2007年6月30日 第59回「今月の映画」
女帝エンペラー

監督:フォン・シャオガン   主演:チャン・ツィイー   ダニエル・ウー   グォ・ヨウ   ジョウ・シュン

●(1)中国で大胆かつ絢爛豪華に生まれ変わった「ハムレット」
「超一流のスタッフに恵まれた、なんとも贅沢で見事な『ハムレット』翻案映画」(河合洋一郎・東京大学大学院准教授)とパンフレットにあります。どうやらそうらしいのですが、私(藤森)がこの映画を取り上げたのは、別の観点からです。
最近読んだ本の中に、聖徳太子のことが書かれていました。私たちが、通常、イメージする聖徳太子とは全く違う人間像が描かれているのには、驚きましたが、この凄まじい映画を見ながら、この「聖徳太子」のことが思い出されました。
 その本の中に描かれている聖徳太子については最後にご紹介します。
さて、パンフレットの内容をご紹介する前に、この映画の時代背景、「五大十国」を百科辞典より、ご紹介します。
●(2)「五大十国(ごだいじっこく)」
中国で、907年から960年に至る約50年間に興亡した国、およびその時代をいう。黄河流域の中原(ちゅうげん)の地に後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)の五王朝が相次いで興亡し、中原の地以外には前蜀(ぜんしょく)、後蜀(こうしょく)、呉(ご)、南唐、呉越(ごえつ)、荊南(けいなん)(南平)、?(びん)、楚(そ)、岐(き)、燕(えん)、南漢、北漢など10余国が分立していた。
中原の五王朝を五大といい、他の諸国を十国と称し、両者を五大十国とよんでいる。五大の皇帝は唐王朝の正統な後継者の地位を保っていたが、十国の君主も五大の皇帝と対等であるという意識をもっていた。それは、彼らが武人として実力で政権を樹立したことによっていた。 「中原(ちゅうげん)」
夏(か)、殷(いん)、周三代が都を置き、中国文化の発祥地とされる黄河中流域を中心とした地域。中華、中国ともよばれ、周辺の夷狄(いてき)の地とは区別される。
しかし、漢民族が形成され絶えず周辺諸民族を同化させながら中華の枠が拡大していくにつれ、中原の地も拡大していく。魏晋(ぎしん)南北朝時代に揚子江(ようすこう)中・下流域を中心とする江南が開拓され、北宋(ほくそう)代以降はその地が華北にかわって経済的中心地になると、華北全体を中原とよぶようになる。
<以上は、ソニー日本大百科全書>
○(3)(パンフレットより)古代中国の五大十国時代。唐王朝が滅び、国と国とが絶え間なく争い、皇室内部でも実の父と子、兄と弟が殺し合っていた戦乱期。類稀なる美しさと聡明さで、皇帝の愛と絶大な権力を得た王妃ワン(チャン・ツィイー)の国も例外ではない。
ある日突然、皇帝が謎の死を遂げた。それが新帝に即位した弟リーの策略であることは誰の目にも明らかなこと。リーが皇太子ウールアンの暗殺も企んでいると知ったワンは、年の近い義理の息子である皇太子を守るため、夫を殺したリーとの結婚に同意する。ウールアンとワンはその昔、密かに想いを寄せ合っていた仲なのだ。ワンへの想いを断ち切るため、呉越の地に隠遁し、歌と踊りの世界に生きていたウールアンは、父の死去の知らせを聞き、都へと馬を走らせた。
恋焦がれていた王妃ワンを手に入れた新帝リーは、夜ごと尽きることのない欲望に溺れ、ワンに命を捧げると約束する。しかし太陽が昇る頃には、己の権力を完璧にするため、皇太子側につこうとする者を容赦なく粛清した。臣下たちの前でリーに忠誠を迫られたワンは、自分の身を守るため、世界で一番憎い男の前にひざまずく。
しかし、その瞬間、ワンは胸の奥で脈打つ気高く強い魂を、復讐の神に捧げる。一方、都に帰郷した皇太子ウールアンは、怒りに震えていた。父が毒サソリに咬まれて死んだなどという話は到底受け入れられない。また、新帝リーの妻になったワンへの嫉妬と不信にも苦しんでいた。ウールアンのいいなずけチンニーだけは一途にウールアンを慕い、その気持ちを伝えるが、ウールアンはそんな彼女の純粋さにさえ疑いの目を向けてしまう。
王妃ワンの身体だけでなく、心も得たと信じていた新帝リーは、王妃の盛大な即位式を執り行なう。皇太子ウールアンは式の演舞の代わりに父の毒殺を告発する芝居を披露。怒りを秘めた拍手を贈ったリーは、皇太子を隣国に派遣すると宣告する。両国友好のため、互いの王子を人質として交換しようという申し出を受けたのだ。
その瞬間、新帝、王妃、皇太子の3人は、心の中で「暗殺」、「復讐」、「仇討ち」を決意する。

隣国への旅の途中、リーは再び皇太子暗殺を企てるがまたしても失敗に終わる。ワンが、チンニーの身柄を盾に、彼女の兄イン・シュアン将軍に阻止させたのだ。
イン・シュアン将軍は血に染まったウールアンの芝居用の仮面を手に宮廷に戻り、皇太子は死んだと偽りの報告をする。喜んだリーは、国を挙げての夜宴を開催することにした。
広大な宮廷を満たす舞を踊る男女と群臣。高い天井にこだまする雅な音楽。時は満ちた。酌み交わされる美酒・・・・・。新帝に捧げる盃に、そっとサソリの猛毒を溶かす王妃ワン・・・・・。
皇帝が盃に口をつけようとした瞬間、チンニーが歌舞団を引き連れて現われる。愛するウールアンが殺されたと思い込んだチンニーは、彼への追悼の意を込めて舞を披露したいと申し出る。その一途な想いに心を打たれた新帝リーは、自らの盃をチンニーに与えようとするのだが・・・・・。

この機会に権力を横取りしようと画策するチンニーの父と兄、剣を隠して歌舞団に紛れ込む皇太子ウールアン、復讐を目前にした王妃ワンが息を呑んで見守る中、様々な欲望で満たされた盃は誰の手に・・・・・?
王妃ワンの復讐劇の結末は・・・・・。

昼も夜も屈辱をかみしめながら、彼女は待っていた。すべてを奪った男に復讐を遂げる、悦びの瞬間を・・・・・

○(4)*王妃ワン・・・・・若さと美貌、豊かな肉体を聡明な知性を併せ持ち、先の皇帝に見初められる。皇帝の寵愛で運命が決まる宮廷で、自らの欲望を叶えようとする強く気高い女性。実は王妃になる前から、4歳年上の皇太子に密かに想いを寄せている。

*皇太子ウールアン・・・・・争いを憎み、権力を嫌い、歌と踊りを愛する孤独な芸術家。想いを寄せていたワンを父にめとられ、失意の日々を送っていた。いいなずけチンニーの純愛に少しずつ心を開いていくが、苦悩の末に父の仇討ちを決意する。

新帝リー・・・・・王妃ワンへの欲望と権力への渇望が一つとなり、実の兄を毒殺。皇太子をも毒殺しようと企てる。皇帝に即位してからは、己の支配を完璧にするため、非常で残虐な粛清も眉一つ動かさず行なう。冷徹な男だが、ワンへの愛に目覚めていく。

皇太子のいいなずけチンニー・・・・・イン宰相の娘。先の皇帝亡き後、父に婚約の破棄を命じられる。ウールアンが王妃ワンを想っていることにも気付いているが、ウールアンへの愛は変わらない。ひたむきにウールアンの孤独を慰めようとする。

イン宰相・・・・・常に時の権力者に従うことで生き残ってきた男。娘チンニーと皇太子の婚約も破棄しようとするが、王妃ワンに娘の身柄を盾に謀反を強いられる。権力に眼が眩み、王妃を裏切って最後の賭けに出ることを決意する。

イン・シュン将軍・・・・・イン宰相の息子であり、チンニーの兄。文武両道に秀でた優秀な軍人。心から愛している妹のためにも敬愛する父の野望を叶えようとする。

●(5)さて、これから私の述べたいことを書くために、結末を紹介してしまいます。映画を見に行く予定の方には、ごめんなさい。
①リーは、実の兄の皇帝を殺害し、自分が皇帝になります。そして前皇帝の王妃を寵愛し、やがて王妃にします。
③(王妃)ワンに想いを寄せていた前皇帝の皇太子・ウールアンは、父・皇帝に娶られたワンを忘れようと、隠遁生活をするが、父が殺害されたことを知ると、復讐を誓う。
④前皇帝を殺害した現皇帝のリーは、ウールアン皇太子の殺害をも計画する。
⑤皇太子を想い、自分の夫を殺害された王妃ワンは、ウールアン皇太子を救う工夫をすると同時に、現皇帝の殺害を計画する。以上の流れから、まとめて説明すると・・・・・
⑦前皇帝は、弟の現皇帝に殺害されます。
⑧王妃ワンは、夫である前皇帝を殺害した義弟の現皇帝の王妃になり、また、この現皇帝を毒殺します。
⑨皇太子ウールアンは、祝宴の場で、皇帝の近衛兵に切り殺されます。
⑩皇太子ウールアンのいいなずけチンニーは、この祝宴の場で、皇帝より差し出された盃(これは王妃ワンが、皇帝を殺害しようと毒を入れた盃)により、死にます(現皇帝は、盃の残りを飲んで死を選びます)。
⑪皇太子ウールアンのいいなずけチンニーは、兄のイン・シュアン将軍から、異常なまでに愛されています。恐らく恋愛感情ではないかと思われます。
⑫最後の場面で、生き残った王妃ワンは、投げつけられた短剣により死にます。●(6)以上の、もの凄いドロドロの場面を見て、この映画が史実に基づいて製作されたものではないかもしれません(ハムレット翻案映画だといわれていますので、「五大十国」の時代を設定しただけで、史実とは無関係かもしれません)が、でもまるっきり歴史に無いことかといいますと、むしろ似たようなことは数多くあるのではないかと思います。
といいますのは、この映画を見ながら、思い出したことがあります。聖徳太子の時代です。
●(7)井沢元彦著、「逆説の日本史② 古代怨霊編」(小学館文庫)より第一章<聖徳太子編>・・・「徳」の諡号(しごう・おくりな)と怨霊信仰のメカニズム

史上初の女帝出現と聖徳太子の「天皇暗殺」疑惑
<略>
聖徳太子が聡明な人物であったことは間違いない。しかし、子供の頃からそうであったかどうかは正確にはわからない。
だが、はっきりしていることもある。それは父親に死なれた14歳以後22歳ぐらいまでの太子は、極めて劣悪な家庭環境にあったということである。
太子は、今の言葉で言えば「不良」化してもおかしくないほどの、ひどい家庭環境にいた。
それは次のようなものだ。

聖徳太子の家庭環境を、現代に置き換えてみれば、どれほどの欠損家庭か、分かりやすいだろう。
ここに、18歳の少年(=太子)がいる。いまなら、高校3年生である。家は、土地の有力者で、生活の不自由はない。知事だった父親(=用明天皇)が、5年前に死んだ。財産もあるから、生活に困ることはない。その意味では、恵まれている。
父のもとで、副知事を務めた、この土地の第二の有力者(=蘇我馬子・そがのうまこ)に、娘(=刀自古・とじこ)がいる。彼は、この娘と知り合って、結ばれる。しかし、これも、淫蕩な娘が誘惑したせいか、あるいは策略家の父親が、我が娘に命じて、彼の家との閨閥をつくるため、わざと二人を出会うように仕向けたせいかもしれない。娘は、妊娠し、二人は、両家から祝福されて結婚し、子(=山背の大兄の王・やましろのおおえのおう)が生まれた。

《彼の母の兄(弟?)が、知事になっている(=崇峻天皇・すしゅん)。彼の伯父にあたる。この伯父が、暗殺される。犯人は、彼とも顔見知りで、妻の外国語の家庭教師だった(=東漢直駒・やまとあやのあたいのこま)。しかも、①妻は、この犯人と不倫関係をつづけていて、ついに夫も子も捨てて、犯人と逃げようとする。ついに、犯人は、妻の父の手で殺され、妻も、その男のあとを追って自殺してしまう。
彼は、動転している。そのとき、おもいがけない事実が、つぎつぎに、明るみに出る。彼の母は、後妻だった。先妻の子・・・彼からみると、異母兄(=多米の皇子)がいる。母は、五年まえに未亡人となり、寂しさに耐えられなかったのだろうが、相手もあろうに、この異母兄と、できてしまったのである。しかも、母からは、妊娠していることを、打ち明けられた。
彼は、死んだ妻の父のもとへ、相談に行ったかもしれない。そこで、さらに意外な新事実に突き当たる。②義父だった有力者は、彼の叔母(=推古天皇)と、できている。叔母は、料理が上手で、彼は幼いときから、とりわけ可愛がってもらった記憶がある。この美しい叔母が、死んだ妻の父親と、男女の関係になっていた(「聖徳太子の悲劇」豊田有恒著、祥伝社刊)。》

これは決して誇張ではない。
聖徳太子の家庭環境というのは、こういうものだったのだ。
ただし赤文字(原文は赤文字ではなく、下線)の①と②の部分については、「それが事実か」と疑問視する人もいるだろう。
ただし②つまり「推古女帝・蘇我馬子密通説」については、歴史学者の中にも既に唱えている人がいる。定説ではないにしても独自な新説というわけではない。
これに対して①は、あくまで豊田氏の新説だが、根拠は充分にある。
太子の妃は蘇我馬子の娘の刀自古娘(とじこのいらつめ)であり、一方、崇峻(すしゅん)天皇の暗殺犯人とされる東漢直駒(やまとあやのあたいのこま)と密通して逃げた蘇我馬子の娘は「川上娘(いらつめ)」であり確かに別人のように見える。
しかし、時代は下がるが、鎌倉時代の「聖譽鈔(しょうよしょう)」という書物の中に、「太子の妃」である「馬子の娘」は、川上娘であることが明記してある、と豊田氏はその根拠をあげる。
すなわち「川上娘」は「刀自古娘」の別名であるということになるのだ。
そうすると、この①も成立することになる。
馬子が東漢直駒を、天皇を暗殺した罪ではなく、自分の娘を盗んだ罪で殺させたことは、「日本書紀」にも明記してある。
<略>

「正史」である「日本書紀」には、以上のように、暗殺犯人であるはずの駒が、その罪のために殺されたとは一言も書かれていない。
そうではなくて、他家の嫁となっている馬子の娘を盗んだ罪で、馬子に殺されたと書かれているのだ。嬪(みめ)は妃(きさき)の下の身分で、高貴な人の妻を意味する。ただ、「書紀」には誰の妻だったかは書かれていない。そこで、これまでは崇峻天皇の妻の一人だったのだろうということになっていた。
それを豊田氏は「聖譽鈔(しょうよしょう)」の記述などから、太子の妻の刀自古妃のことだと推理したのである。しかし、それにしても、この記述は実に奇妙だ。天皇が殺されたことは公的事件であり、自分の娘が盗まれた(というより「駆け落ちした」というのが正確な気がするが)ことは私的な事件である。

駒を殺すなら、それは天皇を殺した大罪人として殺すべきであって、自分の娘と駆け落ちした罪で殺すのはおかしい。これでは国家として刑罰を科したのではなくて、馬子が私怨を晴らしたことになってしまう。
どうしてこんな書き方がされているのだろうか?
豊田氏はそのことについても明確な解答を出す。
それは、崇峻天皇殺しの「主犯」は、馬子でも駒でもないからだ、と言うのである。
では、誰がそうなのか。
犯罪捜査の鉄則は、その犯行によって最大の利益をあげた者を探せ、というのがある。
当時の人々は、誰が最も得をしたと思ったか。
それは、実は聖徳太子その人なのである。
<藤森・・・とても面白いので、もう少し転用させていただきます>

結果として歴史を見れば、崇峻天皇のあとを継いだのは「日本初の女帝」推古天皇であった。
しかし、「日本最初」ということでもわかるように、当時一般的には「天皇は男性でなければならない」という常識があった。
この常識に沿って考えれば、候補は二人しかいない。
一人は聖徳太子(当時は厩戸皇子)その人であり、もう一人は推古女帝と敏達天皇の間に生まれていた竹田皇子だ。この竹田皇子については詳しい記録は何も残っていないので、推測する他はないのだが、おそらくこの時は年が若過ぎて、とても天皇になる資格はなかったものと思われる。もし、竹田皇子が「青年」と呼ばれるほどの年令であったとしたら、何もその母である推古女帝が日本史上まったく前例のない即位をする必要などないのである。竹田皇子が即位すればいい。母親である推古女帝も息子が天皇になるのに異議があったとは思えない。
しかし、竹田皇子は即位しなかった。
この皇子は子をなすこともなく、後に推古女帝より若死にする。死んだ年や年令は一切わからないが、早死にしたことだけは「書紀」の記述で推定できるのである。やはり竹田皇子は天皇位を継ぐにしては、あまりにも若過ぎたのだろう。
しかし、もう一人の候補者の聖徳太子は、この時19歳であり、昔なら堂々たる大人の年令である。用明天皇の息子でもあり、血統も申し分ない。
だから、この時、聖徳太子は次期天皇の唯一の候補者といってもよかったのである。
その唯一の候補が天皇にならなかったからこそ、日本史上初の女帝出現という極めて異例な事態となったのである。
では、どうして聖徳太子は天皇にならず、叔母である推古女帝にその座を譲ったのか。
それは聖徳太子は天皇になりうるような状態ではなかったからだ、と豊田氏は「聖徳太子の悲劇」の中で主張する。
その理由は、先程紹介した家庭環境にある。
そして、そのとどめとなったのが、崇峻天皇暗殺事件だ。
この事件において太子は、最も動機があるものとして疑われる立場にいた。「天皇殺し、伯父殺し」を疑われても仕方のない立場にいたのである。
無論、太子はそのような陰謀には一切かかわっていない。
しかし、かかわっていないからこそ、自分がその黒幕のように疑われることは、大きな精神的ショックを彼に与えたはずだ。
その結果、太子はとても天皇位を継げる状態ではなくなってしまう。
この事件の黒幕の本当の狙いは、そこにあった。

そこが、炊屋姫(かしきやひめ=推古天皇)の狙いでもあったのだ。天皇を暗殺し、その黒幕の疑いを太子に転嫁する。
その時点で、炊屋姫に自ら即位するまでの決断が、あったかどうかは分からないが、天皇空位にもちこんで、その間に罪を聖徳太子になすりつけ、息子の竹田皇子擁立の時を稼ごうとしていたことは、まちがいない。(聖徳太子の悲劇)

この結論は十分に納得できるものだ。後の奈良時代に数人の女帝が出現するが、その即位の理由は一部の例外を除いて、年若い自分の子や孫を天皇にするための、つなぎとしてである。
持統女帝がそうだし、元明・元正の両女帝もその一環と言えるだろう。その始まりが推古女帝だったのである。
では、「被害者」の聖徳太子は、その後どうなったのか?

「ノイローゼ」から救った温泉療法と仏の教え
劣悪な家庭環境で育った上に、人々から「天皇殺しよ」と噂されたら・・・。
性格の弱い人なら自殺してしまうだろう。
強い人でも、相当な打撃(ダメージ)を受けるに違いない。
聖徳太子はどうなったろう。
強度のノイローゼになった、と主張するのが、「聖徳太子の悲劇」(祥伝社刊)の豊田有恒氏である。崇峻天皇が暗殺された年(592)に、聖徳太子は19歳(当時は数え年)、今なら18歳である。もっとも多感な年頃だ。たび重なる打撃に、「張りつめていた彼の心の糸がぷっつりと切れてしまう」(同書)のである。

●(8)以上のように、非常に面白いのですが、長くなりますので以下は、簡略して転載させていただくことにします。

そして、この後、ノイローゼになった聖徳太子は、伊予の「道後温泉」に、師の恵慈(えじ)法師、家来の葛城臣と共にやってきて、太子が温泉を讃える碑文を作ったという記事が「伊予国(愛媛県)の『風土記』」にあるそうです。
この「道後温泉」は日本屈指の名湯であり、<今月の言葉、第29回「則天去私」>でご紹介しています。

学界が、この道後温泉に静養に行った事を認めていないそうですが、井沢元彦氏は、太子に仏僧が同行していることは、その大きな証明になるとのことです。つまり、この時代の仏僧は、単なる宗教者ではなく、行基や空海の例を見ればわかるように、新知識の担い手であり、医師でありカウンセラーでもある。
そういう人間が、太子の温泉行に同行しているので、これはやはり、太子の病気が肉体の疾患ではなく、精神の問題だったと考えた方が筋が通る。
聖徳太子は強度のノイローゼだった。道後温泉の療養は4年くらいであったろうとのことです。

●(9)ノイローゼになり転地療養をしていたが、その病が回復したところで、たまたま「ライバル」竹田皇子も死亡したので、太子はそこで政界に復帰することができた。
これからは太子はバリバリ仕事を始める。
新羅出兵を計画し、冠位十二階、十七条憲法を制定し、遣隋使を派遣する。
しかし、この実績の中には、大きな矛盾が感じられる。分裂的傾向といってもいい。
というのは、十七条憲法では「和を以て貴しとなす」と言っている太子が、外交では新羅出兵、隋との対等(強硬)外交など、武断主義というべき立場を取っているからだ。
これは一体どうしたことか。
「和の精神」というのは、基本的には「ケンカをしない」「協調を第一とする」精神である。

●(10)恵慈法師の強い影響があったにしても、どうも太子の政策は一貫していない。
内政においては虫も殺さない平和主義者で、外交においては出兵も辞さない武断主義者・・・そんな人間は普通いない。
だが、確かにそういう人間は実在したのである。
やはり、これは太子自身の、かつてはノイローゼで悩んでいたという過去が、大きく影響していると考えるべきだろう。
<略>

そうした有能な側近にも助けられ、太子は日本を豪族の連合国家から、天皇中心の中央集権国家にする橋渡しの役を果たした。
だが、その有能な政治家聖徳太子は結局天皇になれなかった。
推古天皇が75歳という当時としては破天荒な長寿を保って亡くなったからだ。太子はこの6年前の622年に亡くなっている。49歳だった。
聖徳太子は、最も天皇に近いところにいながら、様々な障害のためにとうとう天皇にはなれなかった。

●(11)問題はこの死の事情である。
法隆寺金堂の釈迦如来像の光背銘が語る太子の死の事情は次のようなものだ。
まず太子の母・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのひめみこ)が亡くなり、その翌年正月に太子は病気となり、その看病をしていた膳部(かしわで)夫人も倒れ、622年2月21日にまず夫人の方が先に世を去り、続いて太子も世を去った・・・というのだ。
そして、この3人は同じ墓に葬られることになる。

病気とはいえ、たった1日違いで夫婦が次々に死ぬということが考えられるだろうか。
可能性は一つしかない。
太子の病気がガンや心臓病なら、こういうことはないだろう。伝染病ならば考えられる。太子は何らかの伝染病にかかり、それを看病していた膳部夫人に感染し、二人は共に死んだ・・・これなら可能性はある。

●(12)聖徳太子が怨霊であるということを、初めて主張したのは哲学者・梅原猛氏である。
これは日本史上常に聖人として扱われてきた太子像を完全に引っくり返す、まさにコペルニクス的新説であった。

太子が偉大な人物であることは認める。しかし聖人つまり「聖徳」太子になったのは、彼が怨霊になったからであり、奈良の法隆寺はその怨霊鎮魂のために建てられた、というのである。

まず第一に、怨霊信仰は既に古代中国で発生しており、その起源は少なくとも紀元前1000年以上前にさかのぼることができる。古代殷(いん)帝国が周によって滅ぼされた時、周の人間は殷人を皆殺しにはせず、別の地域に強制移住させて先祖の祭祀を行なわせたのである。
それは、子孫を根絶にしてしまうと、その家系の先祖を祀る者がいなくなり、その霊が怨霊となってしまうからだ。
これが怨霊信仰の原型である。
そして、それが早くから日本にも伝わっていたことは、「日本書紀」の崇神(すじん)天皇の条に、この周人と同じような供養をしたことが記録されていることからも、明らかである。
そして、この視点で見れば、聖徳太子はまさに怨霊化の条件を備えている。
太子の子孫は息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)の時に、孫もふくめて皆殺しにされている。太子の霊を祀る子孫はいなくなったのである。

●(13)とにかく、この本(井沢元彦著、「逆説の日本史② 古代怨霊編」)は本当に面白いです。キリがなく面白いので、このあたりでそろそろお仕舞いにします。

「太子伝暦(でんりゃく)」では、膳部妃の死をふくめて次のように書いている。
推古29年の春、太子は斑鳩宮にいた。(太子は)膳部妃に命じて沐浴させ、自分も沐浴して身を清めた。そして新しい清潔な衣服を身につけて妃に言った。「私は今夜死ぬだろう。おまえも一緒に死のう」と。妃も新しい清潔な服を着て、太子と同じベッドに入った。明朝、二人が起きてこないので(寝室の)扉を開けてみると、二人は既に死んでいた。
これはどうみても「心中」という他はない。

では、聖徳太子はどうして自殺(心中)したのか。
キリスト教では自殺というのは罪になる。
これは誇張ではない。

しかし、仏教においては、そういう考え方はない。
仏教の考え方では、命というものは永遠に存在し、人間が「死ぬ」ということは、この世とは別の世に行くことに過ぎない。
だから、自殺に対してもキリスト教世界のような厳しい罪悪感はない。
それどころか、「捨身(しゃしん)」という思想すらある。
捨身とは、身を捨てて他の命のために尽くすことである。身を捨てるのだから、当然それは外見上「自殺」という形をとることになる。
有名なのは釈迦伝にある「捨身飼虎(しこ)」の話である。
これは、釈迦つまりインドのシャカ族の王子ゴータマ・シッダルタが、仏陀として悟りを開くまで前世でいかに善行を積んだか、という伝説のうちの一つなのだが、釈迦が前世で別の国の王子で修行していた時のこと、虎の親子が飢えに苦しんでいるのを見かねて、自ら身を捨てて虎のエサになったという話なのである。
これは外見上は「自殺」というしかないが、仏教の立場から言えば自らの命を犠牲にして他の生物の命を救う尊い行為ということになる。

実は「釈迦本生譚(ほんじょうたん・・・ジャータカ)」には、もう一つ有名な「自殺」の話がある。
「施身聞偈(せしんもんげ)」という話だ。これは釈迦が前世でヒマラヤ(雪山・せっせん)で修行していた頃、仏教の真理を現わす偈(げ・仏の功徳を讃える文)の後半部分を知るために、身を悪鬼にささげるという物語である。
「捨身飼虎(しこ)」と「施身聞偈(せしんもんげ)」は、ジャータカのうちの二大「捨身」話なのである。
ところで、日本の仏教では釈迦仏はあまり重視されなかったので、釈迦に関する仏教美術品は意外に少ない。特に、国宝・重要文化財クラスの美術品に限ってみれば、「ジャータカ」を題材にした作品は唯一つしかないと言っても過言ではない。
それは、法隆寺にある国宝の玉虫厨子(ずし)である。
玉虫厨子は日本の美術品の中で最も著名なものと言っていいだろう。

この「四面の彩色画」のうち厨子の台座の両側に書かれているのは、「ジャータカ」を題材にした絵である。それは一体何とお考えになるだろうか?
もうおわかりだろう。
「捨身飼虎(しこ)」と「施身聞偈(せしんもんげ)」なのである。
ジャータカの中の二大「自殺話」がわざわざ選ばれて描かれているのだ。

では、なぜ玉虫厨子をモデルにして(再建)法隆寺は建てられたのか。玉虫厨子は太子とどんな関係にあるのか?
それを解く鍵は言うまでもなく「捨身」にある。

●(14)玉虫厨子を聖徳太子の関係について、初めて深く考察した上原和氏は、・・・・・聖徳太子の仏教上の偉大な業績として伝えられる「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」・・・・・の中の「ショウマン義疏」に注目したのか。
それは勝マン経の中心思想が「捨身」だからだ。勝マン経には正法(しょうほう・仏のただしい教え)を得るためには、身(身体)、命(生命)、財(財産)を捨てなければならないと語られているのである。
しかも、上原氏は玉虫厨子にある「捨身飼虎(しゃしんしこ)」のエピソードが、注釈として太子によって語られている点に注目する。

昔の注釈者は「身体を喜捨する<捨身>というのは、みずからすすんで奴隷になることであり、生命を喜捨する<捨命>というのは、他人のために死ぬことである」と解している。しかしながら、今ここでいう「捨身」と「捨命」とは、いずれも死ぬことであるが、その意味がちがっているだけである。たとえば、肉体を飢えた虎に与える場合は、もともと「捨身」であり、忠義の士が、危急に直面している君主を見て生命をなげ出す場合は、その意味からして「捨命」にあたる。
(「日本の名著 聖徳太子 勝マン経義疏」中村元訳 中央公論社刊)

これは太子自身が語った言葉である。 聖徳太子は明らかに「捨身」の思想に深い共感を抱いていた。それは太子の死後、その息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)一家にも受け継がれていたことがわかる。
「日本書紀」は伝える。

蘇我入鹿(そがのいるか)が山背大兄王と対立し殺すために兵を挙げた時、王は「私がもし軍を起こして入鹿を討てば勝つだろう。しかし、一身上の都合で人民を殺したり傷つけたくない。だからこの身を入鹿にくれてやろう」と述べて、「子弟(うから)・妃妾(みめ)と一時(もろとも)に自ら經(わな)きて倶(とも)に死」んだ。集団首つり自殺、つまり一家心中して果てたのである。
この行動は、明らかに「捨身」すなわち「他人のために死ぬ」という思想である。それまで日本には、主人や父母など目上のために死ぬか、あるいは子供のために母が犠牲になるという考えはあっても、まったく見ず知らずの他人のために「死ぬ」という思想はなかった。
上原氏に指摘されるまで私(井沢氏)も気付かなかったが、これは日本最初の信仰による自殺、すなわち殉教(じゅんきょう)なのである。ある信仰(宗教)に殉ずる(そのために死ぬ)ことを殉教というが、確かに山背大兄王以前に、そんなことをした人はいない。
こういう思想は突然に「発生」するものではない。山背大兄王がそうしたのは父である聖徳太子によって「捨身」の思想を伝えられていたからだろう、というのが上原氏の考え方である。

とても面白くて、書くのが止まらないのですが、このあたりでストップするために、結論を書きます。上記の上原氏とは違い、井沢元彦氏は聖徳太子は「自殺説」を唱え、梅原猛氏は「太子怨霊説」を唱える。
私(藤森)自身は、歴史はまったく分かりませんが、井沢氏を尊敬し、かつ、この本を読む限り、井沢氏のすばらしさを感じるために、井沢氏の「聖徳太子自殺説」をとります。
しかし、いずれにしても、「聖徳の太子」というすばらしい人間像を抱いている私や多くの人たちにとって、聖徳太子の生い立ち、生涯は驚嘆の一語ではないでしょうか?

今回の映画「女帝・エンペラー」のドロドロによく似ていると思いませんか?恐らく、大きな権力や経済力を持つと、どこの誰であろうと、似たようなことが発生するのではないかと思われます。
またいずれ、機会がありましたら、井沢氏のおっしゃる「聖徳の“聖”や“徳”」が持つ驚愕の真理を、井沢氏の著書を元にお届けしたいと思っています。
<以上、(7)~(14)のすべては、我が尊敬する井沢元彦氏著、「逆説の日本史② 古代怨霊編」(小学館文庫)」より転載させていただきました>

文責:藤森弘司

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