2020年12月31日第215回「今月の映画」「みをつくし料理帖」
(1)今年はコロナ禍の影響で、これほど面白い映画、感動する映画が少なかったことはありません。「密」での撮影が難しかったことからやむを得ない事態だったことでしょうが、それでも居眠りする映画が多かったです。
「サイレント・トーキョー」は佐藤浩市主演の映画ですし、ダイジェストでの内容が素晴らしいので、大いに期待しました。 石田ゆり子、西島秀俊、広瀬アリス、波多野貴文監督・・・ハチ公前で爆弾が爆発する刺激的な映画ですから、大いに期待したのですが、何ノコッチャよく分からない(私にとっては)へんちくりんな映画でした。 「新解釈・三国志」は、大泉洋が主演の映画ですから、ユーモア溢れる映画であることは十分に理解していましたが、やはり、密の問題があったのか・・・・・美しい女性として渡辺直美の登場の場面は、失礼ながら笑わせていただきましたが、なんとも、私・藤森の個人的な好みとしては、いやはやでした。 出演者・・・賀来賢人、渡辺直美、ムロツヨシ、佐藤二朗、西田敏行、小栗旬、福田雄一監督。 今回の映画「みおつくし料理帖」は、映画史研究家の伊藤彰彦氏が次のように評しています。 <<<映画を観終えたあと、私が見舞われたのは歓喜と寂寥である。角川映画70本を観つづけ、とうとうここに到ったのか・・・・・という歓喜と、最高傑作が最後の監督作品になることへの寂寥だ。この感興は筆舌に尽くしがたい。>>> 最後に、私・藤森弘司の本を宣伝させていただきます。 |
(2)「ものがたり」
享和二年の大阪。8歳の澪(みお)と野江は、暮らし向きは違えどもまるで姉妹のように仲が良かった。ところが大阪の町を襲った大洪水で、二人の仲は無残にも引き裂かれてしまう。両親を失った澪は偶然通りかかった天満一兆庵の女将・芳(若村麻由美)に拾われるが、野江の消息はわからずじまい。それから10年目の月日が経った。 江戸・神田にある蕎麦処「つる家」で女将料理人として働く澪(松本穂香)は悩んでいた。店に雇われて三ヶ月目にして、初めて振舞った深川牡蠣の鍋料理。大阪出身の澪にとっては上方ならではの極上の味のはず。しかし江戸では殻ごと七輪で焼くのが基本。客からは不評を買ってしまう。 料理作りに試行錯誤する澪は、神田の町医者・永田源斉(小関裕太)から、江戸の料理の味が濃いのは大工などの職人が多いことが理由であることを聞き、「食は人の天なり」という言葉を知る。澪は気持ちを変えて江戸の味に合わせた料理を作り、常連客からは太鼓判を押されるが、どこか納得のいかない自分もいた。常連客で御前奉行の小松原(窪塚洋介)はその心を見破り「料理の基本がなっていない」と一喝する。 スランプに陥った澪を見かねた町医者の永田は、吉原で行われる祭りに澪を連れ出す。祭りの出し物では、吉原の遊女たちが白狐の仮面をかぶった舞を踊り、見物客たちを楽しませていた。そこで澪は、吉原が作り上げた幻の花魁とも呼ばれるあさひ太夫の存在を知る。 吉原で食べた酢醤油のところてんからヒントを得た澪は、「つる家」で江戸流と上方流を掛け合わせたところてんを作り、店を繁盛させる。意外な形で店を切り盛りする澪の姿に手応えを得た店の主・種市(石坂浩二)は、澪に店を継いでほしいと打ち明ける。 種市の気持ちに応えるべく、澪はいまだ“ご寮さん”と慕う芳の協力を得ながら、不眠不休で理想の出汁を生み出した。その出汁で作ったのが、今はなき天満一兆庵で評判だった品「とろとろ茶碗蒸し」。その美味さは江戸中を魅了し、店はいまだかつてない活気を見せる。 そんな中、澪のもとを怪しげな影をまとった男が訪ねてくる。店の評判を聞きつけて「ある方の故郷をしのぶよすがに」と茶碗蒸しを求めてきた。そのある方とは、幻の花魁・あさひ太夫。男はあさひ太夫のいる遊郭・翁屋で料理番をしている又次(中村獅童)だった。 又次から上方の思い出話を求められた澪は、幼なじみの野江との話を聞かせる。大坂の新町郭にある花の井に下駄を誤って落としてしまったこと。すかさず野江が自らの下駄を落として「怒られるんも、罰当たるんも一緒や」と言ってくれたことを。 あさひ太夫のもとに茶碗蒸しを届けた又次は、土産話に澪から聞いた花の井の話をする。その話を聞いたあさひ太夫は言葉を失う。困っていた幼なじみを勇気づけるために花の井に下駄を落としたのは幼き頃の自分。あさひ太夫こそ、澪の生き別れた幼なじみの野江(奈緒)だった。 |
(3)「スペクタクルの作家が最後に撮った室内劇」(伊藤彰彦・映画史研究家)
額に玉汗をうかべ、松本穂香が煮立った鍋に鰹節を入れ、丹念に出汁を引く。窓から射しこむ光が立ちのぼる湯気を浮かびあがらせ、往来の人々の声が忍びこむ。角川春樹がこのような場面ひとつで人を感動させることができるといったい誰が想像できたろう。角川は濃やかな人情話や長屋ものとは対極の世界をいままで描き続けてきたからだ。 1976年に映画界に参入した角川は、豪華絢爛たるファッションショー(『人間の証明』/77年)や戦車の大群(『野性の証明』/78年、ともに佐藤純彌監督)、潜水艦(『復活の日』/80年、深作欣二監督)といった巨額の費用を投じた見せ場でハリウッド映画の向こうを張り、監督に転じてからも日本映画で最初の二輪レース(『汚れた英雄』/82年)やミュージカル(『愛情物語』/84年)や恐竜(『REX恐竜物語』/93年)といった卓越したワンアイデアで映画をヒットさせた。 このように角川は壮大さ、崇高さ、陶酔を主題とする「スペクタクル」の作家だったのだ。しかし、壮大なスケールの映画に客が来る時代は終わり、ウエルメイドな人間ドラマの監督作品『笑う警官』(09年)は当たらず、角川は「映画に絶望した」と公言する。誰しももう角川が映画を撮ることはなく、彼は出版社の社長や俳人として生涯を送ると考えた。 しかし、角川はかつて片岡義男や赤川次郎を見出したように高田郁という稀有の時代小説作家と出会い、女性二人の友情物語である『みおつくし料理帖』をベストセラーに育み、これを最後の監督作品として撮ると宣言する。 スペクタクルの作家である角川が、戦車も潜水艦も出ない、料理人が主人公の世話物を撮ることに不安がなかったといえば嘘になるだろう。しかし、『みおつくし料理帖』は監督角川春樹の最高傑作であるばかりか、70本の製作作品でも指折りの映画となった。画面の一点一画に俳人である角川春樹の美意識が宿り、東日本大震災からコロナ禍の時代を「食」で乗り越えようとする祈りが籠められていたからである。 『みおつくし料理帖』はスペインの画家、ベラスケスが好んで描いた「ボデゴン(厨房画)」を思わせる。庶民の台所風景を描きながら、背景に小さく聖書の一場面を配する、労働と祈りを主題にする絵画だ。 いままでの角川のアイドル映画では薬師丸ひろ子や原田知世を渡瀬恒彦ら年上の男性が見守ったが、本作ではヒロイン松本穂香を石坂浩二、薬師丸ひろ子らかつて角川映画に出演した俳優たちが助ける。 そして、映画の料理は日本を代表する料理学校の理事長である服部幸應が監修し、「つる家」の蕎麦は東京で屈指の蕎麦職人、神楽坂「たかさご」の宮澤佳穂が現場で調理した。 『みをつくし料理帖』の色彩の基調は、撮影北信康と照明渡部嘉がつくった暖色であり、そこに美術の清水剛が暖簾や鳥居などの「赤」を「差し色」としてあしらった。音響効果の柴崎憲治は、吹き抜ける風や時刻を知らせる鐘や物売りの声などを画面に忍びこませ、『みをつくし料理帖』はさながら「音による江戸歳時記」の趣がある。 江良至と松井香奈と角川の共作である脚本は全十巻の原作の初めの三分の一を映画にし、その後の原作の展開を戯作者の構想として語らせ秀逸。「澪のテーマ」、「野江のテーマ」、「二人のテーマ」「小松原のテーマ」という四つのテーマ曲を組み合わせた松任谷正隆の音楽は、彼の映画音楽の集大成だろう。 角川の演出は、自らの美学や理念をスタイリッシュな映画で表現するこれまでの作風とは一転、ひたすら登場人物の思いと観客の気持ちに寄り添う。原作では白狐の面を少しずらすだけのあさひ太夫(野江)が、映画では面を取り、澪の前に素顔をさらす場面に、「観客が見たいものをちゃんと見せる」という角川の強固な意志が伺え、『みをつくし料理帖』は「令和の山本周五郎」というべき大衆映画になった。 映画を観終えたあと、私が見舞われたのは歓喜と寂寥である。角川映画70本を観つづけ、とうとうここに到ったのか・・・・・という歓喜と、最高傑作が最後の監督作品になることへの寂寥だ。この感興は筆舌に尽くしがたい。 |
(4)<<<少し、宣伝させてください>>>
12月22日に出版された私・藤森弘司・人生初の著書、 この本の最後の章(p247)で書いた コロナウィルスの対策のおかしさ・・・・・ <<第3波予測も財源もあったのに なども、私の考えである「日本的な朱子学」の特徴です。 私のこの本は、「交流分析」の「人生脚本」と、「般若心経」で説かれている「五蘊」(ごうん)は同じものであることを発見し、「無(む)」や「空(くう)」を「交流分析」をはじめとする各種の心理学を活用して解説を試みた本です。 アマゾンで<藤森弘司の本>と入力して下されば、表紙がでます。 <<表紙だけで結構です>>ので、ご覧下さい。 |
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