2006年12月31日 第53回「今月の映画」
プラダを着た悪魔

監督:デヴィッド・フランケル   主演:メリル・ストリープ   アン・ハサウェイ   スタンリー・トゥっチ   エミリー・ブラント

●今回、この映画を取り上げたのは、日本人には最も苦手な「自我領域」「自己の責任性」の課題が端的に示されているからです。
 その前に、プログラムより内容をご紹介します。

○(1)2003年4月、20代の新人女性作家が書いた1冊の本が、刊行と同時にベストセラーになった。タイトルは、「プラダを着た悪魔」。作者は、ヴォーグ誌の女性編集長のアシスタントをつとめた経験を持つローレン・ワイズバーガー。
作者自身の実体験が多分に反映されているとおぼしきこの小説は、瞬く間に同世代の女性たちの間で評判を呼び、ニューヨーク・タイムズ誌のベストセラー・リストに6ヶ月間ランク・イン。世界でも27カ国語に翻訳され、何百万人もの女性たちに熱い支持を集めた。
本作は、その待望久しい映画化。華やかにして苛酷なファッション界の裏舞台を垣間見せながら、誰もが社会に出たときに痛感する驚きや迷いをユーモアあふれるタッチで描き出し、たっぷりの共感を味わわせてくれる新感覚のトレンディ・ムービーだ。○(2)ヒロインのアンディ(アン・ハサウェイ)は、ジャーナリストになる手段として、猛烈に人使いが荒く、「プラダを着た悪魔」と恐れられるカリスマ編集長・ミランダのアシスタントになったものの、大学で学んだことが何ひとつ役に立たない使い走りの毎日、苛立ちと不満と焦りをつのらせる。
気持ちを入れ替えて一生懸命仕事に打ち込めば、私生活が犠牲になり、恋人や友人との仲がギクシャクしてしまう。いつのまにか「選択の余地がない」が口グセになり、自分らしさや、本来の夢を見失っていく。そんな状態に悩みながらも様々な経験を経て、たくましく成長を遂げていくアンディの心情を、ヒロイン役のハサウェイは等身大に表現。「あるある」とうなずき、「ガンバレ」と応援したくなるキュートなヒロインぶりで、観客の共感をぐっと惹きつけていく。
パリコレの場面に、デザイナーのヴァレンティノ・ガラヴァーニーや、スーパーモデルのハイディ・クラム、ブリジット・ホールが本人役で出演しているほか、ジゼル・ブンチェンが“ランウェイ”の編集者役でカメオ出演するなど、実在のファッション・ピープルの遊び心溢れる登場ぶりも、本作の見逃せないポイントだ。○(3)ファッション界に君臨する女王VS努力とやる気だけの新人アシスタント
オシャレに無関心な彼女が得たのは、世界中の女性が死ぬほど憧れるあの仕事!
モードのカリスマは、ニューヨークに住んでいた。その名は、ミランダ・プリーストリー。世界のトレンドをリードするハイ・ファッション誌“ランウェイ”の編集長だ。ドラゴン・レディの異名を取るやり手として知られる彼女は、有名デザイナーに絶大なる影響力を行使しながら、自身もセレブの一員として、向かうところ敵なしのサクセス街道を歩んでいる。だが、そんなミランダにも、ひとつだけ悩みがあった。
有能なアシスタントがみつからないのだ。つい最近も、立て続けに新人ふたりをクビにしたばかり。そこに現われたのが、ノースウェスタン大学を卒業後、ジャーナリストをめざして、ニューヨークへやって来たアンディこと、アンドレア・サックス(アン・ハサウェイ)だった。○(4)アンディには、他のアシスタント候補者と大きく違った点があった。編集の職につきたいものの、ファッションにまるで関心のない彼女は、恐れ多くもミランダ・プリーストリーが何者かを知らなかったのだ。
面接でそのことを真っ先にミランダに突っ込まれ、「スタイルもセンスもゼロね」と、鼻であしらわれるアンディ。だが、他に就職のあてのない彼女は、「確かにファッションのことは知らないけれど、賢くて覚えが早くてよく働きます!」と、精一杯自分をアピール。その意外性を買われ、めでたくミランダのジュニア・アシスタントに採用された(以上の「○」の部分は、プログラムより)。●(5)ファッション界に君臨する、カリスマ的な編集長のアシスタントになったアンディは、これから様々な壁にぶつかります。ファッション界のことは何も知らないアンディは、電話に出てもサッパリ要領を得ないし、女王・ミランダの指示もサッパリわからない。
女王に対しては、聞き返してはいけない。指示、命令は、いかなる困難なことでも、瞬時に処理できないといけない。女王の好きなビフテキを、店が開いていない時間帯でも、食べたいといえば、いかなる困難があろうとも、要求された時間に用意しないといけない。
仕事ができるからではあろうが、その傲慢振りは、あたかも独裁者、帝王のようである。女王さまが出社すると、蜂の巣を突いたような動きになる社内。彼女の一つひとつの指示に四苦八苦するアンディ。
やがてアンディは対応しきれなくなり、男性幹部の一人に泣き付く。その時の幹部の対応が凄い。
彼は言います。「それは誰の仕事か?いいや、それは私の仕事ではない」とキッパリ言います。

●(6)これが日本だったらどうだろうか?まず間違いなく、援助の手を差し伸べるのではないでしょうか?涙ぐむ美人のアシスタント・・・・・これは間違いなく、呑みに誘って、いろいろ愚痴を聞いたり、慰めたり、仕事の仕方を、懇切丁寧に指導したり・・・・・。彼女に対するそういう援助、助言も、「私の仕事の一部だ!」と、多くの日本人は思うのではないでしょうか?!
それを、そのことは誰の領域の問題かをしっかり意識するのは、我々、日本人にとっては凄いことだと思います。なかなかこのようには思えませんね。アメリカ式がなんでもいいというわけでは、もちろん、ありません。
しかし、この問題・・・・・「自我領域」や「自己の責任性」の範囲に対する認識の問題は、日本はメチャクチャです。私(藤森)は、この問題の専門家として、ほとんど毎回のように、クライエントの方に理解していただくことに苦労していますので、ここのやり取りはスカッとした「清涼感」を味わいました。
 私は多くの日本人にとって、本来の「自己成長」とか「自己回復」、或いは「西洋医学的な病気」が治癒するには、この「自我領域」や「自己の責任性」を正しく認識できるようになり、そして、より正しく行動できるようになることである、と言い切ってもほとんど過言ではないと思っています。

●(7)多くの日本人は、学校の成績が良い人が、人格的にもすばらしい人であると「誤認(認知の歪み)」しています。このことは今、ここでは詳しく述べませんが、多くの場合、学校の成績と人格は、全く関係ありません。いや、むしろ、学校の成績と反比例する傾向にあるかもしれません。
聞くところによると、ノーベル賞を取った方が、幼子が夜泣きをすると、奥様を叱って、外に連れ出させたそうです。このことがいかに大変であり、辛いことであるか、多くの母親体験者にはよくわかるのではないでしょうか?自分の子どもに対しての「自己の責任性」はどうなんでしょうか?
ノーベル賞に代表されるようなより優れた賞や資格を取ると、全ての面で優れているかのように思われがちですが、「自我領域」や「自己の責任性」の観点から眺めて見ると、むしろ、人格失格だと見える人が多いものです。
日本のノーベル賞受賞者の中で、少なくても三人くらいはいるのではないでしょうか?

●(8)物質的なことは、誰でも理解できますが、精神的なものは、目に見えないだけに、「自我領域」や「自己の責任性」をしっかり認識することは、とても難しいものです。
家庭の中でこのことをシッカリしつける文化が乏しい日本人にとっては、社会に出てから、親子間、夫婦間も含めて、どうも対人関係に困難を感じると思われたときは、このことが原因であると思ってほぼ間違いありません。
かく言う私(藤森)自身、若いとき、この両者の認識がまったく理解できませんでした。むしろ、「自我領域」を侵して関わる事が「愛」であり「好意・親切」とさえ思っていました。「自己の責任性」については、植木等氏の歌の文句ではありませんが、「自己の無責任性」を絵に描いたような人間でした。
アメリカ文化は、この点、我々日本人にとっては、少々過剰に思えますが、でも日本人にとっては余りにも不得手なだけに、自己成長のために、参考にしてみるのも面白いのではないでしょうか。
この続きはシリーズ、「認知の歪み」をご参照ください。

●(9)ヒロインのアンディは、次のように言います。
<気持ちを入れ替えて一生懸命仕事に打ち込めば、私生活が犠牲になり、恋人や友人との仲がギクシャクしてしまう。いつのまにか「選択の余地がない」が口グセになり、自分らしさや、本来の夢を見失っていく。>

 「選択の余地がない」、これも「認知の歪み」です。私たちは、このような表現をよくします。「~の余地がない」とか「~しかない」などです。単に自分の経験から、他の方法を知らないだけで、実際には、他にたくさんの方法がある場合が多いものです。
そして、重要な事は、「~の余地がない」とか「~しかない」と思った瞬間、「脳」は、他の方法を探す工夫を止めてしまうことです。当然のことですね。何故ならば、「他に方法が無い」わけですから、他の方法を探す「努力」は、くだらない「努力」になってしまいます。
ですから、少なくても「論理的」には、「~の余地がない」とか「~しかない」と思ったならば、他に良い方法がないだろうかと、努力したり、工夫しないほうが正しい行為ということになります。
喩えて言いますと、冷蔵庫の中に豊富な食糧があっても、「何も食べるものが無い」と思った瞬間、探すことを止めて、空腹に耐えることを選択してしまいます。
私たちは、実にこういうおかしな生き方をしているものです。ですから、学校の勉強、学校秀才的な勉強よりも、本来の意味での「自己成長」に取り組みませんと、わざわざ損するような人生を選択して、その中で、一生懸命頑張るような生き方をしてしまうものです。この辺りは、「今月の言葉」の第1回「脚本」、第2回「考えることと悩むことの違い」をご参照ください。

<文責:藤森弘司>

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