2020年9月30日第212回「今月の映画」「沖縄スパイ戦史」
(1)太平洋戦争末期の「沖縄戦」の悲惨な実情には、ただ、ただ、驚きです。
少々長いですが、「沖縄戦」の実情を少しでも理解するために、史実として、是非、じっくりとお読みください。
<コメント> 瞠目しました! あの戦争は、地続きだった。沖縄と、本土と。過去と、今と。 記録と記憶は閉じた存在。 証言を中心に、かつての少年たちが甦る。 この「裏の戦争」の真相こそが戦争の本当の顔です。 為政者は、いつの時代も、人のせいにする。 沖縄戦さなか、住民をスパイ視した為政者や軍人たちのマインドセットが、 <順不同・敬称略> |
(2)「解説」
<戦後70年以上語られなかった陸軍中野学校の「秘密戦」、明らかになるのは過去の沖縄戦の全貌だけではない・・・。> 第二次世界大戦末期、米軍が上陸し、民間人を含む20万人余りが死亡した沖縄戦。第32軍・牛島満司令官が自決する1945年6月23日までが「表の戦争」なら、北部ではゲリラ戦やスパイ戦など「裏の戦争」が続いた。作戦に動員され、故郷の山に籠って米兵たちを翻弄したのは、まだ10代半ばの少年たち。彼らを「護郷隊」として組織し、秘密戦のスキルを仕込んだのが日本軍の特務機関、あの「陸軍中野学校」出身のエリート青年将校たちだった。 1944年の晩夏、42名の「陸軍中野学校」出身者が沖縄に渡った。ある者は偽名を使い、学校の教員として離島に配置された。身分を隠し、沖縄の各地に潜伏していた彼らの真の狙いとは。そして彼らがもたらした悲劇とは・・・。 <「散れ」と囁くソメイヨシノ 「生きろ」と叫ぶカンヒザクラ> 長期かつ緻密な取材で本作を作り上げたのは、二人のジャーナリスト。映画『標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島風かたか』で現代の闘いを描き続ける三上智恵と、学生時代から八重山諸島の戦争被害の取材を続けてきた若き俊英、大矢英代。 少年ゲリラ兵、軍命による強制移住とマラリア地獄、やがて始まるスパイ虐殺・・・。戦後70年以上語られることのなかった「秘密戦」の数々が一本の線で繋がるとき、明らかになるのは過去の沖縄戦の全貌だけではない。 映画は、まさに今、南西諸島で進められている自衛隊増強とミサイル基地配備、さらに日本軍の残滓を孕んだままの「自衛隊法」や「野外令」「特定秘密保護法」の危険性へと深く斬り込んでいく。 |
(3)「物語」
<少年ゲリラ兵部隊「護郷隊」> 羽地内海(はねじないかい)を望む大宜見村の小高い山。瑞慶山良光さん(89歳)は、日本で最も早く咲く南国の桜、カンヒザクラを植え続けている。死んだ戦友の数だけ、69本の桜を咲かせるのが彼の夢だ。73年前、ゲリラ兵士として故郷の山に潜んで戦ったとき、彼はわずか16歳の少年だった。 1945年4月、米軍が上陸し民間人を含む20万人余りが死亡する激戦地となった沖縄。第32軍・牛島満司令官が自決する6月23日までの3ヶ月が「表の戦争」なら、沖縄本島北部の山々ではゲリラ戦、スパイ戦など「裏の戦争」が続いた。その秘密戦を身長より大きな銃を抱えて戦った10代半ばの少年たちのことを知る人は少ない。 44年秋、大本営による遊撃部隊の編成命令を受け、少年を中心としたゲリラ部隊「護郷隊」を組織したのは、「陸軍中野学校」で特殊なスパイ教育を受けたエリート青年将校たちだった。「第一護郷隊」隊長・村上治夫中尉は、着任時22歳(のちに大尉)。彼らは秘密作戦のため、ときには軍服以外に私服も着用した。長髪に日本刀を差した若き将校たちの姿は、「強い日本軍」に憧れていた沖縄の少年たちの目にまぶしかった。100人以上の元隊員たちから証言を集めた名護市市史編纂係の川満彰さんによると、面倒見の良い村上隊長は少年たちにとても尊敬されていたという。 ジャングルに設営された小屋を拠点に戦うゲリラ戦に備え、少年たちは特殊な技術を仕込まれた。敵の食料庫や弾薬庫への夜襲、「陸軍登戸研究所」が開発した特殊兵器を使った爆破作戦・・・。訓練を終えると、村上治夫隊長が率いる「第一護郷隊」は多野岳(一部は八重岳)に、岩波壽隊長が率いる「第二護郷隊」は恩納岳に潜み米軍の上陸に備えた。 45年3月末、米軍は慶良間諸島を制圧。4月1日に沖縄本島に上陸すると、島は南北に分断された。よく知られる南部の激戦のいっぽうで、「護郷隊」の少年たちが籠った北部の山々では何が起こっていたのか。 「第二護郷隊」の瑞慶山良光さんは、偵察に登った読谷の山から、海を埋め尽くす米軍の大船団を見た。日本軍は勝てるかと問う彼に、「陸軍中野学校」出身の松崎正行中隊長は「慶良間で追い返せなければ勝てる見込みはないよ」と答えたという。その後、良光さんは、独り山中で迷い、米兵の集団に遭遇したり、戦車に特攻する「爆破隊」に選ばれたり、何度も死を覚悟した。「生まれてこなければよかったと思った」と良光さんは語る。「生まれてこなければ、死んで親を悲しませることもないから」と。「爆破隊」の情報が米軍に漏れ、作戦中止になった直後、「斬り込み隊」として敵陣に突撃した良光さんは、手榴弾の破片を頬に受け負傷する。野戦病院ではろくな手当も受けられずどんどん痩せ細っていった。しかし手足は元気だからと病人の世話や遺体を埋める仕事にあてられた。 その頃、他の少年たちも必死に戦っていた。圧倒的な火力の差に、勝ち目がないことを悟りながらの絶望的な白兵戦。ある者は地元の少年のふりをしてわざと米兵に捕まり、収容所内に爆薬を仕掛け、敵の燃料を燃やした。「護郷隊」は、中北部の橋のほとんどを爆破した。米軍の交通を遮断するためだったが、実際には北部へ避難しようとした住民たちに大量の餓死を招く結果になった。 沖縄の子供を装った兵士がいる。米軍は間もなくそれに気づく。いずれの作戦も打撃にはならなかったが、少年たちの狂信的な戦いぶりは米兵を驚愕させた。彼らは敵の武器を拾ってまで戦っていた。それも日本軍の方針だった。大本営が地上戦を想定して作成した「国土決戦教令」には、こんな一節がある。「素手の将兵は先に戦死した者の武器、または、敵の銃器をとって闘え」。 勝ち目のない戦場に追い立てられた少年たちの心は次第に麻痺していった。夥しい遺体の埋葬にあたった良光さんは、もはやひとりひとりの面影を感じることができず、ただおもちゃを埋めているようだったという。 やがて戦争の狂気は、「護郷隊」の内部へも向かう。ある者はスパイの嫌疑をかけられ、ある者は怪我や病気で足手まといになるからと、上官によって、ときには命令を受けた幼馴染みの少年たちの手によって殺された。 東村高江出身の「第二護郷隊」高江洲義英さん(当時17歳)も、その犠牲者の一人だった。弟の義一さんは、兄は戦死したものだと思っていた。しかし数年前、義英さんの戦友の証言から銃殺だったことを知り、衝撃を受けた。破傷風から脳症を患ったためか、精神に異常をきたした義英さんを残して撤退することはできないと、軍医が射殺していた。 7月16日、米軍の圧倒的な物量作戦の前に何もかも失った「第二護郷隊」の岩波壽隊長は、「故郷に戻って遊撃戦に備えよ」と事実上の解散命令を下す。良光さんは、その時点で骨と皮だけになっていた。一緒に故郷を目指す途中、足手まといになると仲間からも見捨てられたが、なんとか家族の待つ家にたどり着くことができた。しかし良光さんの地獄は続いた。戦争の話をしては暴れるという発作を繰り返し、近所の人たちから「兵隊幽霊」と呼ばれた。家族はやむなく彼を座敷牢に閉じ込めた。この激しいPTSDに戦後30年以上苦しむことになる。 最終的に160人が戦死した「護郷隊」。なぜ少年たちに過酷な任務が与えられたのか。「陸軍中野学校」が作成した「国内遊撃戦の参考」には、「できる限り地元の人を活用すること」「絶えず民心の動向をつまびらかにし脱落の有無を承知し・・・」「また住民と遊撃隊を一心同体にして協力させるよう」とある。子供たちの徴用は、民衆を常に管理し、協力を得やすくするためでもあった。さらに同書は、地元住民を「偵謀・謀略的宣伝」、つまり情報戦にも使えと指示している。「陸軍中野学校」出身者の任務は、ゲリラ戦の遂行だけではなかった。住民を作戦に使い、同時に作戦の邪魔にならないように管理すること。当時、離島を含め、沖縄に渡った「陸軍中野学校」出身者は42名。そして、ある一人の工作員によって、その運命を大きく狂わされた島があった。 <運命による強制移住とマラリア地獄> 沖縄県の南端に位置する波照間島。米軍が上陸せず、空襲や戦闘による死者は一人もいなかった。にもかかわらず、島民の3分の1にあたる約500名が命を落とした。軍命によって強制移住させられた先が、古くからマラリアの有病地帯として知られる西表島だったからだ。この悲劇は「戦争マラリア」と呼ばれる。 「陸軍中野学校」を卒業したばかりのその工作員が島にやってきたのは44年の暮れ頃、沖縄戦が始まる3ヶ月前だった。彼は沖縄県知事の正式な辞令を受け、青年指導員「山下虎雄先生」として波照間国民学校に赴任した。民家に下宿した山下は、住民たちとの交流を深めていく。島の男たちの多くが徴兵されて不在の中、日本本土からやってきた若くて格好いい山下先生はすぐに島の人々の心を掴んだ。当時16歳、国民学校の用務員だった西里スミさんは、山下の歓迎会を開いたという。「顔は面長。毎日木刀を下げて。ズボンはカーキ色。初めて大和(日本本土の人)を見た」と、その記憶も鮮明だ。しかし波照間小中学校(旧・波照間国民学校)を訪ね、当時の教職員配置図を調べても山下虎雄の名前は見つからない。学校の記録に存在しない山下先生とは。 日本軍は敗戦を重ねた。米軍がフィリピンに上陸し、いよいよ沖縄戦が迫ると、山下は行動に出る。突然、優しい先生の顔を捨て、家の軒下に隠し持っていた軍刀を抜き、島民たちに「西表島へ移住せよ」と迫った。島の大人たちは、そこが悪性マラリア地帯だということを知っていた。島のリーダーの一人が、当時のことを書き残している。「山下君が西表島に移住をしろと言ってきた。米軍が波照間に上陸すれば、住民たちが敵の捕虜になり、手先になってしまうからだと・・・」。移住は、住民を保護するためではなかった。軍事作戦を優先し、住民たちをマラリアの島に閉じ込めようとする山下。島のリーダーたちも、最後は従った。 命令はそれだけではなかった。各家庭では牛や馬など家畜の屠殺が強制された。米軍の手に渡り、彼らの食糧になるのを防ぐためだと。しかし家畜の処理に来た日本兵たちが、島の工場でその肉を燻製にして、船で島外に運び出す様子を見ていた住民がいる。肉は軍に届けられていた。 こうして島の人々は、家畜も生活も失い、マラリアが蔓延する島へと追われた。西表島での生活は感染病と栄養失調に苦しめられる、まさに「マラリア地獄」だった。波照間で最も多くの家族を失った家では、11人全員がマラリアに感染した。生き残ったのは当時13歳の浦仲孝子さんと、9歳だった妹の利さんだけ。孝子さんは、自身も高熱に冒されながら、次々と亡くなっていく家族の埋葬に明け暮れた。父は最期、娘の手にお金を握らせ「自分が死んだらこれを持って、親戚に埋葬を頼みなさい」と言い残して息を引き取ったという。亡くなった人々は墓に納まりきらず、浜一面が遺体だらけになった。 強制移住は石垣島でも行われた。住民たちはマラリアが蔓延する山中へと追いやられ、移住地の出入り口では軍が常に目を光らせていたという。その裏には、「作戦を遂行するために、戦力として使えない老人や子供などは、事前に移住させること」という軍の取り決めがあった。食糧の確保、情報漏洩の防止、住民が作戦の足手まといになるのを防ぎたいという軍の都合のために、石垣島、波照間島をはじめ八重山諸島の各地では3600人余りの命が奪われた。 元沖縄県議会議員の宮良作さんは、「戦争マラリア」の問題を長年追求してきた。およそ30年前、元軍人たちに電話取材をしたテープの中に「山下虎雄」、本名・酒井清の肉声が残されていた。宮良さんは、酒井の話と住民たちの証言が異なると問うが、酒井から住民への謝罪の言葉はなかった。戦後も島民の怒りは収まらず、山下は絶縁状を突きつけられた。その後、彼が波照間の土を踏むことは二度となかった。 |
(4)<<続き>>
<スパイリストと住民虐殺> 「住民が敵に捕まればスパイになる」。その恐怖に支配されたのは沖縄本島北部の日本兵たちだった。米軍に包囲され、武器も食糧も尽きた彼らは、山に隠れ続けるだけの「敗残兵」と化していた。米軍に投降して情報を漏らす恐れがあるからと、味方の日本軍に殺された住民は数百人ともいわれる。 数々の住民虐殺に関わったとみられるのが今帰仁村(なきじんむら)にいた第27海軍魚雷艇隊、通称「白石隊」だ。早々に船を失い、長く山に隠れていた彼らが「スパイ容疑の住民リスト」をもとに、上から順番に殺していったという証言がある。 スパイリストは、誰がどんな目的で作成したのか。「白石隊」が潜伏していた山で、米軍が日本軍の極秘文書を発見した。その資料を研究する元沖縄県博物館館長の大城将保さんは「日本軍は、地域の有力者や学校の先生を集め、裏の軍隊を組織していた」という。「国士隊」という秘密組織だ。「国士隊」には、住民同士を監視させ、密告させる役割があり、それがスパイリストの作成につながった可能性があると大城さんは指摘する。メンバーは地元の有力者ばかりだが、戦後も証言した者は誰一人いない。任務自体が秘密だった。また大城さんは「本人たちとしては悪いことをしているという意識はない」ともいう。 元国頭村議会議員の上原一夫さんが、激戦地の中南部から避難してきた4,5人が日本兵に銃剣で殺された現場を案内してくれた。この虐殺が戦後70年も表に出なかったのは、当時殺害に加わった地元の若者が、最近まで存命だったからだという。 なぜ住民が虐殺に手を貸すのか。当時15歳で、読谷村から国頭村に疎開していた玉城秀昭さんは、一度捕虜になってから家族を探しに来た男性が、スパイだと罵られ、殺されかけたのを見たという。「あの時代、敵と通じたらもう大変。あんたどう思うか?」「今殺される心境になってごらん、感覚が全然違う」「敵は人殺すんでしょ?僕も殺しに行くよ、当たり前」。玉城さんは興奮しながらそう語った。 誰がスパイかわからず、住民同士が疑心暗鬼になる。大宜味村では「ムラ社会の闇」が虐殺に絡んだ事例もあった。大宜味村出身で「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」代表も務めた福地廣昭(日偏に廣の字です)さんは、ある警察官の殺害事件について、多くを語れない理由の一部を明かす。福地さんは、大宜味村の知名巡査が山の中で日本軍に殺された事件を自身の本に書いた。すると遺族から止められた。戦後補償の問題が絡むからだ。それだけではない。手を下したのは「紫雲隊の伊沢」と名乗る敗残兵だったが、殺害に協力した村の青年団と巡査の間に怨恨もあったという。 沖縄国際大学名誉教授の石原昌家さんはこう指摘する。「我々はすぐ軍隊が悪かったんだと思いがちだけど、実際にはそのような情報は身近な住民の中から出てきた。住民同士の疑いがとても危険な状況を作り出していく」。軍隊の暴力が地域の恨みや恐怖を呑み込み、加害者も被害者も何も語れない残酷な傷跡を地域に残した。 さらに、18歳の少女までがスパイリストに載っていたことがわかった。屋我地島の中本米子さんは、当時、「勤報隊」として海軍の陣地構築を手伝っていた。海兵たちに食べ物を分け与え、精神的にも支えていた。ある時、闇夜に紛れてやってきた一人の水兵が米子さんに言った。「ヨネちゃん、殺されますから、逃げてください」。海軍に協力してきた米子さんは耳を疑った。なぜ彼女はスパイリストに載ったのか。米子さんは、一日だけ巨大な地下倉庫で作業をさせられたことがあった。深い縦穴を降りると広大な空間があり、軍事物資が並んでいたという。集積庫の存在を敵に知られないため、海軍に尽くしてきた少女さえ口封じの対象になった。 このような沖縄でのスパイ虐殺の背景には、現在の特定秘密保護法の前身ともいえる戦前の「軍機保護法」がある。1937年に、軍の機密を外国に漏らした罰は、死刑にまで引き上げられていた。 <すべてがつながるとき> 軍隊は自国民を守るどころか利用し、疑い、殺害した。また住民同士もお互いを死に追いやっていった沖縄戦の末路は、数々のマニュアルにある通り、破綻した日本軍の戦闘方針の産物だった。こうした体質は、はたして現在の自衛隊の行動規範から一掃されたのだろうか。陸上自衛隊の最高規範である「野外令」や「自衛隊法」には、沖縄戦の地獄を想起させる言葉が並んでいる。2016年から南西諸島の自衛隊増強が始まった。与那国島だけでなく、石垣島、宮古島へも陸上自衛隊が駐屯し、ミサイル基地が配備される計画だ。軍隊が駐留すれば、必ず秘密戦が始まる。「護郷隊」と「スパイ虐殺」と「戦争マラリア」を結ぶ一本の線。このシステムにメスを入れない限り、沖縄戦の地獄は再来する。 <ソメイヨシノとカンヒザクラ> 戦後、「護郷隊」の二人の隊長は、戦死したすべての部下の家を回り仏壇に手を合わせた。遺族の就職の世話をするなど、元少年兵たちとの交流は亡くなるまで続いた。車いすで沖縄を訪れた晩年の村上治夫隊長が「護郷隊」の碑の前で号泣したという。村上は戦後、焦土になった沖縄の山に植えてほしいと千本以上の桜や果樹を本土から送り続けた。しかし届いたソメイヨシノが亜熱帯の沖縄の土に根付くことはなかった。 いっぽう、羽地内海を望む小高い山で、瑞慶山良光さんが植えた桜が、見ごろを迎えていた。良光さんは、同じ「第二護郷隊」で亡くなった高江洲義英さんの弟、義一さんを花見に誘った。沖縄で一番寒い季節に咲くカンヒザクラ。濃いピンク色の花は、南国の太陽を受けて育った少年たちの笑顔のように鮮やかに輝いていた。 |
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