2006年9月30日 第50回「今月の映画」
ゲド戦記 アジャセ・コンプレック

●ゲド戦記については、先月の「今月の映画」で解説しました。
ゲド戦記のテーマは、父親殺し、つまり「精神分析」でいう「エディプス・コンプレックス」です。簡単に説明しますと、乳幼児は、母親ベッタリで成長しますが、2~3歳ころになりますと、父親が関わり始めます。
今までは、お母さんだけを中心に考えればよかった幼児が、ここで初めて第三者の介入を受けます。今まで許されていた「母親ベッタリ」の生活から、第三者の存在である父親の目を意識するようになります。このミニ社会をうまく乗り越えることで、社会に出てもうまく生きていくことができる人格が育ちます。
前号(第49回「今月の映画」)の一部を再録します。
①(プログラムより)アレンの不安は、誰もが持っているもの<「ゲド戦記」翻訳者、清水真砂子>
・・・・・映画の冒頭で、アレンは父親殺しをしています。これは原作にはない設定です。でも私はこの場面を観た時、やはり、と思い、これはいける、と思いました。ここには今の、いえ、いつの時代も若者が抱える根源的な問題が見い出されるからです。とりわけ今、若い人たちが生きにくく、呼吸困難になっている原因は、精神的な父親殺しができにくいことにあるような気がします。②アメリカのある高名な批評家は、心理学者ユングの説をひき、このゲドを追いかける影を、人間の意識せざる心の奥底に潜む負のエネルギーではないかと解釈しました。父王を刺し国を出た少年は“影”に追われていた。④父さえいなければ、生きられると思った。

●上記の①で述べられているように、いつの時代でも同じですが、特に現代日本の多くの問題は「父親殺し」ができないことです。父親殺しができない問題は、「父権」の失墜です。色々な原因が考えられますが、いずれにしてもそれらの結果として、父親の存在感が極端に希薄になってしまいました。
人間は、胎児の時代から計算して、2~3歳までの数年間、そのほとんどを母親の影響の下に生きます。胎児時代はもちろんのこと、誕生後も、授乳をはじめ、おんぶや抱っこなど、母性の圧倒的な影響を受けながら成長します。
最近は、この母性がかなり失われてしまって、この時代にも多くの問題がありますが、ひとまず通常の状態を想定してみますと、この頃は、問題を抱えながらも、まあ何とかそれなりに育児がなされます。
ところが2~3歳になると、父親が母子関係の中にかなり介入するようになります。今まで、母親が全面的に対応してくれていたので、乳幼児は、ひとまず心地良い人間関係を保つことができました。
しかし、この頃から父親が介入するようになると、胎児時代からの3~4年間、無意識的に構築されてきた母子関係の波長とはまったく違う、第三者に対する新たな人間関係を構築しなければならないという困難な問題に直面し始めます。
ここで適切な母性と、適切な父性を持つ両親に育てられた子供は、人格を順調に育成していくことができますが、通常、というようりもほとんどすべての人間は、残念ながら、適切な人格を有しているとは言い難いものです(もちろん私・藤森も同様です)。程度の差があるだけで、私たちは、みな、父親として、母親として、つまり人間として未熟です。
母子関係については後ほど詳述しますが、胎児という母親の肉体の一部として成長してきた乳児は、産まれると母乳が自然に出るようになる母親から、授乳やオムツの交換など、胎児時代から連続した波長・雰囲気の中で育てられます。
育児が上手下手などの理屈抜きに、毎日、バタバタと母親の「本能」的な育児の中で、2~3年の時間が過ぎていきます。これはほとんど「本能」の世界です(「母性本能」といわれますが、本能か否かは議論があります)。

●ところが2~3歳になると、父親が介入するようになり、今までのように、母親を独占して、よくも悪くも従来のように自由に母子関係を維持することが難しくなります。幼児は父親の存在に驚き、不安になり、やがて恐れを回避するために「父親」を取り入れ・同化するようになります。
ここからが「ゲド戦記」です。
男の子(女の子の場合は、とても難しい問題がありますので、男の子の例だけで説明します。男の子の場合を「エディプス・コンプレックス」といい、女の子の場合を「エレクトラ・コンプレックス」といいます)は、父親的なものを取り入れて、男の子らしい遊び(木登りをしたり、チャンバラごっこをしたり、スポーツをしたり、仲間同士で喧嘩したり、陣取り合戦など)を通して、男の子らしく育っていきます。
そのためにはいつまでも甘えて、母親にベッタリしている幼児を叱って、二人の仲を、必要に応じて、切り裂いていく「父性的なパワー」、つまり父親の逞しい介入が必要です。
これを母親が一人で行なうことは、ほとんど不可能といっても過言ではありません。何故ならば、乳児を愛情深く育てる対応と、自分と乳児との関係を切り裂くという「相矛盾」する対応をするわけですから、よほど「自我が成熟」していないとできません。これは二人でもなかなかうまくできないことなのに、一人でやろうとするのですから、ほとんど不可能なレベルです(この部分については後述します)。
やがて怖い父親のパーソナリティーを取り入れ、父親的な波長を獲得することで、父親とうまくやっていくことができるようになります。これで第三者ともうまくやれる体験、つまりミニ社会をこなすことで、社会に出てからもうまくやっていける豊かな人間性を持って成長していきます。
つまり「エディプス・コンプレックス」という厚い壁を乗り越えることで、男の子が男らしさ、逞しさを身につけて、「三者関係」という複雑な社会を、より良く生きることができる豊かな人格を獲得して成長することができます。

●戦前の日本は、十分な「父性性」を有していなくても、社会制度が「父性性」を保護(家父長制や男尊女卑など)してくれたために、少なくても形式的には「権威ある父性性」が保たれていました。ところが戦後の日本は、いわゆる「男女同権」ということで、良い面はたくさんありますが、こと育児に関しては、父権が失墜したために重大な問題を孕んでしまいました。
それは父権が失墜しただけでなく、女性のように優しくなりましたので、母子関係を切り裂く役割を果たせなくなっただけではなく、「母子関係がいつまでも濃密であることが良いことである」と誤解したり、母親に叱られた子供を優しく受け止めたりして、父親が母親の役割を担うようにさえなってしまいました。
その結果、胎児以来、単一的波長で居心地の良い「母子関係」のような関係の中でしかうまく生きられない甘ったれた、軟弱な人間が育つことになってしまい、社会での複雑な人間関係を作ることが極端に下手な人間ができてしまいました。

母子関係という特殊な関係であり、そしてとても心地良い母親ベッタリの幼児を、父親は、ベッタリ関係から適切な関係にするために、必要に応じて、強制的に引き裂いていかなければなりません。それには正しい価値判断ができる自信と勇気、父親としての権威などが備わっていないととても難しいものです。
戦前の日本は、法律で守られていたために、少なくとも「権威」だけはありました。その権威が剥奪されてしまった現代日本は、男女同権という、一部間違った価値観により、社会的にも、家庭的にも、そして育児的にも、誠に情けない状況になってしまいました。

●欧米諸国は、日本と比べて遥かに男社会です。つまりエディプス・コンプレックスが中心の社会です。ところが日本は、基本的に女性が中心の社会です。
粗雑ではありますが、大胆に、私の考えを述べますと、農耕民族における農作業は、男女の力の差はあまりありません。洪水や台風などのような、極端なことが無い限り、農作業に男女の差はあまりないのではないでしょうか。
男女の差があまりないというよりも、農作業の後に、家事・育児をすることを考えると、女性のほうがはるかにハードワークになるのではないでしょうか。その女性のハードワークをカバーできた唯一の出来事は「戦争」です。1945年以来、61年間、その戦争が無くなりました。もちろんとても良いことですが!
最近の日本の社会を見渡すと、男女の差はほとんど感じられません。ダンプカーを運転しても、スポーツを見ても、キャリア・ウーマンの仕事振りを見ても、男女の差を余り感じません。極端に肉体的な腕力中心の競争では、多少の差がありますが、それでも少し前の男性の記録に女性が追いつくほどです。
ビジネス社会における女性の能力は、もうすでに男女同じか、場合によっては凌駕しているかもしれません。今までに男性が、男社会を構成してきたために、男女同じならば、男性のほうを優先する習慣があるので、女性が十分に活躍できないだけのことで、能力の差があるからではないと私は思っています。
むしろ結婚生活などを考えると、能力も稼ぎもほとんど同じなのに、仕事が終わってから、育児や家事の負担が妻一人にかかってくるようならば、バカバカしく思って、結婚しない女性が増えるのは当然のことです。
これからは男性がさらに女性化して、家事・育児を積極的にやるようになるか、男性的な魅力をよほど鍛えないと生きにくい社会になってしまいました。今までの雰囲気のままの男性は取り残されて、生きた化石になってしまうのではないでしょうか。

●さて、日本は欧米よりもはるかに、女性の存在が大きい社会でした。それがために男尊女卑の国になったというのが私の考えです。何故かと言いますと、男尊女卑の制度にして初めて、能力的・役割的に対等になっているからです。
日本で男尊女卑制度を廃止したために、男性の存在力が極端に落ちてしまいました。今や「男女同権」にしたお陰で、女性が遥かに優位になってしまっています。
今まで男性は、男尊女卑の社会で、制度に守られることによって、形式的に辛うじて、女性よりも大きな存在でいることができました(妻の手の平の上で踊る夫)ので、一家の中で、母子関係が強力に結ばれている・・・・・つまりマザコン関係の母子関係を、「強い父性性」で切り裂くことができました。

●さて、故・古澤平作先生が、父殺しである「エディプス・コンプレックス」よりも深い、「アジャセ・コンプレックス」という論文を書いて、ヨーロッパのフロイトにその論文を見せに行きましたが、フロイトは理解できなかったそうです。
では「アジャセ・コンプレックス」とは何でしょうか?これが今回の「本題」です。

 阿闍世(あじゃせ)コンプレックスは日本の精神分析の草分け、古澤平作氏が、日本独特の母子関係に着目して提唱した理論です。エディプス・コンプレックスが母を愛するあまり、父を亡き者にしたいと願うものなら、 阿闍世コンプレックスは母を愛するがために、母を亡き者にしたいと願うものです。
そのもととなったのは仏典のなかにある古代インド王・阿闍世の物語です。阿闍世の母親は、子どもに恵まれないまま年をとり、容貌が衰えていくのを気に病み、占い師を訪ねます。占い師は、森の仙人が三年後に死んで彼女の体内に宿ると告げましたが、阿闍世の母は三年が待ちきれず、仙人を殺してしまいます。
直後に彼女は身ごもりますが、仙人の怨みを恐ろしく思い、高い塔の上から子どもを産み落として殺そうとします。ところが阿闍世は死を免れ、この世に生まれてきます。
成人してこのことを知った阿闍世は怨みを抱き、父を幽閉し、母を殺そうとするのですが、罪悪感に襲われ、病に倒れてしまいます。それを看病し、救ったのは、かつて阿闍世を葬ろうとした母だった、というのがあらましです。
母親が子どもを産もうとするのも殺そうとするのも、自らのエゴイズムのためです。子どもはそれを知り、母親に幻滅して敵意をもちます。が、いざ殺そうとすると罪悪感に苛まれ、母親もかつての自分を悔いて子どもを助けます。現代の若い母親も、子どもと和解できるでしょうか(別冊宝島「図解・精神分析」宝島社より)。

●ここまで書いて、少々、疲れました。私(藤森)自身の問題でもあり、最深部の厳しい内容ですので、気がつかないうちに疲労が蓄積していました。
続きは、めったな事では触れることがないであろう本音の解説になる予定です。ただし、書きながら、厳しすぎると思った場合は、少し、避けるかもしれません。いずれにしましても、「自己成長」に「本気」で取り組みたい人、「本気」で取り組んでいる人にとって、貴重な資料になるものと思われます。
この続きは、<2006年9月15日 第51回「今月の言葉」・・・「影の引き戻しとアジャセ・コンプレックス」で、詳しく解説します>

<文責:藤森弘司>

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