2003年6月 第11回 「今月の映画」

(はだしの1500マイル)

監督:フィリップ・ノイズ   主演:エヴァーリン・サンピ(モリーの役)


●(プログラムより)「収容所のほかの子供たちは、母親のことを忘れてしまうほど幼かった。でも、私はそのとき14歳で母をよく覚えていた。家へ、母のところへ帰りたかった。」

●物語の背景となるのは1931年のオーストラリア。当時、先住民アボリジニの混血児を家族から隔離し、白人社会に適応させようとする隔離・同化政策がとられていた。
政策の対象となり、強制的に寄宿舎に収容されたアボリジニの少女3人は、母の待つ故郷に帰るため、オーストラリアを縦断するフェンスをたよりに、2400キロもの距離を逃走する・・・。少女たちの一人であったモリーの娘、ドリス・ピルキングトンが綴った真実の物語。

●フェンスとは、本作の原題でもある「ラビット・プルーフ・フェンス」・・・ウサギよけフェンスのこと。
食用及びハンティング用として輸入された野ウサギが19世紀後半に大量に繁殖し、牧畜業に被害をもたらしたため、政府が設置したフェンス。オーストラリアの西部を縦断する、全長5、000マイルにも渡るフェンス。

●白人に同化させる政策によって無理やり車に押し込められたモリーら3人は、ムーアリバー先住民居留地に収容される。ここの寄宿舎で寝起きするアボリジニの少女たちには粗末なベッドと貧しい食事をあてがわれ、白人文化に溶け込むための厳しいしつけが行なわれていた。

●この居留地には脱走者を連れ戻すために、ムードゥという名の凄腕のアボリジニの追跡人がおり、絶えず子供たちを監視していた。

●(私見)右も左もわからない3人の少女(14歳、10歳、8歳)が、狩猟能力に長けた凄腕のムードゥに追われながら逃げる過程は、はらはらドキドキ。昔、「ブッシュマン」という映画で、原住民の狩猟能力、運動能力、超能力的直感力に驚きましたが、まさに、その卓越した能力を有している「追跡人」に追われながら必死で逃げる少女たち。

●少女たちが白人に無理やり連れて行かれるとき、そのショックで、祖母はコブシ大の石で自分の頭をゴツンゴツンと叩く場面はショックです。悩み苦しんだ時のアボリジニの習慣的行為で、悲しみや絶望を表す自然な表現だそうですが、わが身に置き換えても、その衝撃ははかり知れません。

●仏教では、煩悩の根源を三毒・・・「貧・瞋・痴」(とん・じん・ち)といいます。詳しくは後日としまして、このうちの「痴(ち)」・・・・人間の理性が病気になって、理非の見分けのつかない心・・・・が大問題です。
白人の彼ら・・・・アボリジニの人々ではないオーストラリア人・・・・は、自分たちの方が立派で、先進的だ、優秀民族だとの思い込みがありますが、これは「痴(無知)」からきます。
この無知が、母と娘たちを切り裂くという残酷なことを平気でやらせてしまいます。いわゆる科学文明的な進歩が、人間的・人格的な優秀さとイコールであると誤認する無知には恐ろしいものがあります。

●私たちの日常を見ましても、このような「痴(無知)」からくる恐ろしいことが沢山あります。
仏教がいうところの「痴」は、高校とか大学とかの、いわゆる高等教育とは一切関係ありません。
むしろ日本の学校教育は、仏教でいう「痴」を助長している・・・・人間の理性を病気にさせているようにさえ思えます。
もし高等教育が人間性を高めているのならば、戦前の日本より、今の日本の方が遥かに人格的に優れているということになりますが、恐らくそのように思う方はいないでしょう。むしろ高等教育化に反比例して、人格的には低下しているといえるのではないでしょうか

●また、私の専門分野の例を述べますと、親が、子供のためにと思って一生懸命やることが、子供は迷惑で苦しんでいるということが沢山あります。親が子供のために自己犠牲的にやればやるほど、子供のほうは反比例して苦しんでいるということは日常茶飯事です。

●私たちは、自分の中にもこのような「痴」がありはしないだろうかと疑ってみるだけの「理性」を育てたいものです。そうすれば他人を責める前に、「自己反省」することの多さに気がつくかもしれません。そしてこの「自己反省」こそが「自己成長」です。
私達は、立派な人間になることが「自己成長」であると思いがちですが、自分の中にある「痴」に気づくことこそが「自己成長」です。

●ですから「自己成長」を目指すということは、「自己の内部」に目を向け、自己の内部に潜む「痴」と取り組むことを意味します。
このことは意外に理解されておらず、「自己成長」を目指しながら、自己の外部に目を向ける人たちが多いのには驚きます。


 (文責:藤森弘司)

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