2002年9月第2回
この映画の主人公は,ジョージ・モンロー42歳、建築デザイナー。妻と16歳になる反抗期で野蛮な息子は、10年前に彼の元を去っていた。彼の同僚は、ジョージが最近痩せてきて髭も剃らず,尻を引き摺る感じで歩くのを見て、具合悪そうなのを心配している。 ある日、ジョージは20年間勤めてきた建築事務所をいきなり解雇される。会社のビルを出た直後、彼は突然倒れ、病院のベッドで目覚める。末期癌で残り3ヶ月の命。 「3ヶ月の命と言われたら、何をする?」数日後、ジョージを心配した元の妻ロビンが見舞いにくる。ジョージは反抗期で野蛮な息子サムと一緒に、海辺にある今の家を建て直すことを宣言する。 夏休みに友人の別荘に遊びに行く予定の息子サムは、激しく抵抗する。ジョージは残り少ない時間で、サムとの間に失った親子の絆を取り戻そうと必死だった。「お前がどう思おうと、この夏休みは俺と過ごすんだ。ドラッグ、マリファナ,それからアゴにつけたピアスも外すんだ。化粧もな。憎むなら、憎んでくれ、我が家の伝統だ・・・・・」 反抗期の息子サムとの壮絶な争い。やがて親子の愛情、元の妻との愛の復活などでボロ家を取り壊して、新しい家が完成しつつある中、ジョージは亡くなる。さて、私がこの映画を取り上げたのは、まず反抗期で猛烈に荒れているサムに注目したからです。私たちはうっかりすると、今現在の状況だけを根拠に、猛烈に荒れているサムという一人の人間を批判したくなりがちです。しかし、本当はそんなに単純な問題ではありません。そのあたりの深いテーマを、この映画は教えてくれています。 もしかしたら監督のアーウィン・ウインクラーは、深層心理に造詣が深いのかも・・・・・・などと思ってみたりしました。さて、サムに注目した理由は、上述したようなすさまじい反抗心や非行の由来に興味を持ったからです。映画の中で、それは語られているだろうか? サムの父親であるジョージは、「職人的な」建築デザイナーです。建築事務所を解雇されるが、本質的には、デザイナーとしての力量はあると私は推測します。 これは往々にして、頑固な人間,職人的な人間に有り勝ちなタイプです。そしてまた彼の人間性に疑問を持つ重要な出来事として、若いころに起こした、重大な交通事故があります。そういう父親であり、また、離婚家庭に育った子供は、どんなに深い心理的な傷を負うかという典型例です。 では何故ジョージは、そのような頑固で、妻や子供が耐えられないような性格傾向であるのでしょうか。重大な事故を起こしているし、長年勤務した建築事務所を解雇されるし、離婚されるし、近隣の住民からはヒンシュクを買うような生活態度でもあるし、突然倒れて、末期癌に侵されて病院のベッドで目覚めるような・・・・・・・まるで不幸の塊です。 それが次のテーマです。 まさに、父親のジョージの心の奥底に、息子サムに通じる「荒んだ心」があったのです。社会的に何とか対応していたからこそ、一般の社会人と見られていましたが、内面の心理状態は「息子のサム」そのものだったのです。 つまり、息子のサムにとって恨み骨髄の父親そのものが、サムと同様に傷ついていたのです。 結論・・・・・①猛烈な反抗期の息子サムには、このような荒んだ心を持つ父親が存在し、また、両親の多分激しい諍いの中で育ち、さらに両親の「離婚」という体験を経ていること。 ②サムの父親もまた同質の家庭で育っていること。伝統的にそういう家庭のわけで、その一つの結論として表出された答えが、息子のサムです。誰かが悪いと言えることではありません。 悪いと言えば関係者は皆、悪い。悪くないと言えば、誰も悪くない。でもこういう事態であり、荒れているサムがいるという状況をどうしたら良いのか。 ③父親が末期がんの故ではあるが、こういう事態には父親が本気になることが、解決に真に必要なことであると、改めて思う。例えば、「いじめ」や「不登校」などの問題も、父親が登場すると、それだけでかなり事態が改善されるものです。ましてや「命がけの本気」であれば、なおさらです。 監督がそこまでの考えがあって製作したとしたら、恐るべき監督です。 |
文責:藤森弘司
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