2002年12月第5回「今月の映画」
主演:真田広之・宮沢りえ 監督:山田洋次 原作:藤沢周平
●(プログラムより)幕末の1865年冬。現在の山形県鶴岡市を治める海坂藩の下級武士が主人公。 無精ひげを生やし、着物は継ぎはぎだらけと、藩に仕える侍とは思えぬほど、その姿はみすぼらしい。 その清兵衛がたそがれ時に、下城の太鼓が鳴り響くや否や、家路につくことから、口さがない同僚たちは彼のことを「たそがれ清兵衛」と呼んでいた。 だが、上役や同僚の酒の誘いなどに付き合えぬ事情が清兵衛にはあった。妻は、長患いの末に労咳で世をさり、残された二人の幼い娘と、モウロクが始まった老母の世話、炊事、洗濯に畑仕事など、すべてが清兵衛ひとりの肩にかかっていたのである。 さらに、妻の治療のために借金も抱え、それを返すために、夜遅くまで内職までこなす働きぶり。それゆえ、自分のことなど何もかまっていられぬのだ。そういう彼の前に、上級武士である夫の暴力的な酒乱で離縁した、幼馴染の朋江が現れる。 共に恋焦がれる間ではあるが、清兵衛は余りの貧しさ故に、親友でもある朋江の兄からの再婚の話を断る。 はかなくも切ない・・・・・・・・・・・・。 (プログラムが大冊の800円ということからも、監督や関係者の意気込みが感じられます)●(私見)この映画の最大の見所は、極貧の中で、清清しく、凛々しく、そして淡々と生きている清兵衛の姿です。 (そして彼を演ずる真田広之がすばらしい!!) (「二人の娘が日々育っていく様子を見ているのは、草花の成長を眺めるのに似て、楽しいものでがんす」この気持ちを分かってくれる女性などいるわけもない、と清兵衛は思っていた。) 下級武士とはいえ、武士としての矜持、一個の人間としての矜持を、しかし、淡々と日常生活の中で具現している清兵衛の姿に、すべてを捨て去る修行の中で、やはり淡々と生きる「禅の名僧・高僧」をダブらせました。 ●朝から夜中まで目いっぱい働いても、腹いっぱい食べられない時代は、つい 私は、昭和21年の3月に生まれました。まさに戦後と共に生きてきました。私が小学校時代、両親は衣料品のお店を経営していました。私は毎朝6時位に起きると、まずお店を開けました。 また、カウンセラーとなった今、お見えになる方のお世話をさせていただくための勉強だけでなく、自分自身の「自己成長」にも取り組んでいますが、自分の未熟さに、内心忸怩たる思いでいっぱいです。 ●そしてさらに思うことは、人間は、様々な条件を背負いながら生きているものです。その人がどんなに「重くて厳しい条件・事情」を背負って生きているかは、外部の人間からは容易に計り知れないものです。 人を批判することは簡単ですが、その人のある一部分だけを見て「思い込み」や「決めつけ」をすることをできるだけ排除して、その方を「ありのまま(良いとか悪いとか、ではなく)」に受け止められる人間になれることが、私の生涯の目標です。 ●(夏目漱石のエピソード)、教鞭をとっていたある日のこと、ふところ手をして話を聴いている和服姿の学生がいた。カンシャク持ちの漱石先生、いきなり教壇を降りて、つかつかとその学生のそばまで行くと、 (「ユーモアについての43章」新島正著、潮文社新書) |
(文責:藤森弘司)
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