2005年3月31日 第32回「今月の映画」
ロング・エンゲージメント

監督:ジャン=ピエール・ジュネ   主演:オドレイ・トトウ(マチルド)  ギャスパー・ウリエル(マネク)

○(プログラムより)1917年1月。第一次世界大戦下のフランス。前線の塹壕を、5人の兵士が連行されて行く。苛酷な戦場から逃れるため、自らの身体を傷つけた罪で軍法会議にかけられ、死刑を宣告された兵士たちだ。
彼らは刑の代わりにドイツ軍の標的になるような、敵陣との中間地点に置き去りにされた。その中の最も若い兵士がマチルドの婚約者マネクだった。○戦争が終わりを迎えた3年後、全く音沙汰のないマネクの安否を気遣うマチルドのもとに、戦場で彼に会ったという元伍長から手紙が届く。
元伍長から預かった兵士たちの遺品を手がかりに、その日からマチルドの懸命な捜索が始まった。●(私見)懸命の捜索の結果、婚約者と奇跡的に出会うマチルド。日本で大ヒットした「岸壁の母」のケースにそっくりです。「親のこころ」(木村耕一編著、1万年堂出版、1,500円。「今月の言葉、第24回」ご参照)の中に、「岸壁の母」について書かれています。
昭和29年、演歌「岸壁の母」が大ヒットした。悲しくも哀れな母の姿を伝えるNHKラジオを聴いた作詞家・藤田まさとが、心を打たれて一気に書き上げたという。その母とは、舞鶴港の岸壁で、息子の帰りを待ち続ける、端野いせさんであった・・・。
昭和29年9月、厚生省から、息子・新二さんの死亡認定理由書が届いた。・・・・・それでも、母は、わが子が生きていると信じた。・・・・
それから46年後の8月。ついに、新二さんが中国で生存していることが明らかになった。母が信じたとおり、息子は、確かに生きていたのだ。だが、それは母が亡くなってから19年後(平成12年)のことだった。端野いせさんは、昭和56年7月に、81歳でこの世を去っている。新二さんは、ソ連との戦闘で負傷し、シベリアに抑留された。その後、どうやって生きてきたのか、多くは語らなかったという。

●第一次世界大戦下、フランスとドイツの凄まじい戦い。弾丸が飛び交い、砲弾が炸裂し、泥や破片などが雨あられの如くに降り注ぐ。血だらけになり、肉は裂ける。当然、治療はできず、放置される。雨が降れば、泥だらけになり、びしょぬれになるが、もちろん、着替えなどはない。濡れネズミになり、ある人は傷を負い、空腹を抱えながら生き延びる様は、現代の我々には想像もつかない凄まじい状況です。
しかし、人類はまさにこういう凄まじい状況の中、必死に生きぬいてきたのだと思います。そして、世界中を見渡せば、現在でもこういう状況の中、生き延びることに必死になっている人たちが沢山います。アジアでもアフリカでも。

●そういう中にあって、人類の歴史からみれば、つかの間の平和な日本。奇跡的なユートピアのような日本。人類の歴史から見れば、まさに奇跡的であり、瞬間的に平和な現代日本ですが、少々奢り過ぎていないだろうか?
実業ではなく、虚業的であり、マネーゲーム的、拝金主義的である敵対的な買収や企業の乗っ取り的な戦法がまかり通る。それが多くの支持を受けるということは、大時代的な表現をするならば、世も末だと言いたい気持ちになります。恐らく、一昔前ならば、このような虚業的経営者(堀江貴文氏)は、スポットライトが当たらなかったように思えます。それがコンピューターとか、インターネットなどの言葉が飛び交うと、まるで時代の寵児扱いになって、拍手喝さいを受けると言う、かなり怖い時代になっているのではないでしょうか。(或いは時代を反映して歌が流行るように、単に、今のデフレ的・閉塞的な時代を反映しての流行、時代が変わるときの、単なる濁流なのかも知れません。その中から突き抜けて、大成するのか、時代の牽引車の役割を果たしたら消える運命にあるのか、とても興味があります。)

●今、日本中で、猛烈なリストラや労働条件の悪化、倒産などを通して、デフレ下の不況を克服しようと必死になっています。「日産自動車」の会社が大成功しましたが、その陰で、下請けを切られた多くの会社が、どれほど苦労したでしょうか。そういう中にあって、虚業的であり、拝金主義的であるライブドアや堀江氏が多くの脚光を浴びる状況は、かなり危険な兆候と言えないでしょうか。
逆に言えば、それだけ多くの経営者や政治家・官僚などが、既得権を利用して、うまい汁を吸っているということもあるかと思いますが、こちらの側はひとまず置くとして、その反動で、虚業的、拝金主義的な経営者が脚光を浴びるのは、時代の趨勢だと言い切ってしまって良いものなのでしょうか。日本の文化というものを考えると、余りにも極端に走りすぎているように思えます。

心理学的な観点から考えますと、こういう場合は、やはり、その人の生い立ちを考慮しないとわからないものです。週刊現代(3月26日号)を読むと、堀江氏が、精神性が乏しく、より拝金主義的な立場が強く、土足で他人の家に入るような態度を見せるのも頷けます(4月2日のNHKの新番組「日本の、これから」に生出演した堀江氏は、「生活の豊かさはお金とは関係ない」と発言。「買収はマネーゲーム」との批判を意識してのことだろう。と、読売新聞は4月3日、攻防ドキュメントで書いていますが、論理を巧みにすりかえて自己正当化するのが堀江氏の特徴です。また、総理大臣が変わっても、巧みに側近として生き延びる竹中平蔵大臣にとても似ているように思えます。今でも私は、テレビで発言した竹中氏の言葉、小泉総理誕生前後のころ、「IT産業で500万人の雇用を創出する」をハッキリ覚えています)。

●時代の流れは如何ともしがたいのでしょうが、それでも人類とか地球とか環境とかを考えると、日本やアメリカはかなり行き過ぎていると言わざるを得ません。日本は「外圧」以外に、方向を転換する能力が無いかのようで、地球規模での環境悪化(今月の映画、第24回「デイ・アフター・トゥモロー」ご参照)という「外圧」以外には、方向転換できないのかも知れません。過日、テレビ出演していた、元アメリカの国務副長官のアーミテ-ジ氏は、日本から、いわゆる外圧をかけてくれという依頼があるとのことでした。

●明治の文明開化の象徴として建設された「鹿鳴館」なども、当時は随分ヒンシュクを買ったのでしょうね。時代の流れというのはこういうものなのかも知れません。ただ一つ言えることは、この数十年。多分、3~40年前までは、お年寄りの存在感が大きかったです。よく思うのですが、昔は「結婚式」でも、「葬式」でも、あるいは「出産」でも、「冠婚葬祭」などは、主として自宅で行なわれました。こういうとき、一番頼りになるのは、いわゆる長老です。
「葬式」のとき、どのように執り行なうか、誰も自信がありません。そういうときに長老の存在が大きいものです。1年に1回のお祭りでも、長老の指導の下に、若い人たちが運営しました。いざとなったときに、長老の意見や体験がものを言いました。しかし、こういう一生の内に何回も体験しないような出来事は、専門の会社が代行するようになり、とても便利になりましたが、反面、長老の存在感が一気に薄れてしまいました。長老の長年の経験や知識は不要になり、インターネットなどの新しい情報が豊富で、体力、気力のある「若者」が幅を利かせる社会になってしまいました。会社も、長年、利益に貢献してきた中高年はリストラし、まだ利益を出していない若者が大事にされるという歪んだ社会、これも止むを得ないことなのでしょう?
ただしかし、中高年者の転職が促進される制度なり、社会ならばそれも良いでしょうが、ほとんど考えられなかった日本で、中高年者がリストラされれば、姥捨て山状態になってしまうのではないでしょうか。買収の問題も同様ですが、動物園のライオンやシマウマを、ある時、急にアフリカの野生に放り出すようなやり方は、無法状態で、余りにも厳しすぎると思いますが、時代が変わるということはこういうことなのかも知れません。

●年配者が尊重されなくなりましたので、うっかり若者の無作法などを注意しようものなら、逆に、暴力を振るわれかねません。年配者を敬まわないまでも、大事にすべきだと思いますが、社会全体が、まるで不必要な存在とみなしているかのような感じになってしまいました。
長年のデフレで、会社の体力・気力が失せて余裕が無いからなのか、今回のライブドアの日本放送買収問題に、財界の長老的な存在の関わりが感じられないのは、かなり寂しい気がします。ルールも何もないバトルロワイヤルを見ているようで、世も末だと言いたくなりますがいかがでしょうか。
幕末や終戦直後の大混乱期と似ているのかもしれません。第三の大混乱期が現在なのかもしれません(このように言う専門家もいます)。秩序も正義もモラルも打ち破って、法律の隙間を衝いたり、敵対的買収などの暴力的なことをうまくやったもの勝ち状態です。これは漫画「空手バカ一代」などを読むと、終戦直後の混乱期の状態と、現在の産業界の混乱とはとても似ているように思えます。

●日本は、アメリカ式はこうだといわれると、それはまるで「錦の御旗」のように、無批判的に、アメリカ式が正義であるかのような雰囲気になります。

今回のライブドアの騒動(第32回「今月の言葉」ご参照)も、アメリカでは20年前にいろいろ問題になり、改善されたのに、日本は二周遅れの騒動をやっているそうです。敵対的買収もアメリカではほとんど行なわれてはおらず、また、失敗する例が多いそうですし、日本でもいくつか中止になっています。それをお手本とするのではなく、まるで、最新の手法であり、若者たちを中心に拍手喝采的になるのはいかがなものでしょうか。私自身、幾人かの若い世代の人に質問しましたが、全員、堀江氏支持でした。
 SBIの北尾吉孝最高経営責任者が、「他人の家に土足で上がって、『仲良くしようや』と言っているように映るが、敵対的買収はあまり好ましいものではない。米国でもほとんどダメだった」と批判しましたが、これが今回の一番適切なコメントのように、私には思えます。
今は「下克上」の時代で、不満が鬱積している多くの若者たちから支持されるのも当然なのかもしれません。特に日本という国は、ムードに強く左右され、状況を詳しく分析する、良し悪しを考えながらバランスよく判断するということが苦手な国民性のようです。

(日刊ゲンダイ、2005年3月25日より)・・・・・実はI Tベンチャーブームが起きた数年前の韓国でライブドアとそっくりの企業が一世を風靡しながら、あっという間に沈没した例がある。
なかでもライブドアとイメージが重なるのが、30歳のキム・ジンホ社長が率いた「ゴールドバンク」だ。韓国のネット企業のなかでも、もっとも劇的な展開を見せた会社である。広告を主力にして急成長し、98年10月にコスダクに上場。1年も経たずに株価は60倍以上にハネ上がり、時価総額が400百億円(円換算)を超えた。堀江貴文社長(32)とキム・ジンホ社長は共通点も多い。2人ともエンジニアではなく文系出身者。マスコミでインターネットの未来や新しい企業のあり方について発言し、次々にM&Aを実行。アメリカ系ファンドと深い関わりがあった。韓国国民からは、財閥の悪習を正し、韓国経済の救世主になると期待されたものだった。
「ゴールドバンクは金融、旅行など20以上の系列会社を持つまでに急成長しました。その手法は、企業買収で規模を大きくし、また資金を集めるというもの。しかし、結局、外資に敵対的M&Aを仕掛けられ、キム・ジンホ社長は代表取締役を解任された。そのうえ、横領などに問われ刑務所に入れられています」(韓流戦略研究所・金知龍氏)
ゴールドバンクを追われたキム・ジンホ社長は、その後、日本で「M-starドットコム」というネット企業を設立。周囲から「堀江はあなたをベンチマーキングしたのではないか」とよく質問されるという。(本紙特派員・太刀川正樹=ソウル)

株式分割も、堀江氏は短期間に1万分割し、現在は、1株がわずか300円代という前代未聞の処置をしました。これは違法ではないが、かなり多くの専門家の批判を受けています。良いか悪いかという問題と、違法であるか否かは別問題です。堀江氏などの多くの方は、「違法であるか否か」と、「法の精神」という二面性を混同しているか、意識的に自分に都合の良い解釈をしています。
「法律」というのは、魚を取る網のようなもので、網の目から水はこぼれます。どんなに法律を細かく詳しくしても、世の中のすべてを網羅することは不可能です。その網の目を盗んでも、違法ではないという論理は、ほとんどアウトローの世界ではないでしょうか。

月刊織本3月号(結核治療の世界的権威・織本正慶先生が理事長・名誉院長をされている清瀬市にある織本病院で発行している月刊誌)の中の、「アメリカの失敗」元毎日新聞論説委員、小邦宏治氏の文章を引用。
昨秋の腎疾患ゼミナールで、名誉院長や由利先生から「日本の医療システムがアメリカのように改革されようとしている。許せば大変なことになる。」という話を聞きました。「なるほど」と思える本を読みましたので紹介します。
本の題名は「市場原理が医療を亡ぼす。アメリカの失敗」(李啓充著、医学書院)です。著者は京都大学医学部を卒業、米ハーバード大学医学部助教授を経て2002年より文筆業に専念。気鋭の医事評論家として注目されています。アメリカでは経済活動は自由に競争させ、市場原理に委ねることが望ましいという考えが行き渡っています。
1960年代から医療、中でも先端医療の分野にはこの市場原理が導入されました。営利追求を目的とした株式会社による病院経営を認めたり、医師によるベンチャービジネスの設立に道を開いたりしたのです。大いに競争させることで価格(医療費)が下がり、サービス(治療)が向上すると期待されたのです。
結果はどうだったのでしょうか。注目されている人工心臓の置換手術では実績を上げる事に焦り、患者の同意を得ないまま実施し、後に訴訟が頻発しています。会社経営の病院は儲かる分野である美容整形外科や精神科等に力を入れ、儲からない分野である小児科等を削減してしまいました。また保険も民間が行なっているため、高齢者の保険料が高く、成人の七人に一人が無保険者になっています。このため老人が病気になると高額の医療費を払わなければならず一家が経済的に破綻するケースも多いと言われています。著者はこのような事例を克明に紹介した上で「アメリカの医療は荒廃している」と断じ、日本の経済界が提唱している改革に反対しています。
この本を読んで感じたのは医療が扱っているのは「人間の命」であるということです。モノやサービスであれば、アダム・スミスのいう「市場の原理」に任せておけばいいのかもしれません。しかし、かけがえのない命の領域で最も大切なのは倫理です。「患者の害になるようなことをしてはならない」と言った古代ギリシャ人、ヒポクラテスに思いを馳せたいものです。

(ウェッジ、2005年3月 Vol.17 No.3「部品メーカーを切り捨てた日産が直面する2つの壁」より)
ゴーン改革で日産が手にした高収益率という名の果実・・・・・「鋼材不足で工場が一時停止したが、今後の見通しは」「日産だけが鋼材不足に陥ったのは購買政策に問題があったからではないか」「グループの部品会社、カルソニックへの出資比率を上げるのはなぜ」・・・。
昨年12月初旬、日産自動車が東京都内のホテルで開いた新車発表会見は、同社の開発担当者には納得がいかない代物であったに違いない。というのも、カルロス・ゴーン社長の記者会見では肝心の新型ミニバン「ラフェスタ」にかかわる質問はなく、記者の関心が別のテーマに集中したからだ。
ゴーン社長への質問は資材や部品などの調達、すなわち購買に関するものばかり。会見が異例の展開になったのには理由がある。ひとつは鋼材不足に端を発する国内3工場の操業一時停止。もうひとつはカルソニックカンセイの増資を引き受けて、同社を連結子会社にすることを発表したことだ。
いずれも「懸念されたゴーン改革のマイナス面や方針転換を示す出来事」(大手部品メーカー幹部)であり、それらが相次いで会見直前に公になったからだ。ゴーン改革が1990年代後半には瀕死の状態にあった日産をV字回復に導いたことは紛れもない。ゴーン氏は、「保有する1394社の株式のうち、4社を除いて必要と見なしていない」と発言。同業他社、外資、投資ファンドなどに系列企業の株式を売却し、生み出したキャッシュがリストラ費用や開発の原資となった。・・・・・・・
業績への貢献は明白だ。00年3月期にわずか1.4%だった連結営業利益率は04年3月期に11.1%まで急上昇。「世界で最も収益力の高い自動車メーカー」(ゴーン社長)となり、これは1兆7000億円以上の営業利益を稼ぎ出すトヨタ自動車や、北米で強固な事業基盤を誇るホンダをしのぐ。
・・・・・
だが・・・・・。日産を窮地から救った改革に対して、「リスク管理」と「品質・技術」の2つの側面から疑問が呈され始めたのも事実である。冒頭の記者会見で購買関係に質問が集中したのも、コスト優先の日産の姿勢に対する疑問からにほかならない。・・・・97年2月に起きたトヨタ系部品大手であるアイシン精機の工場で火災事故が発生。当初は1週間程度の大幅な減産が避けられないといわれたが、3日で切り抜けた。・・・この信頼関係が危機管理に結びつくことは言うまでもない。・・・・・・
自動車は基本的にパソコンのようなモジュール組み立て型ではなく、ごく微細なレベルのすり合わせが品質に大きな影響を与える製品。日本メーカーはここに秀でているからこそ、世界的な強さを確保しているのだ。「0.1ミリ単位のすり合わせはトヨタ本体だけの話ではなく、協力メーカーを含めての取り組み。あうんの呼吸があるからこそ、コストと品質を両立できる」。トヨタの渡辺副社長はこう説明する。
日産が系列解体を進めた5年の間に潮目の変化もあった。・・・・「自動車の付加価値の7割は部品メーカーが生み出している」。・・・・・変化にいち早く気づいて行動したのは、トヨタでありホンダだった。・・・・・ただ日産については、水ぶくれしたコストを絞り込むことが優先された結果、部品メーカーと一体になった技術開発などが後手に回った感は否めない。・・・・・・「系列のすべてを否定したわけではない。日産では機能していなかったから一度壊しただけだ」。ゴーン社長は最近、系列解体について問われると、こう答えることが多いという。・・・・・・・
「部品メーカーと一体になったモノ作りは自動車のみならず、日本の製造業の底流に流れる強さの源泉」。製造業の担当が長いある有力コンサルタントはこう説明する。しかし、日産のケースのように取引関係において価格ばかりが過度に重視されれば、共存共栄の信頼関係が生まれるはずもない。
こうした日本的なモノ作りの本質をゴーン改革は想定していたのか。ゴーン氏が日産に乗り込んだ当時を振り返れば、酷な言い方かもしれない。当時の日産は縦割り組織のため意思決定が遅く、同業他社に比べ割高な価格での購買が横行していた。その「悪しき」系列の呪縛を断ち切ったゴーン氏の功績は大きい。しかし、それが部品メーカーとの信頼関係までも断ち切ってしまった面は否めない。
一度失った信頼関係は、一朝一夕には修復できない。日産がかつての系列とは異なる新しい仕組みを生み出して定着させることができるか、これは製造業における「和魂洋才」経営への挑戦といえるだろう。

(ウェッジ、2004年 Vol.16 No.10「定年のない会社はこんなに強い!」「死ぬまで働いていい」・・・これでベテランは鬼になる・・・より)
「定年を廃止してベテランの知恵で勝負する」・・・・・・新宿区に本社を置く東京美装興業。47年前にビルメンテナンス業から出発し、現在はアウトソーシングを通じて企業の業務改善戦略を支援するファシリティマネジメントなどの新事業を開拓して、成長している企業だ。2700人の正社員を抱え、連結売上高は約360億円。10年前に東証二部に上場した。
一見どこにでもある中堅の上場企業のプロフィールだが、同社には、ほかの会社ではお目にかかれない特徴がある。すべての社員に定年がないのだ。石川裕一・代表取締役会長は、正社員はもちろん5000人近くいる契約社員にまで、「死ぬまで働いていい」と発破をかける。
2004年の雇用管理調査(厚生労働省)によれば、定年制度を定める企業の割合は91.5%。そのうち従業員1000人以上の企業では、ほぼ100%。そこそこ規模が大きい企業なら、すべてに定年制度がある。東京美装興業も例外ではなく、もともとは60才を定年とする制度が生きていた。それを変えたのは、00年に同社に乗り込んできた石川氏。就任間もなく一律的な定年を廃止、02年には全社員の定年を廃止した。
その理由を、「これからの時代は、高齢者の知恵が必ず生きる」と説明する。ベースが右肩上がりなら、極端な話、普通にやっていれば収益は上がる。しかし、低成長時代では、新しいことをしなければ収益は増えない。そのためには知恵が必要というわけだ。つまり、いたずらな高齢者保護の視点に立った定年廃止ではなく、知恵や器量を重視する結果として年令へのこだわりを捨てた。
石川会長は、「死ぬまで働いていい」と発破をかけるにあたって、係長職以上の定期昇給とベアを廃止。「定昇やベアがあると、40歳より60歳のほうが、同じ仕事をしても給料が高くなる。すると会社が給料を出せなくなるので、60歳で定年とせざるをえない。だからベアがなければ、定年をなくすのは当然だ」。
定昇やベアについては、「55年体制から続いてきた右肩上がりの時代の産物。低成長の現在には成り立たない」と言う。・・・・・・
ただもちろん、定昇やベアを廃止しても、定年をなくせば社員が増え、コストが増える。抱え込んだ人材の能力を発揮させ、業績として会社に還元させなければ、定年廃止は何のメリットも生み出さないのだ。つまり社員をやる気にさせて、はじめて定年廃止の効果が生まれてくる。
石川会長は、そのためには経営者の「判断」と管理者の「やりくり」が必要という。「60歳を過ぎても部長をはる器量があれば、第一線でやってもらう。一方で、パフォーマンスが下がれば年齢に関係なく低い賃金体系に移ってもらう。この判断を経営者が責任を持ってやる。その結果として業績が傾いたら、経営者が辞任すればいい」と言うように、経営者がリスクをとって、年齢でなく能力をもって人材を登用しなければ、何も始まらないのだ。・・・・・・
つまり経営者や管理者が、その責任において判断とやりくりをすることで、ベテラン・若手を問わず社員に「場」を提供する。不満の声をあげる社員には、石川会長が一人ひとり会って説明するという。これが社員全体の士気向上につながれば、「死ぬまで働いていい」という環境はとくにベテランの意識を鼓舞し、その知恵と経験が会社に還元されることになる。定年廃止に踏み切ってからの4年間で、同社の売上高は16%(約48億円)増えた。人件費の増加を上回る業績の伸びは、定年廃止が収益を生んでいることの表れといえる。実際、300人いる60歳以上の正社員の働きぶりは、「定年なんてくそくらえ」という気概に満ちている。
事業部長を務めるF氏は、現在61歳。2年前に大手ゼネコンから現在の会社に転職した。そのゼネコンでは本社の部長まで務め・・・・・・・知人を介して出会った石川会長の「うちに定年はありません。いつまでもやってください」という口説き文句に心を動かされ、転職を決意した。・・・・・・・60歳を過ぎても部長を任せられており、ゼロから始めた事業部を、クライアント1500、年間売上高20億円の部門にまで成長させた。そこで生きているのは、F氏がゼネコンで培った経験やノウハウであり、人脈の広さだ。
「クライアントへのプレゼン前は、帰りが夜中の1時や2時になるのはもちろん、土日も出勤して資料をつくるのはしょっちゅうです」と話すF氏は、17人の部下に対して頑固オヤジに徹している。「60歳を過ぎたら欲はありません。会社を良くしたい、部下を育てたいという一心でやっています」。・・・・・・・
「高齢者活用」という金看板を掲げ、60歳以上の再雇用や臨時雇用を行なう企業も多いが、そのほとんどは「お客さん」的に処遇するだけではないだろうか。彼らが若手とともに汗を流し、ときに涙が出るほど厳しく叱り、身銭を切って酒を飲ませる。部下はその姿を間近に見てはじめて育つのだ。
同社では、契約社員でも年齢を問わない。75歳でビルの清掃に従事する女性契約社員は、「年齢ではなく仕事のデキで評価してもらえる」ことを素直に喜ぶ。実際にクライアントであるビル管理会社からは、気配り、挨拶、身だしなみがしっかりしている高齢者の評判がいいという。・・・・・・・・
経営者が腹をくくれば、定年をなくして会社を強くすることができる。少なくとも第一歩として一律的な定年を見直し、高齢者の知恵と経験を力に変えることができるはずだ。

カリフォルニア大準教授のスティーブン・ボーゲル氏は6月13日付、朝日新聞「時流自論」でこう書いています(「日刊ゲンダイ」平成16年8月12日より)
「米国での人員削減は多くの場合、収益、生産性、株価のどれを基準にしても企業業績の向上に結びついておらず、むしろ業績を損ねていることも少なくない」「日本は欠陥のある米国モデルの本質や、有効性、そして日本への適合性を探ろうとせずに、ただまねているように思えてならない」
 ここの部分は、私(藤森)が一番言いたいことです。日本には日本固有の文化があります。伝統があります。その文化に適合させていく努力が、心理学の世界も含めてほとんどありません。現代は余りにも直接的に信奉しすぎて、吟味とかチェック機能というのが働かないようです。戦後の日本とアメリカの関係は、母親と幼児、宗主国と属国の関係のようです。

個人には個人のクセや特徴があるのと同様、国には国のクセや特徴・文化があります。それをダイレクトにありがたがる方が、軽佻浮薄であるという自覚や感覚が余りにも無さ過ぎます。日本全体が軽薄になりすぎているように思うのですがいかがでしょうか。
日本の心身医学の創始者、故池見酉次郎先生は、しばしばこのようにおっしゃっていました。「日本でいくら発言しても、誰にも相手にされない。ところが外国の学会などで発表して、外国の専門家が評価すると、あわてて日本に取り入れる」と。つまり独自の価値判断能力が無く、親、つまり外国が評価すると無条件でありがたがる。

2005年4月3日読売新聞「一筆経上」(編集委員松田陽三氏)より
企業の価値って何だろう。日本放送株の争奪戦で、ライブドアに買収された場合に、日本放送の企業価値がどうなるかが議論になった。「株主をもうけさせる経営者が、良い経営者」ライブドアの堀江貴文社長は、企業の価値は株式の時価総額とイコールと考えている。・・・・・・・・アメリカでは「企業は株主のもの」が当たり前と言われるが、これも疑わしい。2001年から2002年にかけて、エンロン、ワールドコムなど、株価の高値維持を目的とした不正取引、粉飾決算事件が相次ぎ、株価重視の経営に反省が生まれた。
「世界で最も尊敬される会社」とされる米ゼネラル・エレクトリック(GE)の年次報告書(アニュアル・リポート)が興味深い。1995年版の書き出しは「株主(シェア・オーナー)様へ」だったが、2004年版は「ステークホルダー様へ」に変わっている。ステークホルダーとは、株主に加え、従業員、顧客、取引先、地域社会など企業の利害関係者の全員を指す言葉だ。

●心理学とか自己成長の立場から、ライブドアや堀江氏を中心に述べてきましたが、とはいえ、既得権の中でぬくぬくと生きてきた、日本放送やフジテレビの対応のまずさ、戦略の無さは、これはもう幼稚園生のようです。
戦後の復興で、日本のあらゆる企業が資金を必要としていたために、大銀行はなにもしなくても、床の間を背負ってふんぞり返っていられました。しかし、各企業が、市場から直接に資金を集め始めると、預金がいくら集まっても活用方法が判らず、外国の銀行に太刀打ちできなくなってしまった「超一流大銀行」の情けない姿に似ています。
そういう意味では、既得権を甘受している分野に警鐘を鳴らすという範囲で、堀江氏の貢献は非常に大きいものと思います。

●さて、思い切り視点を変えて、地球規模で考えて見ますと、今の、いわゆる先進諸国は、いろいろな面で、すでにかなり行き過ぎている状態のようです。
「科学は今 どうなっているの?」(池内了著、晶文社)。著者は名古屋大学大学院教授で、星、銀河、宇宙の起源と進化について、独創的な理論を展開する国際的な天文学者です。息子に進められて読んだ本ですが、良書に巡りあえると嬉しいものです。
地球全体で考えると、すでにタイタニック号の状態になっているようです。経済の市場原理や拝金主義などと浮かれていますが、この本を読むと、空恐ろしくなります。
この本の前書きに「これまで地球に現われた生物の99%は、遺伝子が悪くなったのか、運悪く隕石衝突に遭遇したためなのかわからないが、絶滅してしまったことを考えれば、ホモ・サピエンスも例外ではないのは確かである。」 また、原子力発電を考えるの項では、「・・・・・現代は資源の枯渇が問題なのではなく、地球の浄化能力以上に資源を使い過ぎることの方が深刻な時代であるという点だ。むろん、100年というスケールで見れば、石油やウランや希少金属などの枯渇が問題となるが、今や100年すら射程に入れることができなくなっている。」などなどです。
4月15日の「今月の言葉」は「科学は今 どうなっているの?」と題して、この本の内容をご紹介したいと思っています。
<2005年3月15日、第32回「今月の言葉・納得水準」をご参照ください。>

<文責:藤森弘司>

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