2020年7月31日第210回「今月の映画」「なぜ君は総理大臣になれないのか」
(1)この映画には本当に驚きました。
実話では言葉が足りないのです。ドキュメンタリーの映画、つまり、主人公を実録的に録画した本物そのものの映画なのです。 私は今、日本人の多くの深層心理に「朱子学」がとても影響を与えていると思っていて、朱子学について、かなり興味を持っています。 朱子学は、本来の「儒教」から「新儒教」と言われるように、かなり儒教から離れたものです。その本来の儒教の創始者である孔子のような人生を生きている・・・と思われる人間性が、この映画の実際の政治家、四国の現職の政治家、小川淳也議員です。 今の日本にはほとんど枯渇した人間性であるように思われるタイプの方が小川淳也氏であるように、私・藤森は思っています。 でも、実際に存在する、極めて貴重なタイプの人間性である小川淳也議員に注目して見てください。 |
(2)「ただ社会を良くしたい」
立志、希望、挫折・・・愚直な政治家の17年衆議院・小川淳也(当選5期)、49歳。 当時32歳、民主党から初出馬する小川にカメラを向けた。 ところが2012年から安倍政権が始まると、表情は苦悩に満ちていく。弱い野党の中でも出世できず、 それは、あまりにも悲壮な選挙戦だった。 ・・・・・17年間、小川を見続けた監督・大島新の目に映ったのは日本政治の希望か絶望か。小川を通して日本の未来を問いかけていく。 |
(3)<「どうせ」の相互不信を乗り越えるには>上西充子(法大教授)
この映画の終盤で紹介された2019年2月4日の衆議院予算委員会。小川淳也議員は、毎月勤労統計をめぐる不正を追及した。アベノミクスの成果を偽装するために、賃金の伸び率を高く見せようとしたのではないか、と。過去の経緯を検証して見せる小川議員の質疑は、次第に全容が見えてくる推理ドラマのような展開のおもしろさがあった。 私は国会審議を解説つきで街頭上映する国会パブリックビューイングの活動をおこなっており、2日後にこの質疑の主要場面を新宿西口の地下で紹介した。大勢の人が足をとめ、下記の場面ではスクリーンに映し出された小川議員に向けて、聴衆から自然と拍手が湧いた。 ●小川淳也議員:きわめて政治的な意図が裏に隠れているんじゃないですか。精度を高めろ、正しい統計を出せと表では言いながら、裏では、数字を上げろ、いい数字を出せと暗に政治的圧力をかけているんじゃありませんか。 ●麻生太郎財務大臣:役所におられたらおわかりと思いますけれども、圧力をかけたら数字が上がるもんでしょうか。 ●小川淳也議員:役所にいたから訊いているんですよ。ちょっと、この政権は公文書を書き換えさせていますからね。それは具体的に指示したんですか。指示していないのに何でやるんですか、官僚がそんなことを、追い詰められて。そういう政権なんですよ。そういう体質を持った政権なんだ。その前提でこの数字について聞いているわけです。 圧力をかける麻生大臣の答弁。議場の笑い声。小川議員はそれにひるまず、毅然と切り返した。元官僚として、野党の政治家として、あるべき政治を目指す真摯な姿勢が感じられた。 そんな姿を知っていたから、この映画では、常に選挙で勝ち続けないと国会議員としての仕事ができない衆議院議員の立場の難しさを考えた。しかも比例ではなく小選挙区で勝つことが党内での発言権につながるのだという。政治家になりたいのではなく、政治家として日本の社会を変えていかねばならないのだとの志を持つ小川議員にとって、党内のポジションを登っていくことは必要なステップだ。けれども2017年秋、民進党の希望の党への合流をめぐる大混乱が起きる。 希望の党の小池百合子代表による排除発言が報じられ、民進党の議員らが煮え切らない態度をとっていた当時、私は、枝野幸男議員が立憲民主党を立ち上げたことにようやく風穴が開いた思いがした。その時の小川議員の苦悩は、知らなかった。 そのことを思い出しながら、この映画で考えさせられた場面が二つある。希望の党から出馬を決めた小川議員が選挙活動を始めると、自転車に乗った男性が非難の声を浴びせる。「おまえ、安保法制、反対しとったじゃろが」「イケメンみたいな顔しやがっておまえ、心はもう、真っ黒やないか」。 もう一つは、小川議員の娘さんが商店街でリーフレットを手渡そうとする場面。連れだって歩くスーツの男性が、「あ、いいから」というそぶりを見せて、そのまま通り過ぎる。 そのいずれもが、私たち自身の姿であると思った。私たちは多くの場合、投票し、結果を確認することはあっても、その議員や政党のことを、深く知ろうとはしない。その議員や政党が、議会でどのような審議をしているか、わざわざ見に行こうとしない。「どうせ政治家なんて信用ならない人たち」と、与党も野党もひとくくりにした粗雑な言葉が広められている現状に疑問を持たず、一方で、自分たちを見捨てることはさすがにないだろうと、根拠なく楽観している。 そして政治に京見を持つようになると、なぜここで法案審議に応じるのか、なぜもっと反対しないのかと、意に沿わない言動が許しがたくなる。あの男性も、安保法制に関心を持っていたからこそ、小川議員にひと言いいたくなったのだろう。 私たちがもう一歩、政治に、政治家たちに、近づいてその現実を知ろうとしなければ、政治は変わらない。野党議員が議席を勝ち取るのはハードルが相当高いことが、この映画を見ればわかる。政治が私たちから遠いものであればあるほど、既存の権力構造はより強固であり続ける。 2019年3月1日。根本匠厚生労働大臣の不信任決議案の趣旨弁明に野党各会派を代表して立った小川議員は、1時間49分の大演説の終盤でこう語った。 小手先の改革ではどうにもならない構造問題が、この国の未来には横たわっています。そして、私たちが真に国民の負託に応えるために、血みどろになる覚悟でその課題に向き合うために、私たちに求められるのは、国民に対する信頼であります。 政治家が国民に信用されていない。しかし、政治家もまた国民を信用しきれていない。このはざまを、このすき間を埋めなければ、小手先でない、正しい改革はなし遂げられません。 『なぜ君は総理大臣になれないのか』。このタイトルで問われているのは、小川議員の資質ではない。政治に対する、政治家に対する、有権者としての私たちの向き合いかただ。 <うえにし・みつこ・・・法政大学教授。専門は労働問題。国会パブリックビューイング代表。著書に『呪いの言葉の解きかた』(晶文社、2019年)、『国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み』(集英社クリエイティブ、2020年)など> |
(4)「小川淳也との17年」(監督:大島新)
2016年初夏<このままでは死んでも死に切れん> 2016年6月。いつもの食事会でのことだった。小川淳也と小川の秘書、政治ジャーナリストの田崎史郎、フジテレビのプロデューサーと私が年に数回集まる会合で、小川の話を聞いていた時のことだ。安倍政権は盤石、所属する野党・民進党には浮上の目がないとぼやく小川の姿を見ながら、私は「この人をもう一度取材して、映画にしたい」という、つきあがるような思いを抱いた。「なんでこんなに真っ当で優秀な人が、うまくいかないんだ」。それは怒りにも似た気持ちだった。もちろん、小川への怒りではない。政治の世界への怒りだ。安倍政権に近い田崎が、余裕綽々で野党をこき下ろしていたこともその気持ちに拍車をかけた。 翌日、私は一気に企画書を書いた。タイトルは、「なぜ君は総理大臣になれないのか」。書きながら、なぜか興奮状態に陥った私は、「この映画を完成・公開しなければ死んでも死にきれん」と自分に言い聞かせた。小川が官僚を辞め2003年に初出馬するときに、猛反対する家族に対して言った言葉を思い出したからだ。 「このままでは死んでも死にきれん」。 2016年7月13日、小川に取材依頼をするために議員会館を訪れた。この不遜な映画のタイトルを小川がどう思うかが心配だった。だが私はこのタイトルにこだわっていた。映画のテーマを規定するからだ。緊張しながら小川に企画書を見せるやいなや、「なぜ・・・いいじゃないですか、面白い!」と笑った。 この時期、閣僚をはじめとする政治家の不祥事や失言があいつぎ、自民党のいわゆる「間の2回生問題」が世間を騒がせていた。にもかかわらず、安倍政権は盤石に見えた。そのことを小川に問うと、「この10年よく思い浮かぶのは、人生の8割は我慢、残りの1割は辛抱、最後の1割は忍耐」と言う。思わず笑ってしまった。全部我慢ではないか。そこから始まったインタビューは、直近にあった6月の参院選のこと、イギリスのEU離脱などについてなど、話は多岐にわたった。安倍政権が3年半続いているなかで、野党第一党である民進党の現状のふがいなさも口にした。しかし、そのふがいない党内で、自分自身が「出世」していないことが、小川にとって何より歯がゆいことだった。日本の未来のために政策提言をしたいのに、党の幹部からは安倍政権の攻撃をしろと言われる。国民のため国家のためという思いなら誰にも負けない気持ちでいるのに、党利党略に貢献しなければいけない・・・。 1時間ほどのインタビューで、最も私の心に残ったのは、「うちのおふくろなんかは、要らないなら息子を返してくれって言ってますよ」という言葉だった。小川はこのままでは政界にとって「要らない」人材なのか。そうか、あの時とてもよくしてくれた心優しい“パーマ屋”のお母さんが、そんなことを言ってるのか・・・。私はその言葉を反芻しながら、議員会館を後にした。 2003年秋<政治家を笑っているうちはこの国は絶対に変わらない> きっかけは、妻のなにげない一言だった。「高校で一緒だった小川くんって子が選挙に出るんやって。奥さんのあっちゃんが私とクラスが一緒やったんやけど、あっちゃんは大反対したみたい」。その言葉が、職業柄ドキュメンタリーの企画をいつも探している私の心にひっかかった。妻は香川県立高松高校出身。「小川くんは野球部でめちゃめちゃ頭が良くてしかも性格もよくて、こんな子ほんとにいるんかっていうぐらいの好青年。あっちゃんはめちゃくちゃ可愛くて、二人ともキラキラしてたんやで。東大を出て官僚になったって聞いてたけど、なんで政治家なんか目指すんかな」。”政治家なんか”。その言葉が、政治家という職業の世間での評価を表していた。私は直感的に、会ってみたいと思った。妻に口添えをしてもらって事務所に連絡し、その日から数日後の、ちょうど事務所開きが行われる10月10日にアポをとった。その日は、小泉首相による衆議院の解散が予定されていた。 高松市の事務所での初対面の瞬間からカメラを回した。名刺交換も早々に、事前にFAXで送っていた企画書のタイトルに違和感がある、と小川は言い出した。そのタイトルは、「地盤・看板・カバンなし。それでも・・・政治家になりたい!」というものだった。「政治家になりたい、と思ったことは一度もないんです。“なりたい”ではなく、“ならなきゃ”なんですよ。やらざるをえんじゃないか、という気持ちなんです」。その後に続いた小川の言葉が、17年間にわたって彼と交流を続けることになる決定打となった。「政治家がバカだとか、政治家を笑ってるうちは、この国は絶対に変わらない。だって政治家って、自分たちが選んだ相手じゃないですか。自分たちが選んだ相手を笑ってるわけですから、絶対に変わらないと思ったんですよね」。そして、やるからには総理大臣を目指す。自分で国のかじ取りをしていくつもりだと言い切った。小川32歳、私は34歳。2歳年下の真っすぐな目をした男に、惹きこまれた瞬間だった。 <真っ当で筋の通った家族たち> 結局、この選挙で小川は落選する。およそ1カ月にわたる取材の中で、強く印象に残ったいくつかのこと。まず家族。両親、妻、妹弟たちは、驚くほど普通の、真っ当な人たちだった。妻の“あっちゃん”こと明子さんは、高校を出て地元の香川大学に進み、幼稚園の先生をしていたが、二人の娘の娘の出産や自治省(のち総務省)の官僚だった小川の転勤について回ったことで、専業主婦となっていた。小川の妹の瞳さんは、出馬の決意を聞いたときに「吐きそうになった。でもお義姉さんに聞いたらもう吐いたって」という。明子さんは、ただ好きになった人が高校時代の小川青年だっただけで、「政治家の妻」になることに何ひとつ喜びを感じていなかった。自分は選挙事務所に遅くまで残るため、「帰りたくない」と泣きじゃくる幼い娘二人を車に乗せる。実家に預けるために、おばあちゃんが運転する車を見送ったあとに、涙をこらえながら語った。「こんなことしたくないんですけどね・・・子供たちの未来のために、と思ってどこかで自分を納得させて、主人の決断を受け入れたけど、未来も大事だけど、今も大事でしょう?」。そう、小川の言う「子どものたちの未来」とは、日本中の子どもたちとは、ほかならぬ二人の娘なのだ。 6歳年下の弟の竜司さんは、お兄さんのことが大好きで、泣き上戸。兄の事務所開きでの演説を聞いて、「いやぁ、惚れ直しましたわ」と屈託なく言う。20代の会社員として忙しいなか、時間を見つけては兄の選挙を手伝っていた。 3人の子どもを育てたご両親もまた、ごく普通で真っ当でありながら、一本筋の通った人たちだ。小川の真っすぐな性格が育まれたのは、このご両親のもとで育ったからなんだな、と感じたのは、こんな言葉を聞いた時だった。「本人がいま言っている初志が、もしずれてきたり、間違った方向に行ったと感じた時は、先頭に立って引きずりおろします」という父親に、「私たちが死んだら、妹と弟が引きずりおろします」と母親が続ける。政治家という職業を家業ととらえ、たいした志もなく代々続けている世襲議員とその家族にこの言葉を聞かせてやりたいわ! <何事も51対49> そして小川。取材中に一度だけ、私に対して少し感情的になったことがあった。 |
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