2006年8月31日 第49回「今月の映画」
ゲド戦記

原作:アーシュラ・K.ル=グウィン  監督:宮崎吾朗(父は宮崎駿)
声優:岡田准一  菅原文太  内藤剛志  田中裕子  賠償美津子

○(プログラムより)アレンの不安は、誰もが持っているもの<「ゲド戦記」翻訳者、清水真砂子>
・・・・・映画の冒頭で、アレンは父親殺しをしています。これは原作にはない設定です。でも私はこの場面を観た時、やはり、と思い、これはいける、と思いました。ここには今の、いえ、いつの時代も若者が抱える根源的な問題が見い出されるからです。とりわけ今、若い人たちが生きにくく、呼吸困難になっている原因は、精神的な父親殺しができにくいことにあるような気がします。
・・・・・
父親を殺して、さあ、どうするか。これもまたひとりアレンの、あるいは監督の抱える問いではすまないはずです。○<原作「ゲド戦記」とル=グウィン>
第1巻「影との戦い」で、少年ながら類まれな魔法の才能を持つゲドは、自らの傲慢さゆえに、死の世界から己の闇の部分である“影”を呼び出してしまいます。そして、逃げれば逃げるほど、その影はますます大きくなり、ゲドを窮地に追い詰めます。
しかし、少年ゲドが影から逃げるのをやめて正面から向き合ったとき、彼は影が自分の一部であることを悟り、受け入れ、全き人となるのです。アメリカのある高名な批評家は、心理学者ユングの説をひき、このゲドを追いかける影を、人間の意識せざる心の奥底に潜む負のエネルギーではないかと解釈しました。
それ以前の多くのファンタジーにおいて、物語主題は、いかにして強力な魔法の力を身につけ、それを使って敵を倒し、厳しい環境を乗り越えていくか、というところにありました。
それに対して、ル=グウィンは「影との戦い」で、魔法の力を身につけた結果、自分の中に敵を見いだすという、ファンタジーの新たな視座を切り拓いたのです。第3巻「さいはての島へ」では「均衡が崩れつつある世界」が語られます。それを象徴する土地が、大賢人ゲドと少年アレンが立ち寄る港湾都市ホート・タウン。その街は、もはや核となるべきものを失い、人々はせわしなく動きまわっているにもかかわらず、目的を失っているように見えます。
陽気で騒々しいのは表面だけで、ふと周辺に目をやれば、いたるところで薬物に犯された者がうずくまり、人身売買が行なわれ、売っているのはどれもまがい物ばかり。行き交う顔をひと皮はぐと、そこにはたしかな実在感は感じられません。それは文明の黄昏を迎えた世界。
・・・・・そして、「内なる光と影」と「世界の均衡」の関係こそが、映画「ゲド戦記」の主題でもあります。均衡が崩れつつある世界の中で“影”に追い詰められていく主人公アレン。彼は、現代に生きる我々の写し鏡なのです。○<物語>
ハイタカ(真の名:ゲド)は、世界に災いをもたらすその源を探る旅の途上にあった。かつて、血気にはやる傲慢な山羊飼いの少年だったハイタカもいまや壮年となり、世界でもっとも偉大な魔法使い、「大賢人」と呼ばれていた。
旅の途中、彼はエンラッドの王子アレンと出会う。父王を刺し国を出た少年は“影”に追われていた。世界の均衡を崩し、人の頭を変にする災いの力はアレンの身にも及んでいたのだ。影から逃げ惑い、心の闇と向き合うことのできないアレンの姿は、まるで若き日のハイタカのようだった。
谷を下り、山をめぐり、農民が土地を捨てたいくつもの廃墟を抜け、二人は、人々が崩れかけた遺跡に巣くうように暮らす都城、ホート・タウンにたどり着く。多くの人でごったがえす街では、職人は技を忘れ、売られているものはどれもまがい物ばかり。奴隷の売買が行なわれ、路地を一歩入ればハジア中毒者がたむろしていた。人々はせわしなく動き回っている、みな目的を失っているように見えた。その目に映っているものは、夢か、死か、どこか別の世界だった。
・・・・・・

親に捨てられたテルーは、心に闇を持ち折りにふれて自暴自棄になるアレンを嫌う。
日々畑仕事に汗を流し、自然との関わりの中で、世界の森羅万象がすべて均衡の上に成り立っていることをハイタカから諭されるアレン。そんな彼にテルーも、しだいに心を開くようになる。しかしその間にも、アレンの“影”への恐怖はつのり、“影”に追われる夢にうなされるようになる。
ハイタカは、クモという魔法使いが生死両界を分かつ扉を開け、それによって世界の均衡が崩れつつあることを探り出す。
・・・・・・
凶暴な“もう一人の自分”を抑えられなくなることを恐れるアレンは、とうとうテナーの家から姿を消す。“影”から逃げ惑うアレンは、とうとうテナーの家から姿を消す。“影”から逃げ惑うアレンは、気がつくとクモの館にいた。永遠の命を得るため生死両界の扉を開き、その邪魔をするハイタカを殺さんとするクモ。
“影”への恐怖が頂点に達し、麻薬ハジアを盛られ正気を失ったアレンは、ついに真の名を告げクモの虜となる。○父さえいなければ、生きられると思った。あちこちで作物が枯れ、
羊や牛がダメになり
そして、人間の頭も変になっている。
疫病は世界が均衡をとろうとする、
ひとつの運動だが、
今起きているのは均衡を崩そうとする動きだ。
そんな事が出来る生き物は、
この地上には一種類しかいない。
わかるか?

命を大切にしない奴なんか
大嫌いだ!

○僕は父を殺したんだ・・・・・。

父を刺してここまで来てしまった。
わからないんだ、どうしてあんな事をしたのか。

父は立派な人だよ、
駄目なのは僕の方さ、
いつも不安で、自信がないんだ。
なのに時々自分では抑えられない位、
凶暴になってしまう。
自分の中に、もう一人自分がいるみたいなんだ、
君も見ただろう?
君の言う通り、僕はここにいちゃいけないんだ。

○いいかアレン、
この世界の森羅万象は全て均衡の
上になり立っている。

風や海も、大地や光の力も、
獣や緑や草木も、
全ては均衡を崩さぬ範囲で
正しく動いている。
しかし、人間には人間ですら
支配する力がある。

だからこそ、わしらは
どうしたら均衡が保たれるか、
よくよく学ばなければ
ならない。

○この世に永遠に生き続けるものなどありはしないのだ。
自分がいつか死ぬ事を知ってると言う事は、
我々が天から授かった素晴らしい贈り物なのだよ。
わしらが持っているものは、
いずれ失わなければならないものばかりだ、
苦しみの種であり、宝物であり、天からの慈悲でもある、
わしらの命も・・・・・。

死ぬことがわかっているから命は大切なんだ!
アレンが怖がってるのは死ぬことじゃないわ、
生きることを怖がっているのよ!
死んでもいいとか、永遠に死にたくないとか、
そんなのどっちでも同じだわ!
ひとつしかない命を生きるのが怖いだけよ!

○命は自分だけのもの?
あたしはテナーに生かされた、
だから生きなきゃいけない、
生きて次の誰かに命を引き継ぐんだわ。

そうして命はずっと続いていくんだよ。

●禅で有名な言葉に、「祖(そ)に会ったら祖を殺せ。仏(ぶつ)に会ったら仏を殺せ」というのがあります。
禅の祖師に会ったら祖師を殺せ。仏さんに会ったら仏を殺せ。祖師を殺し仏を殺さないと、本当に自由な人間にはなれない。これは高らかな自由の宣言じゃないでしょうか。西欧的な自由より、このほうが意味は深いと思います。本当に精神の自由を求める。それが禅です(梅原猛著「梅原猛の授業・仏教」朝日新聞社)。

ここでいう「祖師」や「仏」の本来の意味は、自分の「両親」を意味するはずです。両親の代わりに、出家している身分での「両親」に代わる存在は「祖師」であり、「仏」です。
ですから「ゲド戦記」の第一巻は「影との戦い」です。この影との戦いとは、両親との戦いです。
ここで少し恐ろしいことを述べます。
「祖(そ)に会ったら祖を殺せ。仏(ぶつ)に会ったら仏を殺せ」とは、換言すれば、「両親を殺せ」ということです。
では「両親を殺せ」とはどういうことでしょうか。「両親を殺せ」とは、実際の両親を殺すのではありません。自分の大脳に記憶として刻み込まれている「両親」・・・・・正確に言いますと「両親像」、つまり記憶が刻み込まれたイメージとしての「両親」のことを意味します。ここは多くのカウンセラー(心理の専門家)が正確に理解していないところです。
このあたりのことを正しく理解し、かつ、心理技法を正しく適用できる専門家が極端に少ないのには驚きます。そのために目に見えない「心理の世界」はとんでもないことになっています。
プログラムにある
<父王を刺し国を出た少年は“影”に追われていた。>とあるのも、このあたりの処置が不適切であることを推測させます。このことを正しく理解し、適切に対処できるようになるには、自分自身が実際に体験してみることです。たとえ本を百冊、千冊読んでも、こういうことは理論・理屈の世界では対応できることではありません。

● 最初にこうあります。
(プログラムより)アレンの不安は、誰もが持っているもの<「ゲド戦記」翻訳者、清水真砂子>
・・・・・映画の冒頭で、アレンは父親殺しをしています。これは原作にはない設定です。でも私はこの場面を観た時、やはり、と思い、これはいける、と思いました。ここには今の、いえ、いつの時代も若者が抱える根源的な問題が見い出されるからです。とりわけ今、若い人たちが生きにくく、呼吸困難になっている原因は、精神的な父親殺しができにくいことにあるような気がします。
・・・・・
父親を殺して、さあ、どうするか。これもまたひとりアレンの、あるいは監督の抱える問いではすまないはずです。

プログラムにはこのようにあります。
ここには今の、いえ、いつの時代も若者が抱える根源的な問題が見い出される

 アレンは父親殺しをしています。
「父親殺し」は必要ですが、上記のように「父親像」であり、「イメージとしての父親」を殺す事です。ところが最近のマスコミを震撼させる事件は、実際の「親(主として母親)」です。それだけ、ユングのいう「影」が、取り扱い不可能なほど・・・・・自分という「自我」が乗っ取られそうなほど、「自我領域」を犯されていることがわかります。「ゲド戦記」の主人公、エンラッドの王子アレンにそっくりです(父親、母親の違いについては、「アジャセ・コンプレックス」と題して、次回に書きます)。

●禅で有名な言葉、「祖(そ)に会ったら祖を殺せ。仏(ぶつ)に会ったら仏を殺せ」という観点から「権威」というものを考えてみますと、「権威的な人」ということは、「祖」や「仏」を殺さず、大事に扱えということですから、実は「権威的な人」とは・・・・・どういう意味になるでしょうか?

さて、「影」とは一体何でしょうか?冒頭の解説に・・・・・・
<アメリカのある高名な批評家は、心理学者ユングの説をひき、このゲドを追いかける影を、人間の意識せざる心の奥底に潜む負のエネルギーではないかと解釈しました。>
とあるように、まさにユングのいう「影」そのものを意味していると言って過言ではないでしょう。では「影」とは一体何でしょうか?

●私(藤森)は、このホームページ上でもしばしば書いているように・・・・・・ここでチョッと寄り道をします。パソコンの中に述べることを「書く」ということに少し抵抗があるのですが、「書き込み」などといわれますので、「書く」でもいいのでしょうか?私の感覚では「書く」よりも「打つ」ので、表現に若干の戸惑いがあります。・・・<戻ります>・・・しばしば書いているように、学者的な勉強とか研究が苦手な人間です。
そのために「定義的」な解説は、「苦手」というよりも「不可能」に近いほど「不得手」です。今回も「影」を定義的にしっかり説明しようと思いましたが、不可能です。何故なら・・・・・

河合隼雄先生は<影>について、「影の現象学」(思索社)という1冊の本(260頁)を書いているほどです。
その中の25頁に、<ユングが影をどのように定義しているかは、簡単なようで案外解りにくい。たとえば、彼の言葉を引用すると、「影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも常に、直接または間接に自分の上に押しつけられてくるすべてのこと・・・・・たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立し難い傾向・・・・を人格化したものである。」と述べている。これである程度のことは解るが、では影と、ユングのよく言うコンプレックスとはどう違うのか、あるいは、無意識そのものと同じものかという疑問が生じてくる。・・・・・>と河合先生は述べています。

●私は、繰り返して書きますが、学者的・定義的な表現がとても苦手です。しかし、ホームページという公に提示する場では、いくら苦手と言っても、いい加減な書き方をしたならば、学者的な意味で、私よりも遥かに詳しい方はたくさんいらっしゃいますので、そういう方々のヒンシュクを買ってもいけません。
そこでついつい定義的に調べ始めると、疲れてイヤになってしまいます。スモール・セミナーの「場」のように、前後の話も、定義的な部分もかなりいい加減である代わりに、大胆な話ができるほうが私には合っています。
<今後も私のホームページはこのようなものだとご理解ください。とは言いましても、ホームページに書く以上は、やはり、より正確でなければ・・・・・と思いますので、話し言葉とは違う煩雑さはあります。言い訳と愚痴を、グチャグチャと言わせていただきました。>

●さて、「影」とは一体何か・・・・・私(藤森)流に簡単に書きます。
「影」とは、「自我」が受けとめるのが困難なことを、無意識下に抑圧したもの。
いわゆる一般に、「自分」といわれる「意識している自分」が、抱えていることに大きな苦痛を感じる「ある出来事」を、無意識のうちに、「無意識下」に押しやって、そのことは自分の中に存在しないことにしているもの。つまり精神分析でいう「抑圧」したもの。
概ね、これでよいかと思います。
定義というのは、国会での「集団的自衛権」のように「神学論争」に成りがちです。例外もありますし、表現しきれないものもあります。AとBはどう違うのか?となると、これを区別して説明するのは大変難しいものです。
もう少し、グチグチ言わせていただきます。
以前、「認知療法」だったか、「論理療法」だったか忘れましたが、セミナーでご指導する以上はしっかり「定義的」に勉強しようと思って、新宿の「紀伊国屋」に行きました。
たくさんある本の中の2~3冊を手に取り、パラパラと立ち読みをして驚きました。学者的な能力のない私にとって、こういう本を読んだら「馬鹿」になると思いました。
そして、少し悪口を言いますと、かなりの数の専門書は、十分に理解していない学者(翻訳者・専門家)が、自分のステイタスのために書いているものが多いのではないでしょうか。そのために難解になってしまうのです。始末に負えないのは、その「難解さ」が、高級なものであると多くの人が錯覚していることです。
そして、多くの人が、その(高級な)難解なものに取り組んで、議論するので、さらにわけがわからないことになってしまっています。アバウトな理解でいいようなものや、重箱の四隅を突っつくような議論はほどほどでもいいような気がしますが、これは私だけでしょうか。
私(藤森)は哲学というものをよく理解できません。この哲学にしても、宗教にしても、心理学にしても、易しく説明できないものでしょうか。・・・・・かく言う私の書いているものが「わかりにくい」と批判されるかもしれませんが。

●さて、<いわゆる一般に、「自分」といわれる「意識している自分」が、抱えていることに大きな苦痛を感じる「ある出来事」を、無意識のうちに、「無意識下」に押しやって、そのことは自分の中に存在しないことにしているもの。つまり精神分析でいう「抑圧」したもの。>
例えば、阪神大震災で恐怖体験をした方が、それをいつまでも「意識」しているのは辛いので、忘れよう、忘れようとして、意識から遠ざけた場合(抑圧)、その感情は「影」となります。
実際に聞いた話ですが、調査研究のために、阪神大震災の恐怖体験者を招待して、体験談を聞いているときに、集会場の外で、道路工事をする「ガッ!ガッ!ガッ!」という大きな音がしたら、その方は、うずくまってしまって、話にならなかったそうです。
もしこの方が、初めから「恐怖」の中にいて、講演することが困難であれば、それは「影」ではありません。この方の恐怖体験は「抑圧」されていて、恐らく、日常的には、この「影」に振り回されずに生活できているはずですが、この「影」を映すような物事、つまり「投影」されるものがあるときに、影が表面化されます。
この「影」を「心理技法」で処理することが「理想」ですが、一般に、このような理想的な体験をされる方は、ほとんどいないと言っても過言ではありません。
そういう現実を考えるならば、家のゴミをゴミ箱に入れるように、耐え難い体験を無意識下に押しやって(抑圧)、そういうものは無いかの如くに生きられるというメカニズムは大変便利なものです。そうでないと、日々、日常的に怯えて生活しなければならなくなってしまいます。
今回は、ゴチャゴチャと愚痴を述べましたので、「本題」である後半は、「ゲド戦記とアジャセ・コンプレックス(母殺し)」と題して、次回にします。

<文責:藤森弘司>

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