2007年7月31日 第60回「今月の映画」
特攻・TOKKO

監督・プロデューサー:リサ・モリモト   プロデューサー・構成:リンダ・ホーグランド

<映画館「シネラ・セット」電話03-5458-9267、渋谷・東急本店のすぐ前のビル3階、50席程度、8月中旬くらいまで上映予定>

○(1)(パンフレットより)
この映画は、元特攻隊員にインタビューを行なった特攻隊員の個人的ストーリー
そのうちの3人は、1945年の春、沖縄周辺のアメリカ艦隊を攻撃するため、実際に大空へ飛び立った。①元特攻隊員:江名武彦(予備学14期、偵察、百里原空)・・・・・1943年10月、20歳のときの学徒出陣で、他の数千人の大学生とともに海軍に徴兵。基本的な訓練を受けただけで、45年3月に特攻を命じられ、4月28日に飛び立つが、エンジンの故障で出撃地近くの基地に不時着。
5月11日に2度目の出撃に挑むが、再びエンジンの故障で日本本土から75キロ南の黒島沖に不時着し、島民からもらった芋で生き延びる。7月29日に日本の潜水艦に救出され、長崎に到着。所属基地へ汽車で戻る途中の8月7日、その前日に原爆で廃墟と化した広島の街をさまよい、その惨状に衝撃を受けて、これから先は戦争に反対しようと誓った。戦後は食品メーカーに就職し、大豆輸入の仕事で何度かアメリカを訪れている。②元特攻隊員:浜園重義(丙飛11期、操縦、百里原空)・・・・・1942年5月、ミッドウェイ海戦の直前に18歳で海軍入隊。1年6ヶ月の飛行兵訓練を経て、ラバウルをはじめ各地で米軍との戦闘を経験した後、茨城県百里ケ原航空隊に飛行訓練の教官として配属(この映画に登場するパイロットたちは、全員この百里ヶ原で訓練を受けている)。
45年4月6日、偵察員の中島一雄とともに特攻出撃するも、目標の米艦隊まであと数分というところで3機の米コルセア戦闘機と遭遇し、35分にわたる空中戦を展開。奇跡的に敵機は去っていったが、林に墜落して重傷を負う。戦後は警察予備隊から海上自衛隊一等海尉まで昇進して退職。彼はあのとき敵のコルセア戦闘機が敢えて自分を殺さずに去ったと信じており、今もそのパイロットに会いたいと願っている。③元特攻隊員:中島一雄(乙飛18期、偵察、百里原空)・・・・・海軍飛行兵に憧れる血気盛んな少年だった彼は、猛勉強の末に16歳で海軍予科練の試験に合格。他の飛行兵よりも年下で若かったため、特攻の命令を受けた45年3月の段階では、まだ訓練中の身であった。
彼は偵察員として浜園重義の操縦する機の後部座席に乗り込んで出撃。コルセア戦闘機との空中戦では機関銃の射手の役割を担った。戦闘後、ボロボロになった機で帰投する途中、沖縄に向かう陸軍特攻機と遭遇した彼は、「引き返せ!どのみち標的まではたどりつけやしないんだ!」と、彼らに伝える手段はないものかと思ったという。
戦後は警察予備隊から海上自衛隊の准海尉まで昇進。その後工場勤務を経て、現在は夫人とともに静かな余生を送っている。

元特攻隊員:上島武雄(予備学14期、操縦、百里原空)・・・・・20歳のとき学徒出陣で海軍予備学生として徴兵。訓練は過酷だったが、初めて空を飛んだときの感慨は今も忘れられないという。45年3月に特攻の命令を受け、4月4日に東京の実家を訪れるが、そこで父親に自分が特攻隊の訓練を受けているということは言えなかったという。
その後、百里ケ原基地から仲間が次々と大空の彼方へ消えていくのを見送りながら、果たして自分には彼らと同じ運命をたどる勇気があるだろうかと自問自答しつつ、特攻訓練を続けた。8月15日に日本が降伏したとき、自分がまだ生きていることが信じられなかったという。
戦後は日本に進駐する米兵の話す英語を学び、ヨーロッパからオーディオ機器を輸入するビジネスで成功を収めた。

○(2)監督・プロデューサーのリサ・モリモトは・・・・・渡米した日本人アーチスト夫妻の娘として、ニューヨークに生まれ育った。彼女はアメリカの学校で第二次世界大戦について学んだため、12月7日になるとクラスメイトが日本軍の真珠湾への“卑劣な攻撃”について、自分をいじめるのを怖れた。彼女は日本にルーツがあったが、特攻隊員に対しても、彼らはアメリカの軍艦に喜んで体当たりして自爆する狂信者であると信じて疑わなかった。

○(3)プロデューサー・構成のリンダ・ホーグランドは・・・・・リベラルなアメリカ人宣教師夫妻の娘として、日本の地方で生まれ育った。彼女は日本の学校で第二次世界大戦について学んだため、広島や長崎が話題になるたびに、クラスメートが自分を非難の眼で見つめているように思えてならなかった。彼女はアメリカ国民ではあったが、あの戦争では米軍の爆撃によって何千、何万という日本人が殺され、その中で特攻隊員は喜んで自らの命を捧げた無垢な犠牲者だと信じていた。

○(4)叔父の意外な過去を知ったリサは、元特攻隊員たちに取材することを思い立ち、すぐさま行動に移す。しかしそこで彼女が出会ったのは、自殺願望のある狂人ではなく、穏やかで、時に怒りを露わにし、そして常に思慮深い八十代の男たちだった。彼らは自分たちの体験した恐怖や、矛盾する感情、愛国心、そして生き残ったことへの罪悪感などを事細かに打ち明けてくれた。

日本で生まれ育ったリンダにとっては、この元特攻隊員たちの率直な証言がいかに貴重なものかがすぐに理解された。この企画が、特攻隊に対して長年抱かれていた国際的なイメージや、ひいては第二次世界大戦の記録までをも見直すことのできる、稀な機会であると確信したリンダはプロデューサーとして、本編の構成に大きく関わることになる。

○(5)このアメリカ人としての視野をもつ日系人と、日本に生まれ育ち日本的視野を備えたアメリカ人二人は日米両国の側から捉えた神風特攻隊に関するリサーチを徹底的におこなった。リサはワシントンの国立ライブラリーにある数百時間の映像フィルムと莫大な数の写真に目を通し、さらに終戦間際に特攻機によって撃沈された駆逐艦USSドレックスラー号の生存者たちの集会を取材。
元特攻隊員たちと同様、現在八十代のドレックスラーの生存者たちも、神風特攻隊を新たな側面から見据えたエピソードを提供してくれた。一方日本語に精通したリンダは日本側の書籍、アーカイブなどをくまなくたどり、当時のプロパガンダ映像や死を目前にした十代の特攻隊員のスナップ写真、彼らに指令を下した上官の映像などを発見。これらの映像の中には、今回初めて公になるものもある。

○(6)この映画は、欧米では自爆テロの先駆者として憎悪される一方、多くの日本人からは無私無欲の殉難者として今も美化されている特攻隊の真の姿を検証しようと試みたものである。
生存者によって語られるエピソードの数々は明らかに、日米両国に今なお存在する「カミカゼ伝説」を覆すものだ。二人のフィルムメーカーは、敗北することを認めようとしなかった軍の命令によってもたらされた戦争の全犠牲者に対して追悼の念を表するとともに、自分たちの今回の共同作業が、日米両国の視点から第二次世界大戦の歴史を再考するための貴重な足がかりとなることを強く願っている。

○(7)悲劇か、狂信的行動か
太平洋戦争の末期、日本軍は爆弾を搭載した軍用機を搭乗員ごと敵艦に体当たりさせる特攻作戦を繰り出し、何千もの命が散らされていった。戦後、日本ではこうした特攻隊員たちの自己犠牲の精神は、戦争がもたらした大いなる悲劇の1つとして、哀悼の意が捧げられている。
しかし、海外では、これを“KAMIKAZE”なる狂信的な行動の象徴と捉えられることが多く、特に9・11ニューヨーク同時多発テロ事件以降は、自爆テロと特攻隊を結びつけて語られることも増えてきている。

○(8)ふたつの目をもつフィルムメーカーが見据えた“TOKKO”
映画「TOKKO 特攻」は、日系二世アメリカ人監督リサ・モリモトの視点から、日本の特攻隊員たちの忘れられない真実に迫る長編ドキュメンタリー映画である。彼女は自分の亡き叔父が戦時中に特攻隊員として訓練を受け、戦後はそれを誰にも語らなかったことを知って衝撃を受け、彼の足跡を追うべく日本を訪れた。海外では訓練を受けた特攻隊員の中に何百人もの生存者がいることはほとんど知られていない。
なぜ彼らは特攻を志願したのか。自らの命を捨てる行為に恐れはなかったのか。そして叔父はなぜそのことを自分だけの胸の内に秘めて、この世を去ったのか?彼女は親族や、特攻隊員の生存者たちにカメラを向け、彼らの驚くべき体験談に耳を傾けていく。

さらにプロデュースと構成を手がけたのは日本映画の英語字幕の第一人者として知られるリンダ・ホーグランド。
日本人のルーツを持つアメリカ人であるリサ、そして日本で生まれ育ったアメリカ人であるリンダ。日本とアメリカ、かつて敵対していた双方の国と大きな繋がりを持つ二人の作り手たちが、それぞれの国に今もなお残る「カミカゼ」伝説に光を当てていく。

○(9)特攻とは何かを探るためのユニークなアプローチ
アメリカ側の取材では、特攻によって沈没した米駆逐艦の乗組員の生存者たち、すなわち特攻隊と直接“出会った”人々に出会うことができた。彼らにとっても忘れ得ない記憶が、カラーで残されていた特攻機激突の瞬間を記録したフィルムとともに生々しく語られている。さらにはグラフィックアニメーションによるさまざまな映像的試みを交えながら、特攻とは一体何だったのかが浮き彫りにされていく。
完成した本作は、カナダのトロントで行なわれた北米最大のドキュメンタリー映画祭でプレミア上映され、世界中の観客たちの深い衝撃と反響を呼び、急遽日本公開が決定した。

○(10)世界、そして日本の危機に向けてのメッセージ
戦後60年を過ぎ、当時の証言者たちも高齢となって、次第にその記憶が人々から薄れてゆくとともに、世界中が次なる戦争の危機に常に見舞われている現在、日本でも平和憲法の改正が唱えられている。こうした動きはかつて日本が軍事国家の道を歩んでいった経緯と似てはいないだろうか。
それまで特攻をテロリストと同等の自滅的な狂人“KAMIKAZE”と重ねるアメリカ人の風潮を身をもって感じてきた監督とプロデューサーが対峙する特攻の真実は、日米両国の視点から第二次世界大戦の歴史を再考するための、戦後しか知らない世代が未来を生きていくための、貴重な手がかりを伝えている。

○(11)KEY WORDS
<特攻隊“特別攻撃隊”>
太平洋戦争におけるアメリカの物量と科学技術を駆使した攻勢によって追い詰められ、敗色が日増しに濃くなっていく日本軍は、爆弾を積んだ軍用機で飛行兵もろとも敵艦に体当たりする自爆戦法“特攻”を発案。
もはや「大和魂」に頼る以外、アメリカに勝ち目はないといった日本独自の精神論がもたらした作戦であったが、生還の可能性のない作戦への参加を当然視する風潮の強い日本軍の中では、受け入れられやすい作戦でもあった。現に、特攻が正式の作戦となる以前から、個々のパイロットの自発的な判断による体当たり攻撃は、しばしば行なわれていたのである。
1944年3月には人間爆弾や人間魚雷などの“特別兵器”を用いた特別攻撃作戦が計画され、同年6月のマリアナ沖海戦の敗北後、軍はこれを承認。9月には人間爆弾“桜花”を配した特攻部隊を編成(実戦投入は翌年春の沖縄戦以降)するなど、その準備は着々と進められていた。<初の特攻作戦>
初めて組織立った航空特攻作戦が行なわれたのは、1944年10月、日本の連合艦隊が事実上壊滅したとも言われるレイテ沖海戦である。その発令は同月20日。25日には海軍の関行男大尉率いる敷島隊など爆弾を搭載した24機の零戦が“神風特別攻撃隊”を編成して出撃。関大尉は米護衛空母へ突入していった。
彼は当時結婚して日が浅く、また事実上は上官からの指名を受けた形であったため、悩んだ末に出撃を決意したという
その後、彼は海軍報道班員に「自分のようなベテラン・パイロットを殺すようでは、もう日本もおしまいだ。しかし自分は国のためではなく、愛する妻を守るために死ぬのだ」と語ったと伝えられているが、この言葉は特攻隊員の心情を代弁する思想として、戦後の日本でポピュラーに広まっていくことにもなった。 <神風>
この言葉の語源は13世紀後半、元が二度にわたって日本を攻めてきたとき(元寇)、その二度とも台風が元の船団を直撃して壊滅させたという逸話(もっとも一度目は台風ではなく、準備不足だった元軍が自ら引き返したというのが真相のようである)から来たもので、いつしか日本は危機的状況に見舞われるとき必ず神風が吹くといった思想が芽生えていった。
海軍はこれに倣い、最初の特攻作戦を実行する隊を神風特別攻撃隊と名称し、以後もこれを用い続けた(陸軍の特攻隊には「神風」そのものの名称はない)。なお、ここでの「神風」の読み方は本来「しんぷう」なのだが、その最初の出撃を報じたニュース映画のナレーターがこれを「かみかぜ」と読み、また兵士や国民も違和感なくその呼称を用いたことからいつしかこれが定着し、特攻隊そのものの代名詞と化していった。海外でも特攻隊を“KAMIKAZE”と別称しているが、最近では中東の自爆テロとも重ね合わせた狂信的愚行の象徴として使用されることも多い。<大西瀧治郎>
レイテ海戦の際、第一航空艦隊司令長官として特攻作戦を発令したとされる海軍中将で、“特攻の創始者”として語られることも多いが、そもそも特攻作戦は軍令部が計画的に推し進めていたもので、後からその責任をすべて負わされたという説もある。
特攻作戦に対して彼は終始“統率の外道”と称していたが、いずれにせよ作戦は実行され、以後特攻は軍の主力作戦と化していく。そして1945年8月16日、終戦の翌日未明に大西は介錯なしで割腹自殺を遂げた。

<沖縄戦>
45年春、沖縄海域まで侵攻してきたアメリカ軍に対し、特攻作戦は激化。陸海両軍を挙げて、日夜特攻機が沖縄の海に向けて飛び立っていった。また日本海軍の象徴ともいえる戦艦大和も水上特攻へと向かい、その途中の4月7日、敵の攻撃を受けて沈没。沖縄戦に投入された特攻機の数はおよそ1900機で、その搭乗員数3000名。米軍側の被害は艦船の撃沈26隻、損傷164隻。

<1945年8月15日まで>
戦争末期、国内では女性や老人子供まで合わせた“1億総玉砕”本土決戦の準備が急速に進められていくが、それは海岸に「たこつぼ」(1人用の塹壕)のような穴を掘ってアメリカ兵を待ち受け、竹槍で攻撃するなどといった原初的なものでしかなかった。特攻作戦も肝心の飛行機そのものが少なくなり、ついには練習用の複葉機“赤とんぼ”で敵艦へ突入を図るといった末期的状況に陥っていく。
やがて8月6日に広島、8月9日長崎と原爆が投下され、その間にソ連は日ソ中立条約に違反して満州・樺太へ侵攻する。ここに至り、ついに日本は8月15日に無条件降伏。ようやく戦争は終結したが、第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将は、玉音放送を聞いた後、“これまでの責任を取るべく”11機22名の部下を率いて“特攻”出撃していった。特攻作戦によって撃沈されたアメリカ海軍の艦艇は34隻、損傷288隻。そしてこの作戦による日本軍戦死者の数は(諸説あるが)およそ4000人とされている。

<特攻隊の生還者>
エンジンの故障や天候不良などで帰還した者、出撃命令を待ちつつ8月15日を迎えた者などなど、生還した元特攻隊員たちも多く存在する。彼らは総じて、自分だけが生き残ってしまったという亡き戦友への負い目などから心に傷を負いつつも、戦後の復興に尽力していくが、その多くは自分が特攻隊員であったことをあえて他者に語ろうとはしなかった。
近年になって徐々にではあるが、彼らがその重い口を開き始めてきているような感もある。それは戦後60年という月日が経ち、世界的にも新たな戦争の危機に見舞われている今、その戦争とは、そして特攻とは一体何であったのかを、それぞれがそれぞれの視点で語っておきたいという意識が発露したのかもしれない。彼らが当時を振り返るという行為は自分たちの青春時代を回顧することでもある。どんな過酷な時代であったにせよ、彼らにとってそれはかけがえのない青春の日々であり、決して忘れられない思い出に相違ないのだ。

○(12)リサ・モリモト(監督・プロデューサー)
1967年、日系アメリカ人二世として、NYで生まれる。
京都の同志社大学でも学んだ経験のある彼女は、1999年にニューヨーク大学の映画と教育学の修士課程を卒業。
2001年から2006年までメディア芸術の非営利団体“Asian CineVision”の理事を務めている。
98年に最初の長編映画“The LaMastas”をプロデュース。以来、映画とテレビを中心に製作・脚本・監督を務めてきた。
アジア映画を紹介する30分シリーズのテレビ番組“Cinema AZN”では、テレビ関係の賞を受賞している。○(13)リンダ・ホーグランド(プロデューサー・構成)
アメリカ人宣教師の両親のもと日本で生まれ、日本の公立学校で学ぶ。
エール大学卒業後、日本のテレビ局のニューヨーク支社でバイリンガル・ニュースのプロデューサーとして北米・南米の報道を担当する。1987年、ニューヨークの独立プロダクションに入社。日本の大手テレビ局のドラマやドキュメンタリーのアシスタント・ディレクター、アシスタント・プロデューサーとして経験を積む。
やがて日本映画の字幕翻訳に携わるようになり、1995年以降、黒澤明、宮崎駿、深作欣二、阪本順治、是枝裕和作品ほか多くの日本映画の字幕翻訳を担当し、その数は150本以上に及ぶ。
さらには三谷幸喜の舞台、梁石白の小説、落語の翻訳と、その領域も多彩である。また日本の映画監督、アーティスト、作家のバイリンガル・エージェントとしてインターナショナルに活動を続けている。
2004年には日本の外務省から、日本映画の海外進出における功績を讃えて表彰を受けた。ニューヨークに在住。
7月、翻訳を手がけた中村勘三郎率いる平成中村座の公演がNYリンカーンセンターで行なわれる予定である。

<文責:藤森弘司>

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