2003年11月 第16回「今月の映画」

サハラに舞う羽

監督:シェカール・カプール   主演:ヒース・レジャー   ケイト・ハドソン


 

●(プログラムより)英国が世界の1/4に覇権の手を広げていたヴィクトリア朝時代。自らの生き方に疑問を抱いたひとりの若者がいた。彼の名は、ハリー・フェバーシャム
高名な将軍を父に持つ彼は、周囲に期待されるとおり軍人となり、着々とエリート士官への道のりを歩んでいた。しかし、所属の連隊が北アフリカ(スーダン)の戦場へ派遣されることになったとき、ハリーは自分が戦争の意味を見失っていることに気づく。●不毛の砂漠を征服することが、本当に祖国に尽くすことなのか?激しい葛藤の末、除隊の道を選ぶハリー。そんな彼に、3人の仲間が贈ったのは、臆病者を意味する白い羽。そして、永遠の愛を誓い合った婚約者のエスネまでもが、4本目の羽を残して彼の元を去っていく。●何もかも失ったハリーを取り巻く苦悩と絶望。その泥沼の果てに、彼が見出した一筋の道。それは、異国で苦戦する親友ジャックのために、命を賭けて戦う道だった・・・・・。●英国文学の古典的な名作といわれるA.E..W.メイスンの原作を、斬新な視点で映画化したスペクタクル・ロマン。国家や家名という大義のためでなく、友を救うことに自らの戦いの意義を見出したひとりの青年が、アフリカの戦地をたくましく生きながら、真実の愛と友情を見出していく姿を、圧倒的な砂漠の映像美のなかに描きあげた感動巨編。

●(私見)この映画から私は2つのことを感じました。
一つは、「大義」についてです。主人公は戦場の恐怖を感じて、所有するすべてのものを失っても、除隊の道を選びました。その主人公が、戦場で戦う友人を救うという「大義」を発見したとき、戦場で戦うことよりも遥かに困難な道を選択し、行動して、戦場の友人たちを救い出します。

その強靭な精神力・行動力にはもの凄いものがあります。

●「大義」あるいは「目的意識」、または「モチベーション」とでもいいましょうか。私たちが何か「行動」を起こすとき、明確な「目的意識」を持つと、より大きなパワーを発揮することができます。
明確な「目的意識」を持つこと、あるいは「モチベーション」や「大義」を持つことがいかに重要か、それをこの「映画」は教えてくれます。
(「モチベーション」とは、「動機づけ」と訳され、意欲とか動機とかいわれるもの。企業では働く意欲ないし働くための動機づけという意味になる。上役としてこのモチベーションに働きかけ高めることができれば、この上役はリーダーシップを発揮したことになる。リーダーシップとモチベーションは表裏の関係にある・・・朝日現代用語・知恵蔵、1990版より)

●人の上に立つ人は、この「モチベーション」をいかに高めるか、いかに持続させるかが、成果や業績に大きな影響があることを「認識」すべきです。しかし悲しいことに、人の上に立つ多くの人たちは、部下の「モチベーション」や「テンション」を低下させる言動を取りながら、成果を上げようと「叱咤激励」していることです。

●私が感じたもう一つのことは、「華厳経(けごんぎょう)」の中の次の一節です。
「自業(じごう)に住する念仏門、衆生(しゅじょう)の積重(しゃくじゅう)するところの業に随(したが)いて、一切の諸仏はその影像(ようぞう)を現じて、覚悟せしむることを知るが故に」・・・・・・五十三人の先生方(これは「東海道五十三次」の原型)に会う「善財童子(ぜんざいどうじ)」という道を求める若者が、最初に出会う先生が「悟りを啓いた境地」の中の一つがこの一節です。

●この意味は、「わがいのちの独自なはたらきを、それを自業として引き受けて生きるとき、あえていえば『自業を自得していく』といいますか、そのときには仏さまが直接の姿ではなく、いわば化身して、私たちには見えない影の姿として寄り添ってくれていて、そして私たちを悟りの世界に導いてくれるからだと記されているのです。端的にいいますと、自分の業を引き受けて、つまり自業を自得していくときに、深い宗教的境地が開けてくる(第15回「今月の言葉」ご参照)のだということをいっているのだと思います」(大須賀発蔵著、「心の架け橋」<カウンセリングと東洋の智恵をつなぐ>柏樹社刊)

●この映画で「華厳経」のこの一節を取り上げたのは、この映画の主人公が凄まじい状況の中で、戦友たちを救うためにアラブ人に身をやつして行動するのですが、困難を極め、何度も死の危険に遭います。
しかしそのたびに、親しくなった奴隷階級出身の傭兵、アブー・ファトマに助けられます。アブーは、厳しい試練を何度も何度も乗り越えようとするハリーを神がつかわした男だと信じる。映画評論家の大場正明氏は、プログラムの中で、「東洋と西洋の間を往復するような生活を送るカプール監督がこの映画のなかで最も力を込めて描いているのは、西洋と東洋という境界を越えたこのハリーとアブーの友情であるように思えてならない」と最後に述べています。

●しかし私はこの映画を観ながら、全く反対の角度から「華厳教」のこの一節が浮かんできました。自分が信じた大義という名の過酷・困難な道、いのちを捨ててひたすら戦友を救う道を進む(自業に住する)主人公・ハリーに、影になり日向になりながら寄り添い、守っているのが奴隷階級出身のアブー(諸仏はその影像を現じて)だと感じました。

 


(文責:藤森弘司)

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