2007年2月28日 第55回「今月の映画」
どろろ

原作:手塚治虫   監督:塩田明彦   主演:妻夫木聡   柴咲コウ   中井貴一   中村嘉葎雄

●(1)今回、この映画を取り上げたのは、下記の解説の通り、一般に妖怪映画と思われていますが、実は、非常に重要な深層心理「影」の問題をテーマにしています。原作者の手塚治虫氏は、このことを分かっていたのか否か、定かではありませんが、この映画は驚くべきテーマを扱っています。
その解説の前に、漫画の解説を紹介します。
●(2)映画ではなく、漫画「どろろ」(秋田文庫)の解説をご紹介します。
時代は「戦乱の時代」となっています。醍醐景光が天下統一のため、由緒正しそうなお寺を訪ね、そこの地獄堂に籠もります。
この地獄堂には、運慶(巻末の7参照)の子どもの運賀の作と言われている「魔像」が四十八体あるが、彫刻師はこの「魔像」を彫った後、狂い死にをしたとのこと。
醍醐景光は天下を取りたいために、この地獄堂に籠もって、
「四十八ぴきの魔人よ!妖鬼よ!わが願いを聞きとどけよ」
「わしは天下を取りたい!わしはこの国じゅうがほしいのだ!わしにちからをかしてくれれば、どんな礼でもする!」
「なにがほしい!」
「生けにえか?」
そこにネズミの子どもが落ちてくる。
「おまえたち、わしの子がほしいというのか?」
「よろしい、じゃああさって生まれる予定のわしの子どもをやろう」
「わしの子の目、耳、口、手、みんなおまえたちでわけるがいい。四十八ぴきで、四十八か所、好きなところをとれ、どうだ!」
●(3)生まれた子どもは、タライに乗せて、川に流される。
薬草を採りにきた医者に拾われ、霊脳的な直感力を持ちながら成長する。手や足は、義足を作ってもらって。
やがて旅に出て、ありとあらゆる妖怪に出会い、1ぴきの妖怪をやっつけるたびごとに、奪われた体の一部が回復していくという物語です。自分の体を取り戻すために、妖怪を追って旅をするうちに、父である醍醐影光や母、弟とも出会います。●(4)漫画は全3巻です。第1巻の巻末に、荒俣宏氏の解説があります。
「呪いと祓い・・・百鬼丸の運命」

手塚治虫の「どろろ」を読むと、どうしても参照したくなる年表がある。妖怪研究の先駆者のひとり、藤澤衛彦が手がけた「日本妖怪年表」だ。
<中略>
この不思議な年表を繰っていくと、百鬼丸のような異児、あるいは奇児の出生が、いやになるほどたくさん出てくるのだ。ちょっと一例をあげると、
承和13年(846)伊勢の女子、二頭四首、顔面むかいあい、腹以下は一体の奇児を生む。
寛平九年(897)陸奥国で、頭に一本の角が生え、その角の先に目がついている奇児が生まれた。
天治二年(1125)京都に異児あり、耳目各一、上唇なく、牙あり。
慶長十四年(1609)駿府の城の庭に、形は小児のごとく、指のない手で天を指す奇怪な肉人あらわる。
・・・・・といったぐあいに。
当時、このような異児の誕生は、天変地異や社会騒乱の前兆と考えられた。考えられたからこそ、わざわざ歴史書や文献に記録されてきた。いま、ざっとあげた例をみても、時代はぴたり、混乱期にあたっている。
さて、四十八の魔物に体を奪いとられ、異児としてこの世に生まれてきた百鬼丸も、むろん、そうした天下動乱の前兆にほかならなかった。しかもおそろしいことに、その動乱を望んだのは、だれあろう、百鬼丸の父だったのだ。なんと業のふかいことか。
百鬼丸がひとりずつ妖怪を倒し、そのたびに、奪われた体の一部分を取り戻していくとき、それは父の野望をくじく復讐となり、同時に、動乱をしずめるという運命をになう仕事となる。ほんとうの意味で、百鬼丸の妖怪退治は、祓(はら)いであり、鎮(しず)めとなるのだ。

手塚治虫の「どろろ」は昭和43年に週刊まんが誌に登場した。大学紛争に端を発した動乱が、混乱のきわみに近づこうという時代で、ちょうど「どろろ」の舞台となった乱世に似ていた。
体制がわも学生がわも、どちらが鬼でどちらが祓い師なのか、しろうとである市民には、とんと区別がつかなかった。そのときの不安な感情を、こう言い替えてもいい、だれが世をしずめ、だれが秩序をもたらすのか、と。
百鬼丸は、そういう世に生まれた。しかも異児として!これは途方もなく迷惑な話だし、悲惨な巡りあわせだ。チベットの「死者の書」ではないが、人は悲しみながら生まれでるのに祝福され、喜びながら死ぬのに哀悼される。ところが百鬼丸は、呪われて生まれ、たぶん・・・喜ばれながら死んでいくはずだったのだ。
しかし百鬼丸は、医師の手でそだてられ、成長する。かれは四十八の魔物を倒して、父のせいで奪われた身体各部四十八か所を取り戻す旅にでるが、そもそもこの四十八か所という数字からして暗示的だ。
日本をふくめた仏教国のあいだには、中陰(ちゅういん)という習俗が今も残っている。日本では「四九日(しじゅうくにち)」ともいう。このあいだ、死者の魂はこの世にいて、すこしずつ死の世界に移行する準備をととのえる。これを成仏という。生きている人は、死者の成仏を手伝うために、墓に参り、塔婆をたて、読経をし、供養する。

妖怪一匹退治することを、中陰の一日を過ごすことと読み替えてみよう。四十八体の魔物は、中陰四十九日間のうちの四十八日分にあたる。あと一日、いやあと一匹、妖怪をかたづければ、百鬼丸は体を完全に取り戻し、成仏することができる。この成仏は、乱世の終わりであり、かれの父の野望がつぶれることをも、意味しているのだ。
<後略>

●(5)第3巻の巻末・手塚眞氏の解説より
「正統的な妖怪漫画」

「どろろ」は手塚治虫の代表作のひとつに挙げられることはありますが、妖怪漫画の傑作として語られることが少ないのが不思議です。恐らく主人公どろろにまつわる悲劇的な色合いが強いせいじゃないかと想いますが、僕は妖怪漫画として、これほど正統的なものはあまりないのではないかと常々想っています。
<中略>
一方「どろろ」は時代を中世末期に置いた、オーソドックスな妖怪であり、その表現も内容も、古典的で正統的なものだと思います。もちろん登場する妖怪たちはオリジナルで、江戸時代の妖怪画家鳥山石燕の「百鬼夜行」などを参考としながら、手塚治虫ならではのアレンジによって発想されています。
しかし「万代」や「まいまいおんば」といった妖怪のスタイルは、そのまま歌舞伎の舞台からひっぱり出してきたかのようで、あえて古典的なイメージを狙ったものです。ですから「どろろ」は「日本霊異記」以来残る伝統的な日本妖怪譚の正統な末裔といえるでしょう。
<後略>

●(6)さて、妖怪に奪い取られた四十八の体の部分・・・・・これは非常に意味深長です。
四十八という数の意味は、荒俣宏氏の解説が適切なのかもしれませんが、自分の体の大部分が奪われていて、それを取り返す旅に出るというモチーフには、重大な意味が含まれています。体を心に置き換えて見ますと、よくわかります。結論から言いますと、交流分析でいう「脚本」・・・つまり、「妖怪」という名の「両親」に、自分の魂を奪いとられていて、自分が自分らしく生きていない私たち自身を意味している漫画(映画)です。
私たちは実に不思議なことですが、両親から「影」を「投影」されていて、私たちの自由を奪われています。そして、奪われた自由の代わりに、投影された「影」が棲みついて、「影」の指示命令に従うという形で、両親の好む人生を生きているものです。
多くの「頑張る」とか、「~できない」とか、「どうしたらいいでしょうか?」などという、いかにも「従順」「殊勝」「健気」など、一般にすばらしいと言われるパーソナリティの多くは、自分らしく生きていない人が好んで使う言葉です。
これらについては、<「今月の言葉」の第50回「実感の影」と、第51回「影の引き戻しとアジャセ・コンプレックス」の中の特に(10)>をご参照ください。
つまり、「どろろ」の物語は、「影の引き戻し」をテーマとする凄い映画(漫画)です。
●(7)<「運慶」・・・・・(?-1223)鎌倉初期の仏師。壮年期には奈良の興福寺の造仏により、仏師としての僧綱位も法橋から法眼、法印へと上がり、晩年には主として鎌倉幕府関係の仕事を手がけるなど、実力もさることながら、人気のほどが察せられる。約60年にわたる仏師としての生涯における作品は、文献上では多いが、確実な遺品として現存するのは奈良円成寺大日如来像(1176)、静岡願成就院阿弥陀如来・不動・毘沙門天像(1186)、神奈川浄楽寺阿弥陀三尊・不動・毘沙門天像(1189)、高野山不動堂の八大童子像(1197)、奈良興福寺北円堂弥勒・無著・世親像(1212)、快慶と合作の東大寺金剛力士像(1203)にすぎない。>
「快慶」・・・・・生没年不詳。鎌倉初期の仏師。運慶の父にあたる康慶の弟子と思われ、運慶と並んで鎌倉時代の彫刻界を代表する人物。1183年に運慶が発願した法華経の結縁者の一人として初めてその名がみえる。現存する遺作は20点余りに上り、像の足ほぞなどに記された銘文や文献によると、丹波講師、越後法橋などと肩書きし、東大寺中興の重源に帰依して安阿弥陀とも称している。藤原彫刻の風を受けたような、穏やかで流麗な、いわゆる安阿弥陀様なる様式をつくりあげ、大衆性のある、親しみやすさをもったその作風は、以後の仏像彫刻に大きな影響を与えている。代表作に、弥勒菩薩像(1189)、阿弥陀三尊像(1192)などがある。>(ソニー電子辞書「日本大百科全集」より)

<文責:藤森弘司>

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