選出の下院議員6期にわたる任期で、最大の成果は“5回の再選”だけ、と揶揄されるような仕事ぶりで、ドラッグとお酒と女性関係が盛んな私生活は、司法省の捜査対象になることもあった。

1980年4月6日、この日もラスベガスの高級ホテルのジャグジーで、ストリッパーたちとのひとときを満喫するチャーリー。そんな時、ソ連に攻め入られ、苦境に立たされるアフガニスタンのニュースを目にし、心がざわめき立つのを感じる。お気楽チャーリーの中で、何かが弾けた瞬間だった。
その後、アフガニスタンへの密かな加勢のために国防歳出小委員会(アメリカの秘密予算を扱う)があてている額がたったの500万ドルだと知った彼は、委員会のメンバーである立場を利用し、予算を倍にするよう指示。そんな彼の動きにいち早く目をつけたのが、チャーリーとは旧知の仲で、テキサスで6番目の大富豪ジョアン(ジュリア・ロバーツ)だった。
ジョージ・ワシントンの妹の直系で、熱心な反共産主義でもあるジョアンは、チャーリーを自宅のパーティに招待。そこで、ソ連を打ち負かし、アフガニスタンの人々を救うよう彼に訴える。

パキスタンと親交の深いジョアンの願いを受け、イスラマバードでジア・ウル・ハク大統領と対面を果たすチャーリー。何の外交手腕も持ち合わせていない彼は支援金を倍にしたことを自慢げに話すが、それは大統領を呆然とさせるには十分すぎるほど少額だったのだ。
ソ連の攻撃を受け、パキスタンに流れ込んでくるアフガニスタン難民の悲惨な現状を憂う大統領は、無関心を装うアメリカ政府を非難し、アフガニスタンがソ連に対抗するための戦闘機、銃、資金を提供するよう迫る。
対談後、大統領の指示で国境の難民キャンプを訪れ、ソ連の残虐な行為に苦しむ人々に触れたチャーリーの目にも、アメリカの支援が必要なのは明らかだった。

帰国したチャーリーは、アフガニスタンでの極秘作戦に携わるCIAのエージェントをオフィスに呼び寄せる。そこへ現れたのが、切れ者だがキレもの、ギリシャ系ゆえに昇進できず、才能を持て余していたガストだった。
チャーリーの本気に心を打たれたガストは、CIAの戦略武器専門家と彼を引き合わせるなど、ソ連を撃退するための具体的な方法を指南した。ただし、莫大な資金や最新兵器の提供は、背後にアメリカの存在があることをソ連に暗示させることになり、冷戦が実戦になると危惧。そのため、イスラエルやエジプト、サウジアラビア、パキスタンを巧みに利用して、作戦を遂行する手段に出た。

○(7)<パンフレットより>

【ここからはご鑑賞後にお読みください】
・・・・・
少数精鋭の部隊をパキスタンで徹底的に訓練し、ゲリラ戦を教え込むことにした。
敵対する国同士をも密かに共闘させた極秘作戦は、国防歳出小委員会議長ドク・ロングの予算承認を得るだけとなった。当初は難色を示したロングも、ジョアンの計らいで軟化。さらにパキスタンで難民の実状を目の当たりにしたロングは、「アメリカは善の味方。神は邪悪なものを罰する」と声高にアフガニスタンへの支援を叫ぶのであった。

こうして人類史上最大の極秘作戦は開始された。500万ドルの支援から始まった予算はついに10億ドルを突破。1987年に入るとソ連の戦闘機、ヘリがみるみる撃墜されるようになる。
そして1989年、ついにソ連軍は完全撤退。チャーリーの活躍が素晴らしい成果をもたらし、世界を変えたはずだったが・・・・・。

○(8)<パンフレットより>

PRODUCTION NOTES 1・・・チャーリー・ウィルソン真実のストーリー

ことの発端
東西冷戦最中の1979年、当時のソビエト連邦はアフガニスタン侵攻を開始した。予兆はCIAが察知していたものの、この侵攻によって、当時のアメリカ大統領ジミー・カーターのソ連に対する方針が一変。“ソ連は本当に邪悪なのかもしれない”との考えが主流となってきた。
とは言え、あからさまな武力行使は、この政権の第一選択ではなかった。米ソが互いに膨大な核兵器を抱えてみらみ合う冷戦下、一つ間違えば、第三次世界大戦になりかねない。さらに、ベトナム戦争で受けた深いトラウマに、アメリカにとっては終わりの見えない紛争への介入は得策ではなかったのだ。
だが、カーターは行動に出た。それへの経済制裁やモスクワオリンピックへのボイコットだ。さらに極秘の法律関連書類に署名、CIAのソ連軍に対する活動開始が合法化されることとなる。
これによって、CIAはアフガニスタンの反政府組織への自衛用の武器供与という秘密作戦をスタートさせた。当初の作戦内容は慎ましいもので、アフガンの兵士たちは、何万ものソ連軍にジハード(聖戦)を挑んだが、CIAの限られた支援だけではソ連軍の戦闘能力に到底太刀打ちできなかった。

チャーリーの心を動かしたもの
このようなアフガニスタンの苦境と不屈の勇気が、テキサス州第2選挙区からアメリカ合衆国下院に送られたひとりの議員を動かした。それがチャーリー・ウィルソンだ。彼は、歴史と外交問題に強い興味を持っていたと同時に、圧倒的な力を誇示するソ連軍に対するアフガン人の反骨精神に心を動かされた。
アフガン人にとって幸運だったのは、彼がたまたま国務省、国防総省、CIAの権限が交わる国防歳出小委員会のメンバーだったことだ。こうして、彼のアフガニスタンへのサポート体制は整えられていった。

チャーリーがソ連侵攻の悲惨な状況をその目で確認したのは、ヒューストンの大富豪ジョアン・へリングにアフガニスタンへ連れて行かれたときだ。ジョアンは当時の思いをこう振り返る。
「この国のために私に何ができるだろう?彼らはとにかくお金を必要としている。だから貧しい人たちと連携しながら活動を始めた。この努力はすごくうまくいったわ」。
パキスタンの名誉領事にも任命されていたジョアンは、アフガニスタンからパキスタンに逃れてきた難民の苦境をまとめたドキュメンタリー映画を制作して上映するなど、難民のための基金を集め、アメリカ国民の意識を高めることにも尽力した。
ジョアンの力添えがあり、当時のパキスタン大統領ジア・ウル・ハクもチャーリーに強力を惜しまなかった。
「パキスタン陸軍のヘリコプターを使い、パキスタンとアフガニスタンの国境まで移動できるよう手配してくれたこともある。これがたぶん、その後の僕の十数年を決定づける大きな分水嶺となった。自分が生きている限り、そして議員である限り、ソ連に自らの愚行につけを払わせ、アフガニスタン人を助けるために、持てる力をすべて注ぎ込むとね」

盟友との出会い
ワシントンへ戻ったチャーリーは、自分と同じ志を持ったCIAエージェント、ガストと出会う。タフで、世間擦れしたこのギリシャ系アメリカ人は、当時、アメリカの上流階級が牛耳っていたCIAでは異端の存在であり、まさにチャーリーが求めていた人材だ。彼はアメリカのために闘うケンカ屋としてスカウトされたのであり、水を得た魚のごとく、このアフガン支援プロジェクトに貢献した。

ガスト、チャーリー、少数精鋭の諜報員チームは一丸となり、ムジャヒディンへの資金・武器・訓練の提供を、パキスタン、イスラエル、サウジアラビアなどの援助を得ながら巧みに行なった。
当時、イラン・コントラ事件(アメリカのレーガン政権が、イランへの武器売却代金をニカラグアの武装勢力「コントラ」の援助に流用していた事件)が政府やメディアの注目を集めていたため、その作戦はほとんど監視の目に晒されることなく、活動を続行することができた。彼らの努力がもたらした最大の結果として、1989年、ソ連軍はアフガニスタンから撤退せざるを得なくなった。
イスラム諸国では、超大国ソ連の軍隊にアフガニスタンが勝利したことは、地殻変動のような大事件として見られた。一方、アメリカ国内では、この出来事の背後に同国民が絡んでいたことは、当時、誰も気がついていなかったのだ。

○(9)<パンフレットより>

<ソ連撤退。その後、アフガニスタンがたどってきた道・・・白川徹(ジャーナリスト)>

歴史とは皮肉なものだと思う。そして、何より残酷だ。
チャーリー・ウィルソンは、パキスタンのペシャワールにある難民キャンプで衝撃を受け、ソ連のヘリコプターを落とし、アフガニスタンの民衆のために奔走した。彼の行動は義憤に発するものであった。しかし、チャーリーの行なった支援は、「皮肉」としか言いようがない、様々な問題を後世に残すことになった。
アメリカは莫大な予算で、ムジャヒディンへの武器供与や訓練を行なった。劇中で、ムジャヒディンはアフガン人のみによって構成されているように見えたが、実は海外から多くのイスラム義勇兵が参加していた。その中にはサウジアラビア出身の、オサマ・ビンラディン氏の義勇兵集団も参加していた。
ビンラディン氏はアメリカにより最新鋭の軍事教育を受け、後にアルカイダを創設する。そして、ビンラディン氏はその軍事的手腕を2001年9月11日にいかんなく発揮した。「アメリカ同時多発テロ事件」である。後に、「ビンラディを育てたのはアメリカだ」と言われる所以である。ソ連を打破するために育てたムジャヒディンが、アメリカに牙をむいたのだ。

また、チャーリーは「ソ連のヘリコプターを落とすため」にムジャヒディンに武器を供与し、訓練を行なったが、その矛先は2001年のアメリカによるアフガニスタン侵攻時に、アメリカのヘリに向けられた。
アフガニスタンに実践投入された米軍の戦闘ヘリ「アパッチ」の80パーセントが、地上からの攻撃で損害を被った。アフガン人にヘリとの戦い方を教えたのはアメリカであった。巡り巡って、自分たちに返ってきたのだ。「皮肉」としか言いようがない。

劇中に登場したパキスタンのジア・ウル・ハク大統領も非業の最期を遂げることになる。アメリカはソ連の撤退以降、パキスタンへの関心を失い、後の経済発展が望めるインドに肩入れを始めた。俗にいう「パキスタン用済み論」である。インドとパキスタンは領土問題で対立しており、両方への支援は事実上ありえなかった。
1988年の戦争末期にハク大統領は原因不明の飛行機事故で亡くなった。今でもパキスタン人の多くはアメリカのCIAが邪魔になったハク大統領を「消した」のだと信じている。ハク大統領は、チャーリーを通してアメリカに支援を求めたばかりに、アメリカの意向で消されたとも言える。

映画のラストにチャーリー本人の「僕たちは最後でしくじってしまった」という言葉が挿入されている。しかし、その「しくじり」の結果は惨憺たるものであった。しかも、それは「学校建設」でどうにかなる話ではなかったのが歴史の残酷なところだ。
劇作中に登場したパキスタンのペシャワールに住む難民たちは今どうなっているのだろうか。ソ連撤退以降もアフガニスタンで内戦が勃発したため、2001年のタリパン政権崩壊まで帰国を待たされることとなった。
2002年、難民の帰還事業が国連主導で始まり、現在までに420万人が帰国を果たした。しかし、アメリカの侵攻後まもないアフガニスタンには大量の難民を受け入れるキャパシティーはなく、アフガニスタン国内の帰還民キャンプで暮らしている。状況はパキスタンの難民キャンプより悪いと言わざるを得ない。
わたしは2006年、2007年と帰還民を取材したが、多くは故郷に帰ることができず、首都カブールでホームレス同様の暮らしをしているか、近郊の砂漠でテントを張って暮らしている。
海外ならば難民認定を受け支援も受けられるが、一度帰国してしまうと「難民」とさえ認めてもらえない。食糧不足のため餓死したり、冬の寒さのために凍死する帰還民も後を絶たない。アフガン難民問題は少しも解決していないのだ。

ソ連撤退以降、アフガニスタンはどのような歴史をたどったのだろうか?
1989年のソ連撤退以降、アメリカはムジャヒディンへの支援は完全にうち切った。しかしソ連は表向き撤退したものの、かなりの兵力がソ連の傀儡ナジッブラー政権存続のために残され、支援も続けられた。ソ連撤退後、ムジャヒディンによる新政権の樹立が期待されていたが、ナジッブラー政権は3年にわたり存続した。アメリカの支援を打ち切られたムジャヒディンは苦戦し、また多くの血が流されることになった。
アメリカ政府の興味の対象はソ連の撤退にのみあり、アフガニスタンの将来に思いを馳せることはなかった。チャーリー自身は、アフガニスタンの今後を案じていただろうが、冷戦下に自国に利益にならぬことをやるほど、アメリカは甘くなかった。

ソ連はアフガン侵攻に費やした莫大な戦費により国自体が傾き、1991年には解体された。それに伴いナジッブラー政権への支援も停止された。大国の支援を失った傀儡政権は脆く、翌92年には崩壊した。
ナジッブラー政権の退陣後、ムジャヒディンは権力の座をめぐり、血みどろの殺し合いを始めた。この内戦では、アメリカが持ち込んだ武器が使用され、アフガニスタン全土が焦土と化した。全土で虐殺、強姦、強奪が頻発し、「戦国時代」と言われるまでに戦火は広がった。この内戦はソ連の侵攻という、耳目を引く要素がなくなったため、国際社会で殆ど報道されることがなかった。
そのため、「忘れられた内戦」と呼ばれた。アメリカ政府を始め、世界中が無視を決め込んだのだ。この戦国時代の収束は、1990年代後半のタリバン政権樹立まで待たなくてはならない。

しかし、タリバン政権も2001年のアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と目されるオサマ・ビンラディン氏を匿ったとして、アメリカの侵攻を受け下野することとなる。アメリカは侵攻後、傀儡政権のカルザイ大統領を擁立した。しかし、ソ連がナジッブラー大統領を擁立した際に誰も従わなかったように、支持は低く、反政府テロが現在でも続いている。混乱は広がるばかりなのだ。
歴史とは複雑であり、皮肉と残酷な出来事にまみれている。チャーリーは善意でムジャヒディン支援を行なったのだろう。しかし、それは「ソ連の撤退」という一点においてはよかったものの、それ以外では多大な犠牲を生み出した。現在でもアフガニスタンは戦争状態にある。当時は「ソ連」であったが現在は「アメリカ」だ。
チャーリー・ウィルソン氏は現在でもご存命である。今、彼はアフガニスタンの惨状を見て、何を思うだろうか。

○(10)<パンフレットより>

<アメリカの万能感が招いたもの・・・町山智浩(映画評論家)>  【映画鑑賞後にお読みください】

・・・・・・・アブラコトス(映画ではCIAのガスト)の父もギリシャから渡ってきた。父は清涼飲料水工場を始めるがコカコーラに負けて倒産した。父の借金を抱えた若きアブラコトスはタバコを町の酒場に売り歩いて学費を稼ぎ、地元の大学に入った。貧しさのため、成人するまで故郷から出たことがなかった彼は1962年、突然、世界を駆けるCIAにスカウトされた。
ハーバードやイエール大卒のWASP(イギリス系のプロテスタントの白人)のお坊ちゃんばかりで固めたCIAが伝統に反してギリシャ系で地方大学卒のアブラコトスを抜擢したのは、ギリシャで秘密工作をさせるためだった。アメリカは、社会主義圏に近いギリシャに反米的な政権ができるのを恐れていたのだ。
1967年、ギリシャ陸軍の大佐パパドプロスが軍事クーデターを起こして政権を握った。独裁者パパドプロスは軍隊で反対派を弾圧し、逮捕、拷問、時に暗殺して暴政をふるった。その酷さはギリシャの映画監督コスタ・ガブラスの「Z」(69年)などに描かれているが、アメリカはパパドプロスを支持した。彼が共産主義を厳しく取り締まったからだ。ソ連との冷戦下で、アメリカはアジアやアフリカ、中東、中南米の独裁者たちを「反共」という理由だけで支援していた。

アブラコトス(ガスト)はギリシャのクーデターそのものを操っていたとも言われる。彼は「ギリシャは俺たちが動かしている」と発言したり、反体制政治家をアメリカに亡命させる時、パパドプロスに「あいつを今のうちに殺しておけ」と助言したりもしている。
しかし73年にギリシャ市民が蜂起して軍事政権は倒れ、パパドプロスは死刑を宣告された(獄中で死亡)。ギリシャ国民の怒りは独裁政権を支えたアメリカに向かった。
そのアメリカでもCIAがベトナムその他の国でしてきた裏工作が問題化し、各国で暗躍するCIAエージェントの実名が内部告発によって暴かれた。これを見たギリシャの過激派が支局長ほか2名のCIA局員を暗殺、アブラコトスも命を狙われて父の祖国から脱出した。
ギリシャでの大失敗でアブラコトスは窓際に追いやられた。しかし、闇から他の国の運命を操るスパイ稼業の面白さにとりつかれていた彼は、チャーリー・ウィルソンが持ち込んだアフガン支援計画に夢中で取り組んだ。
この奇妙なトリオの活躍は、アフガンからソ連を追い出しただけでなく、ソ連そのものの解体につながった。三人は「歴史を動かしたのは自分だ」という誇りに酔っただろう。2001年9月11日までは。
世界貿易センタービルが崩壊した時、議員を引退したチャーリー・ウィルソンは首都ワシントンでロビイストとして働いていた。彼がオフィスに向かう途中で、ハイジャックされた三機目の旅客機が国防省ペンタゴンに突っ込んだ。燃えさかるその建物で15年前、ウィルソンはアブラコトスと共にアフガンに地対空ミサイル「スティンガー」を送ったのだ。テロへの報復でアフガンに攻め込んだ米軍機が一番恐れたのはアメリカ製のスティンガーに撃ち落されることだった。

ウィルソンたちに限らない。アメリカという国そのものが、自分たちは世界を操れるという万能感に驕っている。驕りHUBRISという単語は、ギリシャ神話で自分の力を過信した英雄が神罰を受けることに由来している。手痛い教訓を得たウィルソンはイラク戦争に強く反対している。

<文責:藤森弘司>

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