2008年11月30日 第76回「今月の映画」
●監督:堤幸彦 主演:吉永小百合 竹中直人 石橋蓮司 江守徹 大杉漣
●(1)今回は・・・・・私(藤森)が別のところで「吉本式内観法」について書いたものとそっくりの内容だったので、映画「イエスタデイズ」(邦画)を取り上げたかったのですが、でも、どうしてもこの「まぼろしの邪馬台国」を捨てきれず、ギリギリのところでこちらに切り替えました。
世の中は、業績とか、権威とか、学歴、名誉や出世、財産や発明・発見など、「目に見えるもの」「耳で聞こえるもの」「触って感じるもの」など、いわゆる「五感」で感覚できるものを対象に人物が評価されますが、私(藤森)は、「心理・精神世界」、それも特に「深層心理」を専門にしていますので、可能な限り、「見えないものを見」「聞こえないものを聞」くことに全力を費やしています。 ●(2)私がこの映画を取り上げる主旨を妻に説明したときに、パンフレットを読んだ妻が「この映画は、実際とは違うようだ」と言いました。そこで念のために言い訳をしておきます。私は、この映画について個人的な感想を述べるのであって、事実を問題にしていません。 再度、言い訳をします。現実の宮崎様ご夫妻や、著書「まぼろしの邪馬台国」と同じであるか、全く違うか、それは私には、一切、関係ありません。あくまでも「映画・まぼろしの邪馬台国」を観て、どぎつ過ぎるほどどぎつくなるかもしれませんが、グサッと抉り出してみたいと思っています。 |
○(3)(パンフレットより、以下同じ)
平成20年を迎え、わが国は地方分権を訴えて活動する知事や市長が誕生し脚光を浴びていますが、 妻・和子は、夫が単なる奇人にならないよう、賢明に社会常識の線路の上を歩かせようとするのです。 |
○(4)<二人の旅が、やがて日本中に旋風を巻き起こす>
「あなたと過ごした毎日は、本当に幸せだった」 |
○(5)日本史最大の謎に挑んだ 昭和の奇人・宮崎康平と彼の情熱を信じた妻・和子。 二人が最後に見つけたものは・・・・・ 第一回吉川英治文化賞受賞作遂に映画化昭和31年、博多。長浜和子と宮崎康平はNHK福岡で出会う。和子が担当する番組「九州の歴史」に、島原鉄道の社長であり、盲目の郷土史家として名のある康平が招かれたのだ。康平は、邪馬台国の実像を知ることが日本人の起源を探ることであると力説する。破天荒な人柄に戸惑う和子だったが、康平は「島原へ来んしゃい」と誘う。この出会いが和子の運命を大きく変えることになる。1ヵ月後、和子は島原鉄道の列車に乗っていた。社長としての康平は、誰が何と言おうと自分の意見を通してしまう傲慢な男。そんな康平にいつも周囲は振り回されてばかり。新型バスを導入し、島原観光バスを走らせるという新事業も例外ではなく、和子はそのバスガール教育部長として島原の地に迎え入れられる。 「みんなわしが食わしちゃるけん」と豪快に笑う康平。そして、和子は真新しい制服姿のバスガールの卵たちに歩き方、化粧の仕方、子供やお年寄りとの接し方を指導する。バス事業が成功し、鉄道経営も少しずつ上向きになりかけたある日、事件は起きた。急な集中豪雨が島原を襲い、線路を調べに出かけた康平が行方不明になったのだ。暴風雨の中、和子は康平を探しに行く。なんとか康平は無事に見つかったが、意識が戻ると「わが郷土、島原は遺跡の上に出来た町」と神がかりなことを言い出した。 川に流されまいと必死で掴まった土器・・・・・康平の命を救ったその土器は、なんと縄文時代中期のものらしい。 康平の一声で鉄道の復旧作業が始まると、次々と土器が発掘される。しかし、会議室では島原鉄道の重役たちが集まり、宮崎康平社長の解任決議がなされていた・・・・・。康平の解任によって島原観光バスは廃止、バスガールは解雇、和子が島原にいる必要もなくなった。荷物をまとめて島原を発つ日、駅で和子を待っていたのは康平だった。 再び和子の島原での生活が始まった。それは眼の見えない康平の代わりに和子が魏志倭人伝、日本書紀、古事記を読んで聞かせ、康平が読み解き、“まぼろしの邪馬台国”の場所を探すという、文字通り手さぐりの共同作業だった。 |
○(6)<宮崎康平・和子二人の歴史>
宮崎康平は、大正6(1917)年長崎県島原市生まれ。昭和15年、早稲田大学文学部卒業。 宮崎(長濱)和子は、昭和4(1929年)、父の任地、北朝鮮・平壌で生まれる。 昭和32年、康平と和子は事実上の結婚生活に入る。7月、諫早大水害により鉄道壊滅。 昭和55年3月16日、康平が脳出血にて死去。享年62歳。以後、和子は、文筆、講演活動などを始める。 |
○(7)<宮崎康平師の思い出>
父が懇意にしていただいたので子供の頃からよく島原のお宅へ行きました。子供の頃は盲目の偉い先生に会う、というだけで緊張したものです。先生は僕がヴァイオリン弾きになる、と信じていらしたので歌を歌い始めた時には酷く叱られたものですが、その歌を聴いて「これは面白い」と最初に力を貸してくださった方でした。 |
○(8)<邪馬台国について>
日本の姿が、文字として、初めて他の国の歴史に登場するのは、今から約千七百年前、中国の三国時代に書かれた「三国志」六十五巻のうち「魏志」巻三十、烏丸鮮卑東夷伝・倭人の項(通称「魏志倭人伝」)に、わが国に関して2千字を費やした最古の記録がある。 |
○(9)<吉永小百合インタビュー>
・・・・・宮崎和子さんは今も島原で元気にお暮らしですが、吉永さんはどんな役作りをされたんですか? ・・・・・和子さんの生き方にも共感されたそうですね。 ・・・・・宮崎康平さんを演じた竹中直人さんは、吉永さんが受けとめてくれるから安心して暴れることができたみたいですけど、受けとめる吉永さんは大変ですよね(笑い)。 ・・・・・しかも、たまに逆ギレするのがいいですね。 <後略> |
●(10)さて、宮崎康平氏の「目に見える分野」の業績は、吉野ヶ里遺跡の発見に限らず、その凄さ、素晴らしさはパンフレット全体に溢れています。上記の文章をお読みいただければ、それは十分にご理解いただけるものと思われます。
しかし、しかし、です。多分、これから解説するようなことは、多分、私(藤森)以外には触れる人間は、多分、皆無に近いのではないかと思われます。その理由は最後に述べます。 さて、これからグサッと、分析してみたいと思います。 (3)の文章より抽出 (4)の文章より抽出 (5)の文章より抽出 (6)の文章より抽出 (7)の文章より抽出 (9)の文章より抽出<吉永小百合インタビュー> ●(11)ざっとあげてみました。このホームページをご覧の皆様はいかがな印象でしょうか? 映画の中では、<宮崎康平社長の解任決議>があり、これからどんどん生活が苦しくなり、困窮を極めます。ある食堂のおばちゃんが見かねて、お客の食べ残しのドンブリを差し出すシーンがあります。 夫婦喧嘩をしたとき、和子が康平に卵を投げつけます。当時、卵は非常に貴重な物である上に、極貧状態の宮崎家としては、さらにさらに貴重であり、しかも<和子さんは無理難題を言われても、自分の掌で康平さんを遊ばせてあげられる器の大きい方>だといわれる妻・和子が、この貴重な卵を数個、投げつけるということは、康平がいかに「狂気」の人間か、ということを意味しています。 目の見えない体で自分のロマンに向かい、いかに妻を困らせようと、それは好きにやればいいことで、私(藤森)は、そんなことを干渉しようとするのではありません。 ●(12)さて、そろそろ結論を出すときがきました。それは・・・・・ 子供からの視点が全く無いことです。夫婦だけであれば、好きなようにやればいいのです。 荒れ狂っている宮崎康平氏の姿を見ながら、このような育児環境の中で生活している幼児や少年たちを見て、胸が痛む思いをしました。 銀(しろがね)も金(くがね)も玉もなにせむに <高桑茂著「嗜癖と更生」東京法令出版株式会社> 第7話:アルコール依存症の夫を支える妻 こういうレベルの環境で育った子供が、どんなタイプの人間になるかサッパリわからず、分析力も対応技法も持たない精神科医やカウンセラーなどの専門家が多く、却ってグチャグチャにされ、悪化したり、手遅れにされているケースが驚くほど多いものです。 ●(14)さて、他人のことを酷評しましたので、私(藤森)のことを書きます。 現に、<第36回「今月の言葉」「洗脳について」>で書きましたが、「父は人体実験の犠牲になった・CIA洗脳実験室」の著者で精神科医のハービー・ワインスタイン氏は、自分の父親が洗脳実験の犠牲になった事を知ります。 さて、もうひとつ、それは私(藤森)自身が「狂気の沙汰」を生きてきた人間だからです。心理の世界で言う「サバイバー(生き残り)」の人間で、そして私自身が、このような親の下で育っています。十分に自己回復したとは言えませんが、少なくても、このような強烈な環境の下で育ち、そして「狂気の沙汰」の人生を生きてきて、そしてそれなりに回復してきました。 それは私が体験的にわかる部分と、「自己回復」のお手伝いをする専門家として、多くのクライエントの方々をお世話してきて、そのことからわかる部分があります。私のように社会的な立場が全く無く、組織や団体に全く所属していない専門家は、いろいろな専門家のところに通い、困り果てた方がお見えになることが多いものです。 さて、そういう「狂気の沙汰」の人生を生きてきて、映画「まぼろしの邪馬台国」の中の和子のような「私の妻」に支えられて、どん底から這い上がり「サバイバー(生き残り)」になりました。自分がそうだからこそ、こういうことを率直に伝える義務(???)もあるのではないかと思っています。 |
<文責:藤森弘司>
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