2008年3月31日 第68回「今月の言葉」
ポストマン

監督:今井和久   製作総指揮・主演:長島一茂   北乃きい   原沙知絵   田山涼成

●(1)この映画は、なかなか味のある映画です。
取り立てて何が、というような映画ではありませんが、このホームページをご利用くださっている方々には、十分に楽しんでいただける映画ではないかと思っています。
ほのぼのとした、とでもいいましょうか、どこにでもあるような日常的な映画ですが、でも何か心に響く作品です。私の今の心境に響いたからでしょうか、映画館を出るのが困るほどでした。
長嶋一茂さん(2007年10月31日、第63回「今月の映画」<パーフェクト・ストレンジャー>の中の(9)と(10)参照)は、お父さんの後を追ってプロ野球に入りましたが大成しませんでした。しかし、映画人としては、成功しているのではないでしょうか。なかなかの雰囲気があり、加山雄三さんに似ている感じがします。
○(2)<INTRODUCTION>

夢、希望を届けます・・・・・春の訪れとともに、“幸せ配達人”が素敵な物語を運んでくれました。
野原一面に咲き誇る菜の花、青空に映える灯台、無限に広がる大海原・・・
豊かな自然に囲まれた街で、郵便物をいち早く、確実に届けることを誇りにしている配達員。
彼の真摯な姿勢、一途な行動は、家族や周囲の人々に「想いを伝えることの大切さ」を気づかせていきます。
さまざまな気持ちを直接伝えることができるのが手紙。
それは、たとえ他愛のない言葉であっても、送られた人の元に残ることで心のつながりが生まれます。
時代は移り変わっても、手紙の価値が色あせることはありません。
時には人生に大きな影響を及ぼすほどの力さえ発揮するのです。
そんな手紙にまつわる人々の心象風景を瑞々しい映像でつづり、何気ない生活の中でこそ見えてくる親子、
家族の絆の深さ、人の心のぬくもり、そして、人と人が直にふれ合うことによって生まれる奇跡・・・・・
さわやかな感動が風を吹き抜けます。○(3)<STORY>目の前に太平洋が広がり、背後にゆるやかな山の稜線を抱く風光明媚な千葉県房総町。自然に囲まれ、高台の灯台に見守られている人々の暮らしぶりはどこか長閑だ。郵便局員である海江田龍兵(長嶋一茂)もそんな街を愛する一人。
2年前に妻の泉に先立たれ、中学3年生の娘・あゆみと小学3年生の息子・鉄兵を男手一つで育てている。バイクで配達する局員が多い中、今でもバタンコ<配達用の赤い自転車>での配達にこだわる堅物だが、その配達は迅速かつ正確。局長をはじめとする仕事仲間や街の人々の信頼も厚い。ある日、進学を控えたあゆみは寮生活となる高校への進学希望を伝えるが、龍兵は「家族はひとつ屋根の下で暮らすべき」と断固として受け入れようとしない。父の頑固な態度に困り果てたあゆみは担任代理の塚原先生に相談するが、臨時教師である塚原は「自分の人生でしょ、自分で決めなさい」と突き放すのだった。
しかし、それは自分の人生について悩んでいる塚原自身に向けられた言葉でもあった。
龍兵とあゆみの気持ちが徐々にすれ違っていく中、龍兵は泉の三回忌を機に形見分けを親族に提案する。「お母さんのことを忘れようとしている」と怒るあゆみに、龍兵は思わず手をあげてしまい、二人の溝は益々深くなってゆく・・・・・

○(4)見かねた泉の母・園子が、ある物をあゆみに見せる。それはまだ小学生だった龍兵が転校する泉に宛て、それから結婚するまでの16年間、二人の間で交わされ続けた古い手紙の束だった。
離れ離れになった二人は、手紙を書き、受け取ることで、気持ちを通わせていったのだった・・・そして、いつしか龍兵は心待ちにしていた泉からの手紙を配達してくれた郵便局員に憧れを募らせていったのだった。
龍兵の泉への愛情の深さと仕事への誇りを感じたあゆみは、3年間一度も足を運んだことのなかった泉の墓へ行く決心をする。一方、龍兵は配達中に顔なじみの老人が自宅で倒れているのを発見する。運ばれた先の病院で、看護師から老人のポケットに入っていた手紙を渡される。
手紙が届くのは元気な証拠・・・かつてその老人が言っていた言葉が、龍兵の頭をよぎる。「この手紙を待っている相手がいる。この手紙を届ければ、絶対に助かる」。・・・そう信じ、龍兵は宛先の住所を目指してバタンコのペダルを力強く踏み込んだ。

○(5)<「手紙というアナログに乗せる想い」映画批評家・永田よしのり>

あなたは最近誰かに手紙を書いた覚えがあるだろうか?
10年ほど前から急速に普及した電子メールという手段にすっかり様変わりしてしまった感もある言葉や文字の伝達方法=手紙。
ちょっとここで考えてみよう。もともとメールという言葉は「郵便物」という意味なのだし、郵便物とは「郵便で送る信書または物品」であり、郵便とは「書状やはがき、その他所定の物品を国内・国外へ送達する通信手段」なのだ。

つまり厳密に言えば“形”として残っていない電子メールは“手紙”とは呼べないものなのじゃないだろうか?という疑問も少しある。電子メールが現在の社会ではとても便利なツールなのは重々承知しているうえでこの原稿を書いているわけだけれど(この原稿だってメールで送っているんだし)。
例えば20年ほど前の高校生たちは携帯電話は持っていなかったし、好きな娘に告白するには直接伝えるか、人づてに頼むか、電話(親が最初に電話に出る時の緊張感ったらなかった)か手紙しかなかったわけだ。
つまり“生身の想い”が自分の手で、自分の言葉で、自分の文字で綴ることによってリアルに沸き上がってくるということを、もしかしたらメール全盛の現代では少し忘れかけてしまっているんじゃないだろうか?ということをここでは書いていこうと思う。
そもそも映画の評論や批評というものは、その映画を観て何を感じ、何を論じるか、ということであって、ただ単にTVに出て「ここが素敵」とか「ここが嫌い」とか言うこととは違うと思っている。そういう意味でもこの映画には批評すべきことがいくつも詰まっているのだ。

劇中で海江田龍兵は結婚する前の妻・泉に何通も何通も手紙を書いている。そしてそれは封筒が色褪せても捨てられることなく残っている。ではPCや携帯電話に送られてきた電子メールをずっと消さずに残しているだろうか?多分そんな人はほとんどいないはず。一度読んでしまったら消去しているに違いない。
もしかしたら電子メールと一緒に送られてきた色々な想いや感情も削除しているんじゃないのだろうか?
「そんなことを考えていたらメールなんて送れないし受け取れない」「便利なんだからいいじゃない」それも一理。でもだからこそ“形”として残る手紙はなかなか捨てられない(削除できない)ものとしてそこに存在する(読んだ手紙をすぐに捨てる人はあまりいないと思う)のだ。

世の中がデジタルで便利になるのは確かにいいことだろう。でも便利になったことで出来なくなっていくことや忘れられていくこともたくさんある。それがアナログ的と言われても仕方がないのかもしれない。アナログとは“時間と手間のかかる作業”なのだから。
龍兵が頑なに自転車(バタンコ)で手紙を配送することもそうだし、手紙を仕分けする作業もそう。でも時間をかけて文字にして手紙にしたためることは、そこに自分の想いを乗せることでもある。想いが乗せられていることを知っているからこそ、龍兵はアナログに自転車を自分の足で漕ぐことをやめないのだ。

ある意味電子メールの文字は記号だと思う。そこにはあまり生の感情が入る余地がない。だからものすごく恥ずかしいことも簡単に書けてしまう(「打ち込む」の方が正しいかも)。でも手紙には自分の想いを自分の癖のある文字で綴ることになるので自分の生身が現れてしまう。
手紙を書くことは相手に自分の“心”をさらけだすことになるし、その時自分が何を考えているかが残ることにもなる。つまりそれこそがアナログであり、現代に生きる若者たちを中心にデジタルに生きる者にとっては面倒なことなのかもしれない。だからこそあえて書いておきたい。
人間という生き物はデジタルではないということを。ものすごくアナログな生き物であり、アナログなことにこそ愛情を注げる生き物であるということを。だから人間のDNA解析は最新のコンピューターを使ってもまだまだ全てが解明できないのだろう。

誰かを好きになったり、誰かを大事に思ったり、心配したり。デジタルなものにはそういう感情は沸かないだろうと思う。例えば母親から息子への手紙。娘から父親への手紙。遠距離に住んでいる好きな人への手紙。誰かから届いた手紙を読んで思わず涙が溢れ、文字が滲んで読めなくなること。そんなことはけして映画やドラマの中だけのことではないんじゃないだろうか。少なくとも僕はそう思う。手紙とは生の感情が重ねられ、蓄積され、熟成されていくもの。だから龍兵は映画のラストで、妻の墓の前で号泣するのだ。

映画を観たあなた。
この文章を読んでくれたあなたにひとつだけ質問を。
あなたが遺したい想いを伝えたい人は誰ですか・・・・・

<筆者(永田よしのり氏)は、デジタルとは2進法など数字列などで割り切れるもの、アナログは単に数字列などでは割り切れず変化していくものと捉えています>

<文責:藤森弘司>

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