2007年11月30日 第64回「今月の映画」
監督:スサンネ・ビア 主演:マッツ・ミケルセン(ヤコブ) ロルフ・ラッセゴード(ヨルゲン) シセ・バベット・クヌッセン(ヘレネ)
●(1)今回、ご紹介するのは「アフター・ウェディング」ですが、その前にご紹介したい映画が二つあります。 ひとつは、「4分間のピアニスト」です。 この映画は、心理の専門家には必見です。心理の専門家だけでなく、自己成長に取り組んでいらっしゃるクライエントの方々、その中でも、なかなか思うように自己成長できない悔しさや無念さを感じていらっしゃる方々にとって必見の映画です。 人間は心の深い部分を傷付けられると、自己変革することがいかに難しいことかを、この映画は教えてくれます。その困難さを、専門家やクライエントの方、そしてクライエントの家族の皆さんに理解していただくことの困難さを、常に感じていますので、この映画を見ながら、「そうだよな!」という思いがしました。 ほとんどの場合、症状が出る、つまり「症状化」することは、人格の深いところが傷ついているものです。 20年くらい前に、NHKの「教育電話相談」で、その当時の国立小児病院精神科医長・河合洋先生は、「軽いか否かではなく、登校拒否をしたならば、最低3年は見込むべきである」という主旨のことをおっしゃっていました。 ましてや、さらに思い症状が出ているならば、それ以上ということになります。しかし、一般に余りにも安直に考えられすぎていて、説明するのに、正直イヤになるほどです。そういうハウツーものが出回りすぎているためなのかもしれませんが、もう少し、理解が深まってほしいものです。●(2)もうひとつの映画は、「象の背中」です。やはり20年くらい前だったでしょうか、心身医学の創始者、故・池見酉次郎先生が、「40歳過ぎたら、死を意識しながら生きるべきである」という主旨のことをおっしゃっていました。 この映画は、死(末期癌)を目前にして、家族とどのように関わるか、どのようにして死を迎えるかを学ばせてくれる映画です。主人公は、最後は、海岸沿いにあるホスピスに入所します。ホスピスは、人生の最後を、より良く迎える場所ですが、ホスピスに入所した主人公を見ながら、私(藤森)は思いました。 「地球がホスピスだ!」と。 |
●(3)さて、上記ふたつの映画はなかなか良かったのですが、何故、今回、「アフター・ウェディング」を取り上げることにしたのか?それは、この映画のパンフレットを見たとき、私(藤森)は、ユングのいう「共時性」を感じたからです。 「共時性」とは、別々のところで、関係性のあることが、同時に起こることを意味します。 <・・・心の中に湧きあがるイメージの世界と、現実の世界で起こるできごととの不思議な一致を認めて、これに同時共調性という名を与えた(「ユングの心理学」秋山さと子著、講談社現代新書、昭和57年12月発行)> どういうことかと言いますと、私は、この映画を見終わったとき、この映画を「今月の映画」に採用しようと思いました。しかし、この映画は、デンマークの作品で、アメリカ映画を見慣れている者からすると、かなり異質な作品です。 そのことを、パンフレットの一部からご紹介すると・・・・・<この映画にはガキ受けを狙った単純なわかりやすさも、パターン的な人物造形も、お涙ちょうだいの甘ったるさも無い。現在の日本映画の多くが欲しがるそれらの要素がまるで無いのだ。私たちの国で映画やTVドラマを作ろうとすれば、まずわかりやすさが絶対条件で、次に若者に受けるかどうかが重要課題となる。本当の意味で、何が若者にとって大切なのか、彼等の魂をうつかではなくて、受けるかどうかだけが。 だから、それらの要素がまるで無い「アフター・ウェディング」のような映画・・・>このようにあるように、この映画を紹介するのには、少々、困難なものを感じました。そこで、映画の全てを紹介してしまおうと思い、パンフレットを見ると、あるページに<*ラストシーンまで記述されていますので、映画ご鑑賞後にお読みください>とありました。 あれ?私と同じ発想だと思い、不思議な因縁を感じました。今まで、ラストまで記述されたパンフレットは、私の経験ではありませ。そのため、上記二作品もなかなかのものでしたが、今回は「アフター・ウェディング」に決定した次第です。 今回は、パンフレットに紹介されているものを、下記にそのままご紹介します。 |
○(4)イントロダクション <自分の余命が短い事を知った時、人は一体何を家族に残せるだろうか?> 日常のささやかな暮らしの中で、いつの間にか忍び寄る悲しい運命に絡めとられ翻弄されてゆく家族、子供たち、そして男と女。突然の困難な状況に直面した彼らの心の葛藤と選択した行動は、観る者すべての胸を突き刺すような深い感動を呼び起こすだろう。そこには人を深く愛するという心とその裏に潜んだ孤独、そして家族の大切さの本当の意味が繊細に、そしてリアリティ溢れるタッチで描かれる。舞台はデンマークのコペンハーゲンを中心とした透明感溢れる北欧の風景や、インドでも撮影された。また郊外の古城で行なわれる華やかなデンマーク式結婚式のシーンも、大きな見所の一つだろう。<人を愛する心とその裏に潜んだ孤独、そして家族の大切さの本当の意味> インドで孤児たちの援助活動に従事するデンマーク人ヤコブ。財政難の孤児院を運営する彼のもとに、あるデンマークの実業家から巨額の寄付金の申し出が舞い込む。そして寄付にあたって求められたたった一つの条件は、直接会って話をするということ。久しぶりにデンマークへ戻った彼は、実業家ヨルゲンとの交渉を成立させる。その時ヨルゲンは終末に行なわれる彼の娘の結婚式に出席するように、強引にヤコブを誘う。断り切れずに出席したヤコブは、そこで思いがけない人と再会する。困惑するヤコブ。そして明らかになる衝撃の事実。やがてヤコブは全てを仕組んだヨルゲンの秘密と、まだ4歳の幼い子供たちの父親としての彼の本当の望みを知ることになる・・・。<2007年アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品が遂に公開> 主人公ヤコブには「007/カジノ・ロワイヤル」でジェームズ・ボンドの敵役、血の涙を流すル・シッフルを演じて世界的な注目を集めたマッツ・ミケルセン。ヤコブに近づく謎の実業家ヨルゲンはスウェーデン人俳優のロルフ・ラッセゴードが演じ、その豪放でありながら繊細な役柄を見事に演じ切った。二人の間で揺れ動く妻ヘレネを演じるのは、デンマーク国内の女優賞を何度も受賞しているシセ・バベット・クヌッセン。そして意志の強そうな瞳が印象的な娘アナには、瑞々しい演技で今後の活躍が期待される新星スティーネ・フィッシャー・クリステンセンを抜擢。そのリアリティ溢れる演技のアンサンブルが観る者に強い印象を残し、2007年のアカデミー賞外国語映画部門にノミネートされた他、多くの映画祭で受賞をしている。 |
○(5)ストーリー <ラストシーンまで記述されていますので、映画ご鑑賞後にお読みください> インドで孤児たちの援助活動に従事するデンマーク人、ヤコブ。財政難の孤児院を運営する彼のもとに、デンマーク人の実業家ヨルゲンから巨額の寄付金の申し出が舞い込む。寄付にあたりひとつだけ条件を求められたが、それは直接会って話をする、という事だった。久しぶりに故郷デンマークへと戻った彼は、ヨルゲンとの面談後、その終末に彼の娘アナの結婚式に出席するように強引に誘われる。 断りきれずに出席すると、そこでおもいがけずに昔の恋人で今はヨルゲンの妻となっているヘレネと再会する。困惑するヤコブ。そしてさらに結婚パーティーでは、両親に向けてスピーチをするアナの話が、ヤコブを激しく動揺させた。それはアナがヨルゲンとは血の繋がりがなく、ヘレネの昔の恋人との子供で、それでも本当の親子の様に育ててくれたヨルゲンに、アナは心からの感謝の気持ちを伝えたのだった。翌日、家族で結婚祝いの品を開けているところに、ヤコブが訪ねて来た。ヤコブと別れてインドから帰国した直後に妊娠がわかり、その後ヨルゲンに出会ったというヘレネに、20年間娘の存在をしらずにいた彼は怒りが抑えられない。両親とヤコブとの様子にただらなぬものを感じたアナは、母から実の父が彼であること、昔は荒れた生活をしていて、探しても見つからず死んだものだと思っていたことを聞き、彼が泊まっているホテルに会いに行く。 夕食の席。向かい合って話をする二人。ヤコブは孤児院にいる赤ん坊の頃から面倒をみてきた男の子プラモドの事を、アナは自分のアルバムを見せながら、まるでこれ迄失われて二人の時間を慈しむかの様に話し合い、ヤコブは何故二人が別れたかを素直に語った。ヨルゲンはヤコブに契約を続けようと申し出る。二日後にインドに帰ろうとしている彼に、一年毎の寄付ではなく、アナの名を付けた基金を設立し、二人で使い道を決めればいいと提案する。120万ドルもの額になる基金に「あなたのメリットは?」と問いかけるが、「何もない、普通の暮らしができればいい」と答えるヨルゲン。この国で本当の娘アナと理解を深め、妻を食事に誘ってくれ、という彼の申し出を理解出来ずに戸惑うヤコブ。 ヨルゲンが双子の息子たちを連れて釣りに出かけた後、ヤコブがヘレネを訪ねて来た。なぜヨルゲンが彼に孤児院を選んだのか?娘を巻き込もうとしているのか?ヨルゲンのことを聞いているうちに、二人はいつしか共通する空気を感じていた。ケンカばかりしていて別れた20年前から、長い歳月が二人を大人にしていた。ヤコブは基金の契約書を確認していると、自分がデンマークに住むことが条件になっている事に気付く。反発するヤコブはヨルゲンと口論になるが、やがてヨルゲンは病に冒されており、残された時間がないこと、そしてヘレネ、アナ、双子の息子たちをヤコブに任せたいという彼の願いを告げる。ヤコブは「ここでこそ君の助けが必要なんだ」というヨルゲンの必死な思いに、心を深く揺さぶられた。 親しい者達が集まったヨルゲンの誕生祝いの席。良き夫、良き父、優れた実業家として歩んできた彼を称える友人たちの前で、仲間たちへのそして何よりも妻と子供たちへの感謝を込めたスピーチをするヨルゲン。しかし楽しいダンスで幕を閉じたパーティの翌日、ヨルゲンは昨夜とは打って変わって疲れ果てた姿で、ヘレネにすがり、「死にたくない!」と泣き叫ぶのだった・・・。 ヨルゲンの葬儀が執り行なわれてから数日後。インドを訪れ「孤児院&学校」の看板がかかり、りっぱになった施設に入るヤコブ。そこにプラモド(孤児院にいる赤ん坊の頃から面倒をみてきた男の子)がやって来て、久しぶりの再会を喜び合う。「一緒にデンマークで暮らさないか」と問い掛けるヤコブに、「行かないよ」と答えるプラモド。子供たちはたくましく成長し、いつしかそこはヤコブの居場所ではなくなっていた。もうこれきり会えなくなるかもしれないが、外で元気にサッカーをする彼の姿に、ヤコブの笑顔がこぼれるのだった。 |
○(6)映画評 <求め合う心と体を手放さないで>筒井ともみ(脚本家・作家) この映画を見ているうちに、私はとても羨ましくなった。 なぜそう感じたのか。理由はいくつかある。 まずひとつは、この映画にはガキ受けを狙った単純なわかりやすさも、パターン的な人物造形も、お涙ちょうだいの甘ったるさも無い。現在の日本映画の多くが欲しがるそれらの要素がまるで無いのだ。私たちの国で映画やTVドラマを作ろうとすれば、まずわかりやすさが絶対条件で、次に若者に受けるかどうかが重要課題となる。本当の意味で、何が若者にとって大切なのか、彼等の魂をうつかではなくて、受けるかどうかだけが。 だから、それらの要素がまるで無い「アフター・ウェディング」のような映画を前にしたら、どう受け止めて、観客たちにどう見てもらうのか、判断に迷うことだろう。 でも、そんな映画界の人たち(なぜか殆どが男性)が考えるより、観客たちの作品を感受する力はひ弱ではないと思う。確かに数は多くないかもしれないが、しっかりと受け止めてくれる観客たちがいる。視聴率のよかったTVドラマや発行部数の多いコミックや小説を映画化すれば、その時は客が集まってヒットするかもしれないが、それだけがすべてではない。もっと深くしっかりと受け止めてくれる観客のいることの方が、映画にとっても、私たちが生きている世界にとっても大切なことのように思えるのだが。 「アフターウェディング」は、そんなタイプの映画だ。 私がこの映画を羨ましく思ったもうひとつの理由。それは演出力だ。 デンマークが生んだ女性監督スサンネ・ビア。私、大好きだな、この監督。デリケートできわめてフィジカル(身体的)でありながら、タフでゆるぎがない。演出に迷いが感じられない。だから映画を見ていて、こちらもフィジカルに作品世界を、人物たちを受け入れることができる。 彼女の演出には嘘もない。形而上学的観念にとらわれることも、やたら映像流になることもない。私は男であるからとか女であるからとかでモノゴトを判断するのは大っ嫌いなのだが、それでも彼女が女であることがそのタフな演出を決定しているように感じられる。本当に納得できないことは画にしないのだ。自分の心と体と五感で納得した時、彼女のフィルムはまわり始める。だからゆるぎがないのだ。こんな監督に自分の脚本を託せたなら、すごく安心だし幸せだろうな。そんな夢みたいなことを考えたのは、アン・リー監督以来だ。彼がいつも組んでいるジェームズ・シェイマスのプロデュース力と脚本も素晴らしいのだが、「アイス・ストーム」を見た時、あーァ、こんな監督と仕事ができたらいいよなア、としみじみ感じたことを思い出す。いちばん最近見た「ブロークバック・マウンテン」も素晴らしかったが、彼の演出もまたスサンネ・ビアの演出と通底して、繊細でタフでゆるぎがない。 そういう監督は、世界を濁らせることなく映し出し、私たちに伝えてくれる。私たちにとって、世界にとって、今、何が大切なのかを、声高にではなくひっそりと。 映画は難民たちの暮らすインドの町なみから始まる。埃っぽい極彩色の風景は、やがて透明感あふれる北欧デンマークの風景とカットバックされていく。そして各々の風景の中で生きるふたりの男が映し出される。 いったいどんな映画が始まるのか、予測ができない。対照的な風景も。画や物語にメリハリをつけるためのものぐらいに感じていたのだが、ラストでこのふたつの世界は見事に結びつくことになる。深いテーマの中で。 一見、何の結びつきもなく見えた男ふたりの他に、もうひとり女が登場する。 女は、北欧の風景の中にいた裕福な実業家ヨルゲンの妻ヘレネ。もうひとりの男はインドで孤児たちの援助活動をしているヤコブ。ある日、ヤコブのもとに資金援助をしたいという男(ヨルゲン)から連絡があり、首都コペンハーゲンへと出向くのだが・・・・・。ヨルゲンには命を賭した秘密の企みがあった。 物語はこのようにして紡がれ始める。スサンネ・ビアの演出、とりわけシーンの継ぎ方がフィジカルでゆるぎないから、私たちはたちまちのうちに主人公たちに親密感のようなものを抱いてしまう。 描かれていくテーマはとりたてて斬新なものではない。むしろ意地悪く分析すれば、いわゆるメロドラマチックな設定かもしれない。でも、そんなことはどうでもいいのだ。むしろ誰の人生にも起こりうる普遍的テーマを、新鮮な演出力で見せながら、やがてスサンネ・ビアがこだわる彼女らしいテーマ、問題へと深まっていく。 そのテーマとは、私が理解できる範囲でいえば、思いもかけない困難な状況に直面した時、人は何ができるのか。 誠実に生きようとすればするほど、人は困難な状況から眼をそむけることはできない。 ではどうすればいいのか。何ができるのか。その答えは簡単には見つからない。だから彼女はどの映画にも、解決は用意されていない。その答えを見つけていくのは主人公たちであり、観客の私たち自身でもあるのだから。 でもビア監督は、そのことを暗くばかりはとらえていない。描いてもいない。人生というのは思い通りにはならないからこそ、愛しくて切なくて、思いもよらない冒険に充ちているのだと、そう囁きかけてくれる。「アフター・ウェディング」にはもうひとつ、彼女にとって大切なテーマもこめられている。家族のこと、家族の大切さについて。でも彼女が描く家族は、血のつながりとか、一緒に暮らしていることばかりにはとらわれない。血のつながりがなくても、別々の場所で生きていようとも、家族にはなりうる。人と人とは親密に結びつくことができる。結び合いたいという思いを持ちつづけることができるのならば。 最初のうち、バラバラに見えていたインドの風景と北欧の風景は、このテーマがあぶりだされた時、見事なくらいぴったりと重なり合う。 ヤコブにとって、インドで彼の帰りを待つ孤児の少年プラモドも、若き日のたった一度の性交で生まれてヨルゲンの娘として育ったアナも、その母で、遠く離れ離れになっていたかつての恋人ヘレネも、そして、ヤコブに家族を託して病で死んでいったヨルゲンさえもが、ヤコブにとって大切な家族のような存在になっていく。 人と人とはこうやって求め合い結びついていく。世界はつくられていく。 困難な状況は誰にでもめぐりくるものなんだ。経済大国と言われるこの国に住んでいると自分とは無関係と思いがちだけれど、世界は日々、あらゆる困難に直面している。私たちはまぎれもなくその世界に住んでいる。そのことから眼をそむけずに、私たちにはいったい何ができるの? まずささやかな、自分にもできることから始めてみよう。誰かと触れ合い、求める思いを忘れないこと。だって、生きることとはたぶん、誰かと触れ合うことだから。痛くても辛くても、触れ合う心と体を手放さないこと。受け入れてみること。 スサンネ・ビアが私たちにそっと語りかけることは、繊細でタフで、深々とやさしい。 |
<文責:藤森弘司>
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