「今月の映画」第190回「日日是好日(にちにち・これ・こうじつ)」

原作:森下典子 監督:大森立嗣 主演:黒木華・樹木希林・鶴田真由・鶴見辰吾・多部未華子

(1)私(藤森)が読んだ「禅」に関する本を調べてみましたら、ある本(やや軽い本)は「にちにち・これ・こうじつでしたが、もう1冊(やや硬い本)は「にちにち・これ・こうにち」でした。

 どちらが正しいのか、あるいは両方正しいのか私には分かりませんが、映画のタイトルは「こうじつ」ですので、「こうじつ」として話を進めます。

「こうじつ」の本と、「こうにち」の本の意味は、最後の(5)と(6)で紹介してあります。お楽しみください。

 まず、パンフレットの案内からご紹介します。

(2)<STORY>

 世の中には、「すぐわかるもの」と、「すぐわからないもの」の二種類がある。

 すぐにわからないものは、長い時間をかけて、少しずつ気づいて、わかってくる。

 子供の頃はまるでわからなかったフェリーニの『道』に、

 今の私がとめどなく涙を流すことのように。

 大学時代に、一生をかけられるような何かを見つけたい。でも、学生生活は瞬く間に過ぎていき・・・。典子(黒木華)はニ十歳。真面目な性格で理屈っぽい。おっちょこちょいとも言われる。そんな自分に嫌気がさす典子は、母からの突然の勧めと、「一緒にやろうよ!」とまっすぐな目で詰め寄る同い年の従姉妹、美智子からの誘いで“お茶”を習うことになった。まったく乗り気ではない典子だったが、「タダモノじゃない」という武田先生(樹木希林)の噂にどこか惹かれたのかもしれない。

 稽古初日。細い路地の先にある瓦屋根の武田茶道教室。典子と美智子を茶室に通した武田先生は挨拶も程々に稽古をはじめる。折り紙のような帛紗(ふくさ)さばき、ちり打ちをして、棗(なつめ)を「こ」の字で拭き清める。茶碗に手首をくるりと茶筅(ちゃせん)を通し「の」の字で抜いて、茶巾(ちゃきん)を使って「ゆ」の字で茶碗を拭く。お茶を飲み干すときにはズズっと音をたてる。

 茶室に入る時は左足から、畳一帖を六歩で歩いて、七歩目で次の畳へ。意味も理由もわからない所作に戸惑うふたり。質問すると「意味なんてわからなくていいの。お茶はまず『形』から。先に『形』を作っておいて、その入れ物に後から『心』が入るものなのよ」という武田先生。「それって形式主義じゃないんですか?」と思わず反論する美智子だが、先生は「なんでもで考えるからそう思うのねぇ」と笑って受け流す。毎週土曜、赤ちゃんみたいに何もわからない二人の稽古は続いた。

 鎌倉の海岸。大学卒業を間近に控えたふたりは、お互いの卒業後を語り合う。美智子は貿易商社に就職を決めたが、典子は志望の出版社に落ちて就職をあきらめたのだ。違う道を進むことになったふたりだが、お茶のお稽古は淡々と続いてく。初めて参加した大規模なお茶会は「細雪」のようなみやびな世界を想像していたが、なんだか大混雑のバーゲン会場のようだ。それでも本物の楽茶碗を手にし、思わず「リスみたいに軽くてあったかい」と感激した。

 就職した美智子はお茶をやめてしまったが、出版社でアルバイトをしながらお茶に通う典子には後輩もできた。お茶を始めて二年が過ぎる頃、梅雨どきと秋では雨の音が違うことに気づいた。「瀧」という文字を見て轟音を聞き、水飛沫(しぶき)を浴びた。苦手だった掛け軸が「絵のように眺めればいいんだ」と面白くなってきた。冬になり、お湯の「とろとろ」という音と、「きらきら」と流れる水音の違いがわかるようになった。がんじがらめの決まりごとに守られた茶道。典子はその宇宙の向こう側に、本当の自由を感じ始めるが・・・・。

 お茶を習い始めて十年。いつも一歩前を進んでいた美智子は結婚し、ひとり取り残された典子は好きになったはずのお茶にも限界を感じていた。中途採用の就職試験にも失敗した。お点前の正確さや知識で後輩に抜かれていく。武田先生には「手がごつく見えるわよ」「そろそろ工夫というものしなさい」と指摘される。大好きな父とも疎遠な日々が続いていた。そんな典子にある日、決定的な転機が訪れるのだが・・・。

(3)<簡単なものほど会得するのが難しい。人生そのものである。>
                          (ミヤケ マイ

 2017年の日本の女性の平均寿命は87歳、離婚率は約35%で3組に1組が離婚している。この凡てが移ろいゆく不確かな世の中で、私は信じてすがれるものを子供の頃から探し続けて来たような気がする。真実の愛や、子供、家族など月並みに人並みに望んできたものの、今の所、真実の愛は大体願う程長くなく、子供も最近のパラサイトニートだとしてもマックス30年(であって欲しい)、実家の家族も順当にいけば自分より先に消滅する。伸び続ける平均寿命を横目で睨みながら私は途方にくれる。 子供の頃、私はたくさんの習い事をさせられていた。坊主めくりのように次々にめくって、どれか一つでもハマるものがあればという親心だったと思う。習い事には武道、花道、茶道と「道」のつくものと、ピアノ、バレエ、水泳のようなただの習い事があった。

 ロイヤルアカデミー付属で日々プリマに憧れたり、「イルカ」というあだ名がつくぐらい毎日泳いだりもした。あの頃は人生の大半がそれ中心に廻っていたと思うが、180度開脚したり、毎日10㎞も泳いでいた自分がいまでは信じられない。中学校の友達と高校が別々になっただけで疎遠になってしまうみたいに、ただの習い事はいつのまにか私の生活の中から消え、道がつくお稽古ごとだけが残った。 残るものと消えてゆくものは、何が違っていたのだろう。
私の場合そこにはいつも先生達がいた。劇中、樹木希林が演じる武田先生のおじぎ姿を見ただけで「只者ではない」と見破る典子の母もまた只者ではないが、確かに「道」の先生達はその道のスペシャリストなだけでなく、そこを経て人生のスペシャリスト的な風格があり、お稽古場にはどこか祖父母の家や実家に戻ったような安心感が漂っていた。

 お茶の世界では血が繋がってなくても同門は家族とみなす。実の親子よりお茶の親子の方が上手くいくことも多い。どの先生も「自分も未だ到達しているわけでなく、道は死ぬまで続く。頭で覚えたものは忘れやすいが、身体で覚えたものは一生物だ」と異口同音に仰っていた。お稽古は一生物、死ぬまで修行は続くと。道は、武田先生の言うところの「毎年同じことができる幸せ」を与えてくれる。

 道は、終わることのないもの、自分が終わった後も続くものの一部になれる機会を教えてくれる。『さよなら渓谷』、『セトウツミ』などで日本独特の何かを掬い上げ続けて来た大森立嗣監督は、永遠に続く日本の二十四節と共に、何かを悟るには短く儚い私達の人生を本作で誠実に映している。

 茶席の掛物は色々あるが、浅学で古筆に暗い私は大概読めずに誰かに聞いているが長年、「日日是好日」を「ヒビコレコウジツ」だと思っていた。なぜならどれも簡単な漢字の日日是好日は読めると思っていたし、なんとなく毎日がいい日という意味も解りやすいと思っていた。簡単なものほど会得するのが難しい。人生そのものである。いいタイトルの映画だ。忙しくて行けていないお教室に、久々に行きたくなった。

<ミヤケマイ・・・美術家。2001年から作家活動を開始。日本独自の感覚に立脚しながら物事の本質を問う作品を展開。骨董、工芸、現代アート、デザインなど既存のジャンルを問わずに天衣無縫に制作発表している。『膜迷路』(2012)、『蝙蝠』(2017)など4冊の作品集がある。東アジア文化都市2018金沢『変容する家』(金沢21世紀美術館2018年9月15日ー11月4日)、釜山市立美術館『ボタニカル』(釜山市立美術館2018年8月24日ー2019年2月17日)参加展示中>

(4)<「静」と「動」の織り成す女性映画>(山根貞男・映画評論家)

 『日日是好日』は正真正銘の女性映画である。黒木華、多部未華子、樹木希林の三女優が、お茶を習う・教えるという関係を演じるのだが、その間、二十数年の歳月が流れる。三人の女の半生を描く映画といっても大袈裟でなかろう。

   女優三人の対比が素晴らしい。ことに若い二人がお茶を習い始めるころの服装に注目しよう。黒木華は青っぽい服で、多部未華子は赤い服。その後も、両人の衣装はほぼ寒色と暖色に分かれる。そして、先生の樹木希林は地味な色の着物で終始する。主要人物の三人三様の個性がビジュアルに提示されるのである。

 黒木華は古典的といっていい清楚な日本美人、多部未華子は派手な現代的な美女と、容姿もくっきりと対照をなす。そんな若い二人が、樹木希林の渋みのもと、日本座敷でお茶を習い、習熟してゆく姿が、四季の移り変わりとそれぞれの生活の変化とともに描かれる。それを見守るうち、多部未華子の出番が少なくなることもあって、黒木華の印象が微妙に違ってくる。清楚さがどんどん輝きを増してゆくのである。そうしてヒロインが誕生する。

 監督は大森立嗣。デビュー作以来の全作品に熱い視線を送ってきたわたしは、一年ほど前か、大森監督がつぎに「お茶の映画」を撮ると聞いたとき、きょとんとした。前作『光』(17)を見た直後で、井浦新と瑛太が幼馴染の悲惨な関係を力演する作品に瞠目した者としては、「お茶の映画」、何それ、と思うではないか。

 近年の大森作品を思い起こしてみよう。『光』の前が、菅田将暉と池松壮亮が高校生二人組を演じる『セトウツミ』(16)。その前の『まほろ駅前狂想曲』(14)と『まほろ駅前多田便利軒』(11)は瑛太と松田龍平の共演するドタバタ劇。その間の『さよなら渓谷』(13)では真木よう子と大西信満が残酷な男女の関係を演じ、『ぼっちゃん』(13)は秋葉原無差別殺傷事件を描く。明らかに大森立嗣は男っぽい作風の監督であろう。

 そんな監督が「お茶の映画」を撮るとは信じがたい。しかし大森立嗣なのだからと、わたしは『日日是好日』を半信半疑で見た。驚いた。まぎれもない傑作である。固定イメージによる思い込みを反省し、映画監督としての幅を考えねばならない、と思い、いま、この原稿を書いている。

 『日日是好日』は、お茶を習うというシンプルな設定のまま、大きな世界をくりひろげる。波瀾万丈の物語が描かれるわけではないが、お茶を習うという、ただそれだけのことが、いかに波瀾に富んでドラマチックかを説得力満点で示す。細部の描写が、その積み重ねが、説得力を生み出すことはいうまでもない。

 若い女性二人が、先生のてほどきで、茶道において必要不可欠な所作の数々を順々に知ってゆく。すこぶる微細で、スクリーンにはそれが逐一丁寧に映し出されるから、一瞬、うんざりするかと思いきや、まったく逆で、画面から目が離せない。その間、さまざまな茶道具が使われ、これまた逐一説明がつくのだが、退屈するどころか、目を皿にして見入ってしまう。所作=身のこなし=仕草も、道具=モノも、少なくとも劇映画にとっては、基本的に重要な要素であろう。さらに、それらの場となるものとして、室内が、庭が、その家の前の路地が、みごとに造り上げられている。

 とにかくすべてが、見ていて楽しい。茶道具はホンモノかもしれないが、所作は俳優の演技で、部屋や庭などはセットであろう。それらのミックスが目と耳を楽しませてくれるとき、実物か作り物かの区別など誰も気にしない。すべてが溶け合い、映画ならではの時空を鮮やかに浮かび上がらせているのである。見入ってしまうとさきに記したが、むしろ、魅入ってしまうと書くべきで、楽しませてくれるも、娯しませてくれると書いたほうがいい。

 多くのシーンはお茶を習う室内で、それもさほど広い部屋ではない。驚くべきは、そんな場所における女性たちの所作が自在なカメラワークで撮られていることで、カット割りが千変万化する。というと、画面が慌ただしくなるかに感じるが、そうならず、静謐さに貫かれている。路地のシーンが賑々しさに満ちているのと対照的に、お茶を習うシーンがくっきりと際立つ。映画全体の流れは、いわば外の世界の「動」と「静」のあいだを行き来して成り立っているが、撮り方は後者に力点が置かれているのである。カメラワーク自体がお茶の世界を体現している。

 二十数年の月日が流れるから、ヒロインの人生には紆余曲折がある。失恋もするが、相手の姿も経緯も描かれず、ただ黒木華の号泣だけで表現する。その後、新しい恋人ができたときも、彼はちらりと後ろ姿で見えるだけで終わる。多部未華子のほうは結婚式のシーンがあり、相手の姿がばっちり映し出されるから、大違いであろう。この場合にも、黒木華の「静」が多部未華子の「動」との対照のもとに強調される。

 そういえば、『セトウツミ』では高校生二人が川べりで話す姿だけで、季節の移り変わりも含め、大らかな世界が描かれた。『まほろ駅前』シリーズ二作では、出来する事件のなか、主人公二人の「動」と「静」の対照が魅力となっていた。

 大森立嗣は『日日是好日』で方向転換したわけではない。

(5)<日日是好日(にちにち・これ・こうじつ)>
                (「やさしい禅の教え」建長寺布教師会、ワニマガジン)

 「良い日も悪い日も貴い」 朝のニュース番組の占いコーナーが好きです。
「きょうラッキーな人はさそり座です。健康運は最高。ラッキーカラーはピンク。よい一日を・・・・・」
 何気なく、今日こそはいい日になるといいなと期待しながら見ているのですね。だから、占いの結果がよくないときは、少し落ち込んでしまいます。おまけに、現実は、ついていないことのほうが多いようです。予定表はぎっちり埋まっているのに、お客さんからの突然のクレームに対応しなければならなくなったり、残務がたまりにたまって、デートの約束がまただめになったり・・。 晴れの日と雨の日がある天気のように、私たちの日常はついている日とそうでない日の繰り返し。だからこそ、ツキに振り回されないで、生きたいものですね。 方法は簡単です。とにかく、毎日を真剣に生きればいいのです。ついていない日こそ、がっちりと構えて対処すればいいのです。一生懸命働く。決して逃げない。ともかく動けば、なにかしら解決に向かっていくことは確かなのです。不運はむしろ最大のチャンスと前向きに考えましょう。

 一日を終え、ぐっすりと眠り、明日またすっきり目覚める。それが明日への活力になっていく。逃げてばかりいると、どんどん袋小路にはいるように埒があかなくなってしまいます。

 いつまでも逃げにまわっていたなら、すべて順調という日は二度とくるはずがないのです。明日、いや、すぐに雨になるかもしれません。何事も今すぐにやりましょう。「疲れているから」、「時間がないから」と、日日是口実にしないように!毎日を、今というときを、真剣に生きましょう。

(6)<日日是好日(にちにち・これ・こうにち(「碧巌録」第六則)
                               (「禅語百選」松原泰道、祥伝)

 『碧巌録』第六則に見える言葉で、世間でもよく知られています。しかし、白隠ですら「容易ならぬ」と嘆じたほど大切な言葉です。日日是好日・・・とは、常識的にいう「毎日が大安吉日」ではありません。 まず、日がらがいい(好日・ここでは「こうじつ」とフリガナがあります)とか、日がらが悪い(悪日・あくび)とかのはからいや、こだわりを離れるのです。天候や季節に対してもまた同じです。自分を中心とする考え方を去って、環境の中に美なるもの、真なるものを開発するのです。吉川英治氏の「晴れた日は晴れを愛し、雨の日は雨を愛す。楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ」の一言は「日日是好日」に近いといえましょう。 「花発多風雨 人生別離足(花、発(ひら)いて風雨多く、人生別離足る)」と、『唐詩選』に見えます。千武陵(せん・ぶりょう)という詩人の「勧酒(かんしゅ・酒をすすむ)」の中の句です。「花が咲くと、とかく風雨が多いし、人生もウンザリするほど別離の悲しみが多い」との嘆きです。
しかし、この嘆きに徹すると“そうだ、それが真実だ”と、空しければ空しいほど、無常であればあるほど、花も美しいし、人生も尊く実感できる転換が大切です。それはまたのこころでもあります。

 千の宗旦は、茶聖利休の孫です。静寂な茶室を建てたので、庵名をつけてもらうために、かねてから師侍する紫野の大徳寺の清巌和尚を招きます。

 ところが、急用ができたので宗旦は、「不在することをわび、明日お目にかかりたい」旨を記した手紙を弟子に託して外出します。
やがて、宗旦が帰ってみると、留守中に訪ねた清巌の、これまた置き手紙があります。見ると僅か八文字で、

懈怠比丘 不期明日(げたいのびく 明日を期ご>せず)」

 とあるだけです。「懈怠の比丘・・・怠け者の坊さん・・・の私には、明日がわからない」と。
これを読んで、宗旦はすぐに大徳寺に清巌を訪ね、謝罪の心をこめて、

 「今日今日といいてその日を暮らしぬる。明日の命はとにもかくにも」と詠じます。

 この縁に因んで、庵を「今日(こんにち)庵」と命名されたのです。現在、京都裏千家にある二畳の茶席です。宗旦は、また自らも『今日庵』と号しました。

 私たちに許されてあるのは、「即今(そくこん)」というただ今このときだけです。この一刻を、一日を精いっぱい大切に踏みしめて生きるとき、晴雨・悲喜もそのままに身心が健やかに安らぎます。

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