2007年6月30日 第59回「今月の映画」
監督:フォン・シャオガン 主演:チャン・ツィイー ダニエル・ウー グォ・ヨウ ジョウ・シュン
●(1)中国で大胆かつ絢爛豪華に生まれ変わった「ハムレット」 「超一流のスタッフに恵まれた、なんとも贅沢で見事な『ハムレット』翻案映画」(河合洋一郎・東京大学大学院准教授)とパンフレットにあります。どうやらそうらしいのですが、私(藤森)がこの映画を取り上げたのは、別の観点からです。 最近読んだ本の中に、聖徳太子のことが書かれていました。私たちが、通常、イメージする聖徳太子とは全く違う人間像が描かれているのには、驚きましたが、この凄まじい映画を見ながら、この「聖徳太子」のことが思い出されました。 その本の中に描かれている聖徳太子については最後にご紹介します。さて、パンフレットの内容をご紹介する前に、この映画の時代背景、「五大十国」を百科辞典より、ご紹介します。 |
●(2)「五大十国(ごだいじっこく)」 中国で、907年から960年に至る約50年間に興亡した国、およびその時代をいう。黄河流域の中原(ちゅうげん)の地に後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)の五王朝が相次いで興亡し、中原の地以外には前蜀(ぜんしょく)、後蜀(こうしょく)、呉(ご)、南唐、呉越(ごえつ)、荊南(けいなん)(南平)、?(びん)、楚(そ)、岐(き)、燕(えん)、南漢、北漢など10余国が分立していた。 中原の五王朝を五大といい、他の諸国を十国と称し、両者を五大十国とよんでいる。五大の皇帝は唐王朝の正統な後継者の地位を保っていたが、十国の君主も五大の皇帝と対等であるという意識をもっていた。それは、彼らが武人として実力で政権を樹立したことによっていた。 「中原(ちゅうげん)」 夏(か)、殷(いん)、周三代が都を置き、中国文化の発祥地とされる黄河中流域を中心とした地域。中華、中国ともよばれ、周辺の夷狄(いてき)の地とは区別される。 しかし、漢民族が形成され絶えず周辺諸民族を同化させながら中華の枠が拡大していくにつれ、中原の地も拡大していく。魏晋(ぎしん)南北朝時代に揚子江(ようすこう)中・下流域を中心とする江南が開拓され、北宋(ほくそう)代以降はその地が華北にかわって経済的中心地になると、華北全体を中原とよぶようになる。 <以上は、ソニー日本大百科全書> |
○(3)(パンフレットより)古代中国の五大十国時代。唐王朝が滅び、国と国とが絶え間なく争い、皇室内部でも実の父と子、兄と弟が殺し合っていた戦乱期。類稀なる美しさと聡明さで、皇帝の愛と絶大な権力を得た王妃ワン(チャン・ツィイー)の国も例外ではない。 ある日突然、皇帝が謎の死を遂げた。それが新帝に即位した弟リーの策略であることは誰の目にも明らかなこと。リーが皇太子ウールアンの暗殺も企んでいると知ったワンは、年の近い義理の息子である皇太子を守るため、夫を殺したリーとの結婚に同意する。ウールアンとワンはその昔、密かに想いを寄せ合っていた仲なのだ。ワンへの想いを断ち切るため、呉越の地に隠遁し、歌と踊りの世界に生きていたウールアンは、父の死去の知らせを聞き、都へと馬を走らせた。 恋焦がれていた王妃ワンを手に入れた新帝リーは、夜ごと尽きることのない欲望に溺れ、ワンに命を捧げると約束する。しかし太陽が昇る頃には、己の権力を完璧にするため、皇太子側につこうとする者を容赦なく粛清した。臣下たちの前でリーに忠誠を迫られたワンは、自分の身を守るため、世界で一番憎い男の前にひざまずく。 しかし、その瞬間、ワンは胸の奥で脈打つ気高く強い魂を、復讐の神に捧げる。一方、都に帰郷した皇太子ウールアンは、怒りに震えていた。父が毒サソリに咬まれて死んだなどという話は到底受け入れられない。また、新帝リーの妻になったワンへの嫉妬と不信にも苦しんでいた。ウールアンのいいなずけチンニーだけは一途にウールアンを慕い、その気持ちを伝えるが、ウールアンはそんな彼女の純粋さにさえ疑いの目を向けてしまう。 王妃ワンの身体だけでなく、心も得たと信じていた新帝リーは、王妃の盛大な即位式を執り行なう。皇太子ウールアンは式の演舞の代わりに父の毒殺を告発する芝居を披露。怒りを秘めた拍手を贈ったリーは、皇太子を隣国に派遣すると宣告する。両国友好のため、互いの王子を人質として交換しようという申し出を受けたのだ。 その瞬間、新帝、王妃、皇太子の3人は、心の中で「暗殺」、「復讐」、「仇討ち」を決意する。 隣国への旅の途中、リーは再び皇太子暗殺を企てるがまたしても失敗に終わる。ワンが、チンニーの身柄を盾に、彼女の兄イン・シュアン将軍に阻止させたのだ。 イン・シュアン将軍は血に染まったウールアンの芝居用の仮面を手に宮廷に戻り、皇太子は死んだと偽りの報告をする。喜んだリーは、国を挙げての夜宴を開催することにした。 広大な宮廷を満たす舞を踊る男女と群臣。高い天井にこだまする雅な音楽。時は満ちた。酌み交わされる美酒・・・・・。新帝に捧げる盃に、そっとサソリの猛毒を溶かす王妃ワン・・・・・。 皇帝が盃に口をつけようとした瞬間、チンニーが歌舞団を引き連れて現われる。愛するウールアンが殺されたと思い込んだチンニーは、彼への追悼の意を込めて舞を披露したいと申し出る。その一途な想いに心を打たれた新帝リーは、自らの盃をチンニーに与えようとするのだが・・・・・。 この機会に権力を横取りしようと画策するチンニーの父と兄、剣を隠して歌舞団に紛れ込む皇太子ウールアン、復讐を目前にした王妃ワンが息を呑んで見守る中、様々な欲望で満たされた盃は誰の手に・・・・・? 昼も夜も屈辱をかみしめながら、彼女は待っていた。すべてを奪った男に復讐を遂げる、悦びの瞬間を・・・・・ ○(4)*王妃ワン・・・・・若さと美貌、豊かな肉体を聡明な知性を併せ持ち、先の皇帝に見初められる。皇帝の寵愛で運命が決まる宮廷で、自らの欲望を叶えようとする強く気高い女性。実は王妃になる前から、4歳年上の皇太子に密かに想いを寄せている。 *皇太子ウールアン・・・・・争いを憎み、権力を嫌い、歌と踊りを愛する孤独な芸術家。想いを寄せていたワンを父にめとられ、失意の日々を送っていた。いいなずけチンニーの純愛に少しずつ心を開いていくが、苦悩の末に父の仇討ちを決意する。 *新帝リー・・・・・王妃ワンへの欲望と権力への渇望が一つとなり、実の兄を毒殺。皇太子をも毒殺しようと企てる。皇帝に即位してからは、己の支配を完璧にするため、非常で残虐な粛清も眉一つ動かさず行なう。冷徹な男だが、ワンへの愛に目覚めていく。 *皇太子のいいなずけチンニー・・・・・イン宰相の娘。先の皇帝亡き後、父に婚約の破棄を命じられる。ウールアンが王妃ワンを想っていることにも気付いているが、ウールアンへの愛は変わらない。ひたむきにウールアンの孤独を慰めようとする。 *イン宰相・・・・・常に時の権力者に従うことで生き残ってきた男。娘チンニーと皇太子の婚約も破棄しようとするが、王妃ワンに娘の身柄を盾に謀反を強いられる。権力に眼が眩み、王妃を裏切って最後の賭けに出ることを決意する。 *イン・シュン将軍・・・・・イン宰相の息子であり、チンニーの兄。文武両道に秀でた優秀な軍人。心から愛している妹のためにも敬愛する父の野望を叶えようとする。 |
●(5)さて、これから私の述べたいことを書くために、結末を紹介してしまいます。映画を見に行く予定の方には、ごめんなさい。 ①リーは、実の兄の皇帝を殺害し、自分が皇帝になります。そして前皇帝の王妃を寵愛し、やがて王妃にします。 ③(王妃)ワンに想いを寄せていた前皇帝の皇太子・ウールアンは、父・皇帝に娶られたワンを忘れようと、隠遁生活をするが、父が殺害されたことを知ると、復讐を誓う。 ④前皇帝を殺害した現皇帝のリーは、ウールアン皇太子の殺害をも計画する。 ⑤皇太子を想い、自分の夫を殺害された王妃ワンは、ウールアン皇太子を救う工夫をすると同時に、現皇帝の殺害を計画する。以上の流れから、まとめて説明すると・・・・・ ⑦前皇帝は、弟の現皇帝に殺害されます。 ⑧王妃ワンは、夫である前皇帝を殺害した義弟の現皇帝の王妃になり、また、この現皇帝を毒殺します。 ⑨皇太子ウールアンは、祝宴の場で、皇帝の近衛兵に切り殺されます。 ⑩皇太子ウールアンのいいなずけチンニーは、この祝宴の場で、皇帝より差し出された盃(これは王妃ワンが、皇帝を殺害しようと毒を入れた盃)により、死にます(現皇帝は、盃の残りを飲んで死を選びます)。 ⑪皇太子ウールアンのいいなずけチンニーは、兄のイン・シュアン将軍から、異常なまでに愛されています。恐らく恋愛感情ではないかと思われます。 ⑫最後の場面で、生き残った王妃ワンは、投げつけられた短剣により死にます。●(6)以上の、もの凄いドロドロの場面を見て、この映画が史実に基づいて製作されたものではないかもしれません(ハムレット翻案映画だといわれていますので、「五大十国」の時代を設定しただけで、史実とは無関係かもしれません)が、でもまるっきり歴史に無いことかといいますと、むしろ似たようなことは数多くあるのではないかと思います。 といいますのは、この映画を見ながら、思い出したことがあります。聖徳太子の時代です。 |
●(7)井沢元彦著、「逆説の日本史② 古代怨霊編」(小学館文庫)より第一章<聖徳太子編>・・・「徳」の諡号(しごう・おくりな)と怨霊信仰のメカニズム
■史上初の女帝出現と聖徳太子の「天皇暗殺」疑惑 聖徳太子の家庭環境を、現代に置き換えてみれば、どれほどの欠損家庭か、分かりやすいだろう。 《彼の母の兄(弟?)が、知事になっている(=崇峻天皇・すしゅん)。彼の伯父にあたる。この伯父が、暗殺される。犯人は、彼とも顔見知りで、妻の外国語の家庭教師だった(=東漢直駒・やまとあやのあたいのこま)。しかも、①妻は、この犯人と不倫関係をつづけていて、ついに夫も子も捨てて、犯人と逃げようとする。ついに、犯人は、妻の父の手で殺され、妻も、その男のあとを追って自殺してしまう。 これは決して誇張ではない。 「正史」である「日本書紀」には、以上のように、暗殺犯人であるはずの駒が、その罪のために殺されたとは一言も書かれていない。 駒を殺すなら、それは天皇を殺した大罪人として殺すべきであって、自分の娘と駆け落ちした罪で殺すのはおかしい。これでは国家として刑罰を科したのではなくて、馬子が私怨を晴らしたことになってしまう。 結果として歴史を見れば、崇峻天皇のあとを継いだのは「日本初の女帝」推古天皇であった。 そこが、炊屋姫(かしきやひめ=推古天皇)の狙いでもあったのだ。天皇を暗殺し、その黒幕の疑いを太子に転嫁する。 この結論は十分に納得できるものだ。後の奈良時代に数人の女帝が出現するが、その即位の理由は一部の例外を除いて、年若い自分の子や孫を天皇にするための、つなぎとしてである。 ■「ノイローゼ」から救った温泉療法と仏の教え |
●(8)以上のように、非常に面白いのですが、長くなりますので以下は、簡略して転載させていただくことにします。
そして、この後、ノイローゼになった聖徳太子は、伊予の「道後温泉」に、師の恵慈(えじ)法師、家来の葛城臣と共にやってきて、太子が温泉を讃える碑文を作ったという記事が「伊予国(愛媛県)の『風土記』」にあるそうです。 学界が、この道後温泉に静養に行った事を認めていないそうですが、井沢元彦氏は、太子に仏僧が同行していることは、その大きな証明になるとのことです。つまり、この時代の仏僧は、単なる宗教者ではなく、行基や空海の例を見ればわかるように、新知識の担い手であり、医師でありカウンセラーでもある。 ●(9)ノイローゼになり転地療養をしていたが、その病が回復したところで、たまたま「ライバル」竹田皇子も死亡したので、太子はそこで政界に復帰することができた。 ●(10)恵慈法師の強い影響があったにしても、どうも太子の政策は一貫していない。 そうした有能な側近にも助けられ、太子は日本を豪族の連合国家から、天皇中心の中央集権国家にする橋渡しの役を果たした。 ●(11)問題はこの死の事情である。 病気とはいえ、たった1日違いで夫婦が次々に死ぬということが考えられるだろうか。 ●(12)聖徳太子が怨霊であるということを、初めて主張したのは哲学者・梅原猛氏である。 太子が偉大な人物であることは認める。しかし聖人つまり「聖徳」太子になったのは、彼が怨霊になったからであり、奈良の法隆寺はその怨霊鎮魂のために建てられた、というのである。 まず第一に、怨霊信仰は既に古代中国で発生しており、その起源は少なくとも紀元前1000年以上前にさかのぼることができる。古代殷(いん)帝国が周によって滅ぼされた時、周の人間は殷人を皆殺しにはせず、別の地域に強制移住させて先祖の祭祀を行なわせたのである。 ●(13)とにかく、この本(井沢元彦著、「逆説の日本史② 古代怨霊編」)は本当に面白いです。キリがなく面白いので、このあたりでそろそろお仕舞いにします。 「太子伝暦(でんりゃく)」では、膳部妃の死をふくめて次のように書いている。 では、聖徳太子はどうして自殺(心中)したのか。 しかし、仏教においては、そういう考え方はない。 実は「釈迦本生譚(ほんじょうたん・・・ジャータカ)」には、もう一つ有名な「自殺」の話がある。 この「四面の彩色画」のうち厨子の台座の両側に書かれているのは、「ジャータカ」を題材にした絵である。それは一体何とお考えになるだろうか? では、なぜ玉虫厨子をモデルにして(再建)法隆寺は建てられたのか。玉虫厨子は太子とどんな関係にあるのか? ●(14)玉虫厨子を聖徳太子の関係について、初めて深く考察した上原和氏は、・・・・・聖徳太子の仏教上の偉大な業績として伝えられる「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」・・・・・の中の「ショウマン義疏」に注目したのか。 昔の注釈者は「身体を喜捨する<捨身>というのは、みずからすすんで奴隷になることであり、生命を喜捨する<捨命>というのは、他人のために死ぬことである」と解している。しかしながら、今ここでいう「捨身」と「捨命」とは、いずれも死ぬことであるが、その意味がちがっているだけである。たとえば、肉体を飢えた虎に与える場合は、もともと「捨身」であり、忠義の士が、危急に直面している君主を見て生命をなげ出す場合は、その意味からして「捨命」にあたる。 これは太子自身が語った言葉である。 聖徳太子は明らかに「捨身」の思想に深い共感を抱いていた。それは太子の死後、その息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)一家にも受け継がれていたことがわかる。 蘇我入鹿(そがのいるか)が山背大兄王と対立し殺すために兵を挙げた時、王は「私がもし軍を起こして入鹿を討てば勝つだろう。しかし、一身上の都合で人民を殺したり傷つけたくない。だからこの身を入鹿にくれてやろう」と述べて、「子弟(うから)・妃妾(みめ)と一時(もろとも)に自ら經(わな)きて倶(とも)に死」んだ。集団首つり自殺、つまり一家心中して果てたのである。 とても面白くて、書くのが止まらないのですが、このあたりでストップするために、結論を書きます。上記の上原氏とは違い、井沢元彦氏は聖徳太子は「自殺説」を唱え、梅原猛氏は「太子怨霊説」を唱える。 今回の映画「女帝・エンペラー」のドロドロによく似ていると思いませんか?恐らく、大きな権力や経済力を持つと、どこの誰であろうと、似たようなことが発生するのではないかと思われます。 |
文責:藤森弘司
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