04年3月 第20回「今月の映画」

アイ・ラヴ・ピース
監督:大沢豊   主演:忍足亜希子   アフィファ   林泰文


 

○(プログラムより)花岡いづみは島根県大田市大森にある中沢ブレイスで義肢装具士をめざして働いている。
同僚の久保が大学の先輩、日田の誘いでNGOの一員として、子どもたちの救援にアフガニスタンへ行くという。
イスラムの国では女性の義足作りには女性が必要だといづみの参加を社長の中沢に頼む。○いづみはまだ一人前とは言えなかったが、社長の中沢は彼女の存在を高く評価していた。
いづみなら日本語の通じない外国でも大丈夫、と皆の心配をよそにアフガニスタンに二人を送り出した。○はじめて訪れるカブールの街。
戦争の傷跡も生々しく美しい街並みが破壊され廃墟となっていた。
行き交う人々の中に手足を失くした痛々しい姿が目に付く。○NGOの診療所で忙しい毎日を過ごしていたいづみはある日、地雷で片足を失った少女パリザット(12)に出会う。
いづみは「大森の地で、杖なしで歩ける義足をつくってあげたい」という思いを残しながら、島根に戻ることになる。

○突然大森にパリザットがいた!日田がNGO活動の資金集めのために連れ帰ったのだ。
懸命に義足を作るいづみと歩行訓練に耐えるパリザットの毎日が始まった。
挫折しそうないづみとパリザットを見守り励まし続ける仲間たち。
一日も早くパリザットが歩けるように・・・そしてアフガニスタンに平和の緑が甦ることを信じて・・・

●(私見)いづみが作った義足がパリザットにしっくり来ない。また、パリザットは長年、片足歩行で苦労してきたので、義足の側の足に体重をかけることに戸惑っている。
そのため杖に頼りながらの歩行訓練を続ける。

●いづみは必死になって、杖をはずし、本格的な歩行訓練をするよう、パリザットに訴える。
しかしパリザットは杖に頼り続ける。時に、いづみは暴力的に杖を奪うが、転んだパリザットは、かえって依怙地に
なって杖にすがり続ける。

●このいづみは「ろう者(耳の聞こえない人)」で、自分自身も困難な中、義肢装具士を目指している。そういう体験
があるからであろう、出ない声で必死になって「自分の足(義足)」で歩くことを訴える。
アフガニスタンに帰るその日、パリザットは皆の前で、杖を捨てて歩き始める!

●私(藤森)が今回、この映画を取り上げたのはこの場面のためです。
片足を失ったという、肉体的なことなので誰にも分かりやすいことですが、実は、私たちは「心理的」にこれをやっているんです。
これを心理学では「車椅子」に喩えています。「車椅子」に乗って、押してもらえば、こんなに楽なことはありません。
そうすると、多くの人は、いつまでも車椅子に乗っていて、車椅子から降りようとはしません。
物理的・肉体的なことであれば誰でも目に見えますが、心理的な面は見えないので、対応が難しくなります。

●心理的な面では、本人が「難しい・困難である・できない」と言えば、それを否定し、できることを証明することがとても難しいものです。
また本人も見えないことですし、体験したことがないことですから、心理的な「車椅子」から降りること、降ろされることに、当然、猛烈に抵抗してきます。

●そのためには、指導する側が、その状況をしっかり見極める「技量」が必要になることと、嫌われても、しっかり相手の方に訴える勇気や体力などが必要になります。
私の体験では、ほとんど全ての場合に、この猛烈な抵抗に遭います。その都度、思うことですが、カウンセリングの初期の段階は、ほとんど体力勝負みたいだということです。
クライエントの方が、自分が今いるところにしがみつきたいために、こちらの側を猛烈に揺さぶるといいましょうか、動かして、自分の正当性を守ろうとします。
自分の位置を死守することは、今までどおりの人生ということになります。その人生に行き詰ったからこそ専門家を頼ってきたわけですが、今のままの自分を必死で守ろうとします。

●私も、その昔、自己成長に取り組み始めたころは、同様の体験をしました。自分を変えるということは、ある意味で一種の「死」を意味するような感覚がありました。今まで、良くも悪くも、自分自身を支えてきた「自分という存在」を否定するわけですから、おぼれている人が、救援に来た人に死に物狂いで「しがみつく」ように、従来の自分にしがみつくのは仕方のないことですが、その抵抗の強さは相当のものがあります。
こういうとき、学問だけやってきた専門家には耐え切れないほどの「体力」「気力」が要求されます。ぶつかってきても、蹴っ飛ばされてもびくともしない大木のよう・・・・・には、なかなかいきませんが、でも理想的には大木になることです。

●当然に、クライエントの方には、やさしく対応しますが、しかし長期にわたって抵抗する場合、最後は腕力勝負をせざるを得なくなります。
身体的な障害がテーマですが、まさにこの映画でここのところを見せてくれます。主人公のいづみはろう者で、自分自身が困難な人生を生きてきて、強さ・たくましさを身につけてきたし、その経験から、自分の主張が絶対正しいという強い信念を持っていたからこその対応であろうと思います。
人はこの抵抗線を突破すると、堤防が決壊したように、自己成長の道をたくましく進み始めます。心理的にも、身体的にも、自分の二本足で逞しく立ち上がろうとし始めます。

●人生とは、良くも悪くも、自分の二本足で立ち上がり、たとえ不便な二本足であろうとも、その二本足で歩む以外に方法がありません。辛くても・苦しくても、その訓練・練習をしていくことが、大人になっていくということではないでしょうか。

 


解 夏(げげ)
原作:さだまさし   監督:磯村一路   主演:大沢たかお   石田ゆり


 

○(プログラムより)「解夏」について。
古来、禅宗の修行僧は、座禅はもとより、師を求めて各寺院を行脚し、托鉢し、修行を積んでいました。しかし、夏の90日間は、「庵」に集まり、共同生活をしながら座禅をする『雨安居(うあんご)』と呼ばれる修行をしました。
もともとインドの陰暦4月から7月は雨季であり、外出するのに非常に不便であったと同時に、虫の卵や草の芽が生じる生命誕生の季節であり、歩くことによって殺生してしまうことを避けるための習慣でした。
そのうち、この「庵」に食料などがまとめて寄進されるようになり、寺院の始まりとなったといわれています。
この雨安居の修行を終えた僧たちは、この間に話し合った互いの「行」に対する捉え方、考え方、接し方の誤りを懺悔しあい再び行脚へ旅立って行きました。
この修行の入り(始まり)の日を「結夏」(けつげ・陰暦4月16日、本作品では太陽暦5月27日)、終わる日を「解夏」(陰暦7月15日、本作品では太陽暦の8月23日)と言います。
劇中ではこの「解夏」を、闇の中をさまよう苦しみから解き放たれ、ようやく探り当てた一筋の光を胸に自己を再生し、新しく出発する日と考え、物語全体のテーマとして捉えています。○「ベーチェット病」について。
ベーチェット病は、いまだに原因不明の難病です。トルコのイスタンブール大学皮膚科学ハルーシ・ベーチェット教授が1937年にはじめて報告をしたことにちなんで名づけられました。
病気の特徴として、全身のさまざまな臓器や組織に炎症を繰り返します。この病気はいわゆるシルクロード沿いの国々に多くみられ、日本では約20,000人の患者がいるとされています。
また、発病年齢はいわゆる青壮年代に多く、性別による差は明らかではありません。ベーチェット病には、眼症状(目に炎症がおこり最悪の場合失明する。)、口腔粘膜のアフタ性潰瘍(いわゆる口内炎)、皮膚症状(にきびに似た発疹など)、外陰部潰瘍(皮膚や粘膜に有痛性の潰瘍)の4つの主症状があります。
上記の主症状以外にもいろいろな全身症状がみられ、症状の出方には大きく個人差があります。たとえば、眼症状がまったくなく、皮膚、神経、腸管、血管など他の症状を主に繰り返すようなケースもあります。
眼症状のある場合、眼症状発現後2年で視力0.1以下になる確率は約40%といわれています。病因も病態も不明な点の多いこの病気の治療法は、現在のところ対症療法を中心としており、1日も早い原因の究明が期待されています。●(私見)小学校の先生をしていた主人公の隆之がベーチェット病にかかり、故郷の長崎に帰り、母親と生活を始め、そこに許婚の陽子が、彼の目になりたいと同居生活を始めます。●この映画は、ベーチェット病に罹り、失明していく主人公の苦悩が中心です。
上記の「アイ・ラヴ・ピース」は、地雷で片足を失くした少女の苦悩が中心です。
同時期に観た映画ですが、偶然にも失われた機能にどう取り組むか・・・つまりテーマは「受容」であると言うのが、私の考えです。
実は、様々のものを失いながら生きていくのが、私たちの人生です。それをどう受け入れていくかは、自己成長にとってとても重要なことです。

●この「受容」については、第19回「今月の言葉」(3月)で詳しく述べます。

 

(文責:藤森弘司)

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