2005年12月31日 第41回「今月の映画」
男たちの大和 YAMATO

監督:佐藤純弥   反町隆史   中村獅童   渡哲也   仲代達矢   鈴木京香

(プログラムより)昭和20年4月、桜の咲き誇る故郷を後に、永遠の海へと旅立っていった巨大戦艦大和。
艦には3,000人を超える乗組員が搭乗していた。
彼らはただ、愛する人を、家族を、友を、祖国を守りたかった・・・・・。○広島県呉市海軍工廠にて秘密裏に建造され、昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争が開戦の日に公式運転を終了し完成をみた世界最大最強の戦艦大和は、日本海軍の象徴としてのみならず、すべての日本人にとって憧憬であり、誇りでもあった。
しかし、すでに戦争は大艦巨砲主義の時代を終えて飛行機の時代へと突入しており、結局大和はさしたる活躍の場を与えられることもなく、昭和20(1945)年4月7日沖縄水上特攻作戦の途上、米軍の猛攻によって、東シナ海に沈められた。○それでも大和という存在と概念は、今もなお日本人の心の原点として輝き続けている。それは日本そのものを意味する“大和”という艦船名やその響きが、先の大戦における悲劇のシンボルとして、人々の胸に静かに悲しく染み入るように訴えかけてくるからだろう。
撮影は、約6億円をかけて広島県尾道市の造船ドックに大和の艦首から艦橋までを実寸大で再現した、前長190メートルの広大なセットを中心に、呉市や鹿児島県枕崎市、東映京都撮影所などで、およそ3ヶ月の長期にわたり敢行。進歩のない者は決して勝たない。
負けて目覚めることが最上の道だ。
日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。
私的な潔癖や徳義にこだわって、
真の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める。
それ以外にどうして日本は救われるか
今目覚めずしていつ救われるか。
俺たちはその先導になるのだ。
日本の新生にさきがけて散る、
まさに本望じゃないか。
(白洲 磐大尉の言葉)

○昭和19年10月、レイテ沖海戦に出撃した大和はアメリカ軍の猛攻を受けた。初の実戦に戸惑い、脅え、混乱する特別年少兵たち。
5日間の戦いで連合艦隊は、武蔵をはじめとして戦艦3、空母4、巡洋艦9、駆逐艦8、潜水艦6隻を失った。残った艦艇の傷も深く、ここに伝統ある日本海軍の連合艦隊は、事実上壊滅状態を迎えることとなってしまった。

○昭和20年3月、日本の敗色が日増しに濃くなっていく中、東京が大空襲を受け、続いて名古屋、大阪、広島などの大都市、そして沖縄の全飛行場に向けて米軍の猛爆撃が開始された。
4月1日、ついに米軍は沖縄上陸作戦を本格的に開始。4月5日、草鹿連合艦隊参謀長は、大和の沖縄特攻の命を伊藤第二艦隊司令長官に下す。
有賀艦長から艦隊命令を通達された乗組員たちは、臼淵大尉に諭され、それぞれの立場で「死ニ方用意」を始めていった。4月6日、いよいよ大和以下10隻の艦隊は出航した。
まもなくして、敵潜水艦が暗号も使わずに大和の動きを逐一基地に報告していることを知った伊藤らは、偽装航行を中止。進路をまっすぐ沖縄に向け、南下していく。そして4月7日、ついに鉛色の雲の彼方から米軍艦載機の大群が大和に襲いかかった。

大和を思ふ(阿川弘之)
大和に関しては種々の批判がある。戦後ジャーナリズムの、言いたい放題の無責任論議は別として、起工当初も戦争中も、海軍の部内に強い批判があった。
一つは、大和を造ること自体への否定的意見。莫大な経費を使ってそんな巨艦を造ってみても、近い将来いくさの主力は飛行機の時代が来る。それに石油の産出量殆どゼロの我国が一旦燃料の補給路を絶たれたら、油を食ひ過ぎる戦艦は行動の自由を失って、結局無用の長物の厄介者になる。明治の顔で昭和の軍備をやる勿れといふ建造反対論である。

もう一つは、敗戦の年の四月、大和水上特攻作戦についての批判、護衛航空機の傘無しで沖縄へ向かわせても、途中米軍機の大群が待ち受けてゐて、沈めてしまふに決まってゐる。アメリカに大和撃沈のスコアを稼がせるだけ。幼な顔の特別年少兵も含めた優秀な乗組員全員犠牲にして、何故そのような無謀を敢えてするか・・・。

この種の直言を、私は何人もの海軍士官から聞かされてゐるし、その人たちの意見に概ね賛成なのだが、にも拘わらず、大和航走中の写真(かつては極秘中の極秘)を見たり、大和の生涯を記述した書物を読んだりすると、深い感慨を覚えて、六十年後の今でも涙が出そうになる。
涙を催す理由はうまく説明出来ないけれど、多分、当時の日本人が持ってゐた最高レベルの知能と技術の結晶が大和だったのにといふ痛恨の思いからであらう。一部先見の明ある人たちの予言通りになったとは言え、大和は世界戦史にその名を残す空前絶後の「無用の長物」であった。

最後の海軍大臣米内光正提督が、海軍省廃止にあたって後輩に遺嘱した事項が三つあり、その第三項で「海軍の持ってゐた技術を日本の復興に役立てる道を講じろ」と言ってゐる。
言葉を変えれば「大和を造った技術」である。これは造船関係や光学関係、新興のソニーや本田技研を始め各企業各研究所の戦争生き残りが、言はれなくても実行に移し、未曾有の敗戦国にやがて未曾有の経済的繁栄をもたらすのだが、貧しい時代彼ら捨て身の努力は、多くの場合同世代戦没者の無念の思ひを思ひやることでしっかり裏打ちされてゐた。

私どもの次の次の戦争を知らぬ若い世代も、此の映画を見れば、死者の声の聞こえて来るのを感じるであらう。彼ら乗組員が身につけてゐた規律、勇気、礼儀正しさ、国家への忠誠心、正確明晰な言葉遣ひを自分たちも身につけたいと思ふであらう。
新時代二十一世紀の若い男女が、日本人固有の美質を取り戻し、伝統のすぐれた技術を正しいかたちで保持継承して、日本を再び誇るべき国に盛り立ててくれるなら、戦没将兵へそれ以上の手向け草はあるまい。
もっとも、死者の思ひとか死者の声といふのは比喩的表現で、実際の彼らは静謐そのもの・・・・(略)・・・

○舵は少年に託された(防衛庁海上幕僚監部・監理部広報室長1等海佐 伊藤俊幸)
大和については一部に、航空機戦の時代を読みきれなかった“大艦巨砲主義”の産物という言い方がなされてきました。しかし、当時の日本の技術と富を結集した大和は、単なる戦艦の域を超えた国家の象徴のようなものだったと思います。

海上自衛隊の艦船名は、日本の自然現象や地名からつけられています。ところが良い名前には限りがあるので、旧海軍と同じ名前の艦船がいくつかあります。しかし、今後も「大和」という艦艇名を使うことは難しいのではないでしょうか。まさに永久欠番的な存在、それが大和なのだと思います。

○「戦艦大和」からの生還(昭和19年、22歳の時に師範徴兵され、大和に配属。レイテ沖海戦と沖縄特攻に参加。復員後、故郷の岐阜で教職、退職後の現在、大和の語り部として講演活動されている小林健さん)
・・・・国民の大部分が、国のために死ぬことを当然と考えていた時代ですから、沖縄への出発が特攻だということは、当初私たちには知らされていませんでした。

でも、感覚ではだいたいわかっていました。出発の前夜、艦内で無礼講の会食をしました。その時に、家族に遺書を書きました。手紙と一緒に、爪と髪の毛を封筒に入れました。
夜10時頃、閉会の命令が放送され、私たちは残ったウイスキーや羊羹をポケットにねじ込みました。明けて4月6日の午後3時半、「総員、配置に就け!」の命令で出発。
その後「総員集合」の号令がかかりました。ここで初めて副長から天一号作戦の目的、「これは海上特攻隊だから、生きて帰ることはない、全員死ぬんだ」という命令を受けました。
全員東に向いて「宮城の遥拝」をし、「君が代」と「海ゆかば」を斉唱して、それぞれ自分の故郷への別れの挨拶をしました。この時、日本海海戦で東郷平八郎元帥が掲げた“Z旗”が翻りました。全艦を「軍艦行進曲」が流れ、これを聞きながら大和は進みました。
窓を開けて瀬戸内海を見ると、桜が満開でした。今でも桜を見るとこの時のことを思い出します。

●(私見)このような悲惨な状況は、頭でなく、実感として感じてほしいと思います。わずか60年前にこういうことがあったという事実を、私たちは記憶の底に置いておくべきではないかと思います。
私たちは、親のありがたさ、感謝を念頭に生きるべきだと思っていますが、それと同様に、こういう時代があり、こういう若い人たちの犠牲の上に、今という時代があるのは事実なわけです。
そういう認識がしっかりしていれば、「恥ずかしい」とか「みっともない」、或いは「もったいない」などの日本の美しい言葉を忘れずに生きられるのではないでしょうか。現代は糸が切れた凧のような風潮が溢れすぎているように思います。

●飛行機の時代に、巨艦建造という時代を読まない、あるいは読めない姿は、どうも今の政治に似ているように思います。そしてそれは、赤字垂れ流しの瀬戸内海の大橋が1本でいいところを3本も造ったことが想起されます。
1年前に、一番九州寄りの「しまなみ海道(愛媛県の今治から広島県の尾道までの橋)」をレンタカーで走ったことがあります。橋の巨大さ、立派さ、景観の美しさは抜群にすばらしかったが、大げさに表現するならば、橋を走るのはほとんど私一人だけというほどでした。
大和は世界戦史にその名を残す空前絶後の「無用の長物」であった、
とプログラムにありますが、巨額の赤字に悩み、財政再建に死に物狂いの現代日本にとって、瀬戸内海を跨ぐ3本の巨大橋は、まさに空前絶後の「無用の長物」といえるのではないでしょうか。

●と同時に、最後の海軍大臣米内光正提督が、「海軍の持ってゐた技術を日本の復興に役立てる道を講じろ」と言ってゐるが、これは「大和を造った技術」で、造船関係や光学関係、新興のソニーや本田技研を始め各企業各研究所の戦争生き残りが、言はれなくても実行に移し、未曾有の敗戦国にやがて未曾有の経済的繁栄をもたらすのだが・・・・・。
瀬戸内海に架かる巨大橋も、大和と同様、「無用の長物」的ですが、日本の土木技術や種々様々な分野の技術が凄い進歩を遂げることができたこととの不思議な類似性を感じます。

負けて目覚めることが最上の道だ。(白洲 磐大尉の言葉)これは非常に意味のある言葉だと思います。
私たちはよく成功体験を勉強します。あるいは成功体験の本を読みます。例えばビジネスの世界で、トップセールスマンの成功の秘訣本などです。
しかし、成功の秘訣というものが果たしてあるのでしょうか?もしあるのならば、成功者は限りなく増えてしまいます。この辺りは注意すべきです。成功というものは偶然が作用したり、また理屈を超える部分があったりするものです。
しかし、失敗こそ「学びの宝庫」です。最近、「失敗学」という本が出ましたが、失敗体験を大事にすることこそ成功の秘訣であると私は常々思っています。
私(藤森)の人生は、いわゆる失敗の連続で、成功体験がほとんどありませんでした。ですからどうすれば失敗できるかを私はよく知っています。ということはその反対をやれば成功の確率がグンと上がることになります。そして失敗しても失敗しても起ち上がって、また挑戦するクソ根性もとても大切です。

●第二次世界大戦で荒廃した日本が何故、凄い復興を成し遂げたか、また20年前に日本に競争で敗れたアメリカが、その後、何故、復興したか、そして長いデフレで沈みかけた日本が、今また、トヨタ自動車に代表されるように、何故、復興しつつあるのだろうか?
トヨタは戦後のある時期、金融機関から融資を受けられずに厳しい局面に立たされたことがありました。
ニッサンはわずか数年前、倒産しかねないほどの苦境に立たされ、今の世界最大の自動車会社・GMのような状況でした。松下電器も戦後、同様の時期がありました。
 負けて目覚めることが最上の道だ。
ということではないでしょうか。負けたとき、どれだけ謙虚かつ真剣に反省し、起ちあがるためのクソ根性を出せるかだと思います。しかし、私たちは成功体験にしがみつきたくなる傾向にあります。

例え話で述べますと、脳溢血を患った人が、健康なときに簡単に出来た強いイメージに影響されて、イライラして、現在の状態をなかなか受け入れ難いことや、老境に入って体力がかなり落ちてきているのに、若いものには負けられないとばかりに無理をして骨折やケガをするなどに似ているかもしれません。

私どもの次の次の戦争を知らぬ若い世代も、此の映画を見れば、死者の声の聞こえて来るのを感じるであらう。彼ら乗組員が身につけてゐた規律、勇気、礼儀正しさ、国家への忠誠心、正確明晰な言葉遣ひを自分たちも身につけたいと思ふであらう。
時代が違うのでストレートにこのようには言えないまでも、でも「規律・勇気・礼儀正しさ・正確明晰な言葉遣い」などは、もう少し参考にしたいものです。

<文責:藤森弘司>

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