2005年5月31日 第34回「今月の映画」
監督:リドリー・スコット 主演:オーランド・ブルーム(役:バリアン・オブ・イベリン) エヴァ・グリーン(役:シビラ)
リーアム・ニーソン(役:ゴッドフリー・オブ・イベリン)
エドワード・ノートン(役:ボードワン4世) ジェレミー・アイアンズ(役:ティベリアス)
私の知らない歴史を、少し、勉強してみたいと思います。 ○(プログラムより)キリスト教徒、イスラム教徒の双方の聖地エルサレムを十字軍が奪って100年。ヨーロッパは慢性的な圧制と貧困に苦しめられていた。そこで、農民も貴族も救いを求め遠い聖地をめざした・・・・・。 1184年、フランス。若き鍛冶屋のバリアン(オーランド・ブルーム)は妻子を相次いで亡くし、生きる望みも失いつつあった。遥か彼方の聖地で続いていた戦いは彼にとって縁遠い事柄に過ぎなかった。そんな時、一人の十字軍騎士が彼の前に現われる。 突然、「私はお前の父親だ」とバリアンに告げる、ゴッドフリー・オブ・イベリン。エルサレムの王に仕える彼は、まだ見ぬ息子のバリアンを捜しに、故国フランスに一時的に戻ってきたのだった。 ゴッドフリーは、バリアンをエルサレムへと誘う。最初はとまどいながらその誘いを断るバリアンだったが、やがて父の後を追う。○しかし、その旅の途中、一行は奇襲攻撃を受け、ゴッドフリーは致命的な傷を負ってしまう。なんとか聖地に渡る海港メッシーナに着くが、自分の死を悟ったゴッドフリーは、バリアンにエルサレムの平和を守るという使命を託す。ゴッドフリーは、エルサレムが良心に満ちた天の王国、キリスト教徒とイスラム教徒が共存し、共に繁栄する世界があるのだと信じていた。 そして最期に、本当の騎士道とは何たるかを一人息子に示し、騎士の称号を授けた・・・・・。 「ひるまずに敵に立ち向かえ。神は勇気と正義を愛される。たとえ死に至るとも常に真実を語れ。弱気を助け悪しきを行なうな。そう誓え」「騎士よ立て」 バリアンは剣を取り上げ、歴史へと歩を進めた。○苦難の末にバリアンはエルサレムに辿り着く。その頃、エルサレム王国には危うげな平和が訪れていた。国王ボードアン4世は、サラセンの王サラディンと和平を結び、エルサレムをあらゆる宗徒に解放していた。 しかし、そんな束の間の和平の日々は、サラセンへの挑発的行為を繰り返すルノー・ド・シャティヨンをはじめとする、狂信的で強欲な十字軍戦士たちに脅かされつつあった。 <30,000人ほどのエキストラやモロッコ軍が参加する一大スペクタクル>○(「十字軍とエルサレム王国」山内進・一橋大学大学院法学研究科教授・プログラムより)十字軍という名称の由来は、ローマ教皇が神のための戦いを呼びかけ、それに応じて参加を誓約した人々が戦士として十字の印をまとったからである。十字軍とはなによりも、ローマ教皇によって推進される十字架のための戦い、つまりキリスト教的聖戦のことである。 十字軍が西洋的表象であるのは、それがキリスト教的性格を強くもつからである。キリスト教的正義を武力によっても実現しようとする厳しさ、徹底性そして独善性もその一因といえるだろう。 キリスト教は本来、愛の教え、隣人愛を重視し、流血を嫌う宗教である。しかし、異教徒にはその教えは適用されない。 むしろ、誤れる異教徒たちを強制的に改宗させることこそ愛の行為ではないのか。そう主張する人々も多かった。「入るように強制せよ」(「ルカによる福音書」)というのである。まして、聖地エルサレムが異教徒たちによって支配され、キリスト教徒たちが抑圧されているのであれば、これを力で解放して何が悪いだろうか。 ○1095年に初めて十字軍が宣言されたのは、クリュニー修道院にはじまった教会改革運動の熱気のなかでのことであった。その改革運動は、信仰を世俗権力のくびきから解き放ち、キリスト教とキリスト教世界を純化することを求めていた。 ○エルサレムが十字軍によって陥落したのはその3年後の1099年であった。638年にイスラム教徒の手に落ちてから、ほぼ460年がたっていた。3日間にわたって殺戮と略奪が繰り広げられ、2万人から3万人が殺されたといわれる。 ○初代の正式の国王がボードワン1世で、1100年に即位している。その周りにはエデッサ伯領やトリポリ伯領、アンティオキア公領といった封建国家が立ち並んだ。エルサレム総大司教もエルサレムで活動できるようになった。 ○しかし、エルサレムはイスラム教徒にとっても聖地だった。なぜなら、エルサレムはムハンマド(マホメット)が天馬にのってメッカから来訪し、昇天した地とされているからである。 ○このときエルサレム守護の任に当たったのが、故エルサレム王アモーリ1世の寡婦マリア・コムネナを妻とするフランス人貴族、エルサレム王国イベリンの領主バリアン(この映画の主人公)であった。 ○その後、エルサレム王国はアッコンを拠点に再び甦るが、1291年のアッコン陥落によって完全に滅亡した。パレスチナへの十字軍は1270年のサン・ルイの第7(8)回十字軍をもって終わる。また、エルサレム王国の消滅によって中世十字軍の時代も幕を閉じる。 ○(日本大百科全集より)11世紀末から13世紀にかけて8回以上にわたって西欧キリスト教徒が東欧、中近東各地に向けて行なった軍事遠征の総称。公式遠征のほかに民衆巡礼団の自発的行動や、中近東の十字軍国家を起点とする近隣地域への進出なども広義の十字軍に含まれる。また、13世紀末以降16世紀に及ぶキリスト教諸国とオスマン・トルコ帝国との戦争をも十字軍とよぶことがある。参加者が衣服に十字架の印をつけていたことから、13世紀後半以来この名称が用いられたが、それ以前の史料には「エルサレム旅行」または「聖墳墓詣で」などと記されている。 ○(広辞苑より)①(従軍者が十字架の記章を帯びたからいう)西欧諸国のキリスト教徒がイスラム教徒を討伐するために、11世紀末(1096年)から13世紀後半に至るまで7回にわたって行なった遠征。その目的は聖地パレスチナ、特にエルサレムの回復にあったが、第3回(1189~92年)以後は宗教目的よりも現実的利害関係に左右されるに至り、当初の目的は達し得なかったが、東方との交通・貿易によって都市の興隆を促進し、また、ビザンチン文化・イスラム文化との接触はルネサンスにも影響を与えた。 |
<文責:藤森弘司>
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