2018年9月30日第189回「今月の映画」「北の桜守」

監督:滝田洋二郎 主演:吉永小百合 堺雅人 篠原涼子 阿部寛 佐藤浩市 岸部一徳

(1)この映画は、歴史的にとても重要なテーマを扱っています。

 少々長い資料になりますが、私たちがあまり知らない、しかし、歴史的に極めて重要な内容が書かれています。

 沖縄戦だけでなく、樺太も大変なことが起こっていたことを、私たちはもっと知る必要があるように思いました。

天下の大横綱・大鵬のリンクもあります。

(2)<物語 story>

 太平洋戦争下の1945年、樺太。西海岸の恵須取(えすとる)で大きな製材所を営む江蓮てつ(吉永小百合)の大事にしていた桜が花開いた。夫の徳次郎(阿部寛)が本土から持ち込んだ桜の種を、てつが育て上げたのだ。いつかこの地で満開の桜を見上げる日を夢見るてつたちだったが、この年の8月にソ連が南樺太へ侵攻。てつと息子たちも、決死の思いで北海道への脱出を図る。「満月の日、4人揃ってきれいな桜をみよう」・・・出征した夫との、たったひとつの約束を胸に抱いて。

 いのちからがらたどり着いた北海道・網走で母子を待っていたのは、食べるものも着るものもままならぬ極貧と、意識を失うほどの過酷な寒さだった。てつはそんな生活から息子を守るため、闇米屋の菅原(佐藤浩市)から危険を伴う運び手の仕事を引き受け、糊口をしのいだ。やがて樺太時代からの友人・山岡(岸部一徳)にも助けられながら、てつは引き揚げ者住宅ではじめた食堂でおにぎりなどを出し、生計を立てるようになる。

 時は流れて1971年、札幌。成長したてつの次男・修二郎(堺雅人)は、妻の真理(篠原涼子)を連れてアメリカから帰国。ホットドッグストア・ミネソタ24の日本社長として、札幌での日本国内初出店の準備に追われていた。そんな中、修二郎は15年ぶりに網走に独りで暮らすてつを訪ねる。

 再会したてつの、年老いて少しおかしい様子に不安を抱き、いきおい自宅へ引き取ることを決めた修二郎。しかし日本初出店という大きな責務を担う彼は、このチャンスを掴んで母の苦労へ報いたいと願う一方で、老いた母の面倒を見るために仕事も中断せざるを得ないというジレンマにいらだちはじめる。真理も、突然の義理の母との同居に戸惑いを隠せずにいた。

 修二郎のためを思ってすることすべてが息子の邪魔をしてしまうと自責の念にかられたてつは、ある朝、忽然と姿を消す。何不自由ない生活を手に入れた息子に迷惑をかけたくないと思い、ひとり網走へ帰ろうとしたのだ。そんな母に抗いたい思慕の念を抱く修二郎は、てつと共に母子の思い出をたどる旅に出る。修二郎に寄り添われて、懐かしい思い出の地をめぐるうち、てつは失われた家族の記憶を取り戻していく。

 やがて旅路の果て、サハリンを望む日本最北端の海で、想像を絶する結末が待ち受けていた。

(3)<樺太の桜・あるいは、時を超えて(脚本・那須真知子)

 島国である日本に「陸続きの国境」があったことを知っている日本人は、もう随分と少なくなったかもしれない。この作品の背景の一つが樺太である。現在、ソ連にサハリンと呼ばれている島。戦前は、北半分はソ連、南半分は日本だった。「北の零年」「北のカナリアたち」に続く「北の桜」の脚本を担当できたことは嬉しいことであり、関係者に感謝申し上げたい。「零年」の舞台は、静内。「カナリアたち」は、礼文島。そして「桜守」は、今は失われ、二度と日本に帰ってくることのない南樺太まで、北へ、北へと何年もかかって、明治、平成、そして、昭和へと、時をも超えた不思議な旅をしてきたような気持になっている。

 脚本の依頼を受けた時点で、樺太の知識が不足していた為、猛勉強をすることになった。だが、本の知識だけではと悩んでいる時に、吉永さんの発案で、実際に樺太に行こうということになり、本当に嬉しかった読むだけの知識と、肌で感じる事とは、演技も演出も同じだと思うが、脚本にするにあたって、天と地ほど違うものである。

 主役の一家が住んでいたのは、ソ連との国境に近い樺太北西、恵須取という町に設定したが、交通の不便もあって遠く、行けなかった。残念だったが、吉永さん、滝田監督、スタッフとともに、以前、樺太庁があった、南樺太の中心地、豊原。終戦間際、中立条約を破って侵攻したソ連軍の銃声を聞きながら、最後まで職務をまっとうした女子通信員達が集団自をした電話局がある真岡、ソ連軍から逃れる引き揚げ船が出た大泊をまわることができた。

 日本が残した樺太庁の立派な建物は博物館として現存している。又、日本が敷設した鉄道や道路も現在、使われており、かつて、何もない島に渡り、一から始め、その後、鉱業製紙業漁業などが盛んで「宝の島」と呼ばれるようになった豊かな島を作り上げた日本の先人達の努力と勤勉さを身に染みて感じることができた。

 と同時に、荒れ果てたままに残っている大きな製紙工場の跡、今は別な建物が建っている真岡電話局の跡地などの前では、普通に暮らしていた人々が家族を守るために武器とも言えぬ武器をとり(敗戦間近、本土決戦の為に非戦闘員で結成された国民義勇隊で実際戦闘を行ったのは、ここ、南樺太だけだった)、あるいは、激しい空爆などの戦禍に巻き込まれた(沖縄だけでない)地上戦があった樺太の歴史が、今、なおざりにされていることに、胸が痛む思いをした。

  一番、胸が痛んだのは、吉永さんや監督とともに取材をした、樺太に生まれ、育ち、今なお、樺太に住む、一人の日本人女性の話である。その時、まだ、17、8歳だった彼女は、複雑な家庭事情で、引き揚げ船に乗ることが叶わなかった。それでも、どうしても日本に帰りたくて大泊の港まで走っていって、離れ行く引き揚げ船に、私を日本に連れていってくれ、連れていってくれと何度も何度も飛びあがりながら手を振ったという。

 複雑な事情故、ロシア国籍になって、70年以上、年を重ねた彼女が、まるで、その日の出来事が昨日のことであったかのように、今、その眼差しの先に、あの時の日本への引き揚げ船が映っているかのように話すその姿に、皆、言葉を失っていた。

 故国へ帰ることが叶わなかった、その彼女の焦がれるような想い、そして、この物語の主人公「江連てつ」の、故郷を奪われ、永遠に失ってしまったという深い喪失感を一つのものとして、吉永さんは声高にではなく、ひっそりと、だが、力強く、演じてくださったことに感謝している。愛する故郷を、家族を、永遠に失った人々の心の旅路の物語として、この作品を観ていただければ幸いと思う。

 最後に、南樺太を占領したソ連軍は、日本を意味するということで桜の木をほとんど切ってしまったが、今は、現地にいる日本人のたゆまぬ努力によって、再び、その可憐な花を力強く咲かせている。

那須真知子・・・福島県出身。日活シナリオコンクールに応募した作品が入賞し映画化されデビュー。80年代、一世を風靡した『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズ(85~88)で夫である那須博之監督とコンビを組む。『化身』(86)、『桜の樹の下で』(89)、『新・極道の妻たち』(91)、『霧の子午線』(96)、『デビルマン』(04)などを手がけ、また『北の零年』(05)、『北のカナリアたち』(12)、そして本作と続く、“北の三部作”全作品の脚本を担当している。

(4)<「桜守(さくらもり)」とは・・・>

 地域に根ざし、一年を通して桜の保護育成に従事する人々を「桜守」と呼ぶ。桜は他の植物に比べて病害虫や公害、腐朽病害に弱いため、異変には迅速な対処が求められる。そのため継続的に見守り、手をかけてやる必要がある。この保存活動は庭師や樹木医だけでなくボランティアによっても担われている。

 <桜守指導>(森田和市さん・日本花の会 桜の名所づくりアドバイザー)

・・・・・桜守指導として、本作の製作にどのように携わったのですか?

<森田>「当初脚本には『桜の苗を植えた』と書かれていたので、滝田監督に『ヤマザクラは種から蒔くんですよ』とお話ししました。監督も美術部の方も驚いたようで、その後台本も修正になりました」

・・・・・北海道が舞台の本作には、北海道で一般的なエゾヤマザクラが登場します。どんな特徴のある桜ですか?

<森田>「400種以上あると言われている桜の中で、遅咲きのエゾヤマザクラは寒さに強く堅牢。自生種の中では、花の赤みが濃いのも特徴ですね」

・・・・・時代考証的な確認作業もありましたか?

<森田>「1970年代には、まだ木の傷口につける水和剤はありませんでした。当時は赤土や墨を塗っていましたから、作中でてつが枯れかけた桜の木を手当てするシーンでは、墨と糊を使った方が自然な方法だとスタッフにお話ししました。墨には防腐効果に加え、消毒効果があるんです」

・・・・・桜守となって50年の森田さんが考える桜守という仕事とは?

<森田>「『桜守』とは、桜が好きだ、桜のためなら何でもしてやろうという気持ちが直接表れた行動だと思っています。この映画をきっかけに『桜守』という役目に理解が深まり、桜を保護しようという機運が高まってくれれば望外の喜びです」

(5)<てつたちの樺太>ー「終戦」から始まる最北の戦いー

 この項では本作の主人公てつたち家族が暮らした南樺太での生活と、そこで起きた悲劇の歴史を、江連家の4人がたどった物語に即して紐解いていく。

 <樺太の戦いとは>

 太平洋戦争の終戦目前に始まりポツダム宣言受諾後も続いた、ソビエト社会主義共和国連邦軍(以下ソ連軍)の侵攻に伴う一連の戦争状態。停戦協定成立後も緊急疎開が停止され多くの邦人が現地に取り残されることとなり、本土に向け自力で脱出を試みた者、ソ連軍により強制徴用された者など、樺太の戦いはその後長きにわたり住民たちの人生を左右することとなる。

 <年表>

1875年5月7日・・・樺太千島交換条約により樺太島がロシア領となる

1904年2月8日・・・日露戦争勃発

1905年9月5日・・・ポーツマス条約により南樺太が日本領となる

1907年4月1日・・・樺太庁設置

1943年4月1日・・・内地編入(「樺太ニ試行スル法律ノ特例ニ関スル件」廃止)

1945年8月9日・・・ソ連軍が南樺太へ侵攻を開始

     13日・・・樺太庁が緊急疎開を開始

     14日・・・ポツダム宣言受諾

     15日・・・終戦の玉音放送

     16日・・・ソ連軍が恵須取などに上陸

     20日・・・ソ連軍が真岡に上陸

     22日・・・三船遭難事件・日ソ軍間で停戦協定が成立

    24日・・・本土との疎開船が運行を停止

 <①南樺太の生活・・・「てつたちの史実Ⅰ」人々の暮らし>

 1945年当時、日本の領土であった南樺太地域には40万人以上の邦人住民が暮らしていた。主要な産業としては林業、製紙業、漁業、農業、石炭の採掘業などがある。

 本作の物語の起点となるのは、この南樺太の町・恵須取(現ウグレゴルスク)。真夏でも最高気温は20℃程度、厳冬期はー33℃を下回るなど厳しい気候であるが、製紙業と炭鉱業を中心に発達し、住民数は最大時で約4万人と、樺太庁都・豊原(現ユジノサハリンスク)と並ぶ樺太最大の都市の一つであった。

 <②最北の戦い・・・「てつたちの史実Ⅱ」ソ連軍の侵攻>

 1945年8月9日、終戦を目前に対日参戦を布告したソ連軍は同日中に南樺太への侵攻を開始。14日に日本政府はポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告したが、終戦の事実が末端の兵卒たちにまでいきわたらず、かつソ連軍が侵攻を止めなかったため交戦は続いた。

 20日にはソ連軍が真岡(現ホルムスク)に上陸。「第二の沖縄戦」と呼ばれる“国内”での大規模な地上戦が行われ、民間人を含む約1,000人が犠牲になったとされる。陸戦場となった真岡に残り、通信の確保という軍需を担った女性電話交換手9名が自決する真岡郵便電信局事件。避難民を満載した疎開船が襲撃にあった、後述の三船遭難事件。侵攻と応戦に伴い、樺太では多くの悲劇が本土の終戦の後に生じていた。

 22日に樺太の日ソ両軍で停戦協定が成立しても南樺太への攻撃が止むことはなく、最終的な犠牲者は民間人約4,000人、軍人約1,000人に上った。

 <③最北の戦い・・・「てつたちの史実Ⅲ」看護婦23人の集団自決>

 1945年8月17日未明、恵須取郊外の武道沢と呼ばれる山中で若い看護婦23人が集団自決を図った。彼女らは恵須取市街から約10㎞離れた病院に勤めていたが、16日にソ連軍機の無差別攻撃を受け、南の上恵須取方面への避難を決める。道中、進行方向から来た別の避難民に出会い、包囲されたと判断し避難を断念。全員が自決を実行し、内6名が亡くなった。

 <④最北の戦い・・・「てつたちの史実Ⅳ」三船遭難事件>

 大泊(現コルサコフ)を出発した3隻の疎開船(小笠原・第二新興丸・泰東丸)が国籍不明の潜水艦の襲撃を受け、沈没/大破。約1,700人が犠牲となった一連の遭難事件。劇中に登場する小笠原丸は22日に沈没。ほとんどが避難民である女性や子供であった乗船人員702名中、641名が死亡したとされている。

<⑤終わらない悲しみ・「てつたちの史実Ⅴ」ソ連軍による邦人抑留と現在

 停戦協定が結ばれた直後からソ連は島民の移動を禁じ、現地住民たちは公的に本土に戻る手段を絶たれた。

 ロシアの資料によると、日本領であった南樺太・千島の地、北方四島に住む邦人を含む約29万人をソ連は抑留。多くは送還されたが、管理記録が残るだけでも旧ソ連送還収容所で263人が送還前に死亡。他にもシベリアをはじめとしたソ連領内への強制労働に送られたり、治安機関に引き渡されるなど1,069人の帰国がかなわなかった。様々な事情で樺太での生活を続ける選択をせざるを得なかった者も多く、今もなお現地在留者への帰還支援が続けられるなど、人々の労苦は続いている。

(6)<スペシャルインタビュー>

 <吉永小百合*納谷芳子*第69代横綱・白鵬>

 今回の劇中で、てつと息子たちは南樺太へ侵攻するソ連軍から逃れるため、北海道へ脱出を図る・・・。これは、終戦下の日本で行われた疎開措置で、多くの避難民が疎開船に乗り、樺太から北海道を目指した。本作に登場する小笠原丸も実際に出港した船のうちの一隻。1960年代、子供の好きなものの代名詞として「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語が生まれるほど、人々から愛された第48代横綱・大鵬も小笠原丸に乗船していたという。夫人である納谷芳子さん、生前の大鵬関と親交の深かった第69代横綱・白鵬関、そして吉永小百合さんのスペシャルインタビューが実現。大いに語っていただいた。<<「トピックス」第87回「名横綱・大鵬幸喜」ご参照ください。>>

・・・まずは映画をご覧になった、納谷さんと白鵬関のご感想からお聞かせ下さい。

<白鵬>樺太から母子が引き揚げるシーンでは、涙が出ました。62キロの小さな体で、海を渡って日本にやって来た、昔の自分と重ね合わせてしまって。そして大鵬親方も、ああいう風に海を渡って来られたんだなと感動しました。

<納谷>当時、主人は5歳でした。きっと映画で描かれていたような感じだったのだろうと思うと、涙が止まらなくて・・・。

<吉永>大鵬さんのお母様が「もう船には乗りたくない」とおっしゃったと伺いました。それが幸いして、大鵬さんのご家族は、無事に北海道へ渡ることができたのでしたね(注釈:大鵬親子は当初、小笠原丸でサハリンから小樽へ向かう予定だったが、母親の体調不良から稚内で途中下船した。その後小笠原丸は、国籍不明の潜水艦から魚雷攻撃を受けて沈没。大鵬親子は辛くも難を逃れた)。

<白鵬>親方には息子のようにかわいがってもらいましたが、幼少時代にご苦労された話は、聞いたことがありません。その後立派になって、親孝行もされて、凄いなって思います。

<吉永>テレビ番組などで、何度かお目にかかったことがありますが、温かい感じの横綱でいらっしゃいました。晩年、大鵬さんはよく稚内に行かれていたそうですね?稚内から故郷のサハリンが見えるから、と。

<納谷>「サハリンは近いようで遠い」と、海辺で娘に話したことがあるそうです。引き揚げ当時のことは、主人も、同居していた主人の母も、あまり話しませんでしたね。つらい思い出があったのだろうから、私もきいちゃいけないと思っていましたし。

<吉永>大鵬さんのお母様・キヨさんは、どんなお母様でしたか?

<納谷>母にきれいな洋服を着せてあげたいと、主人が用意しても、北海道から着てきた着物を着て、朝早くから近所のゴミ拾いをして。主人が「恥ずかしいからやめてくれ」と言っても「うるさい!」って(笑い)。

<吉永>本当に苦労して生きてこられたからこそ、息子に頼ってはいけないという気持ちになられたのでしょうね。今回私が演じたてつさんも本当に逞しくて、憧れました。

<白鵬>修二郎がお母さんの布団に入るシーンを観ていて、日本に来るまでずっと、両親と川の字で寝ていたことを思い出しました。モンゴルの冬は寒いから、食器を洗ったりして、いちばん最後に休むお母さんの布団を温める役を、私がしていたんです。五人兄弟の末っ子で、甘えん坊だった私に、大鵬親方はいつも優しかったです。

<納谷>弟子たちには厳しかったから、その分私がおかみ兼母親としてフォローしました。沖縄出身の友鵬が「やめたい」と言った時に、いくらのおにぎりを食べさせたら「これを食べると“ここにいよう”と思っちゃう」なんて(笑)。当時はほとんどの子が15歳で親元を離れて部屋に来ていたから、みんなのお母さん役でしたね。

<白鵬>映画を観ていたら、おにぎりが食べたくなりました。

<吉永>そうですか!(修二郎役の)堺雅人さんも、テストから本番まで本当に食べてくださって。お腹いっぱいになったと思うんですけど、嬉しかったです。

<白鵬>実は北海道の滝川市で、白鵬米というお米を作ってるんですよ。モンゴルでは白米が作れず、輸入しているので、挑戦してみようと思って。毎年田植えにも行ってます。江戸時代から横綱は72人誕生したけど、田んぼに入った横綱は、私だけじゃないかな(笑)。

<吉永>北海道でも、昔はお米ができませんでしたが、今は日本でいちばんおいしいとも言われてますね。

<白鵬>そうなんです。それを目指して!いつか吉永さんに、おにぎりを握っていただきたいです。

<吉永>白鵬米ですね(笑)。

<白鵬>いいですね!そうそう、今年1月に、大鵬親方のお孫さん(納谷)が角界入りしましたよね。彼に負けたら引退しようか、なんて思っているんです(笑)。

<吉永>時々国技館へ行って、大きな声をあげている相撲ファンとしては、その取組はとても楽しみです。

・・・時代のめぐりを感じる取組ですね。改めて、終戦の混乱期に小笠原丸に乗っていた少年が、戦後、昭和の大横綱・大鵬になるというのも実にドラマチックなお話しです。

<吉永>引き揚げ後に重労働をなさったりしたことも、大鵬さんが語っていらっしゃいました。そういうご苦労が全部いい形で出たのではないでしょうか。

<白鵬>私は七年くらい前から「運」という漢字が好きになりました。運は努力した人間にしか来ない。それもひとつではなく、たくさん努力を積む人のもとにだけ、運はやって来るんじゃないかと思うんです。

<吉永>私にとっては幸運というのか、いい時代に映画の世界に入れたから、俳優としてずっとやって来られたのだと思っています。デビュー当時は、夢を創る工場のように、たくさんの映画が作られて、大勢の方たちが応援してくださった。それが今につながっています。今の時代ならば、年間の製作本数も少ないので、120本も出演できなかったでしょう。

<白鵬>まさに、自然の摂理を感じるようなお話ですね。実は私が部屋に入る時、相撲取りではなく、床山さんにした方がいいという声もあったのだそうです。よくぞ親方は相撲の道を選んでくださったと感謝しています。まだ私の身体も見ておらず、電話一本(のつながり)でしたから!モンゴルには「王になろうとする人間を王にしてはならない。王になるのは、運と宿命だ」というチンギス・ハーンにちなんだ言葉があります。自分の道で努力をし、頑張ることは当然ですが、さらに自然と導かれることもあると私は思います。

<納谷>横綱と同じで、主人も相撲を始めた当初は、身体が細かったそうです。当時は主人に限らずみんな、ハングリー精神だけは持っていたと思うのですが。

<白鵬>根性の塊でしたよね。やはり苦労をしていない人は、人の上には立てないと思います。吉永さんも、ずっと水泳で鍛えていらっしゃいますが、その原動力は何ですか?

<吉永>映画が好きだからです。

<白鵬>素晴らしい!その言葉は今の私には十分なアドバイスというか、まだまだ頑張ろうという気持ちになれました。

・・・本日はありがとうございました。

HPのトップへ