2007年3月31日 第56回「今月の映画」
善き人のためのソナタ

監督:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク   主演:ウルリッヒ・ミューエ   マルティナ・ゲデック   セバスチャン・コッホ

●(1)私(藤森)が見る映画のほとんど全ては、立川のシネマシティ(常時15本前後を同時に上映)です。立川へは、わが家からまっすぐの一本道で、歩いて30分、往復1時間のほど良いウオーキング距離です。ここで上映していない映画で、どうしても見たい場合は、モノレールでの便がいい「TOHOシネマズ南大沢(八王子市)」に行きます。
ここでも上映していない映画を他で見たのは、この5年間で2回、吉祥寺と日比谷で見ただけです。今回の映画「善き人のためのソナタ」は、例外中の例外で、何と渋谷まで行ってきました。
ただそれだけのことを言いたいために、ここまでグタグタと書きました。●(2)では何故、渋谷まで見に行く気になったのか?それは週刊ポストに載った下記の批評を読んだからです。<旧ドイツの恐怖を暴く力作>
映画によって、それまで隠されていた歴史の真実が暴かれることは多い。ゴールデン・グローブ賞の外国語映画賞候補になったドイツ映画「善き人のためのソナタ」もそのひとつ。地味ながら、必見の作品だ。
メスを入れるのは、冷戦時代の旧東ドイツに君臨した“シュタージ(国家保安局)”。ナチス時代のゲシュタポと比較されるほどに恐れられていた巨大な監視システムであり、それを操るのは腐敗した政治家だったという事実に、怖さは倍加する。
映画の中で、彼らによって人生を翻弄された劇作家が、ベルリンの壁崩壊後に再会した政治家を前に「こんなクズが国を操っていたとは・・・・・」とつぶやく。それがなにやら他人事ではないように思えて。
物語は、ヴィースラー大尉が劇作家ドライマンの監視を命じられるところからスタート。その職務は、大臣がドライマンの同棲中の恋人をわが物にするための罠とわかってはいたが、シュタージに忠実なヴィースラーは徹底的な盗聴を行ない、恋人たちの生活を監視する。
しかし、彼らの人生を彩る愛、友情、信頼、そして芸術への情熱と苦悩に触れるうちに、彼の心は変化していく。そしてついに、ある決断を・・・・・。
個人の年間に買う靴やワインの数まで把握していながら、ある時期から政府の弾圧に絶望して増え続ける自殺の数だけは無視したという監視システム。その存在を、東西ベルリン統一から17年後にタブーを破って徹底的にリサーチしたのは脚本も担当したフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督。
その鋭いメスで悪政を暴きつつも、一方では人間の感受性と、それを突き動かす芸術の力に信頼を寄せる作りに、志の高さが感じられる。
<構成・文・・・金子裕子(映画ライター)>このような素晴らしい映画が、何故、全国で10館、関東では渋谷の「シネマライズ(℡03-3464-0051)」という小さな映画館と、川崎の「チネチッタ(℡044-223-3190)」だけなのでしょう?●(3)さて、では何故、上記の批評を読んで、渋谷まで行く気になったのか?理由は二つあります。

①冷戦時代の旧東ドイツに君臨した“シュタージ(国家保安局)”。ナチス時代のゲシュタポと比較されるほどに恐れられていた巨大な監視システムであり、それを操るのは腐敗した政治家だったという事実
「こんなクズが国を操っていたとは・・・・・」
この二点です。

●(4)まず感じたのは、「国家権力」の恐ろしさです。しかも、その国家権力による「監視システム」という二重の恐ろしさです。
佐藤優氏(鈴木宗男氏の事件の当事者)という元外務省の主任分析官が書いた「国家の罠」(新潮社)という本を読むと、国策捜査(?)という恐ろしい捜査の全貌がよくわかります。担当の検事や外務省の幹部など、登場人物の名前が実名で出てくるので、かなり信憑性の高い内容ではないかと思います。
また、現在上映中の「それでもボクはやっていない」という痴漢冤罪の映画。これも恐ろしかったです。
私たちは冤罪事件に巻き込まれた場合、それを晴らすためには、法律にシロートであり、仕事を持っている中で、捜査の専門家である警察や検察官と対抗しなければなりません。
しかも、彼らは捜査や法律の専門家である上に、そのことに関わっていることが仕事ですが、シロートである私たちは、そのことに関われば関わるほど、生活が成り立たなくなる上に、孤独な刑務所の中で一人で耐えなければなりません。
どんなに些細な、つまらないような部分であっても、彼らはそれらをネチネチと、あるいは延々と取り組む事ができます。何故ならば、彼らはそれが仕事だからです。
「国家の罠」を読んだり、映画の「それでもボクはやっていない」を見て、自分がこういうこと(国策捜査や冤罪事件)に巻き込まれたならばと考えると、絶望的な気分になります。それでもまだ、現在は民主的な時代です。民主的な時代でも、絶望的な気持ちになるのですから、それが国家権力が自由に振る舞える「暗黒の時代」であったならば、確実に拷問が加えられるでしょう。
初期プロレタリア文学の代表作「蟹工船」を書いた小林多喜二ではないが、殺されるまで拷問を加えられることでしょう。また、この映画のように、個人を監視するために、当事者の家に勝手に入り込んで、隠しマイクを設置するくらいのことは簡単にやってのけます。
今の時代でも、上記の本(国家の罠)や映画(それでもボクはやっていない)のように恐ろしいことはありますが、それでも、こういう民主的な時代に生まれて本当に良かったと思います。この民主的な時代を大切にしていくためにも、このような映画を鑑賞する価値はあるのではないでしょうか。
特に若い世代は、かつての日本の貧しかった時代や、民主的でなかった時代を肌では知りません。それだけに、こういう映画を見ることで、現在の良さを再確認してほしいと思います。

●(5)次に、この部分です。「こんなクズが国を操っていたとは・・・・・」
この部分を読んだとき、国を一人の人間に喩えて、「こんな親がオレを牛耳っていたのか!」というフレーズが頭をよぎりました。
「交流分析」を学んだことがある方は「脚本」という言葉をご存知のことと思います。私たちは生まれてから6歳くらいの間に、両親から、今後の生き方を「脚本」という形で押し付けられていると考えます(第1回「今月の言葉」「脚本」をご参照ください)。
自分の人生は、自分の意志で自由に生きていると誰もが思うでしょうが、実は、「国家権力の監視システム」によって操られていた東ドイツの国民と同様、「こんなクズが・・・」とは言いませんが、両親の見えない「監視システム(脚本)」によって監視されていて、私たちの人生は牛耳られています。
自分の人生を自由に生きようとすると、監視されていて、両親はリモコンによって、私たちをコントロールし始めます。「親の好むような人生を生きるように」と。このように考えると、「脚本」の意味がより良く理解できるものと思います。週刊ポストの批評を読んだ瞬間、このことが浮かびました。
「華厳経」では「一即一切(いちそくいっさい)」といいます。意味は、「一」は最小単位です。「一切」は全てです。最小単位の「一」の中に、「一切」のものが含まれているという意味です。
国家権力による国民監視システム<シュタージ(国家保安局)>も、一人の監視システム(脚本)も似ているなと思いました。つまりこの映画から、「一即一切」を改めて学びました。

<文責:藤森弘司>

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