2007年8月31日 第61回「今月の映画」
シッコ SICKO

監督:マイケル・ムーア

●(1)デーブ・スペクター氏は、プログラムの中で・・・・・
マイケル・ムーアは東スポ的な手法を使う監督で、そこには彼なりのエンターテインメント性っていうのが強く現われている。普通、ドキュメンタリー映画というのは、中立性を保ち、正確なデータや裏づけをとった上で制作する・・・・・・・<略>
しかし、彼は、自分の意見をどんどん出して、扇動的でセンセーショナルな作品にしている。ジャーナリストとしては失格。それは、彼の映画が事実無根であるとか、ウソだということではなくて、本来入れるべき事実やデータを意図的に落として作品を作っている・・・・・●(2)デーブ氏によれば、エンタテインメント性を持たせて、扇動的であり、センセーショナルな作品に仕上げている。
それだけに見ていて、面白いし、アメリカ社会の恐ろしさが、モロに伝わってきます。客観性を持たせていないので、全体としては正確ではないけれど、少なくても、そこに表現されていることは、デーブ氏も述べているように「事実」です。
巨大会社の恥部を暴露するように、このような形で映画を作ると、ムーア氏は「暗殺」されてしまうのではないかと思うほど、楽しませてくれるけれど、アメリカの医療制度の恐ろしさが強烈に伝わってくる映画です。
ハワイをはじめ、アメリカを旅行する人は、必ず、保険に入ることですね(もちろん、アメリカに限るわけではありませんが)。
ムーア監督は、カナダ人の親戚をアメリカに呼んで、カナダの医療制度について尋ねようとした。隣国のカナダからですから、わずか数時間の予定であったが、その老夫婦は、保険に入らなければ怖くてアメリカに行けないと述べていました。余談ですが、この映画を見ながら、アメリカの連続爆破テロ「9.11」は、9月11日に意味があると思いました。何故ならば、日本は救急車や消防車を呼ぶのは、「119」ですが、アメリカは「911」ですので。単なる偶然かもしれませんが、でも偶然にしては、符合が合いすぎるように思えるのですが???
○(3)2002年、「ボーリング・フォー・コロンバイン」で銃社会に突撃!
2004年、「華氏911」ではブッシュ大統領に突撃!
そして07年、3年の沈黙を破り、“アポなし突撃男”マイケル・ムーアの新たな標的は、テロより怖い、医療問題!!○(4)生きるべきか、死ぬべきか・・・アメリカではそれを決めるのは保険会社。そのウラで医療費が払えないというだけで多くの国民が命を落としている・・・・・!泣く子も黙る超大国のはずなのに保険充実度は世界37位、なんと先進国中・最下位!!<こんな医療制度はビョーキ(sicko)だ!!>○(5)先進国で唯一、国が運営する“国民健康保険”が存在しないアメリカ。よって国民は民間の保険会社に加入するしかなく、6人に1人が無保険で、毎年1.8万人が治療を受けられずに死んでいく。しかし、「シッコ」はちゃんと保険に入っている人々についての映画である。え?なら、何の問題があるの?大ありだ!!

○(6)アメリカの医療保険の大半はHMO(健康維持機構)という、民間の保険会社が医師に給料を支払って管理するシステム。保険会社は、「治療は不必要」と診断した医者には、“(無駄な保険金の)支出を減らした”という旨の奨励金を与え、加入者には何かと理由をつけて保険金を払わない。
さらに多額の献金で政治家を操り、都合のいい法律を作らせる。
人々は高い保険金を律儀に支払っていても、一度大病を患えば治療費が支払えずに病死か破産を迎えるしかないのだ。

○(7)ドキュメンタリー史上2位、200館の拡大上映
世界一の大国の病んだ現実にメスをいれたマイケル・ムーアは、5月のカンヌ映画祭での初お披露目直前に、突撃取材先であるキューバへの不法入国の容疑をかけられた。ブッシュ政権が「シッコ」の公開阻止を試みたか?!あわや上映中止の事態にムーアは全面対決で応戦。
さらに、来年の大統領選候補者の多くが「国民健康保険の導入」を公的に掲げだし、アメリカ全土にムーア旋風が吹き荒れる。そんなもっともホットな「シッコ」は全米公開とともに、ドキュメンタリー史上第2位(1位は「華氏911」)のオープニング興行収入を叩き出し、公開直後には異例の200館の拡大上映!さらなる反響を呼んでいる。

○(8)これは、人ごとではありません。
エンターテイメントの枠を超えて、もはや社会現象となった「シッコ」が、いよいよ医療改革にゆれるニッポンを直撃!!国民健康保険のある私たちから見たこの現象はしょせん他人事?
いや、日本政府は現に医療費を大幅削減し、介護医療は民間に丸投げしているぞ!
日本に健保民営化の可能性がないとは絶対に言い切れないのだ!!

○(9)<解説>
「ボウリング・フォー・コロンバイン」がアカデミー賞長編ドキュメンタリー部門に輝き、「華氏911」でカンヌ映画祭パルムドールを受賞したマイケル・ムーアの新作ドキュメンタリー。大いなる矛盾を抱えるアメリカの医療システムに、さまざまな観点からメスを入れていく。
9.11同時多発テロ事件の際に活躍した消防隊員たちが治療を拒否され、今も衰弱性疾患に苦しんでいる事実を見つめるなど、ムーアらしい切り口にも注目だ。

ドキュメンタリー監督マイケル・ムーアが、4700万人の無保険者だけでなく、保険料を支払っている数百人にもマイナスの影響を及ぼすアメリカの医療システムの実態を明らかにする。カナダ、イギリス、フランスを訪れ、国民全員が無料医療の恩恵を受ける国の事情を見つめながら、アメリカの混乱した医療制度を浮き彫りにしていく。(インターネットのシネマトウデイより)

●(10)週刊ポスト、2007年8月31日号「CINEMA・映画<シッコ>」より

<無保険社会の非道さに鋭く切り込む>
私たちは、日常の中で“これは変”と思うことがあっても、“どうせ変わらない”と諦めて、なおざりにしがちだ。しかし、ドキュメンタリー映画監督のマイケル・ムーアは違う。“変”に向かって突き進む。どこが変なのか?変だと思う人は自分以外にもいるのか?どうしたら変ではなくなるのか?
02年アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した「ボウリング・フォー・コロンバイン」では、銃社会が抱える危険を暴き、04年の「華氏911」では、9・11同時多発テロ以後のブッシュ政権をこき下ろしてきた。
そして、「シッコ」の標的は医療問題。国民健康保険制度のないアメリカでは、個人が民間の保険会社に保険料を払い病気に備える。となれば、当然、保険料を払えない人がいるわけで、6人に1人が無保険。年間1万8千人もが治療を受けられずに死んでいくという。では、保険に入れば大丈夫か?

これまた問題で、利益至上主義の保険会社は、様々な理由を付けて治療費の支払いを回避し続ける。それによって起きる悲劇。2本の指を事故で切断し、「薬指を付けるには1万2千ドル、なか指は6万ドル」と言われ、やむなく薬指だけを接合した大工。保険会社が金を出し渋り、骨髄移植で延命の可能性もあったがんの夫を死なせてしまった未亡人・・・・・。
医療が国民保険でカバーされ、基本的に無料であるフランスやカナダやイギリスも訪れ、時に辛辣に、時にユーモラスに、アメリカの非道な現状に切り込んでいく。そのワザは見事!
ムーアは巧みなストーリーテラーだと、改めて感心した。それにしても、医療費を大幅に削減された日本にとって、アメリカを他人事と思えないところが、辛い。
.<構成・文・・・金子裕子(映画ライター)>

●(11)医師失格・・・あるジャーナリストの告発」本澤二郎著、長崎出版より

<著者・本澤(ほんざわ)二郎氏・・・1942年千葉県生まれ。中央大学法学部法律学科卒業。東京タイムズ政治部長、同編集局次長を経て、政治評論活動に入る。嘉悦女子短期大学講師、二松学舎大学講師を歴任。現在、日本記者クラブ会員、政治評論家、中国・同済大学アジア太平洋研究センター顧問研究員、日中平和交流21代表。
著書:「自民党派閥」(ピイプル社)、「中国の大警告」「天皇の官僚」「アメリカの大警告」(データーハウス)、「霞ヶ関の犯罪」(リベルタ出版)、「小選挙区制は腐敗を生む」(エール出版)ほか多数>

 <<本澤正文医療過誤のあらまし>>(藤森注:正文氏は著者のご子息)

忘れたい。思い出したくもない。運命とはいえ余りにも残酷すぎる。だが、ジャーナリストという以前に、1人の人間として直接見聞した以上、書かねばならない。それは誰しもが日本で生活していると「明日は我が身」になるかもしれないからだ。
わが家を襲った悲劇は10年前から続いている。現在も、である。それは、都内の狭いマンションで勉強していた息子・正文が、ふいに自宅に電話をしてきたことから始まった。「大学病院で検査をするようにといわれた。家に帰りたい」と受話器を受け取った妻に告げた。
妻は散歩から帰宅した夫である筆者に「風邪をこじらせたのかもしれない。明日、帝京に連れて行く」とだけ伝えた。大学病院というと、ここからだと帝京市原病院である。千葉大学病院だと車で1時間もかかる。

「大学病院なら心配ない」と思い込んでいた家族である。この当たり前と考えた医学無知の庶民常識が、なんと当時27歳の息子の将来と夢を奪ってしまった。むろん、筆者を含めて家族・親兄弟も。
「頭にバイキンが入ったもので問題ない、という診断だった」と入院当日の夜、妻は帰宅した夫に知らせた。ほっとしたものの一晩明けて主治医に面会した筆者は、地獄へ突き落とされた。「昨日は奥さんにうそをついた。実は脳のガンです」と告知されたのだから。
大方の人間にとって洋の東西を問わず、ガンと宣告されたら「死」を意味する。同じガンでも脳であれば、それこそ奇跡は起きない。万事休す、である。わなわなと震えた。この世に神・仏もいないのか。
人間の運命のはかなさに泣き崩れてしまった。無力すぎる人間を思い切り悟らされるのである。しかし、後で判明したことだが、事実は主治医が妻にうそをついた病気だった。

誤診は治療の全てを狂わせる。バイ菌は容赦なく息子の脳全体で暴れまわって頭痛も極限に達していたのだが、東大医学部が支配する大学病院は痛み止めの鎮痛剤を服用させて何日も放置した。息子は、まるで軍医に見放された兵士さながら病室に寝かされた。これが当人にとってどんなに残酷なことか。
死を目前に緊急手術が行なわれた。全てが手遅れであったのだが、家族は無知ゆえに回復を信じて6年も病院に通い続けた。雨の日も風の日も妻は通い詰めた。筆者も、可能な限り病院介護に専念した。植物人間の状態で自宅に引き取り介護を始めて4年。不憫きわまりない息子との生活があとどれくらい続くものか。

医療過誤について取材して驚いた。医療事故調査会代表世話人の森功医師による推定過誤死は、実に最大4万6千人という。10年では40万人だ。うそと隠蔽が事故を際限なく、繰り返し発生させているのである。
患者を思いやる心のない医師が多すぎるのだ。日本政府は人間の心を持った正直な医師を養成する義務があろう。失敗したら謝罪し、原因を公表する医師である。
本書は筆者のこうした切なる思いをまとめた10年目の真実である。
2007年2月20日記

●(12)<目次>
第1章・地獄日記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P1
第2章・厳しい自宅介護・・・・・・・・・・・・・231
第3章・消えたカルテ?・・・・・・・・・・・・・271
第4章・医療事故はなくせる・・・・・・・・・・311
第5章・人間性回復の21世紀医療へ・・・345

●(13)2007年8月28日、日刊ゲンダイ「朝青龍“心の病”明かしていいの?」より

<医師の守秘義務違反「6月以下の懲役」>
モンゴル出身力士の旭鷲山は「技のデパート・モンゴル支店」と呼ばれたが、さしずめこちらは「病気のデパート」か。
再来日後の横綱朝青龍には、「神経衰弱および抑うつ状態」「急性ストレス障害」「解離性障害」と、医者によって次々違った診断が下されている。一体どれが本当なのか、どう違うのか、素人にはサッパリだ。
しかし、本当に“心の病”とすれば、これほど簡単にオープンになっていいものなのか。医者が患者の病状について、その人の同僚や上司はむろん、見ず知らずの人たちにまで明かすなんて普通はあり得ない。これでは“患者”のプライバシーなどないも同然だ。

「医者には守秘義務がり、本人の同意もなくペラペラと他人にしゃべることは許されません。刑法134条1項は、『正当な理由がないのに業務上知り得た人の秘密を漏らしたときは、6月以下の懲役または10万円以下の罰金に処する』と定めています。例えば、22日の診察で朝青龍が話したのは“怖い”のひと言、あとは混迷状態だったと報道されています。その通りなら、本人の同意があったとは判断しがたい。とりわけ心の病の場合、第三者に知られたくないと思う人が多いでしょうから、より慎重になるべきだと思います」(中島章智弁護士)

もっとも、病気が仮病で、ひと芝居打っているだけなら、法的に問題はなさそう。ただ、官公庁など公務員が職務を行なう場所に虚偽の診断書を出した医者は、「3年以下の禁固または30万円以下の罰金」になる。
今回の騒動では「横綱の品格」だけでなく、「医者の品格」も問われそうだ。

●(14)今回の「横綱・朝青龍」問題は、「心理の分野」がいかにいい加減であるかを如実に語ってくれています。
①「身体病」ならば大問題になる「診断名」が、バラバラであること・・・・・全部が「誤診」かもしれませんが、少なくても、二つは「誤診」です。
②クライエントの方の非常に重要かつ丸秘情報を、得意げに語るモラルの低さ。
③仮に「仮病」だとしたら、上記のように法的には問題が少ないのかもしれませんが、メディアの前で「朝青龍」に有利になるような虚偽の言動をとるのは、いかに「心理の分野」がいい加減な世界かを証明していると言っても過言ではありません。わずか1回、面接しただけで、三者三様の結論をくだすという、まさに「品格」が問われるところです。
●(15)上記のような「医療過誤」について、私(藤森)が一番言いたいことは、「心理の分野のほうがもっと恐ろしい」ということです。
西洋医学が得意とする「身体病」は、上記のように、「医療過誤」であることを明確に判断できる場合が多いです。といっても一般の人が判断したり、裁判で勝訴できる可能性は低いでしょうが、それでも一般に「身体病」のほうがはるかに判断しやすいですし、注意を喚起しやすいものです。
何故ならば、心理的な分野は、視覚的にも、意識的にも注意が喚起されることはほとんど無いし、専門家の側も、クライエントの側も、そんな感覚すらほとんど無い上に、上記のように無責任極まりない世界ですから。●(16)例えば、私がお世話をさせていただいているあるクライエントの方が、それまで他の専門家のところで指導されていたとします。今まで指導されていたことが余りにも酷いので、率直に、前任者のことを厳しく批判すると、多くの方がおっしゃる言葉は、「いや、でも、あのカウンセラーは親切でいい人だった」です。
確かに「心理の分野」は、看護婦さんのように親切でいい人が多いことは事実ですが、貴重な時間を費やし、その上、悪化させられているのに、「過誤」されたことを「擁護」するようなことを言うのには驚きます。問われるのは、「いい人か否か」ではなく、「症状が改善されたか否か」であるはずなのに。
心理の世界では「悪化」させられていることは、日常茶飯事ですが、恐らく「悪化させられた」という概念すらない場合が多いのではないでしょうか?心理の世界の質が問題だと考えると、学者が「臨床心理士」などというバカな制度を作って、一般人には「受験」することがほとんど不可能な、学者の世界で囲い込むような閉鎖的、ギルド的な制度を作って、高尚な資格であるかのような装いをしています。「臨床心理士」は、現場で活躍する「職人(一般に言われているカウンセラー)」という技術者の養成であって、「学者」養成機関ではないはずです。
全ての分野において、「現場」というのは、「職人の世界」です。つまり「理論」ではなく、実際にそれができる「技能・技術」の世界です。
「学者」というのは、理論や研究が得意な人のことで、「実技能力」は一切関係ありません。これは「学者」が「実技能力」が無いという意味ではなく、「学者」は、「実技能力」を問われないという意味です。
ですから「学者」である限り、実技能力が無くてもいいのです。同様に「職人」は「理論」や「研究」能力は問われません。大工さんであれば、大工仕事が立派にできれば、それでいいのです。
「完全な学者」はいないでしょうし、「完全な職人」も、多分、いないでしょう。「学者」であっても、実践を重んじて訓練している人もいるでしょうし、「職人」であっても、学問、研究を重んじて、立派な論文を書いている人もいることでしょう。●(17)心理・精神世界は、多くの人がこの区別がつかないために、本をたくさん書いている「立派な学者」が、イコール立派な「職人的能力」を有していると錯覚されています。例えば、「Aという学者」がいたとします。この「A先生」が、立派な本をたくさん書いていて、講演会や研修会などで活躍している著名な学者だとします。そうすると、多分、ご本人も、周囲も、ほとんど全ての人たちが、この学者先生は、イコール立派な「職人的な技能」を有しているものと錯覚しています。
だからといって、A先生が、職人的な技能が無いという意味ではありません。この先生が、「実技」を大事にして、特別に訓練して、優秀な技能を有しているかもしれませんが、「学者」は実技能力を問われる「立場」ではないということです。
Aという先生は、実技能力を有しているかもしれないし、有していないかもしれないが、「立派な学者」だから「立派な実技能力」を有しているという「イコール関係」ではないという、この当たり前で簡単なことが、意外に理解されていないために、少々、くどく説明しました。●(18)「心理・精神世界」の怖さは、何度も言いますが、他のほとんど全ての分野とは違って、「目」で見たり、「耳」で聞いたり、「舌」で味わったりできないために、「学者」的な能力と、「職人」的な能力・・・・・「理論」と「実践」の違いが混乱されています。
例えば、「医学」を学んだ「医師」は、「医者」に成り立ての頃、当然の如く、自分が「未熟」であることを自覚して、「医術」の研鑽に務めるはずです。典型的な例で言えば、外科医は「切開」や「縫合」などの練習(「職人」的な訓練)を続けるはずです。
音楽でも、絵画でも、野球やサッカーでも、武道でも、茶道や華道でも、恐らく、全ての分野において、「理論」と「実践」は違うことが明確に理解されています。ですから、どんなに相撲に詳しくても、横綱審議委員の人に弟子入りしたり、指導を仰ぐ人はいないでしょう。それは「評論家」と「職人」は違うことを誰もがわかっているからです。

ところが、こと心理の世界は、五感で確認しにくいために、「学者」的な能力に優れている人が、「職人」的な分野においても「有能」な専門家であると、ムチャクチャに錯覚されています。そして、「臨床心理士」という制度が、この誤解に拍車をかけていると私は思っています。
何故なら、「医学」ならば、医者になってから、「医術」の訓練がさらに必要であることは簡単に理解できます。例えば、傷口がいつまでも治らないとか、縫合した部分が膿んでいるとか、風邪がなかなか治らないとか、多くのことが「五感」で感覚できます。

ところが、「五感」で感覚しにくい「心理」の分野は、「学者」的な訓練こそ・・・・・「理論」や「学識」が豊富であることこそが立派な専門家であるという、恐ろしい「誤解」「錯覚」が蔓延しているために、「学者」的な能力が問われる「臨床心理士」試験に合格すると、それは「立派な専門家」であると、本人も周囲も錯覚してしまっています。
そのためにその後も、その延長線上での研鑽を積むという恐ろしいことになっています。
どうしてこういう「誤解」が起こるのか。それは世の中、「学者」が支配しているために、「学者」優位の計画しか立てられないことと、学者が、自己否定につながるような制度を作れるわけがないからです。
学者を養成するならば、学者が制度を作れば良いわけですが、職人を養成するのに、学者が制度を作るのですから、学者的な視点からしか作れませんし、学者的な制度を作らなければ、学者がいかに職人的な能力が不足しているかが発覚してしまう上に、自己否定になりかねません。
でも、音楽大学を卒業して、楽器をうまく扱えない人っているのでしょうか?同様に、絵画の学校を卒業して、うまく絵を描けない人っているのでしょうか?

●(19)「身体病」と同じように、「心理的な症状」も大変辛いものです。人生がムチャクチャになるほど困難な状況に直面することも多くあります。それなのに、一人の人間に対応するのに、余りにも「浅薄」に対応しすぎています。人間の心の奥深さというものについて、余りにも無知すぎることに驚愕することがよくあります。
一つの例を言いましょう。
ある専門的な勉強会に参加するとします。参加者は皆、心理の専門家です。そこで出される実例は、かなり深刻な例であるのに、それに対する対応の浅薄さには言葉を失います。
しかも、その場は、「深い無意識」の領域を中心に研究する場であるにも関わらず、クライエントの方が「ああ言った、こう言った」などと、表面的なことがかなり中心になって意見がだされます。そのレベルには驚かされますが、参加者は、いわゆる一流の職場(たとえば一流の病院のカウンセラー)で仕事をしている、社会的立場は立派な専門家です。
心理の世界の「研鑽の方法」が完全に狂ってしまっているように、私(藤森)には思えます。しかし、いくら研鑽の方法が違っていても、他の全ての分野の場合では、その違いはすぐにわかりますが、「五感」で感覚しにくい「心理の分野」は、学者優先の誤解された「研鑽方法」の線上を、どこまでも突き進むことになってしまっています。
このことについては、もっともっと詳しく書きたいのですが、また、別の機会にしたいと思います(2007年9月15日「今月の言葉」「メンゲン・治癒反応・自己成長反応」をご参照ください)。

<文責:藤森弘司>

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