○(プログラムより)カラヤン指揮のベートーヴエン作曲「交響曲第九番・歓喜の歌」がスクリーンに蘇る
ドイツ人作曲家、ベートーヴエンによる「交響曲第九番・歓喜の歌」。現在では年の瀬を飾る風物詩として、毎年12月ひと月だけでも全国で数百回もの第九演奏会が行なわれ、この曲は世界に類を見ないほど日本の土壌に定着している。
国境と時代を越え、聞く者の魂を揺さぶるこの「交響曲第九番・歓喜の歌」は、今から約90年前にドイツ人捕虜達の手によって日本で初めて演奏された。
映画「バルトの楽園」は、その歴史的事実をベースに、日本人とドイツ人との間で結ばれた人間的な信頼と絆を、感動的に描き出した作品である。○舞台となるのは第一次世界大戦中、徳島県鳴門市に実在した板東俘虜収容所。戦いに敗れたドイツ人を収容するために作られたこの場所では、軍人でありながら生きる自由と平等の精神を貫いた松江豊寿(とよひさ)所長の指導によって、捕虜達が収容所員や地元民と文化的・技術的に交流することができた。敵味方という国の対立を越え、一人の人間として理解を深め合う彼らには、やがて友愛の心が芽生えていった。
ジャーナリストの立場から、松江の人柄を見つめていくヘルマン。パン職人として、松江に生きがいを与えられるカルル。そして捕虜達の精神的な支柱であり、松江と指導者としての立場を尊重しあうハインリッヒ総督。
ドイツ人捕虜達は、松江所長を始めとする収容所を取り巻く日本人達への感謝を込めて「交響曲第九番・歓喜の歌」の演奏会を開く。苦悩を突き抜けて歓喜へと向かう、人類すべての兄弟愛を謳い上げたこの曲は、まさに彼らの背後に横たわる戦争という暗い背景を飛び越えて、奇跡の歌として収容所内に鳴り響いた。
作品ではヘルベルト・フォン・カラヤン指揮によるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音源を使い、演奏シーンをクライマックスに、壮大なスケールの人間讃歌が綴られていく。○松江豊寿(まつえとよひさ)
実際の松江豊寿は1872年、会津若松市で会津藩士・松江久平の長男として生まれ、22歳で陸軍歩兵少尉に任官。日清日露の両戦役に従軍し、その後1914年に、41歳で中佐に昇進して徳島の歩兵連隊付きとなり、同年11月に徳島俘虜収容所開設に伴って所長に任じられた。
1917年、板東俘虜収容所所長になり、同年には大佐に昇進している。第一次世界大戦終了後は捕虜送還委員としての任務を果たし、島根県浜田の第21連隊長に就任して少将になったが、1921年に特命を受けて一線を退いた。
同年、故郷・会津若松の市長に就任して一期勤めた後に退任、その後は様々な事業を行なう一方で、白虎隊の碑建立にも尽力している。彼は82歳でその生涯を終えた。○ドイツからの技術
第一次世界大戦当時、ドイツは世界で最も進んだ文明国の一つだった。このため日本では、積極的にドイツ兵捕虜から技能・文化を取り入れることが奨励された。特に板東では建築・農業・畜産・土木・音楽・食品・科学・スポーツ・印刷などの西洋文明が、地元民との交流を推進した松江所長の方針によって花開いた感がある。
畜産ではバターやチーズ、ソーセージの製造技術が捕虜によって伝えられ、その後も「ドイツ牧舎」として残っていった。また洋菓子職人も育成され、そこで修業証書をもらった藤田只之助は後に、パンとケーキの店「独逸軒」を出して成功した。
他にも大阪市の野村房太郎はウイスキーやブランデーの製法を学び、旧撫養町役場だった「鳳鳴閣」やいくつかの建築物は捕虜の設計によって建てられている。スポーツでは体操や鉄棒、テニス、サッカー、ホッケーなど、当時の日本人には珍しかった多様な競技の施設があり、地元民への指導も行なわれた。
○青島攻防戦
1914年、ドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国、これにイタリアを含む三国同盟側と、イギリス、ロシア、フランスの三国協商側の対立が深刻化し、同年6月にボスニアの首都サラエボで起きたセルビア青年によるオーストリア皇太子夫妻暗殺事件をきっかけに、第一次世界大戦が勃発。
日本もこれに参戦し、8月にはドイツに対して宣戦布告。ドイツの東洋における拠点だった、中国山東半島の租借地・膠州湾にのぞむ青島要塞を攻撃した。日本軍は神尾光臣中将率いる久留米の第18師団を主力に28,000名の兵力で中国へ向かい、現地でイギリス軍約1,000名を加えて青島を包囲。
一方のドイツ軍は、ワイエル・ワルディック総督以下5,000名の兵力だった。10月31日、日本軍による総攻撃が開始され、11月7日にはドイツ軍が降伏し、翌年終結した。
○戊辰戦争と会津
松江豊寿が自分のルーツとして誇りにする会津藩とは、どういうものだったか。1868年1月の鳥羽・伏見の戦いから、翌年5月の函館・五稜郭の戦いまで、徳川幕府軍と明治新政府との間で行なわれた一連の戦闘を「戊辰戦争」という。中でも激烈を極めたのが、会津を中心とする東北での戦争だ。
1868年5月から東北25藩と、後に北陸6藩が加わって奥羽越列藩同盟が結成された。諸藩は新政府軍と戦闘を行い、4600名を越す死者を出して次々に降伏。28万石の会津藩は、藩主・松平容保が以前に京都守護職を勤めて倒幕派勢力に対抗していたこともあって最も熾烈な戦闘を強いられ、1藩だけで3014名の死者を出した。
その中には16~17歳の少年兵で組織された白虎隊や、女性だけの娘子軍(じょうしぐん・ろうしぐん)もいる。彼らは降伏後、1869年現在の青森県下北・上北、及び三戸郡、岩手県の二戸郡の一部を含む3万石の寒冷地に移住を命じられ、この領地を「斗南藩」と称して17324名が移住した。
○カラヤンと「第九」
映画のクライマックスで流れるベートーヴェンの「交響曲第九番」は、ヘルベルト・V・カラヤン指揮によるベルリン・フィルハーモニー交響楽団の音源を使用している。
カラヤンは太平洋戦争後の日本で、最も一般的にその名を知られた指揮者であろう。彼は戦前から戦時中にかけてナチドイツで音楽活動に協力し、戦後は戦犯として活動を禁止された時期があった。それが解けたのは1947年10月、日本には1954年4月に単身初来日している。
日本では前年にテレビ放送が始まったばかりで、テレビで彼の演奏が取り上げられたことで一躍「カラヤン旋風」が起こった。そして同年5月、カラヤンは日比谷公会堂でNHK交響楽団を指揮し、「第九」の演奏を披露。ここにカラヤンの「第九」は、日本人の心に強く刻まれることとなった。
その後彼は1955年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の主席指揮者に就任し、1957年にはベルリン・フィルとともに再来日している。
○「第九」初演の地・板東俘虜収容所、国境を越えた真実の友情がそこにあった
1914年、第一次世界大戦が勃発し、日本軍はドイツの極東における拠点地だった中国・青島(チンタオ)を、約3万人の大軍を送り込んで攻略した。この戦いによって敗れたドイツ兵4700人は捕虜として日本に移送され、全国12ヶ所に作られた俘虜収容所へと振り分けられた。
その捕虜の中には海軍上等兵カルル・バウムや、海軍一等兵へルマン・ラーケもいたが、彼らは最初、久留米収容所に送り込まれる。ここの所長・南郷巌は捕虜を囚人のように扱い、彼らに劣悪な環境を強いていた。カルルは脱走を試みるが捕まり、制裁を加えられる。
そして2年の時が過ぎた。1917年。12ヵ所あった収容所は6ヵ所に統合され、カルルやヘルマンたちは徳島県鳴門市にある板東俘虜収容所に移送された。久留米でのことを思い、新たな地獄を覚悟した彼らを板東で待っていたのは、楽隊による篤い歓迎だった。板東収容所では松江豊寿(とよひさ)所長(松平健)の指導の下に、地元民と捕虜との融和を図ろうとする方針が取られていたのである。
ここには捕虜達によるオーケストラが存在し、パンを焼くことも、新聞を印刷することも許されていた。またソーセージを肴にビールを飲む自由さえあった。その寛容な待遇にヘルマンは驚き、やがて彼は所内で発行されている新聞「ディ・バラッケ」の記者として働き出す。一方、カルルはこの状況に素直に馴染めず、再び脱走を決行する。
彼は傷ついたところを地元民の女性に助けられ、彼女たちの温かさに触れて自ら収容所に帰っていった。松江所長はカルルが青島でパン職人をしていたことを知り、彼に炊事棟のパン焼きを任せることにする。生きがいを見つけて明るさを取り戻したカルルを含め、捕虜達は松江の人柄に惹かれていった。
だが捕虜を遠足に連れて行ったことが陸軍省で問題になり、松江は捕虜の扱いが手ぬるいと糾弾される。この件によって収容所の予算は削られたが、松江は妻・歌子(高島礼子)の励ましもあってへこたれず、捕虜達に山林の伐採仕事をさせることで、削減された予算の穴埋めをしていった。
1918年11月11日、第一次世界大戦はドイツの敗北によって終結した。徳島で戦勝の提灯行列が行なわれる中、板東では地元民が「ドイツさん」と呼んで親しむ捕虜達のことを気遣ってひっそりとした静けさが保たれていた。
○「バルトの楽園」推薦にあたって<松江所長の目指したものを現代にも活かすこと>(日本赤十字社)
この作品は第一次世界大戦当時の日本人とドイツ人の敵味方を超えた人間交流を描いたものです。捕虜への虐待が関係国からたびたび指摘される中、このような交流が戦時下の日本で実際に行なわれていたことに新鮮な感動を覚えるとともに人間への希望も抱かせる作品でもあります。
主人公の松江所長もそうですが、人は数多くのつらい戦争を体験し、そこから、「戦争であっても人を人として尊重することの大切さ」を学んできました。そして、それらは国際社会共通のルール「国際人道法」としてまとめられ、戦時であっても、民間人への攻撃や捕虜への虐待は厳しく禁じられるようになりました。
映画のテーマである「捕虜を人間的に扱うこと」は、現代もなお難しい問題です。最近ではイラク戦争後の捕虜の虐待が大きく報道されました。赤十字は、戦時下において中立的な立場で人道的活動を行なっており、外界から閉ざされた収容所の捕虜を定期的に訪問・面会し、非人道的な問題があればその国の政府に改善を申し入れる活動を続けています。
2004年、赤十字は、世界80カ国で延べ57万人の抑留者(捕虜を含む)を訪問し、彼らを支えました。この映画が、先人の勇気ある行動を振り返り、その教訓を現代に活かすきっかけとなれば幸いです。
戦時において人を守る「国際人道法」にご興味がある方は、ぜひ、日本赤十字社のホームページをご覧ください。
<http://www.jrc.or.jp/>
●(私見)<彼らは降伏後、1869年、現在の青森県下北・上北、及び三戸郡、岩手県の二戸郡の一部を含む3万石の寒冷地に移住を命じられ、この領地を「斗南藩」と称して17324名が移住した。>とあります。
この寒冷地で、会津藩の人たちは随分苦労したようです。主人公・松江豊寿の父親はわずかな食べ物を息子に食べさせて、自分は雪で積もった地面を掘り、木の根をかじるシーンがあります。
虐げられ、食事に事欠く幼少時代を過ごし、しかも賊軍である元会津藩士の息子であるというハンディを持ちながら、そしてこのような時代であるにもかかわらず、陸軍省に命令されながらも、収容所において、このようにヒューマン溢れる政治が行なわれるとは本当に凄いことです。
ここでも述べられていますが、会津の戦争は本当に凄惨だったようです。別の資料から、次回は、会津と新政府との凄惨な戦争について、詳しく説明する予定です。
どんな戦争も、戦争はやはり筆舌に尽くし難い悲惨なものです。そういうギリギリの命の瀬戸際にあるにもかかわらず、人間味溢れるいろいろなことがあるようです。
●2006年4月30日第45回の「戦場のアリア」も、奇跡的な出来事をテーマにしていました。
<1914年、第一次世界大戦下。過酷極まりないフランス北部の戦場に10万本のクリスマス・ツリーが届いた。
その聖なる日、銃声は消え、境界線を超えて心に響く歌声が兵士達を包み込んでいく・・・・・。>
戦地という極限状況の緊迫した前線の兵士たちの、一年で一番大切なクリスマスだけは家族と過ごしたいという夢は叶えられなかった。しかし、そんな兵士たちがつかの間の戦地での暖かさを味わえた<クリスマス休戦>のきっかけとなったのは、ドイツ人の歌手の素晴らしい歌声だった。
この役柄のモデルは当時、慰問公演を行なっていたドイツのテノール歌手、ヴァルター・キルヒホフである。1914年のクリスマスにドイツ軍の塹壕で歌っていたところ、100m先のフランス軍の将校が、かつてパリ・オペラ座で聞いた歌声と気づいて、拍手を送ったのだ。
そしてヴァルターが、思わずノーマンズ・ランドを横切り、賞賛者のもとに挨拶に駆け寄ったことから、他の兵士たちも塹壕から出て、敵の兵士たちと交流することになった、という得がたいエピソードが史実として残っている。
ノーマンズ・ランドの境界線は、戦争を始めたごく一部の軍部指導者間で決められていたが、音楽には境界線などなく、同じ気持ちで祖国を想う兵士達に友情の交流を生んだのである。
●2005年1月31日第30回の「北の零年」も、寒冷地への移住による悲惨な映画でした。
《260年に渡る江戸時代が終焉し、日本が大きく変わった明治維新。徳島藩からの分離独立を主張した淡路の稲田家は、徳島藩の藩士達によって一方的な襲撃を受けた。明治3年(1870年)の庚午(こうご)事変(俗にいう稲田騒動)である。
明治政府は両者の引き離しを画策し、稲田家主従546名に北海道移住を命じる。北海道・静内での開拓は、帰る土地を失った稲田家の人々にとって後戻りのできない背水の陣であった。明治4年、稲田家の移住団は半月に及ぶ船旅の末、北海道・静内へと上陸した。
そこでは稲田家・家老や小松原英明(吉永小百合の夫)を中心とする先遣隊が、すでに荒地の開墾に取りかかっていた。
未開の地に自分達の国を作ろうと、理想と希望に燃える英明。後からやって来た妻・志乃(吉永小百合)と娘の多恵も、英明の前向きな姿勢に信頼と共感を抱いていた。
しかし、北の大地は彼らに数々の困難をもたらす。農民指導者の努力にもかかわらず、北の大地にあった稲はなかなか育たず、第二次移住団が乗った船が難破して83名が死亡。さらに廃藩置県によって、彼らの開墾する土地は明治政府の管轄となる。失望と絶望の中で英明や家臣たちは、自らのマゲを切ってこの地に踏み留まる決意をした。
しかし彼らはこの後、数々の困難な体験を経ます。まるでどんでん返しのような凄い体験の連続です。一つはイナゴの襲来であり、大激動の時代の大転換・廃藩置県などなど・・・・・・・。》
●2005年3月31日第32回の「ロング・エンゲージメント」も第一次世界大戦を題材にした映画でした。
《1917年1月。第一次世界大戦下のフランス。前線の塹壕を、5人の兵士が連行されて行く。苛酷な戦場から逃れるため、自らの身体を傷つけた罪で軍法会議にかけられ、死刑を宣告された兵士たちだ。
彼らは刑の代わりにドイツ軍の標的になるような、敵陣との中間地点に置き去りにされた。その中の最も若い兵士がマチルドの婚約者マネクだった。
戦争が終わりを迎えた3年後、全く音沙汰のないマネクの安否を気遣うマチルドのもとに、戦場で彼に会ったという元伍長から手紙が届く。
元伍長から預かった兵士たちの遺品を手がかりに、その日からマチルドの懸命な捜索が始まった。
懸命の捜索の結果、婚約者と奇跡的に出会うマチルド。日本で大ヒットした「岸壁の母」のケースにそっくりです。
<「親のこころ」(木村耕一編著、1万年堂出版、1,500円。「今月の言葉、第24回」ご参照)の中に、「岸壁の母」について書かれています。
昭和29年、演歌「岸壁の母」が大ヒットした。悲しくも哀れな母の姿を伝えるNHKラジオを聴いた作詞家・藤田まさとが、心を打たれて一気に書き上げたという。その母とは、舞鶴港の岸壁で、息子の帰りを待ち続ける、端野いせさんであった・・・。
昭和29年9月、厚生省から、息子・新二さんの死亡認定理由書が届いた。・・・・・それでも、母は、わが子が生きていると信じた。・・・・
それから46年後の8月。ついに、新二さんが中国で生存していることが明らかになった。母が信じたとおり、息子は、確かに生きていたのだ。だが、それは母が亡くなってから19年後(平成12年)のことだった。端野いせさんは、昭和56年7月に、81歳でこの世を去っている。新二さんは、ソ連との戦闘で負傷し、シベリアに抑留された。その後、どうやって生きてきたのか、多くは語らなかったという。>
第一次世界大戦下、フランスとドイツの凄まじい戦い。弾丸が飛び交い、砲弾が炸裂し、泥や破片などが雨あられの如くに降り注ぐ。血だらけになり、肉は裂ける。当然、治療はできず、放置される。雨が降れば、泥だらけになり、びしょぬれになるが、もちろん、着替えなどはない。濡れネズミになり、ある人は傷を負い、空腹を抱えながら生き延びる様は、現代の我々には想像もつかない凄まじい状況です。
しかし、人類はまさにこういう凄まじい状況の中、必死に生きぬいてきたのだと思います。そして、世界中を見渡せば、現在でもこういう状況の中、生き延びることに必死になっている人たちが沢山います。アジアでもアフリカでも。》 |
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