2007年10月31日 第63回「今月の映画」
パーフェクト・ストレンジャー

監督:ジャームズ・フォーリー   主演:ハル・ベリー   ブルース・ウイリス

●(1)今回初めて、見ていない映画のご紹介です。私(藤森)は、不気味な映画や恐怖を感じるような映画は、基本的に見ないことにしています。
今回、この映画を取り上げたのは、ハル・ベリーの個人的な面を紹介をしたいのがその理由です。私のホーム・ページを継続してご覧になっていらっしゃる方は、下記のハル・ベリーの生い立ちを読めば、その意味をご理解いただけるのではないかと思っています。
○(2)(プログラムより)
変死した幼なじみの事件を調べる、新聞記者のロウィーナ(ハル・ベリー)。第一容疑者は、大富豪にして会社社長のハリソン・ヒル(ブルース・ウイリス)。彼には、他人に言えない大きな秘密があった。
だが、調べれば調べるほど、新たな容疑者が次々と彼女の前に現われる。そのなかには、被害者とは無関係なはずのロウィーナの恋人や相棒の姿もあった。はたして、犯人は誰なのか・・・・・?○(3)ひとは誰しも、他人には知られたくない“秘密”を抱えて生きている。そして、その秘密を守るために嘘をつき、素知らぬフリをしながら、他人に見せるための「別の顔」を作ろうとする。
けれども、ふとしたきっかけから、隣人の「本当の顔」を知ってしまったら?そのとき、あなたは奇妙な感覚に襲われるに違いない。まるで、その相手が初めて会う見知らぬ他人であるかのような違和感に。それが愛する恋人や家族、心から信頼する親友だったとしたら、その違和感にはきっと、耐え難い“恐怖”が伴うはずだ。
いまや円滑なコミュニケーションを保つために、秘密や嘘はなくてはならないもの。もしも、あなたの周りにいる全ての人間から秘密を剥ぎ取ったとしたら?その瞬間、あなたは<完全なる別人>と化した人々に囲まれ、誰ひとりとして信じることができなくなるかもしれない。
●(4)2003年3月3日、日刊ゲンダイ「第一線美女を解剖する・女優ハル・ベリー」

<オスカー女優で初のボンドガールの迫力>
“007シリーズ”の20作目「ダイ・アナザー・デイ」が8日に公開される。世界各地で大ヒット中のこのアクション大作は女優、ハル・ベリー(34)が出ていることで話題だ。オスカー女優初のボンドガールである。

<トラボルタ絶賛のボディー>
昨年、黒人女優初のアカデミー最優秀主演女優賞を「チョコレート」で受賞した。この作品で彼女は死刑囚の夫に続き息子まで亡くした薄幸の人妻を熱演した。
今回は百八十度性格が異なるボンドガールに挑んだ。ハル・ベリーは男をたらしこむだけのセクシーな女ではなく、自分で考えて行動する自立した強い女を演じている。米国家安全保障局のエージェントの役だ。
「華奢なボディーにこぼれ落ちそうな巨乳が魅力的です。30歳を越えて美貌にもさらに磨きがかかった。それにキビキビした動きには脱帽。どのシーンでも動きがシャープです。あのジョン・トラボルタが“こんなに美しいボディーを今まで見たことがない”と絶賛しただけのことはある」(映画ライター)
今回は主役のボンドを食ってしまった。
すでに彼女を主役にしたアクション映画も企画中。
GWには「X-メン2」も公開される。

<男に虐待され続けた半生>
最初の結婚は92年。相手はメジャー・リーガーのデービッド・ジャスティスだが、家庭内暴力で4年後に離婚。
離婚後はうつ病になってしまった。彼女はガレージで2匹の愛犬を車に乗せてエンジンをかけ、ホースで排ガスを引き込む寸前で自殺を思いとどまった」(女性誌記者)
2年前にR&B歌手のエリック・ベネットと再婚した。ベネットにはかつて付き合っていた女性との間にできた10歳の娘がいた。不運にもその女性が自動車事故で死亡。ハル・ベリーが娘を養子にした。
「昨年4月、映画『ダイ・アナザー・デイ』を撮影中に夫の不倫が発覚し、ショックのあまり、彼女は睡眠薬自殺を図りました。不倫は夫のセックス中毒が原因と考えてベネットを強制入院させたのですが、彼の女好きは以前のままです」(芸能ライター)
ハル・ベリーにはかつて同棲していた相手がいた。この男には殴られて左耳の聴力を8割も失った。男運は最低だ。
そんな彼女を支えるのは映画「ブルワース」(98年)で共演したウォーレン・ベイティ。夫のことを相談するうち親密な関係に発展した。
「ベイティは名うてのプレーボーイ。妻で女優のアネット・ベニングとは4人も子供をつくったが、今はハル・ベルーとの熱烈キス写真を撮られるほど彼女に夢中になっている」(事情通)

<ミスコン出身の元モデル>
68年8月14日、米・オハイオ州クリーブランド生まれ。黒人の父と白人の母の間に2人姉妹の妹として生まれる。4歳で両親が離婚し、看護婦の母に育てられた。
「父が戻ってきたのは彼女が10歳の時。アル中の父親は母や姉を虐待してハル・ベリーの愛犬を半殺しにしたそうです。同居が長引けば自分が酒や麻薬におぼれていたと告白したこともある」(スポーツ紙記者)
85年、17歳でミス・ティーン・オール・アメリカンに選ばれ、翌年、準ミス・アメリカに選ばれて芸能界入り。89年にコメディドラマ「リビング・ドールズ」の主役で注目され、91年に「ジャングル・フィーバー」で映画デビュー。
アクションもシリアス物も何でもこなす。「ソードフィッシュ」でトップレス姿を披露。「チョコレート」では全裸セックスシーンに挑戦。今後も磨きあげたボディーを出し惜しみする気はなさそうだ。

●(5)日刊ゲンダイ、2007年6月14日「舟木一夫・歌に抱かれて・・・」(連載8)

<母親は延べ9人>
僕は小学校の間に、母親が延べ9人代わりました。冗談のように思えるでしょうが、事実も事実。1年の時、産みの母が姿を消したあと、親父は取っ換え引っ換え女性を連れてきては、僕の新しい“母親”としたのです。
もっとも、産みの母が一度出戻っていますから、実質は8人ですけど、なかには1泊2日という“母親”もいました。だから僕は、母親に“おふくろ”というような温かいイメージを抱いたことはありません。ただ6年の時、9人目となった母親はよくできた人で、そのあとずっと親父に連れ添い、僕が中学1年の時、弟が生まれました。
<略>
実母が姿を消した理由はわかりません。後年、親父が語ったところによると、親父が「たたき出した」そうです。
<略>
母が姿を消した時は、悲しい思いをしたような記憶がないのが我ながら不思議ですけど、ちょっとつらい思いをしたのがそのあと。実は小学校4年の時、国鉄職員の男と再婚していた母に預けられたことがあるのですが、ある日の夕食にスキヤキが出た。子供の僕が肉にハシを伸ばすと、その瞬間、再婚相手の男に手を叩かれた。子供心にムカッとして、意地でも肉に手をつけないようにしました。
母に目をやると、なんとも言えない顔をしていたけれど、何も言ってくれませんでしたね。それが精神的ショックだったのか、しばらくして僕は顔面を無意識に動かすチック症状が出てしまうのです。なにかでそれを聞きつけた親父が連れ戻しに来てくれました。
母とはそのあともう1度会いました。デビューして半年後。親父を介して訪ねて来たので一席設けて会ったのですが、ちょっと話しただけで「この人はダメだ」「親父が別れたわけだ」と直感的に思い、中座してしまいました。それでも昭和52年7月、母の訃報を知らされた時はわけもなく涙があふれました。●(6)日刊ゲンダイ、2007年6月15日「舟木一夫・歌に抱かれて・・・」(連載9)<小学3年の夏、チンピラ風の男にピストルを突きつけられて・・・>
<略>
確か小学校3年の夏でした。夕方、前夜から留守にしていたオヤジが息せき切って帰ってきた。土足のまま家に駆け込み、茶だんすの引き出しからお金を引き出すや、「しばらくいなくなるぞ!」と、また脱兎のごとく裏の方へ駆け抜けた。
そのオヤジを呆然と見送っているところに、若い男がこれまた息を切らせてやってきて、いきなりピストルを突きつけたというわけです。
<略>
振り返ると、オヤジにとってはこの頃が最悪の時代だったと思います。延べ9人代わった“母親”の空白期でもありましたから。それもあったのか、このピストル事件の直後、僕は浜松の戦友だという人の家に預けられました。1週間の約束で、住まわせてもらたのは4畳半程度の広さの納屋。
ところが約束の1週間が過ぎ、さらに10日経ってもオヤジは現われない。子供心にも居候の肩身の狭さを感じるようになった僕は、それまで母屋で戦友ご夫妻と一緒にいただいていた食事も、丼飯だけをもらってひとりで食べるようにしました。この時、僕が考案した丼飯の食べ方がある。割りばしに醤油をしみこませ、それをしゃぶりながら飯をかっこむ。名付けて「しゃぶり醤油の丼飯」です。
<略>
●(7)夕刊フジ、2007年10月16日「偉人のカルテ・若山牧水」

<毎日1升飲み続け肝炎に>
歌人として数々の名作を残した若山牧水は1928年9月17日、43歳という短い生涯を終えた。死因は肝硬変だった。
文学でこそ「白玉の 歯にしみとおる 秋の夜の 酒はしずかに 飲むべかりけり」という短歌を残したが、現実には毎日1升の大酒を飲む生活を送っていた。死の数日前に医者から絶対安静といわれたときも、お酒を飲み続けたという。<略>(山野美容芸術短大教授・医学博士、中原英臣)

●(8)日刊ゲンダイ、2007年10月11日「NEC元会長のボンボン息子の金銭感覚・ついに逮捕」

<5600万円横領容疑>
またボンボン息子がご乱心だ。NEC元会長・関本忠弘氏の長男で、元フジテレビアナウンサー寺田理恵子の夫・関本雅一(48)が9日、警視庁に捕まった。自分が社長をしていたIT派遣会社から5600万円を着服した横領容疑だ。広告マンだった00年には3億円の広告費を不正に取得して懲戒解雇され、騒ぎになったが、日本を代表する大企業の御曹司なのに、やることがつくづくセコい。
<略>
カネに困っていたというウワサは聞こえてこないが、ある関係者はこう言う。
「決して人柄は悪くないが、カネの話になると、どうしようもなく無能になる。ようするにボンボンなんです。」
<略>

●(9)週刊ポスト、2007年10月5日「深層スクープ・亜希子夫人急逝!」

<ミスター・長嶋夫妻「犠牲にされた家族愛」の(誰も書かなかった)最大のタブー>
<略>
今年の7月、日本経済新聞紙上に掲載された「私の履歴書」最終回で、長嶋氏はこう書いている。
「家族愛という面で私は全くだめ親父だった。家族も子どもも何もかも犠牲にしてチームに捧げた」
<略>
「ミスター」こと長嶋茂雄が“国民的ヒーロー”であるが故に、長嶋ファミリーは“理想の家族”とされ、幸せぶりばかりが報じられて来た。亜希子さん逝去後の報道が美談一色だったのもそのためだ。
では、長嶋氏が自ら記した「家族の犠牲」とは何だったのか。夫婦に、そして家族に何があったのか・・・。
<略>
英語、フランス語など4か国語が堪能な21歳の才媛と長嶋氏の結婚に対しては、「正直、愛すべき野球馬鹿である長嶋さんと、夫婦でどんな会話をしていたのか、想像もつかない」という古参記者もいる。
<略>
長嶋氏は試合から帰ると、玄関から家の中を素通りして裏庭に出て素振りをするのが日課だった。しかし、それが10分で終わるのか2時間続くのかが分からない。
「長嶋さんはすぐに料理が出てこないと機嫌が悪くなる。亜希子さんは練習を終えるタイミングでスープを食卓へ出すために、素振りの様子を見ながら、何度も何度も温め直したそうです」(ベテラン担当記者)
<略>
「・・・・・取材を終えると、長嶋さんが外まで見送ってくれたんですが、裸足のまま出てきた。それを見て、亜希子さんが笑いながら“あなたッ”と声をかけると、慌てて長嶋さんは草履を履いたんです」
まるで大きな子供に注意するように叱ったのが印象的だったという。
野球しか頭にないから「連れていった一茂を後楽園球場に忘れてきた」というポカもやる。母親としては気が気でなかったはずだ。
<略>
2度目の監督就任は93年。当然、亜希子さんは猛反対したが、長嶋氏は折れなかった。そして再び夫の勝敗に一喜一憂する、不安な日々が始まった。
本来、敬虔なクリスチャンだった亜希子さんが「験(げん)担ぎ」に凝り出したのはこの頃からだ。
「自宅近くの浅間神社はもちろん、遠征先の神社の参拝を勧めたのも亜希子夫人ですし、勝負の神様と聞くと熊野神社、天河神社など地方にも長嶋監督の代理で参拝する。ヒノキパワーや水晶がいいと思えば夫に使わせる。こうした様子は、いつしか我々の間で、書いてはいけない“タブー”になっていった」(担当記者)
亜希子さんにとっては巨人が勝つために行なう“長嶋愛”の賜物だったのだろう。一度だけ、長嶋氏が「初めて女房孝行ができた」と胸を張ったことがある。
「88年、長嶋さんがローマ法王に謁見した時に夫人を同伴したんですが、亜希子さんは感激のあまり震えていたそうです。それを見て長嶋さんは“オレのお陰だぞといってやった”と満足そうでした」(柏氏)

<長嶋氏不在の「母の日の食事」>
亜希子さんの「膠原(こうげん)病は、結婚後間もない20代の頃から心配されていた。ここ数年は入退院を繰り返していたともいう。
01年にミスターがユニフォームを脱いだ際、一茂氏がテレビで「これからは家族のために生きてほしい。母の側にいてほしい」と中継で繋がった長嶋氏に注文を付けた。それも亜希子さんの病状を思い、「監督の妻」の重圧から再び解放させるためだった。
<略>
だが、夫婦の絆を改めて確かめ合う間もなく、03年には別居が始まる。
「亜希子さんの移ったマンションは、膠原病で車椅子を使うことも多かったことから購入したバリアフリーの物件です」(知人)
子供たちが自立すると、大きな邸宅は階段の上り下りが大変だったからだが、04年にミスターが自宅で脳梗塞で倒れた際、「別居」が様々な憶測を呼んでしまう。しかし、入院中の長嶋氏に「オムレツ」など自慢のお気に入り料理で見舞いに通い、退院後は同じマンションの別の階に部屋を買い、そこでリハビリに取り組むミスターを、亜希子さんは励まし続けた。
母の側にいてほしいと願っていた子供たちにとって、病に苦しむ身で長嶋氏のリハビリに献身する母が不憫に見えたのかもしれない。長嶋氏と家族の確執である。
「ハワイが大好きだった亜希子さんのために、長嶋氏は現役引退後、ハワイに別荘を購入している。しかし、この春に一茂一家が亜希子さんをハワイに連れて行ったが、長嶋氏には知らせなかったそうです。今年の母の日に一茂など兄弟が集まって食事をした時も同じ。亜希子さんは『子供たちが私のために集まってくれた』と涙ながらに喜んでいたが、やはり長嶋氏は呼ばれなかった。陰で支えてきた母親に報いていないと、子供たちとしては許せないのでしょう」(知人)

そうした微妙なバランスで辛うじて成り立っていた家族関係を改めて認識させる事件がこの夏に起きた。
「8月上旬に亜希子さんのお母さんが亡くなった。最愛の母だったが、誰にも知らされず密葬が行なわれた。亜希子さんは相当、ふさぎ込んでいた」(別の知人)
知人に自慢するほど好きだった母親が亡くなったにもかかわらず、「家族を人の目に晒したくない」という夫の気持ちを考えて葬儀をできず、友人たちに知らせることもなかったという。母親の死は亜希子さんの心境に変化を与えたようだ。
その後、亡くなる半月ほど前に偶然会った友人に、「これまで監督の妻として陰で支えてきたけど、これからは自由を謳歌するわ」と語っていたという。
そして、長嶋家が<家族愛の犠牲>の上に成り立っていたというタブーに、長嶋氏自身が新聞紙上で初めて触れた2ヵ月後に、最愛の妻は逝ったのである・・・。

●(10)夕刊フジ、2007年9月20日「長嶋さんのために・今こそネバーギブアップ」

<原巨人恩返しはVで>
亜希子夫人が急逝した長嶋茂雄終身名誉監督のためにも、原巨人は最後の最後までネバーギブアップ精神を発揮しなければならない。
 「ウチは亭主関白だからね。女房はオレの言いなりだから」
現役時代から監督時代になっても、いつもこう自慢していた長嶋さんだが、表面に出ない、賢妻・亜希子さんの後方支援あっての野球一筋、亭主関白だった。
「生涯巨人・長嶋茂雄」を貫くにあたっても、亜希子夫人抜きには語れないだろう。
80年10月21日の電撃的な巨人監督解任劇に誰よりも怒ったのが、亜希子夫人だったという。
「長嶋茂雄を利用するだけ利用して、クビを切るなんて、読売と巨人は許せない」と、憤激したといわれる。それから長い充電生活。プロサッカーのJリーグが発足することから、強い危機感を覚えた巨人が13年ぶりに長嶋監督を担ぎだしたのだが、この際にも亜希子夫人は復帰に大反対といわれた。
「そんなことはないよ。亭主のオレが言うことに女房が反対するわけがないだろう」。長嶋さんはこう胸を張った。
<後略>

●(11)最後に、大変爽やかな記事をご紹介します。

日刊ゲンダイ、2006年12月23日「若手ピン芸人の中で男を上げて、頭一つ抜け出した竹山隆範」

<病床の相方を見守り続け・・・・>
「頑張れよ」「また漫才やろうな」・・・・・カンニングの竹山隆範(35)は、相方の中島忠幸が息を引き取る1時間前、意識がない中島にこう声をかけてから仕事に出かけたという。
カンニングの芸風は“怒鳴り漫才”。マジギレの竹山を中島がなだめて突っ込みを入れる、独特のスタイルでブレークした。2人は小学校の同級生で福岡から上京した21歳の時、偶然、東京で再会してコンビを結成。プレークするまでに10年以上かかり、2年前“やっとこれから”という時に中島が急性リンパ球性白血病で倒れてしまった。

この間、竹山はピンで活動したが、頑として“カンニング”の看板は外さなかった。また、ピンで稼いだギャラは中島と折半し続けてきたという。
会見で“ギャラ半分”の理由を聞かれた竹山は「小学校からの同級生で、芸能界に入ってツライ時もお互いに助け合ってきたから。中島は家族であり、戦友、夫婦みたいなもの。“折半してあげている”と思ったことはなかった」とサラリと答えた。
作家の吉川潮氏が言う。
「いくら小学校からの同級生とはいえ、病気療養中の相方に、ギャラの半分をポンと渡すなんてなかなかできることではありません。中島の病死で竹山の友だち思いの一面や男気が浮き彫りになりました。世間の彼に対するイメージは一気にアップしたはずです。竹山は正真正銘のピン芸人になってしまったけど、これからも十分やっていけると思います」
竹山は今後も“カンニングの竹山”として活動していく。頑張れ!

<文責:藤森弘司>

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