2020年1月31日第204回「今月の映画」「家族を想うとき」 監督:ケン・ローチ

(1)私(藤森)は素人ながら、20世紀の「民主主義」「資本主義」などが、平成の30年間で瓦解、と言ったら良いのか、終焉と言ったら良いのか分かりませんが、トランプ大統領のアメリカ・ファーストだとか、イギリスのEU離脱だとか、はたまた「GAFA」(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)の登場などで、大きな変化・変質を遂げつつあるのではないかと思っています。

 そういう巨大な変化・変質の中で、我々庶民はとてつもなく追い込まれるように思えてなりません。そういう一面を教えてくれるのが今回の映画です。

★(3)今回の映画に絡めて、日本の働き方改革を批判する東京新聞の記事「社員は消滅する・働き方改革の死角」

★(4)ワタミ代表取締役会長兼グループCEOの渡邉美樹氏の素晴らしい経営「経営者目線」<フランチャイズビジネスは大転換期>

★(5)ワタミ<「ホワイト企業大賞」特別賞受賞>

★(6)最後に、法政大学教授・上西充子先生の「みずからの言葉を獲得するために」

 をジックリご覧ください。

(2)「STORY」

 <マイホームがほしい父と母 でも、子供たちの願いは、ただひとつ・・・毎日、抱 き し め て >

 フランチャイズの宅配便ドライバーとして独立を決意したリッキー(クリス・ヒッチェン)は、「勝つのも負けるのもすべて自分次第。できるか?」と本部のマロニーにあおられて、「ああ、長い間、こんなチャンスを待っていた」と答えるが、どこか不安を隠し切れない。

 10年前、銀行の取り付け騒ぎで住宅ローンが流れ、建設の仕事も失ったリッキーは、職を転々としながら懸命に働いてきたが、安い給料で人に使われるのは、もうウンザリだった

 帰宅したリッキーは、妻のアビーに事業のシステムを説明し、本部の車を借りるより、買った方が得だと説得する。だが、借金を抱えた2人には、アビーの車を売る以外に資金はなかった。パートタイムの介護福祉士として、遠く離れたお年寄りの家にも通うアビーには車が必要だったが、1日14時間、週6日、2年も働けば夫婦の夢のマイホームが買えるというリッキーの言葉に折れるのだった。

 介護先へバスで通うことになったアビーは、長い移動時間のせいでますます家に要る時間が無くなっていく。16歳の息子のセブと、12歳の娘のライザ・ジェーンとのコミュニケーションも、留守番電話のメッセージで一方的に語りかけるばかりだ。

 ある朝、マロニーと遅刻したドライバーが、配送所でもめていた。荷物の個数が多すぎるとぼやくドライバーのルートは取り上げられ、リッキーが引き受けることになる。ワガママな客の相手をしながら、配達時刻に追われるリッキーが、疲れ果てて帰宅すると、トラブルが待っていた。

 このところ学校をさぼって、“グラフィティ”と称した壁への落書きに夢中になっているセブが、ペンキを買うために両親が買ってくれた高価なジャケットを勝手に売ったのだ。「成績もトップクラスなのに、どうした?」と詰め寄る父の怒りに、セブはまともに答えようともしない。

 そんな中、一家に久しぶりの笑顔が戻る。学校が休みの土曜日に、配達車に同乗して手伝ってくれた娘のライザと半日を過ごしたリッキーは、家族への思いやりを取り戻し、妻のアビーと息子のセブのためにテイクアウトのインド料理を買って帰る。何日ぶりかで4人で食卓を囲んだその時、介護先からアビーに夜のヘルパーが現れず困っているという連絡が入る。すると、セブが「父さん、バンでみんなで行かないか」と提案し、歌って笑って思いがけず楽しい夜のドライブになるのだった。

 けれども、幸せな時はつかの間。翌日、リッキーとアビーはセブの学校の校長から呼び出される。セブが金曜日にケンカして、相手にケガをさせたのだ。仕事を中断できなかったリッキーは面談に間に合わず、セブは14日間の停学となる。リッキーは職場の責任者・マロニーに、「家族がガタガタなので1週間休ませてくれ」と頼むが、「自営だから代わりを探せば済むことだ」と突っぱねられる。

 それはつまり、代理のドライバーを立てられなければ、契約通り1日100ポンドの罰金を課せられることを意味していた。

 やむなく、いつものように出勤したリッキーだが、今度は警察から息子のセブが万引きをしたという電話が入り、マロニーから「制裁を覚悟しろ」と罵られながらも、駆けつける。だが、セブは反省するどころかますます反抗的になり、翌朝、リッキーが起きると、セブの姿はバンのキーと共に消えていた。

 バラバラになった家族の心を再び一つにしたのは、ライザの切なくもいじらしい行動だった。だが、家族のために再びハンドルを握ったリッキーに、ある事件が降りかかる・・・。

(3)「社員は消滅する・働き方改革の死角」(東京新聞、元年12月14日)

 「わたしは、ダニエル・ブレイク」などで二度のカンヌ最高賞を受賞した英国の巨匠ケン・ローチ監督が新作で世界で進む「社員消滅」の現実に警鐘を鳴らしている。83歳の監督が、引退を撤回して告発するのは働き手を社員として雇うのではなく、個人事業主に置き換える潮流。雇用システムの世界的な変化の「落とし穴」だ。

 「もう社員は雇わない。個人事業主として契約する」・・・。13日に公開した映画「家族を想うとき」はこんなシーンで始まる。

 中年男性がマイホームと家族の幸せを夢見て運送会社の採用面接に行く。「収入増の誘い」に応じた男性だが、個人事業主ならではの落とし穴に気付かず、家族も崩壊の危機に陥る・・・。

 2000年ごろからパートや派遣など非正規社員の増加が問題になってきた。だが、いま企業は雇うことすらやめ社員を個人事業主に置き換え、リスクもコストも全て働き手に押しつけようとしている。日本でもウーバーイーツの配達員や一部の企業で加速する流れだ。カンヌ映画祭での会見でローチ監督は言った。

 「仕事をするのは家族を守るためのはず。仕事によって家族が崩壊するのは根本的に間違っている」(編集委員・久原穏)

 <個人事業主化 日本では政府主導>

 ローチ監督の映画の主人公が直面した「個人事業主の落とし穴」はこうだ。

 面接担当者の誘い文句は「働き次第で稼ぎは増え、もうけは全部自分のものだ」。社員なら固定給だが、個人事業主になれば働いただけ収入増にはなる。

 だが、トラックは自前でガソリン代も駐車代も自己負担。運ぶ荷物の個数で報酬は決まるが、ノルマをこなせねば高い罰金。事故に遭っても治療費は自己負担。GPS付き専用端末で監視され、分刻みで追い立てられる。ノルマ達成のため男性は1日14時間働くはめに。目の届かない長男が非行に走り家族は崩壊寸前に追い込まれる。映画は何人もの労働者の実体験を下敷きにした。

 映画が描いた働き手の落とし穴は写し絵のように日本でも現実になっている。

 「兄が亡くなったのは長時間労働させた会社の責任だ」。11月下旬、佐川急便から配送業務を請け負っていて亡くなった大阪市内の個人事業主男性の妹が、死因は過労死として訴えた裁判の初回口頭弁論が大阪地裁で開かれた。

 <コスト リスク 押し付け>
佐川は「雇用契約はなく、当社に責任はない」と主張した。配送業務では社員でなく個人事業主に請け負わせる例が増えている。

 計測器メーカーのタニタは社員に一度退職してもらい、個人事業主として会社と契約を結び直す制度を17年1月から導入。契約の切り替えは、強制ではなく本人の希望を聞き、社員の約1割にあたる36人が応じた。21年新卒社員の採用からは、制度に賛同するを問うという。同社は「能力とやる気を高めるため」と説明する。

 だが、日本労働弁護団の嶋崎量(ちから)弁護士は「労働基準法による規制は当事者間で合意しても免れるものではない。違法行為となる可能性は濃厚」と指摘。「一社が法を守らずに利益を追求したら、しわ寄せは同業他社のみならず社会全体を蝕む」と懸念する。

 今や世界的に進む個人事業主化の流れだが、日本は政府が旗を振って主導している。安倍政権が進める働き方改革は、柔軟で自由な働き方として個人事業主やフリーランスなどを推奨している。こうした「雇用によらない働き方」を増やす一方、さらにその先を示唆する報告書もまとめた。厚生労働省の懇談会がまともた「働き方の未来 2035」は「社員ゼロ」の企業社会をこう描く。

 「2035年の企業は、プロジェクトごとに人が入れ替わり、柔軟に企業の内外を移動する。企業組織が人を抱え込む『正社員』のようなスタイルは変化を迫られる」

 そこでは社員(労働者)は消滅、雇用関係を前提とする労働法制は不要となる。経営者らは経済取引の民事ルールを基礎にすればよくなるとまで展望した。

 労働問題に詳しい法政大の上西充子教授はこう警鐘を鳴らす。「歴史を振り返れば、労働法ができたのは、劣悪な労働条件で働かせれば社会の持続可能性が脅かされることが理解されたからだ。今、必要なのは労働法の縛りから経営者を解放することではなく、新たな法的な仕組みを整えることだ」

(4)「経営者目線」(渡邉美樹、夕刊フジ、元年12月18日)

 <フランチャイズビジネスは大転換期>

 コンビニオーナーで最近注目されるフランチャイズ(FC)ビジネスは今、転換期に来ていると感じている。コンビニ本部はFCオーナーを労働力と見ていると感じる。

 オーナー側から見れば、コンビニが便利になるほど、オペレーション(作業)は複雑になり、さらに人手不足の中、アルバイトの労働時間のコントロールの負担がのしかかる。それでいて粗利の半分もとられてしまう。オーナーの裁量や経営の醍醐味もほとんどない。オーナーから本部(企業)への感謝は集まっているのだろうか。

 私自身、つぼ八のFCオーナーから起業した。つぼ八創業家の石井誠二さんから多くを学んだ。感謝がいっぱいだ。自分1人で起業していたら、店は潰れていたと思う。ビジネスモデルがしっかりしているFCなら失敗する確率は著しく低く、ロイヤリティー以上の価値を感じる。私の場合、FCオーナー時代から、行列店を作り、1億円近い年収もとれるようになり、「夢」があった。

 ワタミでは、社員の独立を支援するため「ダイレクトフランチャイズ(DFC)制度」を導入している。100人以上のオーナーが誕生し、ワタミ本社の役員よりも高い年収をとれるようなオーナーも出ている。大型店を数店経営し、上場が視野に入っているオーナーも出てきており、その「夢」を応援したい。

 議員時代から「中小企業を支援したい」との思いがあった。年金だけでは安心して暮らせない時代に退職金で起業するモデルを確立していくべきだ。その中小企業としてFCを広めたい。FCに興味のある方に、良いFCと、悪いFCの見極め方を知ってほしい。

 まず、すぐに加盟できるワタミではオーナーが失敗しないよう、直営店よりも厳しく査定している。「バラ色」の試算表を提示するFCもやめた方がいい。例えば、FCで売上700万円見込めると、高い数字を出してくるケースもある。必ず「近隣の直営店の数字を見せてほしい」と問うべきだ。

 本部が何を目的にビジネスをしているか理念をみるのも大事だ。ワタミはテリー伊藤さんと組み「60才からの大社長」を合言葉に「から揚げの天才」というFC向け業態を立ち上げた。「みんなを笑顔にしたい」とテリーさんは言う。1個99円の大きなから揚げと、1杯199円のハイボールでその理念を形にする。メニューは、から揚げと玉子焼きだけ。徹底したオペレーションの簡素化を実現。お昼から夜までの営業。オペレーションが複雑で24時間営業のコンビニの真逆を行く。それでいてオーナーの収入はコンビニの上を行く。何より繁盛店作りには醍醐味がある。

 今後、ワタミはから揚げを筆頭に、フライドチキン、やきとり、ラーメン、丼物の5業態でのFC展開を検討している。各300店舗、計1500店舗、DFC含め、1000人のFC社長を育てるのが当面の目標だ。「FC=悪」ではない。石井誠二さんは私に「経営ノウハウで盗めるものは、なんでも盗んでくれ」と言った。私も同じセリフで、FC新時代を切り開いていきたい。(ワタミ代表取締役会長兼グループCEO)

 

(5)「ワタミ 第6回“ホワイト企業大賞”特別賞受賞」(夕刊フジ、2年2月6日)

 <ブラック企業問題専門家、新田龍氏が語る>

 <略>

 2015年末、ほんの3年前まで無借金経営だったワタミは債務超過寸前にまで追い込まれ、経営陣は廃業・倒産さえも覚悟するほど逼迫した状態にさらされていた。「ワタミ=ブラック企業」との評判による弊害は、売上低下のみにとどまらず、株価の下落や採用活動の難航など事業活動全体に打撃を与えていたのだ。

 もう後がなくなったワタミは、労働環境改善のため文字通り聖域のない改革を進めていった。拡大一直線だった店舗数を削減し、深夜の営業時間を見直し、会議や研修も効率化して従業員の負担を軽減。

 メンタルヘルスサポート、報酬体系の改善、働き方の多様化、労働組合結成など矢継ぎ早に実施。その結果、成果指標として設定していた「離職率の低減」において、21・6%(2016年)→15・8%(17年)→8・7%(18年)、そして直近の19年3月末時点では8・5%にまで低下。飲食業界平均の17・6%を大きく下回った。

 社名変更など表面的な弥縫策に走らず、批判と現実を率直に受け入れ、痛みを伴う改善に地道に取り組んできた姿勢は感嘆に値する。また、業容拡大期に武器となった持ち前のスピードや突破力、一枚岩の組織力をフルに労働環境改善のために投入し、着実な数字という形で結果を残したことは大いに顕彰すべきであり、組織変革のロールモデルといえるだろう。

 <略>

(6)「みずからの言葉を獲得するために」(上西充子、法政大学教授)

 この映画に、救いはあるだろうか。希望は息づいているだろうか。

 見終えた後に、そう問い直したくなる。ズシリと重い結末だ。

 個人事業主としてフランチャイズの宅配ドライバーの仕事を始めたリッキー。この仕事に就いたのは、努力が正しく報われると思ったから。手に入れたマイホームと建設の仕事を銀行の取り付け騒ぎで失った彼は、もう一度、努力して生活を立て直そうとする。

 しかし、冒頭から私たちは不安を掻き立てられる。「長い間、こういうチャンスを待ってた」と語るリッキー。けれども、この仕事には雇用関係はない。そう説明するマロニーの言葉は十分に理解できていないようだ。戸惑いながら頷く彼は、「車は持ち込みか?レンタルか?」と問われても、即答できない。

 ドライバーとして働いているヘンリーの助言に従い、リッキーは割高なレンタルを回避して、1000ポンドの頭金を払って車を購入する。けれども、今でも借金漬けの彼には、頭金に充てる資金もない。妻のアビーを説得し、唯一の資産の車を売却するが、それによってアビーは、訪問介護の仕事にバスで出向かなければならなくなる。

 稼ぎを貯めるはずの仕事で、リッキーは借金を重ねていく。息子のセブのトラブルに対処するために、荷物を運べなければ制裁金。休みを求めても、自営業者との契約なのだから君が代わりの要員を探せばよいだけだと、マロニーは耳を貸さない。暴漢に襲われたリッキーは荷物を奪われ、通信機器を壊され、高額の弁償金を背負わされていく。

 ヘンリーは、この仕事のリスクを事前にリッキーに語れたはずだ。けれどもヘンリーの助言は、ローンを背負わせ仕事を辞めづらくさせる会社の論理と変わらなかった。いざ配達開始という段になってから、ヘンリーは空のペットボトルをリッキーに渡す。尿瓶だ、と。「からかうなよ」と応じるリッキー。彼はこの仕事が、トイレに行けないほど時間制約のきついものだとは、まだ想像できていない。悪い条件は、こうやって後出しされる。

 リッキーはハードワークを厭わない。それが大人の男の生き方だと思っている。けれども彼のその生き方が、自分と家族を追い込んでいく。

 息子のセブは、展望の見えない現実を前に、あがいている。そのあがきが、リッキーには、優等生だった息子の逸脱と映る。「今日こそ、目を覚ませ」というリッキーの言葉は、セブには届かない。私たちにも、届かない。

 そう。リッキーは、自分の言葉を持たないのだ。(職場の責任者)マロニーの期待に応えようとし、ヘンリーの助言に従い、懸命に働く。娘を車に乗せたことをマロニーにとがめられ、「でも、俺のバンだ」「仕事も自営だろ?」と疑問をぶつけるものの、「客からクレームが。客には逆らえない」とマロニーに言われると、返す言葉を持たない。

 閉塞感の中に、私たちは置き去りにされる。「考えろ、考えろ」とケン・ローチ監督は促しているのだろう。もはや、わかりやすい希望は提示できない。しっかり考えろ、と。

 次第に見えてくるのは、これが三世代にわたる物語だということだ。リッキーとアビーの世代、子どもたちの世代、そして、(妻の)アビーがケアする高齢者の世代。リッキーはハードワークを自らに課し、アビーは献身的にケアを続ける。暗転していく生活の中で、目の前のことに追われている二人は状況を把握できない。

 しかし息子のセブは、グラフィティの仲間を通して、頑張るだけでは道が拓けない現実をより深く認識し、言葉を探している。娘のライザは、まだ自分の言葉を失っていない。配達で犬に襲われた父親を目にして、「あなたは私の父さんに新品の下着を弁償してください」と、不在票に即座に書き込むことができる。

 訪問介護先でアビーは、モリーから若い頃の写真を見せてもらう。「1984年の炭鉱のストの時よ。クラブで無料カフェを開いた。500人も来たのよ」と語るモリー。彼女は「予定表を見せて。支払いは?」「どういうこと?朝7時半から夜9時までって。8時間労働制は?」とアビーに問う。移動費は自腹で、介護の合間は休憩時間とみなされ、細切れの訪問ごとに異なる報酬が発生するアビーの働き方には問題があることを、モリーは即座に把握する。

 その二つの世代の間に挟まれたリッキーとアビー。アビーは終盤でマロニーに電話で抗議するが、そのあとで「介護士で人をケアしているのに。人を罵った」と後悔の涙を流す。献身の職業倫理が、彼女の口をふさぐ。

 けれどもアビーには、耳を傾ける力がある。彼女に促されて息子を理解しようとしたリッキーは、大きな口が並ぶセブのスケッチブックを開いて、アビーに「知らない一面だ」と語る。アビーは、一人でトイレにも行けないと嘆くモリーに、「忘れないでね。私は、あなたから学んでる」と語りかける。子どもたちの世代から、そして高齢者の世代から、リッキーとアビーは学ぶことができる。ケン・ローチ監督の、そのメッセージを受けとめたい。

<上西充子氏(うえの・みつこ)・・・労働問題、法政大学教授。ケン・ローチ監督の前作「わたしは、ダニエル・ブレイク」に触れた『呪いの言葉の解きかた』(晶文社)を5月に刊行>