2008年11月30日 第76回「今月の映画」
まぼろしの邪馬台国

●監督:堤幸彦   主演:吉永小百合   竹中直人   石橋蓮司   江守徹   大杉漣

●(1)今回は・・・・・私(藤森)が別のところで「吉本式内観法」について書いたものとそっくりの内容だったので、映画「イエスタデイズ」(邦画)を取り上げたかったのですが、でも、どうしてもこの「まぼろしの邪馬台国」を捨てきれず、ギリギリのところでこちらに切り替えました。

世の中は、業績とか、権威とか、学歴、名誉や出世、財産や発明・発見など、「目に見えるもの」「耳で聞こえるもの」「触って感じるもの」など、いわゆる「五感」で感覚できるものを対象に人物が評価されますが、私(藤森)は、「心理・精神世界」、それも特に「深層心理」を専門にしていますので、可能な限り、「見えないものを見」「聞こえないものを聞」くことに全力を費やしています。
ですから、「まぼろしの邪馬台国」のような映画を観ると、どうしても放って置けなくなる性分があります。

●(2)私がこの映画を取り上げる主旨を妻に説明したときに、パンフレットを読んだ妻が「この映画は、実際とは違うようだ」と言いました。そこで念のために言い訳をしておきます。私は、この映画について個人的な感想を述べるのであって、事実を問題にしていません。
この映画の主人公で、吉川英治文化賞を受賞した宮崎康平氏の奥様、宮崎和子様は、今でも島原で元気に過ごしていらっしゃるようですが、そういう現実や、原作の「まぼろしの邪馬台国」は一切、私の眼中にはありません。あくまでも「映画・まぼろしの邪馬台国」を観ての個人的な意見や感想、特に深層心理的分野の感想であることを言い訳しておきます。

再度、言い訳をします。現実の宮崎様ご夫妻や、著書「まぼろしの邪馬台国」と同じであるか、全く違うか、それは私には、一切、関係ありません。あくまでも「映画・まぼろしの邪馬台国」を観て、どぎつ過ぎるほどどぎつくなるかもしれませんが、グサッと抉り出してみたいと思っています。
何故、どぎつくなるかと言いますと、一般の方々やテレビのコメンテーター、種々のマスコミ報道などはともかくとして、カウンセラーや精神科医や心理学者などの専門家が、あまりにも人間の「深層心理」がわからなかったり、誤解があるために、こういう映画を観ると率直に言いたくなってしまいます。それが結果として、どぎつくなってしまうようです。<第65回、今月の映画「再会の街で」ご参照>
そういうおつもりでご覧ください。
さて、パンフレットから簡単にストーリーなどをご紹介します。

○(3)(パンフレットより、以下同じ)

平成20年を迎え、わが国は地方分権を訴えて活動する知事や市長が誕生し脚光を浴びていますが、
今から約50年も前、地方の活性化に本気で立ち向かった男がいました。
長崎県島原の宮崎康平氏です。実は当時、彼は大変な奇人扱いをされていました。
勿論、彼の発想、言動は個性的でとても変わっていました。
つまり彼が目指していたことはあまりにも時代を先取りしたもので時の人々にはその考えが理解されず、奇人呼ばわりされていたのです。
彼は島原を観光と農業で自立させることに、生涯をかけていきます。映画には出てきませんが、
天皇陛下が島原を訪れて下さるよう手を尽くしたり、映画『君の名は』のロケを強引にこの地に持ってきたりということもしています。
当時高価だったバナナをみんなに食べさせたい思いで農園を作り、他にも様々な農作物の農園や牧畜業も試みました。
まさしく彼の活躍ぶりは、中世のガリレオを思い起こさせます。

妻・和子は、夫が単なる奇人にならないよう、賢明に社会常識の線路の上を歩かせようとするのです。
その結果、康平氏のお葬式には島原始まって以来の参列者が訪れたそうです。
この著者はまさしく二人の結晶と言えるでしょう。
この映画はすべて宮崎説で邪馬台国を特定していきます。観光地としても、邪馬台国は絶対に島原になければいけなかったのです。
また卑弥呼は天照大神であったとも想定されます。古事記は当時の全国の昔話なのです。そして邪馬台国は連合を組んでいました。
敵がまわりにいたからです。その敵とは・・・・・邪馬台国を囲む周辺状況とは・・・・・日本神話はいかに生まれたのか・・・・・
以降は難しくなりますので、また別の機会にご説明申し上げたいと思います。
まぼろしの邪馬台国の特定は、現在も尚、解明されない推理と好奇心をかきたてる「謎」です。
この映画で宮崎康平・和子の二人が導く「謎」をお楽しみください。

○(4)<二人の旅が、やがて日本中に旋風を巻き起こす>

「あなたと過ごした毎日は、本当に幸せだった」
宮崎和子は、昭和40年代に全国に邪馬台国ブームを起こした盲目の文学者・宮崎康平の妻である。康平と過ごした日々は、周囲からは辛いと思われていたかも知れない。だが、和子はその執念を守り、いっしょに育てていった。
宮崎康平。その名は島原の人間なら知らないものはいない。長崎県・島原鉄道の元役員であり、素人離れした郷土史研究家、文学家、また「島原の子守唄」などの詩作者でもあった。さだまさしの「関白宣言」に、影響を与えた人物ともいわれる。しかし、学者というよりも独断的な行動や、突飛な言動から破天荒な男として名が通っていた。
和子は、福岡の放送局で康平と出会い、変わり者といわれてはいても、どこか憎めない人物像に誘われるまま、島原へ向かい康平の手伝いをするようになる。昭和32年、災害の際に土器の破片を見つけたことを機に、康平の郷土愛は、「邪馬台国」探究の熱になる。
和子は、目の見えない康平に古代の史書・魏志倭人伝、日本書紀、古事記などを読み聞かせ、九州の各地に康平の目となり、杖となり、共同で「まぼろしの邪馬台国」を著した。この本はベストセラーとなり、後年、第一回吉川英治文化賞を受賞する。
この作品は、悲運や、貧苦をものともせず、ロマンをもって「邪馬台国」の発見に魅せられた、夫婦の物語である。

○(5)日本史最大の謎に挑んだ
昭和の奇人・宮崎康平と彼の情熱を信じた妻・和子。
二人が最後に見つけたものは・・・・・
第一回吉川英治文化賞受賞作遂に映画化昭和31年、博多。長浜和子と宮崎康平はNHK福岡で出会う。和子が担当する番組「九州の歴史」に、島原鉄道の社長であり、盲目の郷土史家として名のある康平が招かれたのだ。康平は、邪馬台国の実像を知ることが日本人の起源を探ることであると力説する。破天荒な人柄に戸惑う和子だったが、康平は「島原へ来んしゃい」と誘う。この出会いが和子の運命を大きく変えることになる。1ヵ月後、和子は島原鉄道の列車に乗っていた。社長としての康平は、誰が何と言おうと自分の意見を通してしまう傲慢な男。そんな康平にいつも周囲は振り回されてばかり。新型バスを導入し、島原観光バスを走らせるという新事業も例外ではなく、和子はそのバスガール教育部長として島原の地に迎え入れられる。
「みんなわしが食わしちゃるけん」と豪快に笑う康平。そして、和子は真新しい制服姿のバスガールの卵たちに歩き方、化粧の仕方、子供やお年寄りとの接し方を指導する。バス事業が成功し、鉄道経営も少しずつ上向きになりかけたある日、事件は起きた。急な集中豪雨が島原を襲い、線路を調べに出かけた康平が行方不明になったのだ。暴風雨の中、和子は康平を探しに行く。なんとか康平は無事に見つかったが、意識が戻ると「わが郷土、島原は遺跡の上に出来た町」と神がかりなことを言い出した。
川に流されまいと必死で掴まった土器・・・・・康平の命を救ったその土器は、なんと縄文時代中期のものらしい。

康平の一声で鉄道の復旧作業が始まると、次々と土器が発掘される。しかし、会議室では島原鉄道の重役たちが集まり、宮崎康平社長の解任決議がなされていた・・・・・。康平の解任によって島原観光バスは廃止、バスガールは解雇、和子が島原にいる必要もなくなった。荷物をまとめて島原を発つ日、駅で和子を待っていたのは康平だった。
「まだ島原にはあんたの仕事があっとです」
「何でしょう」
「宮崎康平の女房ですたい」
「・・・・・!!」

再び和子の島原での生活が始まった。それは眼の見えない康平の代わりに和子が魏志倭人伝、日本書紀、古事記を読んで聞かせ、康平が読み解き、“まぼろしの邪馬台国”の場所を探すという、文字通り手さぐりの共同作業だった。
ただ、書物から邪馬台国の全貌を明らかにするには限界があった。和子は実際の場所に行って確かめようと提案する。「私があなたの目になります」と。実際に歩いた地形が和子の作った立体地図に記され、魏志倭人伝の国名と現代の地名が徐々に重なり合っていく。康平の夢はいつしか二人の夢となっていた。その後、多くの年月を費やして、康平がその先に見つけたものとは・・・・・。

○(6)<宮崎康平・和子二人の歴史>

宮崎康平は、大正6(1917)年長崎県島原市生まれ。昭和15年、早稲田大学文学部卒業。
学生時代、森繁久彌らと学生演劇に参加、卒業後は東宝に入社するが、実兄の病死により、
帰京して家業の土建屋を継ぐことになる。昭和21年、島原鉄道に入り、その近代化につとめたが、
極度の疲労から、昭和23年ついに失明する。
また、このとき妻が出奔する。置き去りにされた乳飲み子を抱えて作詞・作曲したのが、
のちに島倉千代子らが歌唱した「島原の子守唄」である。
昭和25年、島原鉄道常務を一旦辞任するも、昭和31年に復帰する。

宮崎(長濱)和子は、昭和4(1929年)、父の任地、北朝鮮・平壌で生まれる。
昭和21年、引揚げにより郷里・福岡県柳川に帰る。昭和24~31年までNHK福岡放送劇団専属劇団員を努め、
出演するラジオ番組にゲストとして招いた宮崎康平と出会う。
その後、康平から島原鉄道バスガイド指導係として招かれる。

昭和32年、康平と和子は事実上の結婚生活に入る。7月、諫早大水害により鉄道壊滅。
康平はその復旧作業にかかわるかたわら、土砂から見つかった土器の発掘などに力を尽くし、
「邪馬台国」の発見に力を注ぐようになる。昭和40年5月から、「まぼろしの邪馬台国」を同人誌「九州文学」で連載、
昭和42年に単行本を出すと同時に話題となり、邪馬台国ブームを作る。
この出版により、夫婦で第一回吉川英治文化賞を受賞する。

昭和55年3月16日、康平が脳出血にて死去。享年62歳。以後、和子は、文筆、講演活動などを始める。
平成8年、康平の主宰した「土と文化の会」(長崎市の主婦を中心に結成され、
無農薬栽培の野菜や無添加食品の開発頒布を生産者と共に考え実践しているグループ)の会長に就任、現在に至っている。
(敬称略)

○(7)<宮崎康平師の思い出>

父が懇意にしていただいたので子供の頃からよく島原のお宅へ行きました。子供の頃は盲目の偉い先生に会う、というだけで緊張したものです。先生は僕がヴァイオリン弾きになる、と信じていらしたので歌を歌い始めた時には酷く叱られたものですが、その歌を聴いて「これは面白い」と最初に力を貸してくださった方でした。
恩人でもあり、どこか遠い親類のおじさんのような温かい存在でした。アマチュア時代、先生の「長崎人なら精霊流しを歌え」という一言が僕の人生を変えたと思います。“島原の子守唄”を作った作家らしい郷土愛に満ちた人でした。
気分が乗ると5時間でも6時間でも邪馬台国の話をされた。聞く方も大変だったが、こういう時の先生は実に機嫌が良かった。仕事には厳しいし、どこか気難しいところもありましたが優しい人でもありました。
ロマンチストで、一途な情熱家でもありました。子供のようなわがままな所もあったその人を一生懸命に支えていらした和子夫人を子供ながら尊敬していました。今にして思えば「関白宣言」のヒントも先生ご夫妻だったかもしれません。
僕が「まほろば」という歌を書いたとき「良い歌を書いたな。俺がやりたい仕事だ」と褒めてくださった直後に先生はひょいと亡くなられた。なんだか褒めて貰わなくても長生きして欲しかったな、と思ったものです。
僕の書いた小説などまだ先生に読まれたら困りますが、実は今でもこの人に褒められるような仕事をしたい、と思って必死に勉強しながら生きているのです。
<さだまさし>

○(8)<邪馬台国について>

日本の姿が、文字として、初めて他の国の歴史に登場するのは、今から約千七百年前、中国の三国時代に書かれた「三国志」六十五巻のうち「魏志」巻三十、烏丸鮮卑東夷伝・倭人の項(通称「魏志倭人伝」)に、わが国に関して2千字を費やした最古の記録がある。
そこに記された、卑弥呼という女王に治められた国が、邪馬台国である。邪馬台がヤマトと読めることもあり、魏志倭人伝の解釈をめぐり、邪馬台国があったとされる場所は、畿内大和説、九州説をはじめ、日本各地に数多くの説が存在している。
そこでは、もっとは男子を王としていたが、国が乱れ、互いに何年にもわたって相争っていたので、共に女子を立てて王とし、卑弥呼が30の小国をまとめる女王となったと記録されている。
卑弥呼は国を治めるのに、「鬼道」を使ったと言われているが、この「鬼道」の解釈についても、(霊力、予知能力、五斗米道、たたら製鉄など)諸説在り、定まっていない。人前に姿を現すことはなく、千人の女たちが使え、夫をもたず、弟一人が彼女を補佐したとされる。
中国に使者を送り貢献し、「親魏倭王」の称号と、金印を与えられた。卑弥呼の死後、男王を立てるが、また、国が乱れ、殺し合いが起こり、十三歳の壱与という女子を王として、やっと国中が治まった。卑弥呼が死んだ時、百歩余りの塚が作られたと記されている。卑弥呼の墓についても、現存の古墳を含めて、諸説あり、その特定は邪馬台国の比定に結びつくとされている。

○(9)<吉永小百合インタビュー>

・・・・・宮崎和子さんは今も島原で元気にお暮らしですが、吉永さんはどんな役作りをされたんですか?
「まず島原に行きまして、和子さんにお話をうかがいました。この映画の私の出演シーンは、昭和31年から始まるんですね。それで、当時の和子さんの写真を見せていただいて、同じような衣裳を作っていただきました。それと、もう一つは髪型ですよね。昭和31年の和子さんはパーマをかけてらして、とても可愛らしいヘアーをしてらしたので、その雰囲気で髪をセットして。私は“サザエさんヘアー”と名づけていましたけれど、とても好きな髪型です(笑い)」

・・・・・和子さんの生き方にも共感されたそうですね。
「邪馬台国を探して歩く目がご不自由な康平さんに付き添い、本を書くときも口述筆記をされたわけですよね。だから大変だったと思うんですけど、和子さんは『楽しかった』っておっしゃって。そんな人生って素敵だと思うんです。辛いときや苦しいときも前向きに生きていく、その姿勢にとても惹かれました」

・・・・・宮崎康平さんを演じた竹中直人さんは、吉永さんが受けとめてくれるから安心して暴れることができたみたいですけど、受けとめる吉永さんは大変ですよね(笑い)。
「そうですね。でも、たぶん和子さんもそんな感じだったと思うんです。福岡の記者会見で、女性記者が『私の知っている生前の康平さんは、竹中さん以上でした』と言われて驚いたんですけど、和子さんは無理難題を言われても、自分の掌で康平さんを遊ばせてあげられる器の大きい方だと思うんです」

・・・・・しかも、たまに逆ギレするのがいいですね。
「康平さんは目が不自由なこともあって、焼きもち焼きだったようなんですね。それで焼きもちを焼かれて、頭にきて卵を投げたというエピソードをうかがって、それが映画にも登場します。でも貧乏なわけだから、あそこは投げる卵は2個までで、壁にぶつけるって段取りだったんですよ。でも、1個目を投げたら竹中さんにあたっちゃったんですよね(笑い)。それが面白くて、ああいうシーンになったんです」

<後略>

●(10)さて、宮崎康平氏の「目に見える分野」の業績は、吉野ヶ里遺跡の発見に限らず、その凄さ、素晴らしさはパンフレット全体に溢れています。上記の文章をお読みいただければ、それは十分にご理解いただけるものと思われます。

しかし、しかし、です。多分、これから解説するようなことは、多分、私(藤森)以外には触れる人間は、多分、皆無に近いのではないかと思われます。その理由は最後に述べます。

さて、これからグサッと、分析してみたいと思います。
パンフレットからご紹介した上記の文章の中から、順番に人物評価されている言葉を拾い出してみると・・・・・

(3)の文章より抽出
☆今から約50年も前、地方の活性化に本気で立ち向かった男
彼は大変な奇人扱い
☆彼の発想、言動は個性的でとても変わっていました。

☆あまりにも時代を先取りしたもので時の人々にはその考えが理解されず、奇人呼ばわりされていた
☆妻・和子は、夫が単なる奇人にならないよう、賢明に社会常識の線路の上を歩かせようとする

(4)の文章より抽出
「あなたと過ごした毎日は、本当に幸せだった」
周囲からは辛いと思われていたかも知れない。
☆さだまさしの「関白宣言」に、影響を与えた人物
独断的な行動や、突飛な言動から破天荒な男
☆悲運や、貧苦をものともせず、ロマンをもって「邪馬台国」の発見に魅せられた、夫婦の物語

(5)の文章より抽出
昭和の奇人・宮崎康平と彼の情熱を信じた妻・和子。
☆破天荒な人柄
社長としての康平は、誰が何と言おうと自分の意見を通してしまう傲慢な男。
☆康平にいつも周囲は振り回されてばかり。
「みんなわしが食わしちゃるけん」と豪快に笑う康平。
☆会議室では島原鉄道の重役たちが集まり、宮崎康平社長の解任決議
「私があなたの目になります」

(6)の文章より抽出
極度の疲労から、昭和23年ついに失明
このとき妻が出奔する。置き去りにされた乳飲み子を抱えて作詞・作曲
☆昭和55年3月16日、康平が脳出血にて死去。享年62歳。

(7)の文章より抽出
気分が乗ると5時間でも6時間でも邪馬台国の話をされた。聞く方も大変だった
☆どこか気難しいところもありましたが優しい人
ロマンチストで、一途な情熱家でもありました。子供のようなわがままな所もあった

(9)の文章より抽出<吉永小百合インタビュー>
☆ ・・・・・和子さんの生き方にも共感されたそうですね。
「邪馬台国を探して歩く目がご不自由な康平さんに付き添い、本を書くときも口述筆記をされたわけですよね。だから大変だったと思うんですけど、和子さんは『楽しかった』っておっしゃって。そんな人生って素敵だと思うんです。辛いときや苦しいときも前向きに生きていく、その姿勢にとても惹かれました」
☆福岡の記者会見で、女性記者が『私の知っている生前の康平さんは、竹中さん以上でした』と言われて驚いたんですけど、和子さんは無理難題を言われても、自分の掌で康平さんを遊ばせてあげられる器の大きい方
☆それで焼きもちを焼かれて、頭にきて卵を投げたという

●(11)ざっとあげてみました。このホームページをご覧の皆様はいかがな印象でしょうか?
夫婦愛の美しさを、これでもかこれでもかと述べられています。そして、まさにその通りだと思います、多くの人たちがみるであろう視点においては。
しかし、私(藤森)の専門分野の視点から見ますと、むしろこれは「狂気の沙汰」です。

映画の中では、<宮崎康平社長の解任決議>があり、これからどんどん生活が苦しくなり、困窮を極めます。ある食堂のおばちゃんが見かねて、お客の食べ残しのドンブリを差し出すシーンがあります。
また、社長時代の取引先の銀行に妻の和子が行き、頭取に頭を下げてお金を借りるシーンもあります。これを聞き知った康平は、妻を怒鳴り散らします。

夫婦喧嘩をしたとき、和子が康平に卵を投げつけます。当時、卵は非常に貴重な物である上に、極貧状態の宮崎家としては、さらにさらに貴重であり、しかも<和子さんは無理難題を言われても、自分の掌で康平さんを遊ばせてあげられる器の大きい方>だといわれる妻・和子が、この貴重な卵を数個、投げつけるということは、康平がいかに「狂気」の人間か、ということを意味しています。
事実、映画の中での葬儀の場で、元の妻が「いかに康平が罪深い人間」であるかという主旨のことを叫びます。
経営姿勢に問題があって解任決議を出されるということは、非常に稀なことです。それだけでも「奇人・変人」のレベルを超えています。

目の見えない体で自分のロマンに向かい、いかに妻を困らせようと、それは好きにやればいいことで、私(藤森)は、そんなことを干渉しようとするのではありません。

●(12)さて、そろそろ結論を出すときがきました。それは・・・・・
このとき妻が出奔する。置き去りにされた乳飲み子を抱えて作詞・作曲>

子供からの視点が全く無いことです。夫婦だけであれば、好きなようにやればいいのです。
しかし、「狂気の沙汰」の夫に愛想を尽かして出奔した妻のほうがむしろ常識的な姿勢です。出奔した妻の様子は全くわかりませんが、和子の苦労を見れば、元の妻がいかに苦労したかは十分に想像できます。
生活苦のために子供を犠牲にするのではなく、自分のロマンのために、子どもを犠牲にして憚らない姿勢は尋常ではありません。しかも、生活費が無い事は百も承知でありながら、金策に走る妻を怒鳴り散らすとは、私に言わせれば、ただの「アホ」です。人間失格です。失格人間が、エネルギーの全てを「邪馬台国の研究」に費やして、少しばかりの業績を上げたというだけのことです。
このようなメチャクチャな環境の中から育つ子供が、まともに育つわけがありません。私(藤森)はそういう育児環境の中で育った多くの方々をお世話していますので、まさに論より証拠です。
「まともに育たない」と言う意味は、どういう形になるかは全くわかりません。社会のいろいろな指導者になるかもしれませんし、聖職者になるかもしれませんが、そういう「目に見え、耳に聞こえる」表面的なことを意味していません。
現に、宮崎康平氏は、社会的には凄い成功をおさめて、尊敬され、吉川英治文化賞を獲得し、恐らく、歴史に名を残すでしょう。しかし、今の私(藤森)には、こういうことにはホンの僅かしか魅力を感じません。私は、実力が無く、業績も、社会的な評価も上げられないことを十分に悟りましたので、こういうことに魅力を感じなくなりました。

荒れ狂っている宮崎康平氏の姿を見ながら、このような育児環境の中で生活している幼児や少年たちを見て、胸が痛む思いをしました。

銀(しろがね)も金(くがね)も玉もなにせむに
まされる宝子に如(し)かめやも(山上憶良)

●(13)そしてさらに、酷いことを本音で言います。
こういう酷い人格の男には、尽くしきる妻が存在するものです。私は、サユリストではありませんが、世代が同じである吉永小百合さんは大好きです。役柄も素敵です。でも、<第66回、今月の映画「母(かあ)べえ」>にしてもそうですが、吉永さんは尽くす女を演じるので、酷評しにくいのですが、こういう尽くす女(といっても吉永小百合さんではなく、和子のことですが!!)は、「交流分析」という心理学的にいえば、康平と同じレベルの「脚本」を持っているものです。だから尽くしきることができるのです。
これほどの脚本レベルでなければ、出奔した妻のように、添い遂げるのが嫌になるものです。添い遂げたということは、同様の脚本をもっているということを意味します。そして、こういう「夫婦」は、日本に非常に多いものです。一般に知られていないだけで、むしろ「日本的な夫婦」と言っても良いかもしれません。

<高桑茂著「嗜癖と更生」東京法令出版株式会社>

第7話:アルコール依存症の夫を支える妻
<はじめに>
アルコール依存でだらしないが、人がいいのだけが取柄(藤森注:宮崎康平氏にそっくり)という人には、しばしば、しっかり者で評判の女性が奥さんだったりします。「どうしてあんな男と一緒になったのだろう」とか「もったいない」といった噂が、本人たちの周辺に漂っていたりします(藤森注:和子にそっくり!!)(P40)。

こういうレベルの環境で育った子供が、どんなタイプの人間になるかサッパリわからず、分析力も対応技法も持たない精神科医やカウンセラーなどの専門家が多く、却ってグチャグチャにされ、悪化したり、手遅れにされているケースが驚くほど多いものです。
専門的な勉強会に出席しても、いわゆる一流の職場(一流の病院のカウンセラーや、いわゆる一流とされている臨床心理士という資格)の専門家が、いかに「見えない部分に視点を合わせていない」かを知って、ただ唖然呆然とします。その典型的な例がこれです<第65回、今月の映画「再会の街で」ご参照>

●(14)さて、他人のことを酷評しましたので、私(藤森)のことを書きます。
私が何故、これほど、タブーとされるようなことを、ズケズケと書けるのでしょうか?
それは、一つには、私が全く、いかなる組織にも所属していない完全なる一匹オオカミだからです。だから、万一、仮に不愉快に思う権威ある大先生が、私を抹殺(?)しようにも、抹殺(?)する手段がありません。組織や団体に所属していれば、権威ある大先生が指を動かし、組織や団体を通して抹殺(?)することが可能でしょうが、いかなる通信手段も、私にまで届きません。

現に、<第36回「今月の言葉」「洗脳について」>で書きましたが、「父は人体実験の犠牲になった・CIA洗脳実験室」の著者で精神科医のハービー・ワインスタイン氏は、自分の父親が洗脳実験の犠牲になった事を知ります。
人体実験の成果で、当時、権威になっていたカナダのユーイン・キャメロンの異常な医療行為の調査を始めますが、キャメロンの権威を怖れて証言しようとしない専門家が多い上に、CIAからも妨害行為も受け、調査は難航を極めたようです。

さて、もうひとつ、それは私(藤森)自身が「狂気の沙汰」を生きてきた人間だからです。心理の世界で言う「サバイバー(生き残り)」の人間で、そして私自身が、このような親の下で育っています。十分に自己回復したとは言えませんが、少なくても、このような強烈な環境の下で育ち、そして「狂気の沙汰」の人生を生きてきて、そしてそれなりに回復してきました。
極端な表現をすれば、この30年間、私の持てる全てのもの(心理的、身体的、人間関係的)を費やし、そしてわずかではあっても全財産も使い、人生そのものを「サバイバル」することに費やしてきました。そういう経歴を持つ私から見ると、「心理・精神世界」のあまりにも酷い状況に、ただ驚くばかりです。

それは私が体験的にわかる部分と、「自己回復」のお手伝いをする専門家として、多くのクライエントの方々をお世話してきて、そのことからわかる部分があります。私のように社会的な立場が全く無く、組織や団体に全く所属していない専門家は、いろいろな専門家のところに通い、困り果てた方がお見えになることが多いものです。
そういう方々から経緯を伺うと、何故、これほどまでに専門家が無理解なのか、何故、これほどまでに専門家が悪化させてしまうのか、困惑することが多いのですが、見えない世界だから、何をしようが、何があろうが、全く責任が問われないようです。
さらに驚くことは、そういう専門家が、天下の権威として継続して存在し、また、自己反省している様子も感じられないことです。誰でも間違いはありますが、間違いと感じている様子が、あまり感じられませんし、さらに技法を磨いて、より高度になろうと本気になっている様子も、あまり感じられません。「一人のクライエントの方の命や人生がかかっているという使命感」がどれほどあるのかも疑問に感じています。

さて、そういう「狂気の沙汰」の人生を生きてきて、映画「まぼろしの邪馬台国」の中の和子のような「私の妻」に支えられて、どん底から這い上がり「サバイバー(生き残り)」になりました。自分がそうだからこそ、こういうことを率直に伝える義務(???)もあるのではないかと思っています。

<文責:藤森弘司>

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