2007年12月31日 第65回「今月の映画」
再会の街で

監督:マイク・バインダー  主演:アダム・サンドラー  ドン・チードル  ジェイダ・ピンケット=スミス  リヴ・タイラー

●(1)今回、この映画を取り上げたのは、映画は悪くなかったのですが、私(藤森)が、日頃から、くどいほど繰り返し述べている、「カウンセリング」の酷さを典型的に証明してくれているために、取り上げました。

●(2)カウンセリングに限らず、心理関係の全ての技法は、その一つ一つは、一人の人間が「自己回復」するために必要なもののホンの一部でしかありません。喩えて言えば、「碁盤の目」の一つでしかありませんが、アメリカを含めて、多くの専門家は、自分が有する少数の「技法」で、全ての症状に対処しようとする傾向にあります。
その結果、実は恐ろしいことが起こるのです。それを如実に示してくれているのがこの映画です。
恐らくこの映画の監督は、懸命に対処する若き女性の「精神科医」をよくやっているという観点から取り上げていると思われます。何故ならば、このカウンセラーを紹介するのが「歯科医」であり、しかも「若いが有能」であると言わせています。
しかし、私から見ると、この若い女性の精神科医は、恐ろしく酷い対応をしています。これは「悪口」というものではなく、「事実」としてであり、「警告」でもあります。恐らく、この精神科医の対応を放置したならば、クライエントの方は、「人格破綻」しかねません。事実、この映画の中で、「破綻」直前状態になっています。

●(3)では、この若き女性の精神科医は「無能」なのでしょうか?
実は、違うのです。恐らく大学院で博士号を取り、学力優秀で、精神科医として抜群の力量があると、担当の教授からも絶賛されている可能性があります。事務所もニューヨークの繁華街のすばらしい建物の一角にあり、十分なスペースがあります。これだけのすばらしい事務所を持てるということ(私・藤森にとっては、嫉妬以外の何物でもありません)は、有能とされていることの一つの証明になるでしょう(私には彼女の事務所の家賃分も稼げません)。
だから恐ろしいのです。私が、日頃、くどいほど繰り返し述べている弊害がここにあります。簡単に言いますと、カウンセリングをするということは、「職人」の世界の技量を求められます。野球をするにしても、サッカーにしても、武道にしても芸道にしても、何をやるにしても、実際にやる人は、当たり前のことですが、「職人の能力」を求められます。
ところが目に見えない心理の世界は、「職人的な技量」ではなく、「学者的な能力」を「最大の技量」であると、誰も彼も誤認しているのです。これが私(藤森)には不思議でなりません。

●(4)そういう学者的な観点から見れば、この若き有能であろう精神科医のセラピーは、理論的にまったく間違っていないのです。
しかし、もし、現実が理論的に動いているのであるならば、この精神科医は見るからに有能ですし、カウンセリング(セラピー)をして悪化しても、自分は理論通りにやっているので、自分が悪いと思わないことは間違いではないことになります。
しかし、もし、世の中が理論的に動いているのであるならば、政治は「学者」がやるのが一番です。会社経営も「学者」が一番です。
宇宙飛行士の向井千秋氏のご主人は、慶応大学の医師だと記憶しています。この方は、大リーグにもの凄く詳しくて、週刊誌にいろいろ面白い記録などを連載していました。しかし、向井氏は、多分、チャンスが仮にあっても、野球の指導をしようとはしないでしょう。これが常識というものです。
心理学や精神医学にどんなに詳しくても、どんなにカウンセリングのロールプレイに優れていても、実際の現場とはまったく違います。
幕末の新撰組が何故強かったのか?一つの理由として、それは、真剣勝負をしてきているからです。平和ボケの江戸時代、道場での竹刀の練習しか経験のない武士にとって、真剣勝負がどれほど恐ろしいことか、それは竹刀の試合とは雲泥の差があります。真剣勝負は、一回負けたら一巻の終わりですし、実際に、血の吹き出る人を切るのには、かなりの度胸がいります。

●(5)重ねて言います。心理の世界は、大学や大学院などでいくら心理学を研究し尽くしても、実際の現場は、そういう理論では歯が立ちません。大学で百年研究してきても、それは単なる理論でしかありません。理論家、研究家としては、もちろん尊敬すべき専門家でしょうが、カウンセリングの現場では、それは単なる理論以外の何物でもありません。
理論というものは喩えていえば、魚を取る「網」です。どんなにすばらしい「網」を作っても、所詮「網」は「網」です。「ザル法」という言葉があるように、「網」は、ザル以上に穴だらけです。どんなに「理論」を完璧にしても、現実は、理論という「網の目」からボロボロこぼれてしまいます。
また、理論は単なる一つの技法でしかありません。一人のクライエントの方が、「自己回復」するために必要なものの一部、つまり碁盤の目の一つでしかないという認識が、この映画の監督(優秀な専門家にチェックしてもらっているはずです)、そして非常に多くの学者、精神科医、専門家にないことです。
日本の心身医学の創始者で、九大名誉教授の故・池見酉次郎先生は生前、「単一原因論」をよく批判していました。「単一原因論」とは、何々は、何々が原因であるという考えです。例えば、胃潰瘍は「○○が原因」であるとか、「ウツは、○○が原因」であるというように、原因を単一に限定した考えをいいます(新聞などの出版案内をみていると、この手の本が圧倒的に多いです。いわゆるハウツウものです)。
一時は、オコゲを食べると癌になるなどと言う不思議な医者がいましたが、これも「単一原因論」です。すべては複合して「症状」が発生しています。そうであるならば、たかだか「精神科医のセラピー」や「カウンセリング」や「交流分析」や「○○心理学」の一つや二つをマスターしたところで、大木を切るのに、包丁やナイフを数本用意する程度のものです。逆に言いますと、この程度の道具で重症な方(症状化した方は、ほとんどが重症です)をセラピーやカウンセリグをしようということが、私(藤森)には不思議でなりません。

●(6)誰でも、最初は未熟です。だからこそ、年数が経てば経つほど、より深く、より広い技量を身につけようと思うのではないでしょうか?複雑な原因が含まれているのであるならば、それらに対応できるようになるためには、一体どんな技法が必要であるかなどということは、まともな神経を持っている人ならば気付くはずですが、一般にそのようにならないのが不思議でなりません。
この映画の精神科医のように、30歳くらいのようですが、立派な事務所を持っているこの世界のエリートが、いわゆる「傾聴(リスニング)」をして、そして積極的に言語的に働きかけるだけでセラピーできるという根性が私にはサッパリわかりません。
大学や大学院で優秀な理論を学んできた、その理論通りの手法が、現実の重症なクライエントの方に実施して、何も疑問を感じない「鈍感さ」は、私にとっては恐ろしいほどです。
重症のクライエントの方に対応している様子は、仲間内で練習する「ロールプレイ」のようで、精神科医がお手本どおりの対応をするこの場面を見ながら、私は言いようもない怒りを感じました。事実、主人公のクライエントの方は、何度も怒っています。
後ほど、映画の内容をご紹介しますが、アメリカの「9・11テロ」で家族4人を一挙に亡くして、「認知症」状態の重度の症状を呈しているクライエントの方に、カウンセリングの「傾聴」程度で対応できると思う「無神経さ」には、鳥肌が立つような不気味さを感じました。心理の世界には、クライエントの方の「命」を預かっているという「厳粛さ」に欠けているのではないでしょうか?
そして、これが現実の、一般にいわれる「精神科医のセラピー」や「カウンセリング」の現場です。何度も言います。カウンセリングなどの心理学的な技法は、すべて碁盤の中の一つの目にすぎません。一人の人間という厖大な存在を、一つの心理学で対応しようというのは、「B-29の爆撃機」を「竹槍」で戦おうとするようなものです。
最初は、よくわからないために、ひとまずはそれも仕方ありませんが、数年もすれば、自分の得意とする一つ、二つの心理学では、まったくどうにもならないことがわかるはずです。そのことを多くの専門家がわからないのは、「相手が悪いからよくならないのであって、自分が悪いからではない」という反省する気持ちが少ないからではないかと思われます?

●(7)では何故、私(藤森)がこういうことが分かるのか?特別に能力があるわけではない私が、何故、分かるのでしょうか?
それは、私が未熟だったからです。人間として未熟すぎたために、人格が破綻してしまいました。そして、止むを得ず、自分自身を治療するために、長年にわたって自身と取り組んできたことの総合が、結果として、より良い心理技法を体得できました。
つまり、人間がどうしようもないほど未熟だったために、長年、クライエントをやらねばならず、結果として、それらの体験が、専門家として必要な多くの体験や技法を、「人体実験的に実践」できていたのです。
そして、その根本は、つまりそういう体験ができたことは、まさに「指導者に恵まれた」こと以外の何物でもありません。

●(8)私が見るところ、心理学をより深く学ぶ人たちは、多くの場合、非常に頭が良く、そして人間として本当にいい人たちです。私が心理学のセミナーに参加し始めたころ、頭の良い人たちは、理論をドンドン理解していきましたが、愚鈍な私にとって、それは驚くべきことでした。
そして、多くの人たちが指導者の側になっていきました。カウンセラーになる人もいたし、会社の研修担当者であったり。そしてこの頃、いろいろな研修や合宿などに熱心に参加する人が多く、ある意味でブームのような感じもありました。そして10年で5百万円使った、1千万円使ったという人が何人もいました。私の知る限り、1千5百万円という人もいました。
私のように、経済力の無い愚鈍な者は、いろいろな形を活用したり、長い時間をかけたりして取り組んできましたので、解釈の違いはありますが、私流に計算すると結果的には、私もこれらの金額に近いかもしれません。とにかく、人生の息苦しさをなんとかしたくて、命がけでした。
昔も今も、やはり私は愚鈍だと思います。愚鈍だったからこそ、自分と取り組む時間が長かったし、いまだに自分と取り組んでいるために、結果的には、自己をさらに深めようとする姿勢を保つことができているのかもわかりません。

●(9)ところが大学院までいって、博士号を取ったり、精神科医や臨床心理士になったり、多額のお金をつぎ込んで取り組めるほどの頭脳明晰な人たちは、結果として、頭が良いために、自分の技法に心酔してしまい、自分の側には瑕疵(きず)がないと思い込んでしまうのかもしれません?「理論ありき」なのでしょうか?
だから理論を深めることができても、幅広く経験し、そしてそれを自分自身にあてはめて体験するという、職人的泥臭さは敬遠してしまうのかもしれません?
お釈迦様の弟子で、私のように愚鈍で、いくらお釈迦様が教えても、分からなかったり、すぐ忘れたりする人に、あるとき、お釈迦様は、ひたすら掃除をするように指導しました。その僧は、来る日も来る日も、ただひたすら掃除をして、やがて深い境地(大悟徹底)に達したということです。私も生きている間に、この僧侶のように、愚鈍さゆえに深い悟りを体験できれば、と夢のようなことを考えています。愚鈍は愚鈍らしくやらねば!

●(10)さて、この映画のカウンセリングの話に戻りますが、百歩譲って、アメリカではこういうカウンセリングは、ひとまずオーケーとしましょう。
しかし、アメリカと日本では、人格の構造が極端に違います。万が一、アメリカでオーケーであっても、自我状態が極端に違う日本でアメリカ流を使うことは、これはもうただ恐ろしいだけのことです。
ではどのように違うのでしょうか?
これが今回の主題です。それを説明する前に、映画を簡単にご紹介します。

○(11)(プログラムより)
<愛する者を失くした男と、愛する者を見失った男。
大学のルームメイトだった二人が、ニューヨークの街角で出会った・・・・>
アラン(ドン・チードル)はニューヨークの歯科医。仕事は順調、美しい妻と愛する娘二人に恵まれ、他人から見れば文句のつけようのない人生を送っていた。ある日アランは、9.11の飛行機事故で妻子を失くし、消息がわからなくなっていた大学時代のルームメート、チャーリー(アダム・サンドラー)を街で見かける。
ぼさぼさの頭、だぶだぶの服にペンキ缶をさげたその格好は、とても成功した歯科医とは思えない。アランは渋滞の車越しに呼びかけるが、彼の声は届かない。アンジェラ・オークハースト(リヴ・タイラー)は、アランのクリニックと同じビルで開業している若き精神科医。アランは今日も仕事帰りの彼女をつかまえ、“例の友人の件”を相談する。その“友人”は幸せな家庭を持っているが、一緒に息抜きができる男友達がいないのが悩みだという。アンジェラは度重なるこの無料相談に閉口気味だ。夜、友達の家まで送ってほしいと娘に頼まれたアランは、疲れていたにもかかわらず喜んで引き受ける。最近、妻のジャニーン(ジェイダ・ピンケット=スミス)と一緒にいると、なぜか息が詰まるのだ。
娘を送り届けた後、アランは街角で再びチャーリーと遭遇する。話しかけると、驚いたことに、彼はアランのことを知らないと言う。それでもアランの説明を信じたのか、あるいは記憶が甦ったのか、彼は自宅のアパートに招いてくれる。そこは不思議な空間だった。
所狭しとおかれた大量の中古レコード。居間の大きなモニターに映し出されたプレイ中のTVゲーム。リフォームの最中らしきキッチン。そしてドラムやギターが並ぶ音楽ルーム・・・。どうやら彼はもう仕事をしていないらしい。

チャーリーのことが気になったアランは、もう一度アパートを訪ねてみる。だが管理人は彼がチャーリーの友人だと名乗っても信じない。彼女は、この4年間で部屋に入ったのは自分と会計士と掃除人だけだと言う。押し問答をしているところへチャーリーが現われ、アランの容疑が晴れる。チャーリーは原付スクーターの後ろに彼を乗せると、ニューヨークの通りへ飛び出した。
とあるクラブでドラムを演奏するチャーリーを楽しそうに眺めるアラン。学生時代、よく二人でジャム・セッションをしたことが懐かしく甦る。アランは出番を終えたチャーリーに思い出話を始めるが、亡くなった家族のことに話題が及んだ瞬間、チャーリーは怒り出し、敵意をむき出しにするのだった。

通りで初老の女性がアランに話しかけてくる。チャーリーの亡くなった妻の母親だ。彼女によれば、チャーリーは家族を亡くした後、仕事を辞め、航空会社と政府の慰霊金や生命保険で生活しているという。心を閉ざし、家族などいないと言って、残された唯一の身内である自分たちにも会おうとしないチャーリーが心配だ、と彼女は話す。
アランがチャーリーと過ごす時間は次第に増えていった。チャーリーを放っておけないというだけでなく、彼に仕事の愚痴を話したり、彼の音楽ルームでセッションしたり、TVゲームに熱中したりするのが楽しかったのだ。そんなアランに、ジャニーンはいい顔をしなかった。

チャーリーを何とか社会復帰させたいと願うアランは、彼をこっそり精神科医に引き合わせようと試みる。だがアランと医師の小芝居は簡単に見抜かれ、チャーリーを怒らせてしまう。
一方、ジャニーンも、チャーリーのことに執心するアランへの不満を募らせていた。あなたはチャーリーの自由を羨んでいる、とジャニーンに冷静に指摘され、アランは返す言葉を失った。

チャーリーがとうとうセラピーを受けることに同意する。アランの思いが通じたらしい。彼が紹介したのはアンジェラだった。アンジェラはチャーリーが心を開くのを辛抱強く待ち続けたが、彼にとって自分を見つめることは、思った以上に難しかった。何度目かのセラピーで、席を立って出て行こうとするチャーリーに彼女はこう提案する。家族を一度に失ったことについて話してほしい、私でなくてもかまわない、と。
ドアの外ではアランが待っていた。チャーリーは隣に座ると、静かに話し始めた。3人の娘たちのこと、飼っていた犬のこと、最愛の妻のこと、そしてあの日のことを・・・・・・。

●(12)上記の紹介の最後の部分・・・・・

<<チャーリーがとうとうセラピーを受けることに同意する。アランの思いが通じたらしい。彼が紹介したのはアンジェラだった。アンジェラはチャーリーが心を開くのを辛抱強く待ち続けたが、彼にとって自分を見つめることは、思った以上に難しかった。何度目かのセラピーで、席を立って出て行こうとするチャーリーに彼女はこう提案する。家族を一度に失ったことについて話してほしい、私でなくてもかまわない、と。
ドアの外ではアランが待っていた。チャーリーは隣に座ると、静かに話し始めた。3人の娘たちのこと、飼っていた犬のこと、最愛の妻のこと、そしてあの日のことを・・・・・・。>>

このようにありますが、まだ「自分を見つめることは、思った以上に難しかった」主人公のチャーリーに、精神科医のアンジェラは、「家族を一度に失ったことについて話してほしい」と提案します。
これに刺激されて、アランの横に座って、辛い気持ちを話し始めます。
しかし、これは最悪のやり方です。「心を開くのを辛抱強く待ち続けた」とありますが、たったの数回!!!です。たったのこれだけで、「辛抱強く!!!」とは驚き桃の木!!!です。坐禅をやればわかります。辛抱強く待ち続けるとは、数ヶ月、数年単位を意味します。たったの数回で辛抱強くとは、もうこれはまともなセラピーではありません。重症者に対する時間としては、あまりにも短すぎます。心の奥底に深く、強く押し込めた「辛い感情」を、短期間に、強く働きかけすぎます。
そうすると、意外に早く、心を開くものですが、その後遺症は強烈なものがあります。
現に、この映画がそうです。

●(13)精神科医のセラピーで、心を開くことを強く働きかけられたチャーリーは、立ち去ろうとするところを思い留まり、ポツポツと話始めました。本人の自然な成り行きで心が開くのではなく、開かせられた結果、チャーリーはどうなったでしょうか?
(映画をこれから見ようとする方には申し訳ありませんが)この後、自宅に戻ったチャーリーは、拳銃を取り出し、錯乱した状態で街に出ます。彼を轢きそうになったタクシー運転手に拳銃を突きつけ、駆けつけた警官に逮捕、留置されます。
友人のアランや精神科医の懸命な対応や、「9.11」の被害者がこのような問題を起こしたことを伏せたい当局の思惑が一致して、ひとまず釈放されます。
やがて裁判が行なわれ、相手側の弁護士によって、「9.11」で犠牲になった家族の写真を見せられたり、疎遠になっている両親の言動などによって、錯乱状態というよりも、「人格破綻」しそうな状態になります。
日頃、過去を思い出したくない彼は、いつもヘッドフォンをかけて音楽を聴いています。この錯乱状態のときに、管理人の女性が傍聴席からカセットとヘッドフォンを差し出し、辛うじて我を保ちますが、場内、騒然とします。
私は、こういう精神科医は、善意でやっていることは百も承知の上で、「犯罪者的」であると敢えて言いたいです。心理の世界は因果関係を立証しにくいので、こういうことが放置されてしまっていますが、善意とはいえ、結果的には「犯罪者」的なことになっていることを、もう少し各人が反省すべきです。
この種の研究会(症例研究会)に参加してみても、余りにも性急すぎて、ただ「唖然、呆然」するばかりです。人の命を預かる以上、「いい人、優しい人」だけでいいわけがありません。

●(14)昔、ある著名な精神科医が主宰する「引きこもり」の人を預かる施設で、私(藤森)はアルバイトをしたことがあります。精神科医は都内の診療所で診察をし、施設は東京都の隣接県にありました。1人1ヶ月20万円(25万円?)で、7~8人入所していたと思います。
12時間交代で、調理師以外、昼間は常時、3人が担当します。お世話をする側は、論文を書いたり、研究したり、心理学に熱心な20代や30代前半くらいの聡明な女性や男性が中心でした。彼女たちは本当に仕事熱心で、掃除をしたり、洗濯をしたり、入所者に話しかけたり、本当に真面目で、優しくていい人たちでした。
私はというと、皆が熱心にそれぞれ仕事をしているときに、多くは、テレビがある居間のソファに横になっていました。ときには、ウトウトと眠ってしまったりもしました。
やがて気がつくと、横になっている私の脇で、安心した様子でテレビを見る入所者が出てきました。そして、なんとはなしに雑談したり、お互いに関係なく、勝手にテレビを見たりしました。お互いに側にいても安心していられる関係になってきたんですね。皆が熱心に仕事をする中で、私のグータラな様子が珍しかったのかもしれません。
この著名な精神科医は、ベテランの女性によると、この施設に一度も来たことがないそうです。つまり実態をまったく知らないわけです。
入所者は、2週間に1度、都内の診療所に診察を受けに行きます。ところが帰って来ると具合が悪くなっています。事情を聞くと、予定の時間を大幅に超えて、待たされるのだそうです。1時間、あるいは1時間30分も待たされるのです。体調が悪い人にとって、これは辛いことです。
さらに面白いことに、食後、彼等は薬を取り出して、どれを服用しようか、あるいは、どれを半分にしようかと考えることがよくありました。

●(15)映画の話に戻ります。アメリカの映画にはよく、精神科医がカウンセリング(セラピー)をしている場面が出てきます。面白いことに、この精神科医役の若い女性・リヴ・タイラー(アンジェラ役)は、現在30歳で、1994年にデビューしたときの映画が「精神科医」です。
さて、アメリカは、百歩、いや千歩譲って、ひとまずこの種の対応をよしとしましょう。
ところが日本ではどうでしょうか?
日本では、なんでもかんでもアメリカオーケーとして、ダイレクトに取り入れる傾向がありますが、歴史が浅い国は、ダイナミックである代わりに、粗雑で荒っぽいところがあります。
特に、人間心理は、奥深くて不思議なものです。こういうところに西部開拓史みたいな荒っぽいものを取り入れると、本当に危険です。日本には、池見先生という天才的な先人がいてくれたお陰で、多くを、日本流に変換してくれました。そのことをこれから説明します(私が知る限り、本格的に外国の心理学を日本風に変換した唯一の心理学が「九大式交流分析」です。この種の労作がほとんどまったくない現状を嘆きます)。 

●(16)「続セルフ・コントロール」(池見酉次郎、杉田峰康、新里里春著、創元社刊、1980年)の8ページに、下記の図が載っています。

<私(藤森)の下手な説明よりも、この本をそのまま転載させていただきます。「TA」とは、「交流分析」の略です。>

●(17)ここでは、知性(A)中心のTA(大脳前頭葉の働きによるTA)がもつ効用と限界について述べよう。この種のTAは社交レベルでのTAとして、「世間の子」として生きてゆくうえでは大いに役立つものであり、米国式のTAでは、これが主要な部分を占めている。これはまた、西欧的自我にもとづくクールなTAともいわれる。
しかし、社交レベルにとどまらず、人格的なふれ合いにまで立ちいるホットなTAをコントロールするためには、自他についての、より深い人間理解を必要とする。これを社交的TAに対して、人格的TAとよんでおこう。
企業における接遇訓練、職場での皮相な人間関係のセルフ・コントロールで重視されているのは、主として社交的で、クールなTAである。しかしこの種の知的なコントロールによるTAには、大いに限界があるものである。
職場においても、安定した持続的な人間関係が発展するためには、より深い人格的TAをスムーズに運ばせるための自己訓練と、人間理解がどうしても必要になってくる。
ところで、人格的TAということになると、気ごころの合った者どうしの間ではうまく運んでも、虫が好かない相手とのTAには、あつれきが起こりやすいものである。しかし、人間の世の中では、気ごころの合わない上役や同僚、さらには家族たちと、生活や起居を共にせざるをえないことも多い。
とくに近年のように、各人の個性や主体性が重んじられる時代になってくると、人格的TAをいかにうまくコントロールするかということが、健康な自己実現にとって不可欠なこととなってくる。

ここまでくると、人生早期にまでさかのぼって、自他の人格のなりたちについての気づきを深めてゆく、本格的な自己分析も必要になってくる。このような自己についての深い気づきによって、対人関係でのセルフ・コントロールの力が増してくるものである。
また、それぞれ人がもつ生い立ちの歴史が、今ここでの(P)(A)(C)のあり方、対人態度をいかに強く支配するものであるかについての理解が進んでくる。これにともなって、各人がもつ生活歴の重みを背負いながら、世間に適応してゆこうとする他人の懸命な営みに対しても、温かい思いやりの心が生まれてこようというものである。
このような自他の人格の成り立ちについての必然性への気づきを通して、相互の理解とふれ合いを深めるところに、いわゆる精神分析の本来の役割があるといえる。

しかし、このような脚本分析的な人間関係を深めれば深めるほど、われわれは、再び、その限界のきびしさにぶち当たらざるをえない。実は、これこそが現代人の孤独の源をなすものである。このような限界を突破せしめるものは、「世間の子」としてのしつけや教育による人格形成が行なわれる以前の、自己の実体への気づきである。これを私は「自然の子」と呼んでいる。
われわれは、人の間に生きる人間として育まれる以前から、この地上の生きとし生けるものと、同じいのちに生かされて生きている「自然の子」なのである。現代文明による人類の危機の根源も、いわゆる人間的な悩みの根っこも、つづまるところ、本来は、「自然の子」として生まれてきながら、結局は、「世間の子」として生きなければならない、人間としての宿命にあるといえよう。現代社会におけるように、「自然の子」としてのあり方と、「世間の子」としてのあり方とのズレが急速に大きくなってゆく状態では、とくにそうである。

TAでいわれる自己への気づきで、一番深いものは、「自然の子」としての、われの根っこ、さらにはいのちへの気づきなのである。このいのちに、生かされて生きているものどうしとしての共感の前には、もはや、社交のテクニックは無用であり、肌の色、身分や学歴、個性や人となりを超えた温かいTAが可能になるものである。
このような、いのちといのちのふれ合いを根底にもつTAこそが、本当の意味での「親交」なのである。またこれは、言葉を介しないハート・ツウ・ハートのTAである。

以上のところを図にまとめてみると、第1図(a)のように、私的セルフがふれ合わず、社会的セルフの範囲でTAが行なわれるのは、社交的でクールなTAである。アメリカ人の場合、日本人に比べて、社会的セルフの幅がずっと広く、アメリカ式TAでは、社交的TAのもつ比重が大きくなるのも当然のことといえよう。
日本では、第1図(b)のように、社交的セルフに比べて、私的セルフの範囲が広いので、社交的なTAの場でも、ついつい私的なことに立ち入りやすく、人格的なTAまで深入りしやすくなることが考えられる。いわゆる「ハダカのつき合い」「腹を割って話す」などといった状況では、私的セルフのふれ合いが主体となるわけである。
社交の場でのTAよりも、家庭内でのTAの方が、思いの外むずかしい理由の一つは、家庭内では社交をはなれた、生の人格的ふれ合いの場面が多くなり、互いに、相手に対する依存や期待が大きくなるためである。
TAをはじめとする自己発見への道が、いろいろと案出されているのも、その端的なあらわれの一つといえよう。

●(18)以上のように、日本人とアメリカ人の「人格形成」は、極端に違います。その違いを変換せずに、なんでもかんでも、アメリカの心理学はすばらしいというのは、もうそろそろ止めるべき時期にきていると思います。また、翻訳されたものは、なんでもすばらしいというのも困ります。
人格の形成が全然違うのですから、日本風にいかに調整するかということが必要です。
今回のことで言えば、アメリカは社交的な部分が大きくそのためにディベートなどでもわかるように、「シャベル」ことが得意です。ですから、千歩譲って、アメリカでは、この精神科医のような対応でも、ひとまずよしとしましょう。
しかし、日本では「腹を割る」とか、「阿吽の呼吸」とか、「言外の言」とでもいいましょうか、言葉で表現することが苦手な民族です。「カウンセリング」や会社の研修などをしていて感じるのですが、日本人は「ノー」と言うのが本当に苦手です。ですから、私(藤森)は、少し極端に考えて、日本には「ノー」がなく、すべては「イエス」で表現する。そして、「イエス」の中に、「本来のイエス」と、「ノーの意味のイエス」があると思っています。
それは、人格的ふれ合いが強い日本では、他者を傷つけまいとする気持ちが強すぎて、結局、自分を見失ってしまって、自己表現に混乱が起こっているのでしょう。●(19)先ほどの「続セルフ・コントロール」の11ページには、次のようにあります。<4.TAの新しい分類へ>
右記のクールなTAからホットなTAへの展開からもうかがわれるように、米国式のTAにおける交流パターンの分類は、あまりに単純で、複雑微妙な人間交流に対するキメ細かな分析に欠けている。とくに、ホットな治療の場面では、これだけではどうにもならない。
米国式TAでは、相補的TA、交叉的TA、裏面的TA、の三つの分類しかなく、交流の場にある人たちの性格、心理状態、その場の状況などに応じた適切な分類に欠けている。●(20)キリがなくなってきましたので、このあたりで終わりにしますが、上記の本は、「交流分析(TA)」のことを述べているのですが、この内容をご覧いただければ、今回の映画の精神科医に対する私(藤森)の批判を、ご理解いただけるのではないでしょうか?!
「傾聴(リスニング)」よりも遥かに複雑にできている「アメリカ式TA」でさえもが・・・・・

<米国式のTAにおける交流パターンの分類は、あまりに単純で、複雑微妙な人間交流に対するキメ細かな分析に欠けている。とくに、ホットな治療の場面では、これだけではどうにもならない。

これよりも遥かに単純な「カウンセリング(傾聴やアドバイス)」だけで、錯乱状態にある主人公に対応することが、いかに粗雑であり乱暴なことであるかということがお分かりいただけたでしょうか?いくら好意的に対応しているとはいえ、結果的には「心理的暴力」を犯しているのと同じです。心理療法の基本中の基本、人間の深層心理がまったく判っていないことに他なりません。

再度、転載します。
<4.TAの新しい分類へ>
右記のクールなTAからホットなTAへの展開からもうかがわれるように、米国式のTAにおける交流パターンの分類は、あまりに単純で、複雑微妙な人間交流に対するキメ細かな分析に欠けている。とくに、ホットな治療の場面では、これだけではどうにもならない。

これらのことを参考にしながら、映画をご覧いただくとさらに理解が深まることと思われます。

「交流分析」については、「認知療法」のシリーズが終わりましたら、引き続き、お送りする予定です。本格的な解説集にしたいと思っています。

<文責:藤森弘司>

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