2005年2月28日第31回「今月の映画」「Uボート最後の決断」
投稿日 : 2018年3月12日
最終更新日時 : 2018年3月12日
投稿者 : k.fujimori
2005年2月28日 第31回「今月の映画」
監督:トニー・ジグリオ 主演:ウイリアム・H・メイシー ティル・シュヴァイガー トーマス・クレッチマン
○(プログラムより)1943年、第二次世界大戦の大西洋下。ドイツ軍と連合軍戦闘は日に日に激しさを増していた。アメリカ軍が誇る潜水艦“ソードフィッシュ”は、ドイツ軍潜水艦Uボートと戦闘を繰り広げる。
魚雷が命中したソードフィッシュ号の生き残ったアメリカ兵たちは、Uボートに捕虜として乗せられた。Uボートの狭い艦内ではアメリカ兵の処遇を巡り、艦長と部下たちが対立。○さらに、アメリカ兵の捕虜から伝染病が発生してしまう。パニックになる艦内。その上、アメリカの駆逐艦の攻撃を受けたUボートには亀裂が入る。
伝染病で三分の二の兵士が死んだUボートは、助かるためには捕虜のアメリカ兵と手を組んで船を動かし、アメリカ軍の船に助けを求めるしかない。○その時、前方からはアメリカの駆逐艦、後方には軍律違反のこのUボートを攻撃するために、他のUボートが迫っていた。
敵対する男たちは、裏切り、憎しみ、愛国心が交錯するなかで、どのように決断していくのか、自分たちが助かるための究極の選択を強いられる・・・・・・・。●(私見)潜水艦は棺と同じである、というセリフにはギョッとしました。このように常に死と隣り合わせに生きる中での人間形成と、食べ物は豊富にあり、疾病からくる死の怖れもあまり無い、平和な時代である現代日本での人間形成とは、極端に違うのではないかと思いました。
●今日、西武鉄道・元社長の自殺が報じられていましたが、なんともやりきれない報道です。恐らく死と隣り合わせに生きなければならない時代には、「自殺」という手段は余り用いなかったのではないでしょうか。豊かであり、戦争や飢餓や疾病などの死の恐怖が少ない社会ほど、自殺が多いようです。
ヨーロッパでも、社会保障が充実している国ほど、自殺が多い傾向にあるようですが、社会保障が問題ではなく、社会保障が充実しているということは、それだけ豊かな国ということになります。
豊かな国ということは、交通事故を除けば、疾病や飢餓による死の恐れが少ない上に、出産や葬儀、あるいは人生の末期の対応など、「非常に困難で苦痛な問題や死に直面」しなくてもよくなりました。
その結果、生きるのには大変都合がよくなりましたが、ちょうど、野菜が温室栽培されたり、魚が生簀(いけす)で飼育されるように、私たちの人生も、温室栽培的であり、生簀に飼われている魚のような人生になってしまったのではないでしょうか。
●何かの本で読みましたが、檻にいる猿と野生の猿。野生の猿は、食べ物が豊富な檻の猿をうらやましく思い、檻の猿は、自由な猿をうらやましく思う。
何かが得られるとき、何かが犠牲になるのですが、私たちはうっかりすると、そのどちらかしか意識に上らない傾向にあります。
例えば、アメリカでは、高額の宝くじに当たった人は、幸せになれないというそうです。確かに、突然、何億、何十億円の大金が入ったら、人生が変わってしまうのでしょう。私(藤森)自身は、意志が弱いので、いきなり何億、何十億円が手に入ったら、確実(?)に、人生が狂いそうです。
禅では「得失一如(とくしついちにょ)」といい、何かを手に入れるということは、何かを失うことであると教えます。
●潜水艦や戦争などによる「死の恐怖」には直面したくありませんが、しかし、平和による「人心の荒廃」は、疾病や飢餓による生存の危機に取って代わるほど、恐ろしくなっているように感じられます。
人類の歴史には詳しくありませんが、しかし、チョッと考えれば、地球開闢(かいびゃく)以来、何億年もの間、万物はすべて、生きるための困難さと闘ってきました。
森林の樹木は、高く、高く、伸びたり、コケ類のように逞しく生きる手段を考えたり、また、キリンのように首を長くしたり、夜行性動物になったり・・・・・。
人間も、マンモスと闘ったり、道具を開発したり、稲作を工夫したり、凶作や大飢饉を乗り越えたり、戦争に遭遇したり、伝染病や栄養失調に苦しめられたりした時代は、わずか40~50年くらい前までの日本の姿でした。
●多くの家庭では、一家に一人は病気や戦争などで家族を亡くしたものです。
戦争では、例えば乃木将軍は、日露戦争で旅順攻撃の際、二児を一時に失い、トムハンクス主演の「プライベイトライアン」は、2人の息子が戦死した母親の3人目の息子を、戦場から救出して、母親の元に届ける映画でした。
このように戦争や疾病により、家族の誰かを亡くした体験は、当時の日本では普通のことでした。その上に、その死者と自宅で対面しましたので、老若を問わず、誰もが「死」を実感し、「死」の怖さや人生の虚しさを共有したものでした。
●しかし現代では、人生の対極である「死」を実感することが困難になったために、逆に言えば、「死」の対極に「人生」を置くことが困難になったために、人生がおかしくなってきたのだと思います。「死」は恐らく、誰でも避けたい課題であると同時に、絶対に避けられない課題でもあります。
その絶対に避けられない「死」を、人生のゴールに据えながら、今をどのように生きるかということは、人生をより良く生きるための重要な課題です。
●しかし、「死」の対極に「人生」を置くことが困難になった結果、「種の保存」という一番根本が狂ってきてしまっています。
何故なら、いつ死ぬかもしれないと思えば、「今生きている命」を守ることに必死になりますが、「死」の実感が乏しければ、「死」の対極である「命」を守ろうとする気持ちが薄れてきます。「物」が不足していれば、物を大事にし、豊富であれば、物を大事にしなくなるのと同じです。
●以前は家庭内暴力とは、主として息子が母親に暴力を振るうことでした。良し悪しは別にして、母親(父親)は、暴力を振るわれるに相応しいことをしていました。子供に対して、過干渉・過保護という心理的な暴力を!
しかし、最近は、何も悪いことをしていない、無抵抗の乳幼児を虐待し、死にいたらしめるほどになってしまいました。これはどう考えても人間が狂ってきています。
また、他人を殺害する場合も、単純な殺害ではなく、切り刻んだり、捨てたり・・・・・・言葉にするのも憚るような殺人事件が多発しています。そういう事件は、10年くらい前から多く発生し始めました。
ゴキブリが一匹いたら、数十匹いると言いますが、メディアを騒がすこのような事件は、その数十倍、数百倍の予備軍が存在し、社会全体が、このような土壌になってきているようです。
●では、何故、せっかく手に入れた「平和」が、このような「人心の荒廃」を生んでしまったのでしょうか。
それは人類が、平和な時代の生き方の訓練がなされていないからだと思います。食うか食われるかという戦いや、飢餓や疾病との闘いを何百万年も続けてきた人類が、突然、平和だといわれても、上手な生き方がわかりません。
例えば、戦国時代に大活躍した武将たちが、戦争が無くなって平和な江戸時代に突入しても、ソロバンをはじいたりする生き方ができずに、大問題が発生しています。
しかし、これは、単に戦争が無くなったというだけで、飢餓や疾病の恐怖は相変わらずであり、生きる困難さは、現代とは比較にならないでしょう。
●現代日本は、人類の歴史的に見れば、まさにユートピアが出現したといえるのではないでしょうか。そのユートピアな社会の生き方が訓練されていないための悲劇が起こっているのだと思います。
しかし、ユートピア的な社会であることは間違いありませんから、その中での生き方を工夫できる方は、私たち庶民であっても、昔と比べれば、遥かに快適な人生を送ることができます。
ということは、2500年も前に、すでにお釈迦さまがおっしゃっている教え、心の内面の訓練こそ、これからの社会にとって最大の課題ということになります。
つまり人類は、やっと、私たち庶民レベルで、「自己回復」という「命題」に取り組める時代になったといえるでしょう(「自己回復とは」は、ホームページ表紙の⑤をご参照ください)。 |
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