2008年1月31日 第66回「今月の映画」
母(かあ)べえ

監督:山田洋次  主演:吉永小百合  浅野忠信  壇れい  志田未来(みらい)  佐藤未来(みく)  坂東三津五郎  笑福亭鶴瓶

●(1)今回、この映画を取り上げたのは、ひとつには、吉永小百合さんのお人柄です。最近は、ワイドショーに出る人が多い中で、孤高の存在がします。私は、サユリストではありませんが、でも、高校生のときにテレビの吉永さんを見たときの印象は強烈でした。
理想的に思われている吉永さんが、NHKスペシャルの取材で、下記の(2)のように話されていますが、お母様との強い葛藤があったようです。テレビの取材に長時間応じたことがなかったそうですが、今回、初めて応じ、その生々しい心の葛藤を述べていらっしゃいます。
NHKスペシャルの録画を、改めて、じっくり見てみました。私(藤森)の専門的な立場からみても、吉永さんはかなり聡明であり、芯の強い方だと思いました。失われつつある「日本の母」のような「凛」としたものをお持ちの方だと感じます。この映画を取り上げたもうひとつの理由は、私(藤森)の母への「反抗期の悲しい思い出」があるからです。まさに、この映画の主人公である「母べえ」や吉永さんのお母様と同じ世代の母でした。私は吉永さんとは、1才違いです。
私の反抗期の情けなくも、悲しい50年前の体験は、恥を忍んで、いつかご紹介したいと思います。
●(2)NHKスペシャル(2007年11月18、放映は50分)「知られざる“母”への思い」で、「母べえ」の撮影進行中の吉永小百合さんが紹介されていました。その内容を簡略してご紹介します。

デビュー以来、清純派女優というイメージを、常に求められていた。結婚したら俳優をやめて、子供を持ちたい。しかし、母・和枝さんは、娘に、常に女優らしく生きることを求める。人間である前に俳優であるというものが、どんどん一人歩きして、人間らしいことが何もできないということに気がついた。
結婚を期に、母と決別し、一人の女性として生きることを選ぶ。

女優であることと、普通に生きることの狭間(はざま)に揺れながら、母を演じる(母べえ)ことに挑んだ吉永小百合さん。62歳(1年前です)。「母べえ」は112本目の映画出演。日本を代表する女優として、常に注目されている。
テレビ取材に長時間応じたことがない。私生活を一切明かさない吉永さんが、今回、特別に許可された(NHKスペシャル)。
朝7時30分、毎日、撮影の1時間前、俳優の中で一番早く撮影場所に現われる。メイクは自分で行なう。

吉永さんの俳優の出発点は、小学校の学芸会。その演技をみて、父母たちは涙を流したという。
娘を女優に導いたのは、母・和枝さん。この頃、父親が事業に失敗。家計を支えていたのは、ピアノの先生だった和枝さん。

12歳のときの作文。「私は、将来、映画俳優になりたいと思う」。しかし、吉永さんは、いつか、普通に生きたいと願う少女でもあった。結婚したら俳優をやめて、家の仕事をしっかりやり、もちろん、子供を産んで、女の子ならば、ふだんはおとなしくても、活発に発言のできる子。男の子だったら、元気で勇気があって、いたずらをしない子供がほしい。

中学生になり、吉永さんは映画に初出演。和枝さんと二人三脚で仕事に臨んで行く。
デビュー三年後の1962年、「キューポラのある街」で、一躍、国民的スターに駆け上がる。清純派を代表する女優として、1年に10本以上の映画に出演していく。

サユリストが増え続けるこの頃、親子の心にはすれ違いが生じ始めていた。母の願い通り仕事に取り組んでいたが、単位が取れず、高校を卒業できなかった。友達とも会えず、買い物や遊びに行く時間も取れない日々。
当時の日記に、
「一人の少女として、高校を卒業したかった。いつも笑顔を見せなければ人気が落ちるのかしら。そんな人気だったら、早く落ちてしまえばいい。そんな思いが、私の頭をかすめてゆく。
もうこれ以上、母と喧嘩をしたくない。でも30歳も年の違う人間の考え方の違いは、どうすることもできない。私は自己中心主義なのだろうか」(こころの日記より)。

親に対して、いい子すぎた。親が望んでいるようにやっていかなければいけないんじゃないかということを、本心ではなかったが、我慢していて、違うな、違うなと思いながら、それを親にちゃんと言っていなかった。
当時、ちゃんとぶつかり合って、私はこうだとハッキリ言っていればよかったが、我慢して、仕方ないのかなと思いながら、どうにもならなくなって・・・・・・。

理想の女性でいてほしいと言う両親の期待やファンのイメージが、吉永さんには重荷になっていた。ストレスが原因で、次第に声が出なくなる。女優生命最大の危機。吉永さんは、ある決意をする。それは結婚することだった。
「人間らしい生活をまずしないと、自分はダメになってしまうと思った。当時、あまりに忙しくて、1週間に8日間の仕事をするような毎日だった。こういう中でやっていたら、自分がダメになっちゃうし、もう1回、原点に返ろうと思うが、そうするためには、自分が背負っている家族とか、会社とか、ファンの方たちと離れなければいけないと思った」

しかし、相手に離婚歴があり、15歳年上だということで、両親は、強く結婚に反対した。
1973年、親の同意を得られないまま、トップスターだった吉永さんは、結婚式を友人の家で行なう。結婚式に両親は出席しなかった。
吉永さんは、実家を出るとき、「ありがとう、行ってまいります」とだけ言う。この日、両親は、一歩も家から出なかった。

吉永さんと別れた和枝さんは、娘への思いを密かに綴っていた。その中に、結婚を期に家を去っていった娘をうたった歌がある。
<「悲しいね、悲しいね」と叫ぶごと去りにし娘の後姿追ふ>
<「自殺するな」と吾れにさとせし老ひ夫(つま)のこころを子達はしるや>
(九十年の心のまゝに)

吉永さんは、親の事務所を退社。女優を休業する。大切なものから離れてでも、人として、普通に生きたい。吉永さんが下した選択。
1年の休業期間。その直前と直後、吉永さんが出演した映画で監督をしたのが、今回の「母べえ」の山田監督だった。普通に生きたいという吉永さんの思いを見つめていた。
しかし、山田監督は、吉永さんは理想の女性像を演じ続けることから逃れることができないと感じていた。
山田監督
「吉永小百合という、あの人の声や表情や醸しだす雰囲気の中に、日本人はいろんな自分勝手な、ある種の理想像を詰め込んでしまっている。で、この人はこうでなければいけないと、皆、思っている。それをあの人は、全部受け止めて、そのように生き、そのように演じなければいけないということが、わかっているのではないのかな。
そういうことは、時々、とても負担だったと思いますよ。だけど、それは宿命みたいなものでしょうね」

結局、1年後、ファンの求めに応じて、映画の世界に戻りました。
これまでの自分にしばられたくない。復帰した吉永さんは、殺人犯や悪女など、これまでにない役を積極的に引き受けていった。しかし、かつてのイメージとのギャップを埋めることは容易ではなかった。
「形だけ挑戦してみても、深いところから演じられない。そうすると、見た人もガッカリしていたと思うし、自分自身もうまくいかなかったという思いが重なっていました」

女優・吉永小百合というイメージから離れ、普通に生きたいと願った吉永さん。しかし、女優として仕事を続けるうちに、映画にのめり込んでいくことになります。「大体、1つの作品を演じているときは、その時代の思いでいますので、24時間ということではないが、自分になる時間のほうが少ない

女優人生が続く中、心に決めたことがある。それは幼いころ夢見た、「子供を産む、母になる」ということを諦めた。実の母親との葛藤の中、考え抜いた末の決断だった。
「親子関係がうまくいかないから、自分が子供を持ったとき、また、同じようなことになるという危惧があった。なかなか大変なことだ。両方はなかなかできない。私自身にとってそれくらい重いことだと思った。
それと、そういう形で結婚したので、結婚生活は絶対失敗したくない、大切にしたい。そうすると、子供がいたらもっと難しくなる。世の中のお母さんたちは、それをチャンとやっていらっしゃるけれど、私にとっては、とても難しいこと。とにかく結婚生活をチャンとやろう。
それと職業柄、この仕事をずっと続けると思ったときに、子供が熱を出したときに、仕事に行けるだろうか。それはなかなか難しい。人に代わってもらえる仕事ではないので。そういうこともあったかもしれません」

昭和の母を心から表現することを求められた吉永さんの演じる役は、母・和枝さんの生きた時代でもあった。しかし、和枝さんとは、結婚して、長年、距離をおくようになってしまった。
1989年、父が亡くなる。
一人、家に残された和枝さんに寄添った。親とは、仕事の考えは違ったが、家族全員で送ることができ、本当によかった。
和枝さんが90歳の時、卆寿の祝いを、家族で行なう。その時、和枝さんはガン。一切、治療もせず、精密検査もせず、4年、元気に生きた。女優としてどう生きるか、考えが合わなかった二人。
 「娘に迷惑をかけたくない」
一人暮らしを続けた和枝さんは、この半年後に亡くなる。

和枝さんの歌集、「90年の心のまゝに」を、吉永さんは初めて、目を通す。
<戦いの最中(さなか)に生(あ)れて白百合の崇(たか)き気ほひを持ちて生きぬけ>
戦時中、吉永さんを産んだときの喜びの歌

<瓶(びん)下げて頭を下げて牛飼ひのばばに乳乞ふ闇牛乳>
物資が乏しい中、和枝さんが必死に育てた思いが込められている。
昭和の時代を生き抜いた女性の思いが込められた母の歌。

「自分の今まで、ダメだった部分、垢みたいなものを、山田監督に取ってもらったみたいな気がするし、また、もう1回、スッピンで歩きだせるのではないかという思いがする。
母親というものに、人間の世界においての、重さ、大切さというものをすごく感じます。自分が母親になってない分、なお感じる。私の中にも“母性”はあるんですが、実際に子供がいない中で、母親の重さ、大切さというものを演じて、ますますそのように思いますし、せめて、実際の生活で母親にならなかった分、演じて感じたことを、これからも大切にしていきたい」

和枝さんの歌集、「90年の心のまゝに」
<子を持つも持たぬも人の宿命(さだめ)なりひと日ひと日をつとめて行かむ>

(ナレーター)吉永小百合、一人の映画女優として、一人の女性として、これからもスクリーンの中で行き続けようとしています。

○(3)(プログラムより)

<小さな茶の間を、大きな時代が通り過ぎていく>

巨匠・山田洋次監督が、吉永小百合主演で描く、激動の昭和

<解説>
大ヒット作「武士の一分」から1年、山田洋次監督の最新作「母べえ」がついに完成した。原作は、黒澤明監督作品のスクリプターを務めた野上照代の、読売女性ヒューマン・ドキュメンタリー大賞優秀賞を受賞した自伝的小説。
舞台は昭和15(1940)年の東京。戦争反対を唱える父が囚われの身となり、残された母と幼い二人の娘が、周囲の人々の優しさに支えられ、様々な困難にあいながらも明るく懸命に生きる姿を描く。
主人公の「母べえ」こと野上佳代を演じるのは、名実共に日本映画界を代表する女優、吉永小百合。そして浅野忠信、壇れい、志田未来、笑福亭鶴瓶、坂東三津五郎ら実力派キャストが、つましくも心を寄せ合って暮らす人々の愛と悲しみ、そしてせつない希望に満ちたドラマを紡いでいく。
ささやかな家庭の日常活動を通じて静かに平和の尊さを訴え続けている吉永小百合と山田監督の深い思いが込められた、心揺さぶる感動作である。

<物語>
昭和15年の東京。父と母、娘の初子と照美の野上家は、お互いを「父べえ」「母べえ」「初べえ」「照べえ」と愛称で呼び合う仲睦まじい家族だ。小さな家庭の穏やかな日常は、文学者である父・滋が治安維持法で検挙された朝から一変する。戦争に反対することが、国を批判するとして罪になる時代だった。
不安を募らせる母と娘たちのもとに、温かい思いやりを持った人々が次々に訪れる。父の教え子で出版社に勤める山崎は、父との面会申請のために奔走し、やがて一家から「山ちゃん」と呼ばれる大切な存在になる。
父の妹で美しく快活な久子は、思春期を迎えた初子とおてんばな照美の良きお姉さん役で、いつしか山ちゃんにほのかな想いを寄せるようになる。そして、変わり者の仙吉叔父さんは、あけっぴろげで遠慮のない性格のため、いくつもの騒動を巻き起こすのだった。

離ればなれになった家族をつなぐのは手紙だった。まるで日記を書くかのような毎日の出来事を父に綴る初子と照美。そんな娘たちの成長を見守ることが母べえの心の支えだった。そんなある日、野上家に思いがけない便りが届く・・・・・。

●(4)最近の若い人の中には、アメリカと戦争をしたことを知らない人がいる、そういう時代になりました。
60年少し前に、日本にはこういうことがあった、そういう時代感覚を再確認していただきたい映画です。あまりにも「平和ボケ」してしまっている現代日本。偉そうなことを私(藤森)は言えませんが、せめて、過去に、それも自分たちの父や母の時代、あるいはまだ生きていらっしゃるかもしれない「祖父母」の時代に、こんなことがあり、こんなに食べること、それも腹いっぱい食べることがこんなにも困難な時代があった、そういう時代に「祖父母」や「父や母」が生き抜いて、そして私たちを育ててくださったという事実を、再確認していただきたいと願っています。

<文責:藤森弘司>

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