2004年1月 第18回「今月の映画」

ラストサムライ

THE LAST SAMURAI
娯楽作品と思いましたが、とてもいい映画でした。
監督:エドワード・ズウィック  主演:トム・クルーズ  渡辺謙  真田広之  小雪


 

●(プログラムより)武士道 ~武士の流儀~
BUSHIDO ~The Way of the Warrior~
義・・・・・
サムライたる者、他に対し誠実であるべし。

また他から惑わされることなく、己の正義を貫くべし。
真のサムライは誠実さと正義に対し、微塵の迷いもない。
そこにはただ「真実」と「偽り」があるのみだ。
礼・・・・・サムライたる者、非道な行いを禁ず。
そのような強さを誇示する必要がないのがサムライなり。
またサムライたる者、敵に対する敬意なくしては、人間も動物と同類。
サムライは、闘いにおいて己の強さだけでなく、他に対する行いによっても敬意を払われるべし。
窮地にこそ、真のサムライの内なる強さが見える。
勇・・・・・サムライたる者、行動を起こすことを恐れる人々の中から先陣を切って決起すべし。
甲羅に閉じこもった亀のようになっては、死んだも同然。
サムライは、英雄的勇気を持たねばならない。
危険に満ちたものであるが、その勇気を持って生きることが人生を完全で美しいものにする。
英雄的勇気とは向こう見ずに非ず。それは知的で強靭な心。
恐怖を尊敬の念と戒めへと変えることである。
名誉・・・サムライたる者、名誉に重きを置き、それをもって己の価値とすべし。
自らが下した決断と、それらがいかに成し遂げられたかが、己の真の姿を映す。
己自身から決して逃げ隠れすることはできない。
仁・・・・・サムライたる者、慈愛の精神を重んじ、あらゆる局面において、同胞を助けるべし。
サムライは、日々の鍛錬を通じ、他の何人とも違う敏捷で強靭な存在となる。
その力は他者のために注がれ、
そのような局面に出くわさずとも、自らの方法でそれを見つけ出す。
誠・・・・・サムライたる者、事を実行すると言った際、それはすでに行われたも同然を意味する。
いかなるものもその言動を止めることはできない。
サムライに「約束」という概念はなく、また「約束」を取り決める必要がない。
なぜならサムライにとって一度口にしたことは、必ず守られるもの。
言葉で表明することと実行することは同じことを意味する。
忠・・・・・サムライたる者、己の言動すべてに義務を覚え、
その言動が導く結果すべてに対し責務を負うべし。
またサムライたる者、己の主君、信ずる者に対し限りない忠義を尽くすべし。
花は散るために咲くのではない。
己の天命を知り、そのかけがえのない命を、一分の迷いもなくまっとうするからこそ、美しい。

●静謐さのなかに熱き誇りを湛えた愚直なまでの一途さ。寡黙にして、二言を持たず、命懸けの信念をもって誇り高く生きた男たちのほんものの美学・・・・・そんな日本の「サムライ・スピリット」が、ついにハリウッドを動かした!
●明治天皇が即位し、近代日本が誕生した1870年代。政府軍に西洋式の戦術を教えるために、南北戦争の英雄ネイサン・オールグレン大尉が来日する。
かつては名誉と国のために命を懸けた男。しかし、南北戦争以降の数年間で、彼と彼を取り巻く世界は一変していた。「実用主義」が「勇気」に、「利己主義」が「犠牲」に取って代わり、名誉などどこにも見当たらない。とりわけインディアン討伐戦で果たした彼の役割が、失望と悔いとに終わった西部には・・・。祖国アメリカでのオールグレン大尉は、魂を失ったさまよえる男であった。
●日本の地でもひとり、自分の生き方「武士道」が崩壊しかけていると感じていた戦士がいた。名は勝元盛次。サムライの最後の長として崇拝されている。
アメリカ先住民を追い詰め追いやり、もたらした電線と鉄道は、今やサムライが何世紀にもわたって生き死にの拠り所としてきた価値観や規範を脅かすようになった。しかし、勝元は、戦わずして去るつもりなどなかった。
●日本の若き天皇が、発展する日本市場が欲しくてたまらないアメリカ実業界の面々の懇願に応えてオールグレンを雇ったときに、ふたりの戦士の行く手がひとつに重なる。
より西洋化され交易に都合の良い政府を作ろうと、天皇の御意見番たちがサムライの根絶を企てる中、対立する立場の二者は運命の出会いを果たすのだ。死をも超えるゆるぎない「武士道」精神に感銘を受けるオールグレン、やがて固い絆で結ばれてゆく西洋と東洋のサムライ。しかし二人の友情もつかの間、「サムライ魂」を貫くために滅んでゆく運命を選ぶしかないサムライたちの、最後の戦いが始まった。
異国の地で自分と同じ魂を見い出したオールグレンは、信念にあえて殉じようとする彼らと、共に命を懸けて戦うことを決意する・・・・。■(私見)新渡戸稲造先生が、ベルギーの法学大家ド・ラブレー氏の歓待を受け、その許で数日を過ごしたが、ある日の散歩の際、話題が宗教の問題に向いた。「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と新渡戸先生が応えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め、「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を、私は容易に忘れえない。当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。
私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹き込んだものは武士道であることをようやく見い出したのである(李登輝著『「武士道」解題 ノーブレス・オブリージュとは』小学館、1、700円)。■私(藤森弘司)は、この本(李登輝著『「武士道」解題 ノーブレス・オブリージュとは』)を読むまで、恥ずかしながら「武士道」を誤解していました。以下、李登輝氏の「武士道」からの抜粋です。
李登輝氏は、日本統治下の台湾・台北に生まれ、その後、京都帝国大学に進学、1944年に陸軍に志願入隊し、二等兵から少尉に昇級、終戦を迎える。68年、アメリカ、コーネル大学院博士課程終了。78~81年台北市長。88~00年総統。李登輝氏は、鈴木大拙、西田幾多郎を始め、日本および西洋の哲学や禅などに精通し、かつ実践・精進されたすばらしい方です。この本を拝見しながら私の無学に恥じ入りました。李登輝氏について詳しくは本書をお読みください。以下、<李登輝著『「武士道」解題 ノーブレス・オブリージュとは』>より抜粋
■・・・・・この小著(新渡戸先生の「武士道」)の直接の端緒は、私の妻(アメリカ人のメリー夫人)が、かくかくの思想もしくは風習が日本にあまねく行われているのはいかなる理由であるかと、しばしば質問したことによるのである。
私は、ド・ラブレー氏ならびに私の妻に満足なる答えを与えようと試みた。しかして、封建制度および武士道を解することなくんば、現代日本の道徳観念は結局封印せられし巻物であることを知った。
長病いのため止むをえず無為の日を送っているを幸い、家庭の談話で私の妻に与えた答えを整理して、いま公衆に提供する。その内容は主として、私が少年時代、封建制度のなお盛んであった時に教えられ語られたことである。■・・・・・とにかく、日本の旧制中学や旧制高校の学生たちは、徹底的に本を読みフィロゾフィーレン(哲学する)していました。しかも、単なる「ブッキッシュ・ラーニング」(本を通しての頭だけの理解)に終わらせず、常にその成果を実人生に反映させながら実践し、苦悩し、呻吟していた。
それなのに、このような素晴らしく思索的で哲学的な雰囲気が、戦後の日本教育の中でほとんどすべて否定されるようになったのは、かえすがえすも残念でなりません。新渡戸稲造先生がこころから憂慮していた「武士道の衰退」がいよいよ現実となってきたのも、そのような「教養教育」の軽視姿勢と決して無縁ではない、と思うのです。

■・・・・・そう言えば、当時の中学生や高校生の必読書の一つに倉田百三の「出家とその弟子」という本も入っていました。親鸞の子である善鸞(ぜんらん)の苦悩を通して、日本の中学生や高校生のほとんどが、実に真剣に「人生とは何か」とか「人間いかに生きるべきか」などといった大命題に真っ向から向き合っていた。そして、それが日本という国の本当の「強さ」につながっていったのだと思うのです。

■・・・・・これは、カントの「純粋理性批判」などとも密接に関連しているわけですが、私も最近の日本や台湾の学生や知識人と言われる人々が、理屈ばかりこねて一向に具体的な行動を起こそうとしない姿を見て、事あるごとに「理性」も結構だが「実践」のほうはどうなっているのだ、と言いたくなることが多いのですが、このような思いは新渡戸稲造先生も同じだったと見えて、後述しますが、「武士道」の中で「実践すること」の大切さを述べているのです。
旧制高校の学生の間では、鈴木大拙や西田幾多郎を熟読したあと、いよいよカントやヘーゲル、ニーチェ、ドストエフスキー、ゲーテといった西洋の先哲を原書で読みこなそうという傾向が強かったのですが、以上のような「実践躬行(きゅうこう)」を旨とする「武士道」的な伝統や理想については、まずカントの「批判哲学」から入る者が多かったようです。

■・・・・・そして、このカントの思想は、言わず語らずのうちに、新渡戸稲造先生の「武士道」の中にも明確に反映されていたのです。

《孔孟の書は青少年の主要なる教科書であり、また大人の間における議論の最高権威であった。しかしながら、これらの聖賢の古書を知っているだけでは、高き尊敬を払われなかった。孔子を知的に知っているに過ぎざる者をば、「論語読みの論語しらず」と嘲(あざけ)る俚諺(りげん)がある。
典型的なる一人の武士(西郷隆盛)は、文学の物識(ものしり)をば書物の虫と呼んだ。また或る人(三浦梅園)は、学問を臭き菜に喩(たと)え、「学問は臭き菜のようなものなり、よくよく臭みを去らざれば用いがたし。少し書を読めば少し学者臭し、余計書を読めば余計学者臭し、こまりものなり」と言った。
その意味するところは、知識はこれを学ぶ者の心に同化せられ、その品性に現われる時においてのみ、真に知識となる、と言うにある。知的専門家は機械であると考えられた。知識そのものは道徳的感情に従属するものと考えられた。
人間ならびに宇宙は等しく霊的かつ道徳的であると思惟(しい)せられた。宇宙の進行は道徳性を有せずとなすハックスレーの断定を、武士道は容認するを得なかったのである。
武士道はかかる種類の知識を軽んじ、知識はそれ自体を目的として求むべきではなく、叡智(えいち)獲得の手段として求むべきであるとなした。それ故に、この目的にまで到達せざる者は、注文に応じて詩歌名句を吐き出す便利な機械に過ぎざるものとみなされた。
かくして知識は人生における実践躬行と同一視せられ、しかしてこのソクラテス的教義は中国の哲学者・王陽明において最大の説明者を見いだした。彼は、知行合一(ちこうごういつ)を繰り返して倦むところを知らなかったのである》(新渡戸稲造「武士道」第二章「武士道の淵源」)

■宗教も思想も武士道も、理解の仕方、活用の仕方でどのようにでもなる怖さがあることを、改めて感じました。


 

(文責:藤森弘司)

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