2006年11月30日 第52回「今月の映画」
地下鉄に乗って

原作:浅田次郎(1995年、第16回吉川英治文学新人賞受賞作品)
監督:篠原哲雄    主演:堤真一   岡本綾   常盤貴子   大沢たかお

●今回、この映画を取り上げたのは、「吉本式内観法」や認知療法における「認知の歪み」を連想させてくれたからです。その前に、プログラムより内容のご紹介をします。

○(1)(プログラムより)いつもの地下鉄を降りて、駅の階段を上ると、そこはオリンピックに沸く昭和39年の東京・・・。
真次に突如訪れた、現実とも夢とも信じがたいタイムスリップ。真次は恋人みち子とともに過去に遡り、若き日の父と出会う。時空を超える旅を続けるうちに明らかになる父の真実の姿、そして真次とみち子との間に秘められたあまりにも切ない運命。
それはふたりの愛に、過酷な選択肢を突きつけるものだった・・・・・。この、日々の生活に狎れてしまったサラリーマンが経験する不思議なタイムスリップの物語は、ファンタジーであるのに、いや、ファンタジーだからこそ、人生の美しさと、運命の儚さを、純粋に描き上げる。○(2)突然タイムスリップしてしまう、主人公の真次とその恋人みち子。時を遡る旅で2人が出会うのは、憎み続けてきた父と、もう死んでしまった母。親としてではなく、ひとりの男、ひとりの女としての彼らと触れ合ううちに、真次とみち子が気付くこととは。
そして更にその先に2人を待ち受ける、あまりにも切ない運命。その残酷なまでの運命に向き合いながらも、2人は本当の愛を求めていく。○(3)長谷川真次、43歳。小さな下着メーカーの営業マン。毎日同じように過ぎて行く一日の仕事を終え、携帯の留守電を聞くと、父が倒れたというメッセージが弟から届いていた。入院がニュースがになるほど巨大企業を一代で立ち上げた父・小沼佐吉とは、高校卒業と同時に縁を切って以来、もう長らく会っていない。
伝言を消去し、家路に着こうとする真次。そういえば今日は若くして死んだ兄・昭一の命日だ。ここ最近頭から消し去っていた父のこと、兄のことを考え、過去に思いを馳せながら地下鉄の地下道を歩き始めた真次は、前方を横切る男が在りし日の兄に見えて、思わずあとを追いかける。
その足取りが、ふと、止まった。目の前に広がっているのは、いつもの街並みではない。「東京五輪」と書かれた華やか提灯、「東京五輪音頭」を鳴らしながら通り過ぎるちんどん屋、電気屋のカラーテレビで放映されている野球中継に集う人々、そして向かい側には「オデオン座」と書かれた映画館があり、「キューポラのある町」の大看板が掛かっている。
真次はハッとし、隣の若者が持っていた新聞の日付を見る。見出しは「東京オリンピックいよいよ開催」、日付は「昭和39年10月5日」。そう、そこは遠い過去の世界、真次が父や亡き兄の思い出と一緒に忘れようとしてきた、昭和39年の東京だった・・・・。○(4)この不意に訪れた時空を超える旅は、昭和39年で終わりではなかった。真次は、終戦直後、生へのエネルギーと混沌が渦巻く昭和21年の東京へと誘われていく。熱気溢れる闇市で、真次が出会ったのはアムールという男と、その恋人のお時。真次は何故か、人一倍精力的に戦後の社会を生き抜こうとする彼らと行動を共にすることとなる。
裏社会にも躊躇することなく踏み込んでいくアムールに、はじめは戸惑う真次。しかし、常に生きるか死ぬかの瀬戸際にある世界で、必死に自分の人生を、そして自分の夢を掴もうとするアムールの生き方を見ていくにつれ、徐々に彼らと気持ちをひとつにしていく。
そんな折、真次は昭和21年の世界で、驚くべき人物を見つける。自分の恋人であるみち子が、いるはずのない昭和の世界に迷い込んでいた。彼女もまた、時空を超えて、この世界に呼び寄せられていたのだ。○(5)姿の見えない大きな存在に導かれるように旅を続ける真次は、ついに戦時中の昭和に行き着く。戦地に向かう兵士を乗せた銀座線。殺伐とした時代の空気の中、真次が目にしたのは、若き日のアムールの姿だった。そして、その肩に掛かっているたすきには「祝出征 小沼佐吉」の文字。小沼佐吉・・・・・アムールは、真次が忌み嫌い、縁を切ったはずの実の父親だったのだ・・・・・。
時空を超えた旅の目的が徐々に明かされていく中、ついに真次はこの長い旅の真の意味を知ることになる。何故、自分は昭和の世界に呼び戻されたのか。何故、自分は昭和の世界に呼び戻されたのか。何故、恋人のみち子も、同じ旅路にあったのか。そして真次とみち子に隠された驚くべき秘密とは・・・・・。
地下鉄だけが知っている、美しくも儚い運命。いま、時空を超える旅は、あまりにも切ないラストへなだれ込む・・・・・。

「あなたは、父になる前の父親をしっていますか?」
「あなたが生まれる前の母親に会いたいですか?」

●(6)この映画のポイント
巨大な企業を一代で立ち上げた父・小沼佐吉を憎み続けている主人公の真次は、タイムスリップして、自分と同じ年代ころの父と出会い、一緒に行動します。一緒に行動しているうちに、彼が未来の自分の父である事を知ります。
未来の父は、好きな人ができて、やがて自分が生まれます。自分が生まれたときに、父はどれほど喜び、愛してくれていたかを知ります。家を飛び出すほど父を憎んでいた真次は、父が自分の誕生をこれほどまでに喜んでくれていたことを知り、感動します。
場面は変わり、タイムスリップから戻ります。父・小沼佐吉は臨終の床にいます。絶対に見舞わないと決めていた真次は、意を決して、父を見舞います。

●(7)私たちが恨んだり、腹を立てたりすることの多くは、そのことをよく知らないことからきます。思い込み、価値観の偏り、傲慢、経験不足、等々。
「吉本式内観法」では、まさにこのことに取り組みます。最初は、三年毎に区切り、まず、「①母にしていただいたこと」「②して返した事」「③迷惑をかけたこと」の三点を、一回に二時間をかけて調べます。
最初は、なかなかうまくできませんが、やがて、母に、色々なことをたくさんやっていただいたことがわかってきます。それでいて母に恩返しをしていないどころか、迷惑ばかりかけていたことに気づいて、ただただ申し訳ない気持ちで一杯になります。私たちは事実を知らずに、いかに思い込みで生きているかを思い知らされます。

また、「認知療法」という心理学があり、「認知の歪み」という考え方があります。いつかこの「今月の言葉」で、詳しく取り上げたいと思っていますが、13種類の「認知の歪み」があります。
親は、百パーセント、子どもを愛しているものです。これは間違いの無い、絶対的な事実であると私(藤森)は、確信を持って言うことができます。しかし、愛の質がよくなかったり、愛し方がよくわからなかったり、また、いろいろな事情により、愛する気持ちがあっても、実際に愛せなかったりするものです。
そういう種々様々なことを多角的に判断することができない私たちの未熟さが、相手の置かれた立場やその心境を忖度(そんたく・・・他人の心中をおしはかること。推察・・・広辞苑)できないために起こる誤解が非常に多いものです。
今回の映画は、タイムスリップを活用することで、この誤解が解けましたが、これはまさに「自己回復・自己成長・心理療法」が目ざすものです。小説家はタイムスリップを活用しましたが、私たち、心理を学ぶものたちにとっては、心理的いろいろな技法を活用して、「認知の歪み」を是正し、「内観的な境地」を達成したいものです。

●(8)読売新聞、平成10年11月3日<「ひとり語り」後藤田正晴さん>より(元官房長官・故人)
 僕はかつて、悪の権化のように言われたことがあります。ところが、今ではいい者の典型のように言われます。けれども、僕自身の本質は何も変わってはいません。

僕は最近、ある書物(「情と理」講談社刊)を出版しました。僕のこれまでの歩みを口述記録したものです。その時に、つくづく感じましたが、同じものを見ても、見る立場が違えば、まるっきり違った形に見えます。しかし、そのもの自身は何一つ変わっていません。そういうことを感じた時に、僕は自分で歴史を口述しながら、歴史というものに真実はあるのだろうか、と思いましたに。
僕自身は役人の場では26年のうち18年が警察、8年が内閣や自治省などで過ごしました。軍人が6年です。役人時代はなんと言われたか。政治の場に入って何と言われたか。
役人時代はこれぐらい窮屈な厳しい男はなかったというのが評価です。役人としての人生は比較的恵まれていましたね。

ところが政治の場に出てね、20年やったんですよ。そのうちの三分の一がねえ。これはまあ、悪の権化ですね。最初の昭和49年の参院選で落選しましたが、選挙違反者が多数、出ました。次の昭和51年の衆院選では、その直前にロッキード・スキャンダルに絡んで僕の名前が出ました。
僕は何もしていない。間違いであるが、それが原因で落選したとなれば、これはぬれぎぬを着せられたまま消えていくことになる。僕にとっては人間の尊厳をかけた選挙でした。必死でした。
政治の場に入る直前にそういうことがあったわけですが、3年目に自治大臣になりました。当選2回で。比較的早い方でしたが、悪者でねえ、国会でも随分、厳しい攻撃を受けました。
だんだん、それがねえ、真ん中の三分の一時代に入ってくるにしたがって、少し、評価が変わってきました、これが違うというふうに、確かに。それで最後の三分の一になると、これはまあ大変いい政治家だということになっちゃったんです。ところがね、僕自身は役人の時からも政治家になっても一つも変わっていません。自分自身は何も。
僕は合理主義者で同時に合法主義者です。極端な右、左は僕は絶対にきらいなんだ。排斥します。そういう中からいつもバランスを考えます。ところが、世間の批評と言うのはまるきり極端なんです。まさに虚像だ。

それぐらい、歴史の見方というのは難しい。特に、今ある人の人物評と言うのは、これくらい難しいものはない。しかし、その逆の評価を受けたまま、それをぬぐい去ることができずに、志半ばで去っていった人もいるでしょう。さぞかし、無念だったろうと思います。
僕の人生というのは、役人、軍人、政治と移りましたが、半世紀以上、公的な仕事ばかりに携わってきました。役人から政治の場に進み、大きく変わったことが一つあります。それは世の中を見る目です。選挙を戦って、暮らしの中に目線を置いて見ると、世の中が今まで見た世の中とはまるきり違いました。役人時代に見ていた世間というのは、役所という一つきりの窓からだけ見えていた世間なんです。<後略>

●(9)「松本サリン事件」では、被害者の河野義行様とおっしゃったでしょうか、奥様が重症の被害を受けているのに、犯人扱いされました。

何千、何万人という捜査員を動員し、何十年という歳月と莫大な費用をかけて、日本のエリートが裁判をしながら、「冤罪事件」が発生しています。

子どもが「いい子」になると、親は喜びますが、それに反比例して、親に喜ばれるために最大限の「無理」をしている子どもの心境に、なかなか親は気づきません。

こういうことなどを学ばせてくれる映画でした。なお、「吉本式内観法」は、最初に母親について取り組みますが、母親が終わると、父親、兄弟、祖父母などに取り組みます。さらには、三年ごとを、一年ごとに短くしたりして、回数に応じて、さらに細かく、詳しく取り組みます。

<人生は不思議なもので、多くの不快なものは、実は「認知の歪み」からきています。私(藤森)自身、今思い返しますと、若いころ、ひどい「認知の歪み」がありました。穴があったら入りたいほど、ひどい「思い込み」「決め付け」がありました。
私はこの「認知の歪み」を勉強してからは、他者に対する「認知の歪み」がかなり改善されました。一瞬は「歪み」で認識しても、すぐに思い返して、その人に確認しない限りはハッキリしないことであると思えるようになりました。自分がそれなりに改善されてみますと、世の中の、非常に多くのことが「認知の歪み」からきていることに気がつくようになりました。
いつか「認知の歪み」を詳しく、このホームページで取り上げてみたいと思っています。>

<文責:藤森弘司>

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