2008年12月31日 第77回「今月の映画」
主演:中居正広 仲間由紀恵 柴本幸 西村雅彦 武田鉄矢 石坂浩二 草彅剛
遺書・原作・題名:加藤哲太郎 監督:福澤克雄 脚本:橋本忍
●(1)今回、この映画を取り上げた理由は「理不尽」です。平和ボケのような日本の社会にいると、大事なものがドンドン失われているようです。そういう中にあっても、日々、メディアを通して「理不尽」な出来事を感じずにはいられません。 本来、人生は「理不尽」だと思います。「理不尽」であることを根底にして、少しでも「理」ある人生にしようとすることが大事なように思います。「理」であることを根底にして、「理不尽さ」を攻撃するのではなく、「理不尽」な中から、少しでも「理」を求める生き方、或いは「理不尽な世の中」、「理不尽な人生」をいかにして、「理不尽」なまま「理」に感じられる自分になるか・・・・・「理不尽さ」が「理不尽」のまま、そのまま「理不尽」に寄り添いながら「オーケー」と感じられるようになるか、「理不尽さ」をそのまま「受容」できる自分になるか・・・・が大事なように思えますがいかがでしょうか?メディアから拾った「理不尽」な出来事の様々をご紹介しようと思いましたが、パンフレットの内容をご紹介するだけで十分なように感じました。最初の「私は貝になりたい」の映画は、1959年です。主演はフランキー堺、新珠三千代、水野久美、加東大介、藤田進、笠智衆さんなどです。 |
○(2)(プログラムより、以下同じ)
<物語> 「戦犯容疑で逮捕します」 清水豊松(中居正広)は高知の漁港町で、理髪店を開業していた。家族は女房の房江(仲間由紀恵)と一人息子の健一。決して豊かではないが、家族三人理髪店でなんとか暮らしてゆく目鼻がついた矢先、戦争が激しさを増し豊松にも赤紙=召集令状が届く。豊松が配属されたのは、外地ではなく、本土防衛のために編成された中部軍の部隊だったが、そこで彼は、思いもよらない過酷な命令を受ける。 終戦。・・・・・豊松は、やっとの思いで家族のもとに戻り、やがて二人目の子供を授かったことを知る。平和な生活が戻ってきたかに思えた。しかし、それも束の間、突然やってきたMP(ミリタリーポリス)に、従軍中の事件の戦犯として逮捕されてしまう。そして待っていたのは、裁判の日々だった。「自分は無実だ!」と主張する豊松。だが、占領軍による裁判では、旧日本軍で上官の命令がいかに絶対であったか判事には理解されず、極めて重い判決が下る。 豊松は収監された巣鴨プリズンで、聖書を熱心に読む死刑囚の大西(草彅剛)や、事件の司令官だった矢野中将(石坂浩二)と交流をもつが、無情にも彼らに刑が執行されていく。 妻の房江は船と列車を乗り継ぎ、遠く離れた豊松のもとを訪れる。逮捕後に生まれた初めて見る娘の直子、妻・房江の泣きそうな顔。そして気丈にふるまう健一。豊松は「帰りたいなぁ・・・・・みんなと一緒に土佐へ」と涙を流し語りかける。 無実を主張する豊松は、同房の囚人、西沢(笑福亭鶴瓶)の協力でアメリカの大統領に宛てて減刑の嘆願書を書き始めていた。やがて結ばれる講和条約で釈放される。誰もがそのことに希望をつないでいた。 |
○(3)<悲劇としての力強さを増して旧作以上に心に響く>佐藤忠男(映画評論家)
この映画の元は1958年(昭和33)年の10月にKRT(現在のTBS)が製作放送したテレビドラマである。当時まだテレビは草創期で、本放送が始まってから5年目ぐらいである。この年からやっと、ドラマでビデオ・テープが使えるようになったという段階で、この「私は貝になりたい」がその最初の本格的な作品だった。 じつは映画でもそれより早く1953年に小林正樹監督がBC級戦犯の問題を扱った『壁あつき部屋』を作っていた。しかしこれを上映するはずだった松竹はアメリカ軍に遠慮して1956年まで公開を控えてしまった。ところがテレビは、さらにその2年後とはいえ、もっと公然と連合軍の裁判を批判するこのドラマを堂々と押し出して社会の関心をひき起こしたのである。テレビを軽んじることはもうできないという機運がぐっと盛り上がった事件であった。 主人公の清水豊松を演じたのはフランキー堺だった。見るからに陽気で善良なタイプであり、いくら戦争だって捕虜を殺すというような残酷なことには全く縁がないと思えるタイプである。そこがねらいだったに違いない。テレビドラマの成功はこの配役の妙によるところが大きい。事実なかなかの好演であった。 このテレビドラマの脚本を書いた橋本忍はそれまでに黒澤明監督の『羅生門』や『七人の侍』などの傑作を書いており、日本映画史上でも最も重要なシナリオ作家の一人である。その後も今井正監督の『真昼の暗黒』、小林正樹監督の『切腹』、野村芳太郎監督の『砂の器』、森谷司郎監督の『八甲田山』などの名作が多い。 橋本忍は、しかし、この成果に必ずしも満足してはいなかったようだ。よく一緒に仕事をした黒澤明監督や脚本家の菊島隆三から、橋本忍の作品としてはもの足りないという意味のことを言われたこともあって、その後長く、これをより良い作品にすることを考え続けてきたという。 今回、清水豊松を演じているのは中居正広である。今回の作品ではこと主人公の若い頃の苦労と純愛が強調されているので、フランキー堺の陽気さとは違うひたむきな真正直さがとてもいい。前作との一番の違いは、清水豊松と妻の房江の愛がいっそう深く描かれていることである。都会の理髪店で修業時代に知り合った二人が、田舎で自分たちの店を持てるようななるまで、どれだけ苦労したかが克明に描かれる。房江を演じるのは仲間由紀恵。同じようににたむきで、気取りがなくてとてもいい。 二人が出会う人物の一人一人が実に印象的である。例えば豊松が巣鴨の拘置所の最初の一夜で同室するBC級戦犯役の草彅剛。翌朝処刑で部屋を出てゆくとき、豊松に聞かれても弁明や愚痴めいたことは言わずに毅然として死に向かってゆく。自分の罪を認め、それを償う覚悟もできているという剛直な演技である。罪は曖昧な命令を下した自分一人にあると主張する石坂浩二の元司令官もそうであるが、こういう人物たちをきちんと描きこむことでこの作品は悲劇としての力強さをぐっと増した。 <さとう ただお・・・1930年新潟県生まれ。 |
○(4)<BC級戦犯裁判の全容>田中宏巳(元防衛大学校教授)
戦犯裁判が行なわれたのは、第二次大戦が最初である。日本は世界初の核兵器の洗礼を受けたが、世界初の戦犯裁判もドイツと並んで受けた。 裁判には法の存在と刑を執行する権力が必要である。第一次大戦後、戦犯裁判の根拠になる国際法や国際的合意条項が成立し、第二次大戦になると、強大な軍事力を背景にアメリカという独善的理想を掲げるスーパーパワーが登場し、違反を取り締まり、刑罰を科す強制力の役割を買って出るようになった。大戦後のアメリカは「世界の警察」と呼ばれるようになったが、その最初の仕事が戦犯裁判の実施であり、各国裁判への指導であり、刑の執行であったといってよい。 戦犯裁判で判決基準にされたのは、1899年以来何度も改定された「ハーグ条約」、1929年に俘虜取り扱いを定めた「ジュネーヴ赤十字条約」、1919年のパリ平和予備会談で示された15人委員会が定める「戦争犯罪項目」等であり、国際法を批准するか、委員を出した国家には法を遵守する義務、あるいは合意を尊重する道義的責任があり、日本はいずれにも関係していた。 裁判では、勝者の法解釈、国内政治、戦争の進め方、文化及び伝統といった諸要素が影響を与えた。第一次大戦の独ツェッペリン飛行船による都市爆撃を受け、「戦争犯罪項目」の第十九項に「無防備地域を故意に砲爆撃すること」が挿入され、都市爆撃は犯罪になった。戦後、都市爆撃を犯罪と考えた日本の重爆撃機搭乗員は経歴を隠し続けたが、原爆を投下したアメリカが一言も触れずに裁判を進めたのは典型的な事例である。 ドイツに勝利した連合国は、アメリカ主導の下に戦犯をA・B・C級の3つのカテゴリーに分けた。A級は平和を破り戦争を始めた罪、B級は国際法違反及び「戦争犯罪項目」該当の罪、C級は人道にもとる罪である。A級は国家指導者が主たる対象で、ドイツではニュルンベルク裁判、日本では極東国際軍事裁判(東京市ヶ谷台で行なわれたため東京裁判とも呼ばれた)において審理された。C級はいわばドイツのユダヤ人虐殺関係者が対象で、日本には該当しなかったが、BC級という呼称で残った。東京裁判(A級)の起訴28人に対してBC級5644人、死刑判決では7人に対し934人にのぼるが、日本ではA級ばかりに関心が集まり、BC級は看過されてきたきらいがある。A級裁判がショー的雰囲気の中で、昭和とともに日本が歩んだ歴史そのものが裁かれたために日本人の注視を集めたが、それこそが連合軍側の狙いであった。この間に、大量死刑、大量長期禁固刑のBC級裁判が大車輪で行なわれていたのである。 BC級は、戦争中、戦場で発生した犯罪行為を裁くのが主な目的であり、そのため戦場になった国内と海外に法廷が設けられた。日本が「大東亜共栄圏」と豪語した広大な占領地に、米英などの7カ国が合わせて49ヶ所の法廷を設置し、その一つが横浜にも設置された。日本を遥かに離れた戦場で開かれた法廷は、主催国の言語、法律、倫理観で審理が進められ、弁護人も通訳もない被告が、孤立無援の中で判決を言い渡された例は枚挙にいとまがない。アメリカのような豊かな国の裁判では、被告は生活の心配をしなくてもよかったが、戦災にあった国は被告の面倒をみるどころでなく、近辺の日本軍の差し入れで食いつなぎながら、出廷する被告が多かった。 横浜裁判はアメリカの担当で、横浜球場の近くに開廷された。日本国内や沖縄諸島、小笠原における犯罪行為を取り扱い、49ヶ所の中で最も多くの事件を扱った。被告は生活面の不安もなく、通訳及び被告の心の拠り所役をつとめる仏教やキリスト教の教誨師もつけられ、僻地の裁判に比べれば恵まれていた。勝者という圧倒的優位の下では、敗者の主張も制度や文化の違いが災いして無視され、日本人に裁判を災害と思わせる一因になった。戦犯裁判の特徴の一つは、軍隊という組織の犯罪を個々の兵士の犯罪に替え、審理の効率化、時間の節約につとめたことである。そのため命令者だけでなく、実行する部下の責任が追及され、むしろ司令官や上官よりも部下の兵士の責任が追及された例が少なくない。指揮官・上官が責任をのがれ、下士官・兵卒に責任を押し付けられたことは、日本人社会の信頼関係に亀裂を入れ、戦後社会に暗い影を落とした。 判決が下ると刑の執行に移る。助命嘆願書や再審請求による刑の執行延期、再審による減刑も少なくなかった。だがいかなる条件が揃えば行なわれるのか曖昧であった。死刑執行は戦地でも可能だが、有期禁固刑になると、牢獄の用意、食事・生活用品の支給、警備等の負担が増える。各国は判決後に有期刑囚を巣鴨に送り、アメリカ及び日本の手で刑期を過ごさせることにした。巣鴨には東京裁判や横浜裁判で係争中の被告、海外法廷で有罪になった者を収容し、「スガモ」は戦犯の象徴的地名になった。 1952年4月、サンフランシスコ講和条約の発効とともに、戦犯追及をうたったポツダム宣言が失効した。講和条約発効前に駆け込み死刑があり、発効後に死刑を執行した国はない。有期刑囚の服役は巣鴨で続いたが、看守も日本人に代わり、食事も日本食にかわった。それまで遺族に支払われなかった遺族年金も支給が開始された。日本政府はアメリカ政府と交渉を続け、仮釈放の手法で実質的釈放につとめ、1958年末までに全員の仮釈放を勝ちとった。最も熱心に交渉したのは、かつて巣鴨にA級戦犯容疑で収容されていた岸信介首相であった。戦犯は一般の刑事犯でなく、命令した軍(国)に代わって刑罰を受けた犠牲者である。しかし講和条約発効まで、極貧にあえぐ遺族に国は遺族年金も支払わず、一般日本人も犯罪者扱いをして、遺族を苦しめた。この点については、われわれ日本人も深く反省しなければならない。 <たなか ひろみ・・・1943年長野県生まれ。 |
○(5) 房江、健一、直子、さようなら・・・・・ お父さんは、もう二時間ほどで死んで行きます。 お前達とは別れ、遠い遠いところへ 行ってしまいます・・・・・もう一度会いたい・・・・・ もう一度みんなと一緒に暮らしたい・・・・・ 許してもらえるのなら、 手が一本、足が一本もげても、 お前達と一緒に暮らしたい・・・・・ でも、もうそれは出来ません・・・・・ せめて、せめて生まれ変わることが 出来るのなら・・・・・いえ、お父さんは生まれ変わっても、 もう人間にはなりたくありません。 人間なんて厭だ、 こんなひどい目にあわされる人間なんて・・・・・ 牛か馬のほうがいい・・・・・いや、牛や馬なら、 また人間にひどい目にあわされる・・・・・ いっそのこと、誰も知らない、 深い、深い、海の底の貝? そうだ、貝がいい!深い海の底なら・・・・・戦争もない・・・・・兵隊もない・・・・・ 房江や健一、直子のことを心配することもない。 どうしても生まれ変わらなければいけないのなら・・・・・ 私は貝になりたい・・・・・ |
○(6)「花の匂い」 作詞:桜井和寿・・・作曲:桜井和寿
届けたい 届けたい 花の匂いに導かれて 信じたい 信じたい “永遠のさよなら”をしても どんな悲劇に埋もれた場所にでも 人恋しさをメロディーにした “本当のさよなら”をしても |
○(7)<『私は貝になりたい』が反響を呼ぶ理由は、 人間の原罪に突き当たっている作品だからです。>脚 本 橋本忍 はしもとしのぶ 1918年兵庫県生まれ。 日本映画界を代表する脚本家、監督であり、映画製作者。20歳のときに徴兵されたが、病気のために療養。その際にシナリオに興味を持ち、後に伊丹万作監督に師事する。黒澤明監督の『羅生門』(50)で脚本家としてデビュー。以降『生きる』(52)、『七人の侍』(54)他数々の黒澤作品の脚本に参加する。その後も『切腹』(62)、『日本沈没』(73)などの大作の脚本を手掛け、『砂の器』(74)では脚本とともに製作者としても功績を残した。58年に脚本を手掛けたテレビドラマ「私は貝になりたい」は大評判となり、翌年東宝で映画化。自身が初めて監督を務めた。・・・・・橋本先生は20歳のときに徴兵されたそうですね。その徴兵された体験が『私は貝になりたい』には活かされているのでしょうか!? 「それは全くないんです。僕は(映画監督・脚本家の)伊丹万作さんに師事していて脚本を見てもらっていたんですが、そのときに習作として散髪屋を主人公にした『三郎床』という脚本を書いたんです。それは大変善良な、豊松のような散髪屋が戦争に行き餓死してしまう話。それを伊丹さんが気にいって、体調が戻ったら自分が監督をするとまで言ってくださった。でも伊丹さんは亡くなってしまい、『三郎床』はそのままになってしまったんです。それを、たまたまKRT(現在のTBS)から芸術祭参加作品を何か書いてほしいと言われたときに引っ張りだしたんです。そして、“餓死するのではなくBC級戦犯になり、処刑されるところまでやってみたらどうか”と言うと、演出家の岡本愛彦氏が賛成し、それで物語をそのほうに変えたんです」・・・・・じゃ『私は貝になりたい』は橋本さんの手持ちの企画だったんですね。 「そう。『三郎床』は独身の男が主人公だったけど、豊松は妻子持ちになったりね。でも僕の中で大切だったのはあくまでも主人公の運命。彼の運命だけを書けばいいと。というのは放映された58年当時は、反戦とかそういうのを叫ぶのは嫌に感じる時代だったんですよ。それまで戦争ものはたくさん作られたけど、どれもこれも家族との別れとか、反戦とか。そういうものに焦点をあてたものばかりで。もうそんな芝居は観たくないという風潮がもあった。高度成長の真っ只中で、過去を振り返るよりは前を見ていこうという時代だったし・・・・・いや、それだけに豊松の運命だけを静かに見つめていくことで、人間の業ともいうべき悲劇性がより浮き彫りになるのではないかと、なんとはなしにそんな気がして、書き進めていったわけです」 ・・・・・現代でもこの話は通用すると思われたのはどこですか? ・・・・・確かに引きこもりとかも増えてます。じゃ現代にもっと即して書き直そうと思った部分というのもあるのでしょうか? <取材・文・・・横森文> |
<文責:藤森弘司>
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