2006年7月31日 第48回「今月の映画」
「バルトの楽園」と会津藩について

●前回の「(今月の映画)バルトの楽園」は、元会津藩士の息子・松江豊寿が、第一次世界大戦で捕虜になったドイツ人の収容所、板東俘虜収容所(徳島県鳴門市)の所長として、ドイツ人の捕虜たちをヒューマン溢れる管理・運営した事実に基づく映画でした。
会津藩は「戊辰(ぼしん)戦争(1868年1月の鳥羽・伏見の戦いから、翌年5月の函館・五稜郭の戦いまで、徳川幕府軍と明治新政府との間で行なわれた一連の戦闘)」を通じて最も激烈・悲惨な戦いをしました。
その後、青森県の寒冷地に移住を命じられ、困難を極めました。その場面は映画にほとんど登場しませんので明確にはわかりませんが、映画「北の零年」は、淡路の稲田家が北海道の寒冷地に移住させられて困難を極めた様子が克明に描かれています。時代がまったく同じですので、会津藩がどれほど困難を極めたか、「北の零年」の映画を見れば容易に推測できます。●「北の零年」のプログラムを改めて読んでみましたら、今回の「バルトの楽園」と不思議な類似性をみました。
「北の零年」は、徳島藩からの分離独立を主張した淡路の稲田家が、徳島藩の藩士達によって一方的な襲撃を受けた明治3年(1870年)の「庚午(こうご)事変(俗にいう稲田騒動)」で、稲田家の主従546名が北海道・静内に移住を命じられ、寒冷地で困難を極める映画でした。
「バルトの楽園」も、会津から移住をして、青森県と岩手県の一部を含む寒冷地で困難を極める開墾をします。そして共に明治新政府に命じられての移住です。
また「北の零年」は徳島藩と淡路島にある稲田家の騒動ですが、「バルトの楽園」での板東俘虜収容所は、徳島県の鳴門市です。地図を見ると、徳島県鳴門市と淡路島とは、鳴門海峡をはさんですぐ隣です。しかも、今は明石海峡大橋が完成して、高速道路が開通していますので、車で橋を渡れば本当にすぐの隣町です。そして、両藩が移住させられたのは、共に明治3年です。●会津藩は幕末、新撰組と共に、徳川幕府に依頼されてのことではありますが、尊皇攘夷の志士狩りを積極的に行なったために、憎しみの対象にされて、激烈・悲惨極まりない戦争を、明治新政府軍と繰り広げました。
そのため、戦争が終わった後も差別を受け、寒冷地での困難を極める生活を余儀なくされました。猛烈な差別を受けたり、飢えを凌ぐために、雪に埋もれた木の根を掘り起こしてかじるような困窮極まる体験がある会津藩士を父に持つ松江豊寿が、板東俘虜収容所で、捕虜という弱者に対して心温まる管理・運営をしたということが本当にすばらしく、感動的です。事実、九州の久留米収容所では、南郷巌所長は捕虜を囚人のように扱い、劣悪な環境を強いていたそうです。●さて、戊辰戦争の中で、奥羽越列藩同盟が結成されましたが、この戦闘の中で、会津の戦争がいかに激烈・悲惨な戦闘であったかを述べたいと思います。
当初、「白虎隊士から帝大総長へ・山川健次郎伝」(星亮一著、平凡社)から転載させていただく予定でしたが、偶然、この時期に「夕刊フジ」に「西郷隆盛伝説」(著者・佐高信)が連載され、会津戦争のことが出てきましたので、そちらを使わせていただくことにしました。
以下に述べられるように、言語に絶する悲惨な戦争と、寒冷地で過酷極まりない生活を強いられた会津藩士とその家族達。その経験者である板東俘虜収容所の松江豊寿所長が、そのような生い立ちがありながら、これほど温かい運営がなされたことに感動を覚えます。
そのために敢えて、会津藩の悲惨・過酷さを掲載しますので、気分が悪くなりそうな方は、お読みにならないほうがよいかと思われます。そのように思って数々の場面を転載しましたが、余りにも悲惨なために、典型的な三つの場面だけ転載させていただくことにしました。

●「西郷隆盛伝説」<34>「会津の悲惨④」平成18年6月23日
「最後の会津人」伊東正義が会津中学時代にその講演を聴いた山川健次郎(東大総長)は白虎隊の生き残りであり、いま一人の柴五郎(陸軍大将)は“賊軍”出身者として初めて陸軍大将になった人だった。
二人は、戊辰戦争で敗北した会津藩士が下北半島の火山灰地に追いやられ、いかに過酷な生活を強いられたかを語り、「権勢富貴何するものぞ」と反骨の精神を説いて、伊東たち会津の若者の奮起を促した。
石光真人が編んだ「会津人柴五郎の遺書」は『ある明治人の記録』という題で中公新書に入り、いまも版を重ねている。・・・・・生き地獄を見た七十有余年を回想しながら、柴は続ける。
「・・・・・いかなることのありしか、子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裏に刻まれて消えず」
消えないことの中には、わずか7歳の妹までも自害したことがあった。10歳だった柴五郎は、叔父からその最期の様子を知らされる。柴の長兄太一郎は軍事奉行であり、五郎を含めて「男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべき」と教えられていた。
叔父は身じまいを正して、五郎に言った。
「今朝のことなり。敵城下に侵入したるも、御身の母をはじめ家人一同退去を肯かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人、いさぎよく自刃されたり。余は乞われて介錯いたし、家に火を放ちて参った。母君臨終にさいして御身の保護養育を委嘱されたり。御身の悲痛もさることながら、これ武家のつねなり。嘆き悲しむにたらず。あきらめよ。いさぎよくあきらむべし。幼き妹までいさぎよく自刃して果てたるぞ。今日ただいまより忍びて余の指示にしたがうべし」
いまで言えば小学生の五郎はこれを聞いて茫然自失となり、涙も流れずに、めまいを起こして倒れてしまった。そして、叔父に肩を叩かれるまで気がつかなかったのである。

●「西郷隆盛伝説」<35>「会津の悲惨⑤」平成18年6月24日
七歳の妹まで自害したと聞いて卒倒してしまった十歳の少年、柴五郎は、会津落城前に、叔父から、こう言われる。
「敵、城下を焼きはらい城を包囲せば、かならず城外にある藩士を捜索せん。町人、百姓の女まで殺す下郎どもなり。道々殺されたる女を見れば、百姓どもさえ、ひそかに帯をかけて逃げかくるるほどなり。芋武士奴(いもざむらいめ)、何をしでかすかわかり申さぬ。御身のその姿にては一見武家の子たること明瞭なリ。母君のご遺言もあり、御身の安全のため百姓の姿に改めよ」
そして五郎は丸坊主にされる。「わが生涯における武士の子弟最期の日」となったはずだったが、その後、下北半島の不毛の地に移され、犬の死体まで食わざるをえなくなる。
『ある明治人の記録・・・会津人柴五郎の遺書』(中公新書)によれば、それを「口中に含みたるまま吐気を催す」状態の五郎を見て、父親が大喝した。
「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよ、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ。会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」
乞食小屋のような住居で三十日間も犬の肉を食いつづけたためか、五郎の頭髪は抜け、「坊主頭のごとく全体薄禿」になった。
「・・・ああ自刃して果てたる祖母、母、姉妹の犠牲、何をもってか償わん。また城下にありし百姓、町人、何の科なきにかかわらず家を焼かれ、財を奪われ、強殺強姦の憂目をみたること、痛恨の極みなり」
まさに塗炭の苦しみを嘗め尽くした柴五郎には、いわばその子や孫に当たる田中清玄や伊東正義に見られるような西郷隆盛への親近感はない。

●「西郷隆盛伝説」<45>「北方政権の夢③」平成18年7月8日
 慶応4年春の一日、奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵は福島第一の妓楼、金沢屋にあそんだ。『会津戊辰戦争史』によれば「修蔵大いに悦び意気揚々として来たり臨む、美酒佳肴を連ね、美妓席に侍し、歓待至らざる所なし」だった。

しかし、これはある目的をもっての饗応だったのである。とくに仙台藩に対する世良の見下した態度に、仙台藩士たちの憤激はその極に達していたが、福島藩がそれに同調する。
・・・・・世良と寝ていた娼妓を急用だと言って呼び出し、刺客たちは世良を襲う。素っ裸だった世良は跳ね起きてピストルを構えたが、不発だった。縛り上げられた世良は、土色の顔で、命乞いをしたという。
しかしもちろん、許されるはずもない。阿武隈川の河原で世良は斬首された。たまたま来ていた会津藩の中根監物は感動して涙を流しながら世良の頭髪を国許へ持って帰ったという。
白石本営で世良の首を見た仙台藩の玉虫左太夫は、
「その首を予に貸せ」
と叫び、何をするのだと尋ねると、
「厠に持って行って糞壺の中に漬けてやるのだ」
と答えたという。憎しみの連鎖はとめどがないのだった。

<文責:藤森弘司>

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