2004年8月 第25回「今月の映画」

スチームボーイ

原案・脚本・監督:大友克洋   声:鈴木杏、小西真奈美、津嘉山正種、他


○(プログラムより)科学と発明が輝かしい未来を謳歌していた19世紀イギリスを舞台に繰り広げられる、驚異と興奮、懐かしさと感動に彩られた大冒険活劇、アニメーション。

○発明一家に生まれた少年レイが、祖父から送られてきた謎の金属ボール、スチームボールを手にしたことから始まる。冷酷な追跡者、高慢な美少女、そして科学を巡って対立する父と祖父。様々な人物が交錯する中、レイは次々と襲いかかる危機に果敢に立ち向かっていく。

○ビクトリアン・エイジ・・・19世紀中盤のイギリスは、世界経済の覇者として未曾有の繁栄を謳歌した時期であった。
イギリスはヨーロッパ大陸列強がフランス革命とそれに続くナポレオン戦争の傷痕に苦しむ間に、18世紀から続く産業革命を進展させ、工場の機械化と鉄道を中心とした輸送機関を整備し、急速に進む都市化と合わせて近代的工業国家へと変貌をとげていった。・・・その経済力は他国を圧倒し、世界の産業・金融の中心として、黄金時代を築きあげたのである。

○蒸気機関・・・産業革命を押し進めた要因の一つに蒸気機関の発明がある。早くも1650年頃、エドワード、サマセットは蒸気による揚水機を発明、・・・1769年にワットによって蒸気の圧力を利用する真の意味での蒸気機関が発明され、・・・19世紀の機械文明の発達の原動力となる。

○第1回「万国博」・・・1851年の5月から10月にかけて、ロンドンのハイド・パークの約3万坪の敷地に・・・約40カ国、17000人の出品者と全世界から六百数十万人にのぼる観客を集め、画期的な成功を収めた。

○ロンドン万博の成功を受けて、各国はこぞって万国博を開催するようになる。1853年にはニューヨーク博が開かれ、エレベーターの実演。55年にはパリ博が開かれ、ここではドイツのクルップ社が大型の鋼鉄砲を展示、89年のパリ博ではエッフェル塔が登場。
日本が万国博に初めて参加したのは1862年のロンドン博で、幕府の第1回遣欧使節が見学している。続く67年のパリ博では幕府と薩摩藩が展示出品。73年のウィーン博では幕府に代わった明治政府が参加している。

○18世紀後半に、ジェームス・ワットが機械的動力として蒸気機関を完成させ、これが瞬く間に多くの産業に広く利用され、産業革命が起こりました。
この頃から、次から次へと様々な発明が出現していったのです。
偉大な発明を支えてきた人々・・・エジソンやフォード、その他大勢の発明家たちは、専門の高等教育を受けた人たちではありませんでした。彼らはその知識と着想で自ら実験を繰り返し、失敗を重ねながら獲得していったのです。

○自らの興味に果敢に挑み、決してあきらめなかったパイオニアたちの持つエネルギーが、現代の私たちにも伝わってくるような気がします。
情報が溢れ、システム化された社会の中で、子供たちの夢はどんどん狭められつつあります。

●(私見)私(藤森)は小学校5年生のとき、先生から「宿題を忘れすぎる。親が注意するように」という手紙を、クラスの数人と共に渡された経験がありますが、今思うと、子供の頃、あまり勉強しなかったのが良かったと思っています。
家庭や学校の指導・教育は、平均的というか、考えない、創造しない、創意工夫しない、或いは「智恵」を封じ込める作業のように思えます。

●私は社会人になってから人一倍、奥深いものを求めてきました。しかし、自分が求めているものが何だかサッパリ分からないために、右往左往し、煩悶懊悩しながら、多くの体験を重ねてきました。
それが何となく手ごたえが出てきたのが40代で、長年求めていたものが何だったのか、自分とは何ぞやみたいなものが確かな形で得られ、自分の人生についてそれなりに自信が持てるようになったのは、50代になってからです。
自分の生き方に自信を持てるところまでたどり着いてみますと、失敗ばかりだったような私の人生体験のすべてが私を支えてくれていることに気がつき、とても不思議な気持ちでいっぱいです。

●カウンセリングの仕事というのは、あらゆる方々が対象です。生まれも育ちも年令も性別も、育児体験も、両親との関わりも、そして表面化された現象(症状)も種々様々です。例えば、いじめであり、非行であり、ウツ的であり、不登校であり、摂食障害であり、パニック症状であり、頭や体の節々の痛みであったり、対人恐怖症的であったり、人間関係であったり、アイデンティティーの問題であったり・・・・・。
だからこそ、自分自身が種々様々、豊富な体験(経済的、家族関係的、精神的、あるいは身体的病気など様々な困難な体験)をしているということは「必須」の条件です(交流分析の第一人者・杉田峰康先生は、あるセミナーで同様の主旨のことをおっしゃっていました)。
心理的なカウンセリングというものは、心理学などの学問が豊富なだけでは絶対にダメです。体験によって裏付けられた理論をしっかり持つことが重要です。何故なら、時々刻々変化する方々が対象だからです。

●そしてさらに、自分自身の人生の課題(交流分析の「脚本」)に取り組み、人間の心理の深層を体験的に十分に理解していることも「必須」の条件で、私はこれを心理カウンセラーの「二大必須条件」と考えています(これはカウンセラーの技量を問うているのではありません。カウンセラーとしての最低条件です)。
故池見酉次郎先生(日本の心身医学の創始者)は、かつて「精神分析の『防衛』も知らずに心理の相談を受けている」と批判していました。
以上の二つの条件をそれなりに満たしていないと、「過干渉」「共依存関係」のカウンセリングになってしまいます。
多くの方は(一般の方も専門家自身も)カウンセラーを、心理学の詳しい方だと思っているようですが、これは間違いです。
例えば「医者」がそうです。「医者」は「医学」を実際に活用できる専門家、つまり「患者」が訴える内容や「症状」を診察して治療する技術者、職人です。
これと同様、心理のカウンセラーは、クライエントの方から伺った内容や身体言語や言葉にならない言外の言(雰囲気や間)などを総合して対応する「技術者・職人」です。この辺りを誤解している人が多いのには驚きます。
<2004年5月第21回「自己成長と脳作業」、第22回「自己成長について」をご参照ください。>

●さて私は、両親が生きている間に、本当に親孝行ができなかったなと思います。自分自身の人生を模索することで精一杯だった私は、両親のことを思う余裕が今までありませんでした。
そういう反省をすると同時に、子供の人生は誰のためにあるのだろうかとも思います。50代になってやっと生きるのに自信が出てきた私の遅咲きの人生を振り返ると、私の両親はハラハラドキドキ、私のことが心配で心配で堪らなかったであろうと、亡き両親の切なさを感じます。
でも・・・子供はそれでいいのではないでしょうか?親を喜ばすための人生ではなく、自分の人生を模索する、あるいはより良くするためにあって良いのではないかと思います。

●よく勉強すると「知識」が増えると言いますがこれは本当でしょうか。「知識」とは、もともと仏教用語(智識)で、「智慧と見識」を意味します。
<岩波国語辞典(第五版)によりますと、知識とは「①ある事柄について、いろいろ知ること。仏教用語(智識)として②物事の正邪を判別する智慧と見識」とあります。>
(広辞苑では、「知識」の最後に「ものしり」とあります。上記の①と同様、これは単なる「情報」を沢山持っているという意味でしょう。)
<同国語辞典で「智慧」を調べますと「もと仏教で、惑いを去って菩提に至る力」とあります。また見識とは「物事について鋭い判断をもち、それに基づいて立てた、すぐれた考え・意見」とあります。>

●学校で勉強すると「智慧」と「見識」が増えるのではなく、ただ単に「情報」が増えるに過ぎません。
手に入れた「情報」をいかに活用できるようになるかが肝心ですが、私の見るところ、沢山勉強したり本を読んでいる多くの人が「情報」を活用しているようには見えません。むしろ「情報」集めに狂奔して、活用するということがほとんど疎かになっているように見受けられます。
「情報」が行動(体験)によって裏付けられたときに、化学変化するように「智恵」と「見識」に「化」するのではないでしょうか。

●「心理戦の勝者」(内藤誼人、伊東明著、講談社刊)の中の<情報戦を制する「知恵」>の中から、一部を拾い出してみますと、「そもそも、情報はいくらあっても単なる情報にすぎず、知恵ではない。情報を自分の歯でかみ砕き、飲み込んだものだけが、知恵なのである。」
「・・・ジョークを丸暗記して話して聞かせても他人を笑わせることはできないだろう。自分自身の経験や性格に基づかない発言が上滑りになるのと同じ原理によって、そうなるのである。」
「朝礼でいくら立派なことをいってみても、自分がそれを実行していなければ聞いている人間は、聞き流すだけである。」
「・・・専門家の意見をそのまま実行しようとするから、失敗する。・・・自分の頭で情報を処理していないから、そうなるのだ。」
「ペンシルバニア大学の社会学者エイコフは、情報収集について、『状況を的確にとらえていない者は、なんでもかんでも集めたがる』と語っている。繰り返すが、事実をいくら集めてもダメなのだ。それを知恵にするには、各人の努力が絶対に必要なのである。」

●将棋の天才、升田名人はかつて、将棋のプロになるならば、学校教育は出来るだけ早く止めて将棋の道に入ってほしい、できるならば小学校終了後、それができなければ中学校を卒業したらすぐに・・・・と話していました。

●読売新聞2004年1月27日、「ハイテク立国の針路」の中で、吉野浩行・ホンダ相談役は「大学へ入るころには個性はつぶされ、創造性をはぎ取られている感じがする」と指摘。
堀場雅夫・堀場製作所会長は「大学は、腐ったような材料でうまい料理を作れと言われているようなもの。材料の悪さを根本的に直さないとどうしようもない」と強調。

●読売エコノミックニューズ(数年前の新聞ですが、日付は不明です)「異見卓見」で轉法輪奏・大阪商船三井船舶会長(当時)は、「あるコンサルタントからお聞きした話を無断転載させていただく。その人の中学在学のご子息が自分で発意してアメリカに渡り、向こうの学校に入られた。最初、英語の習得から始めたが、三ヶ月で三枚の論文を書き上げるまでになったことに驚かれ、その教育方法をきいてみたら、英語の誤りを全然正さない、文法などお構いなしにただ思考をどんどん発展させることを教え続ける教育の結果とわかった由である。
さらに、ご子息は神経が太く、日本語で言うズボラの典型と親が自認していたが、その子へのアメリカ人教師の評価は『この子は何でもマジメに完全を期してやりすぎる。これでは疲れるばかりでなく大きな物事が見えなくなる』と言われた由。
とすれば、偏差値記憶教育の外に出ることを許されずに育った一般の日本の学生はどういうことになるのか?今までのモノ造りに有用だった教育と二十一世紀型産業に必要な教育の違いがこれほど鮮明に描かれた話もないと思う」と述べていらっしゃいます。

<文責:藤森弘司>

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