2019年6月30日第197回「今月の映画」「GODZILLA KING of the MONSTERS」
監督:マイケル・ドハティ 出演:渡辺謙 他
(1)この映画の「爆音」は物凄いです。ストレスを溜めていらっしゃる方におすすめです。
立川のシネマシティでは座椅子まで振動するので、爆音と共に「迫力」満点です。 さて、ゴジラの映画がこんなに色々な意味を持っているとはしりませんでした。「GODZILLA=ゴジラ」は「GOD=神」の意味があるのですね。「ZILLA」→「zillion=数えきれないほどの多数」「zillionaire=途方もない大金持ち、億万長者」 <<<ラッセル博士はオルカを使って地球上のすべての巨大生物を覚醒させて、人類によって汚染された地球環境をリセットし、巨大生物と共存する新たな世界を生み出そうとしていたのだ。>>> <<<ゴジラとは、天変地異の象徴であり、行き過ぎた文明への警鐘であり、太平洋戦争で亡くなった者たちの怨念であり、あるいは人間の愚行を諫める畏怖すべき存在でもあった。そこからは、天災によって多くの命を失った複雑な思いや、敗戦を経験した日本人の意識を読み取ることもできる。>>> <<<本作の怪獣たちは、「地球環境」を守護する生態系の一部であると設定された。ここでは、人類の所業によって、終焉へと向かう大自然に調和を取り戻す存在が、怪獣なのだ。>>> <<<ゴジラは地球の存亡をかけてキングギドラを迎え撃つ。かつてゴジラを、退治すべき巨大な爬虫類として描いたこともあるハリウッドが、畏怖すべき存在として捉え直し、日本の怪獣文化と真摯に向き合う姿は感動的でさえある。>>> |
(2)<STORY>
前作から5年後、アメリカ政府内で、巨大生物の存在を長年隠してきた組織モナークの解体を叫ぶ声が高まっていた。一方、中国・雲南省にある、モナークの前進基地に住むエマ・ラッセル博士と娘のマディソンは、モスラの幼虫が卵から誕生する瞬間を目撃する。幼虫は暴れ出すが、ラッセル博士が起動させた“オルカ”と呼ばれる音響装置によってモスラはおとなしくなった。その時、ジョナをリーダーとする傭兵部隊が基地を襲い、ラッセル博士とマディソンはオルカと共に連れ去られてしまった。 モナーク幹部・芹沢博士(渡辺謙)は、ラッセル博士の元夫でオルカの共同開発者であるマークに協力を要請。マークは娘を助けるため、オルカを使って2人を探すことを承諾する。 やがてラッセル博士たちが南極大陸にあるモナークの前進基地を目指していることを知ったマークは、南極へ向かう。その頃、南極基地は傭兵部隊に占拠され、彼らはそこに眠るキングギドラを、オルカで蘇らせようとしていた。モナークの面々が到着し、傭兵部隊と銃撃戦が展開される中、マークはラッセル博士、マディソンと再会。ラッセル博士はマークの目の前で、氷漬けのキングギドラを解き放つ爆薬の起爆スイッチを押してしまう。キングギドラの出現によって窮地に立たされたマークたち。そこにゴジラが現れてキングギドラとの死闘が展開され、キングギドラは空中へと飛び去っていった。 ラッセル博士が自ら進んで傭兵部隊に協力していると知り、ショックを受けるモナークのかつての仲間たち。ラッセル博士はオルカを使って地球上のすべての巨大生物を覚醒させて、人類によって汚染された地球環境をリセットし、巨大生物と共存する新たな世界を生み出そうとしていたのだ。 メキシコのモナーク基地内の火山からもラドンが復活し、付近の住民を恐怖に陥れる。そこにキングギドラが現れ、二大怪獣の空中戦が展開されるが、ラドンはキングギドラの敵ではなかった。勝ち誇るキングギドラの前にゴジラが現れて戦いが始まるが、米軍は怪獣を葬るために、新兵器オキシジェン・デストロイヤーの使用を決定。半径3キロメートルの生命体を殲滅させるこの兵器が、ゴジラとキングギドラに放たれた。果たして怪獣たちと人類の命運はどうなっていくのか? |
(3)「モナークとは?」(ABOUT MONARCH)
地球に生息する巨大生物の調査・研究を行っている秘密組織。その歴史は古く、1945年に広島に原爆が投下され、この時発生した放射能を狙って古代生物の一種“シノムラ”が出現。これに端を発し、46年前にトルーマン米大統領が巨大生物の調査を進めるべく、特務研究機関としてモナークを設立した。モナークは最新の技術を使い、地球上の未開地に巨大生物が多数生息していることを突き止め、その調査を秘密裏に行ってきた。だが70年前後に、これといった研究成果を出せていなかったこともあり、組織の規模は縮小。存続の危機に立たされたが、73年に髑髏島へ現地調査に赴いた折、超巨大類人猿コングの存在が確認されたことから、組織の有用性が認められた。 公の研究機関だが、アメリカ政府の特務機関であるために、その存在は大統領などごく少数の人にしか知らされていなかった。 2014年にゴジラとムートーがロサンゼルスで戦ったことで、怪獣の存在は全世界に知れ渡った。それと共にモナークも秘密組織ではなくなったが、長年にわたって怪獣に関する情報を秘匿してきたことがサンフランシスコの惨事を大きくしたとアメリカ政府内で突き上げを喰らっており、また怪獣の生態に関しても際立った研究成果が得られていないことから、19年現在は再び組織解体の危機に直面している。 世界中の数十か所に前進基地があり、怪獣を監視し、所属の武装部隊“Gチーム”が危機に備えている。 |
(4)「REVIEW」
<神々が人類に立ちはだかる、美しくも凶暴な怪獣叙事詩>(文/清水節・映画評論家) 前作『GODZILLA ゴジラ』(14)を引き継ぐドラマは底流にあるのが、全く感触の異なる映画が誕生した。カタストロフとアクションで畳みかける娯楽超大作へと、大きく舵を切ったのだ。ギャレス・エドワーズ監督による前作は、ミリタリー色の強いクライマックスを用意しながらも、第1作『ゴジラ』(54)に深い敬意を払って放射能の惨禍を強調し、ゴジラ映画の原点回帰を図っていた。対するマイケル・ドハティ監督の今作は、社会的テーマを内包しつつも、エンターテインメント性を色濃くし、バトルアクションとしてのゴジラ映画を、過激なまでにアップデートしている。 ドラマは努めてロジカルに。映像は極めてスペクタクルに。家族のドラマを中心に据え、日本が生み出した「怪獣」という未知の存在をグローバルな視点で据え直している。過去の『ゴジラ』シリーズはもちろん、世界のアンバランスが怪獣出現を促すTVシリーズ「ウルトラQ」(66)から、出自を神話に求めて怪獣災害をも直視した『ガメラ』平成三部作(95、96、99)に至るまで、ドハティは日本の怪獣カルチャーを貪欲に吸収した上で、ハリウッド製怪獣映画として再構築したのだ。 これまで謎めいた組織だった未確認生物特務研究機関「モナーク」の全容が明らかになり、その強大さに度肝を抜かれる。本作の主人公は、政治家や軍人から独立した権限を保つ、彼ら科学者だといっても過言ではない。科学者の知性だけが、世界の真実ににじり寄ることができるというリスペクトを感じさせる。 物語は、怪獣災害で息子を亡くし、離ればなれになった科学者夫妻のトラウマで幕を開ける。都市文明を破壊し、愛する者の命を容赦なく奪った怪獣への異なる向き合い方を、2人の科学者の態度が体現する。夫マークは怪獣に強い憎しみを抱き、妻エマは悲劇が繰り返されることがなきよう、怪獣とコミュニケーションを図ってコントロールしようとする。人間と怪獣をつなぐ回路に注目したい。ありがちな“精神感応”という手段を用いず、生体音のパルスを解析する装置が登場する。あくまでも科学的であろうとする作り手のスタンスが垣間見えた。展開の鍵を握る、夫妻の娘マディソンを演じるのは、Netflixドラマ「ストレンジャー・シングス未知の世界」シリーズ(16、17)の天才子役ミリー・ボビー・ブラウン。超能力少女としてブレイクした彼女が、知恵と身体のみを駆使する姿からリアリティの尺度を感じ取れる。 そして本作は、怪獣とは何かというテーマに、ハリウッド映画ならではの視座から大胆に迫っていく。水爆実験によって目覚めた古代生物ゴジラには、さまざまな設定や解釈が施されてきた。ゴジラとは、天変地異の象徴であり、行き過ぎた文明への警鐘であり、太平洋戦争で亡くなった者たちの怨念であり、あるいは人間の愚行を諫める畏怖すべき存在でもあった。そこからは、天災によって多くの命を失った複雑な思いや、敗戦を経験した日本人の意識を読み取ることもできる。 翻って、全世界の人々に向けられた本作の怪獣たちは、「地球環境」を守護する生態系の一部であると設定された。ここでは、人類の所業によって、終焉へと向かう大自然に調和を取り戻す存在が、怪獣なのだ。原語に耳を傾けてみよう。科学者たちが怪獣に畏敬の念を込めて言い表す印象深い言葉は、ラテン語の「タイタン」と、その女性名詞「タイタヌス」。レジェンダリー・ピクチャーズのモンスター・ヴァースの怪獣とは、ギリシャやローマの神話以前から存在し、世界を支配していた古の巨神だった。日本発のサブカルチャーを愛するギレルモ・デル・トロ監督は、『パシフィック・リム』(13)の巨大生物に「KAIJU」という日本語をそのまま当てたが、ドハティは、洋の東西を問わず、怪獣こそが「地球始原の神々」であると定義づけたのだ。 文明が伝承してきた神話世界が、科学技術の粋を集めたモナークの前に立ち現れる。このコントラストは興味深い。怪獣映画というジャンルムービーを、現代社会を舞台にした壮大なるSFファンタジーへ昇華させた作品ともいえるだろう。巨大なる神々はそれぞれに自然を司る。海底から姿を現すゴジラは水の化身であり、火山の溶岩を砕いて飛び出すラドンは火の化身。モスラは母なる大地から大空へ飛翔する。キングギドラの設定には膝を打った。太古から北極に封じ込められた状態は、南極で異生命体を発見する『遊星からの物体X』(82)へのオマージュを思わせつつ、ギドラが初登場した『三大怪獣 地球最大の決戦』(64)と同様に、地球外生物であることが明らかになった途端、新たな対立構図が生まれる。地球環境の一部ではないギドラは、生態系を造り変えようとする邪な存在だった。人類VS怪獣という構図が、地球怪獣VS宇宙怪獣へと変容する展開はダイナミックだ。 モナークは一枚岩ではない。渡辺謙が前作から引き続き扮する芹沢博士は、人類と怪獣との共存を唱えている。人間中心に世界を捉えるマークは、怪獣を殲滅すべきだと主張する。怪獣を手なずけようとしていたエマは、自然秩序の回復を訴える環境テロリストに感化され、地球の病原菌である人間など滅んだ方がいいという過激思想へと傾く。 怪獣をめぐる科学者たちの対立する考え方が、サスペンスをより醸成することは言うまでもない。最終決戦は、レッドソックスの本拠地であるフェンウェイ・パーク周辺。この地域ボストンが、アメリカ建国の原点である独立戦争の舞台であるのは偶然ではないだろう。ゴジラは地球の存亡をかけてキングギドラを迎え撃つ。かつてゴジラを、退治すべき巨大な爬虫類として描いたこともあるハリウッドが、畏怖すべき存在として捉え直し、日本の怪獣文化と真摯に向き合う姿は感動的でさえある。これは怪獣をモチーフに、自然と人間の関係性に思いを至らせイマジネーションを刺激する、美しくも凶暴な怪獣叙事詩である。 |
(5)「REVIEW」
<全編にゴジラ愛が充満!「さらば友よ」のセリフが胸にしみる・・・。>(文・鷲巣義明・映画文筆家) <略> 米国では日本と異なる流れでゴジラ人気が高まったが、米国が生んだ前作『GODZILLIA』(14)の大胆な設定に唸った。日本版設定の、大戸島の神“呉爾羅(ゴジラ)伝説”と“核の申し子ゴジラ”の出自を尊重しつつ、GODZILLAに込められた神(GOD)と怪獣王の称号を更に明確にしたかったように思う。ゴジラに対する日本と米国の認識、それにレジェンダリー社が示した新たな要素を加え、それぞれが劇中で刺激し合い、最高最大にパワフルなゴジラ映画を創造させた。前作では、ゴジラに恐怖を感じさせる描写もあったが、(作品内では)決して人類の敵ではないヒーロー然とした匂いもある。ゴジラは正義の味方でもあるという想い。 そんなゴジラ像を更に推し進めたのが、ドハティ版のよう。来日した折、彼は本作を“モンスター・オペラ”になると断言していた。2014年にゴジラが出現したことで弟を失ったマディソンと、彼女の離婚した学者の両親を主軸にして、怪獣に対するそれぞれの考え方が重要な鍵となる。怪獣により家族がばらばらになった哀しみと怒り、怪獣より人類を優先したいという考え、そして地球のために人類よりも怪獣こそ生き残るべきという考え・・・三者三様の想いが、人類が怪獣に思う縮図にもなっていて、そこに怪しげな過激な環境テロリストが絡んでくる。 人間ドラマから余分なものを排除し、自ら言葉を持たない怪獣らは(特にゴジラの想いを)人間が推測して代弁し、ドラマがスピーディに展開する。そして登場人物の周辺から、怪獣の要素や東宝怪獣映画への想いが充満してくる。ゆえに巨大怪獣絡みの描写が予想以上に多く、完全に大怪獣映画である。4大怪獣の見せ場をそれぞれ用意しつつ、ゴジラとキングギドラの舞台を変えての3度にわたる熾烈な戦いは、重量感と生物感に溢れていて凄絶!ギドラが地球外生物らしいことも明確にし、“怪獣王”の覇権・・・すなわち地球の支配権を賭けての戦い=“怪獣大戦争”や“怪獣総進撃”と比喩できそうな戦いが始まる。ゴジラとギドラの面構えは、どのショットを見てもサマになっていて、“さすが根っからの怪獣ファン、ドハティ”と唸らせる。特にゴジラに関しては、非戦闘状態の表情も良く、愛らしい面構えを垣間見せる。巨大怪獣らは、ドハティの想いによりスター級の扱いで、巨大スクリーンに映える栄える。 “人間が病原菌”のセリフで象徴されるように、人類は矮小な存在だが気の抜けない生物という感じだ。モナーク機関は世界各地に巨大怪獣を幾つか捕獲し、中国雲南省第61基地では、正式名称:タイタヌス・モスラの幼虫がいて、南極では氷漬けのギドラの復活に人間が加担してしまうのだから。 地球=自然はバランスを取るという。ファンタジー性の強い映画とはいえ、人類の環境破壊というシリアスでヘヴィなテーマを匂わせつつ、怪獣そのものの存在意義を明確にリアルに提示している。この相反する要素の融合は、『ゴジラ』1作目(54)からあった。 と同時に、東宝怪獣映画への敬愛もキメ細か。ギドラをモンスター・ゼロと呼称するが、これは『怪獣大戦争』(65)でX星人がギドラをこう呼んでいた。米軍の新兵器オキシジェン・デストロイヤーは、『ゴジラ』1作目(54)で芹沢大助博士が開発した、ゴジラ抹殺の新兵器になった。メキシコの火山から出現したラドンの顔(アップ)は、東宝特撮のギニョール風の印象が強いし、ゴジラが放射能を蓄える深海の神殿は、『海底軍艦』(63)のムウ帝国を匂わせる。放射能を存分に蓄えたゴジラが最終決戦では体内を赤く光らせて怒りを露わにするのは、『ゴジラVSデストロイア』(95)や『シン・ゴジラ』(16)を想起させる。そしてクライマックスでは、ゴジラ映画には必須の伊福部昭の旋律がアレンジされて流れ、我々の心を躍らせる。 芹沢猪四郎博士が深海の神殿にて、自らの死を賭して核弾頭を手動で起動させ、ゴジラに放射能を浴びせて復活させるシークエンスには感慨深いものがある。芹沢猪四郎博士が、長年、調査・研究してきたゴジラを目前にして言う。「さらば友よ」 感動した。でも日本人には少々考えさせられるところもある。人類が生き残る一縷の望みとはいえ、ゴジラに原子力の放射能を与えてしまう。被爆国で尚且つ福島原発の惨事を被った日本人からすれば、原子力を肯定しているようにも・・・いや違う、原子力の平和利用をも示唆し、原子力の是か非かの静かな問いかけのような気がする。 エンドロールには、米国のロックバンド、ブルー・オイスター・カルトの「ゴジラ」(77年発表)のカバー曲が流れる。ドハティ監督がゴジラを好きになっただろう時代のヒット曲だ。そのロールの最後に、近年故人になった日本人の名がクレジットされ、本作が捧げられた。レジェンダリー版ゴジラを企画推進した『ゴジラ対ヘドラ』(71)の坂野義光監督(本作のエグゼクティブ・プロデューサー)、そしてゴジラのスーツアクターとして昭和ゴジラの大半を演じた中島春雄氏だ(合掌)。芹沢猪四郎博士ではないが、両氏にとって、まさにゴジラに対しての想いは、「さらば友よ」の心情ではなかったろうか。 ドハティ監督や米国人のファンにとっても、ゴジラは友なのだと思う。 |
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