2024年8月31日第258回「今月の映画」「もしも徳川家康が総理大臣になったら」
監督:武内英樹(日本の歴史を作ってきた偉人たちの偉大さを感じてもらえたら嬉しい)
原作:眞邊明人(まなべあきひと・本作のベースにあるのは「民主主義とは何か」という疑問)
(1)「STOTY」
ピンチだよ、偉人集合! 最強ヒーロー内閣、ここに爆誕!! 時は、2020年。地球規模で新型コロナウィルス感染症が流行し、世界がパンデミックに陥った。ここ日本においても大混乱が生じ、追い打ちをかけるように総理大臣・原太郎がコロナに感染し亡くなってしまう。名実共にリーダーを失い、制御不能となった日本の政情。そこに登場したのが、日本が誇る世界一のスーパーコンピューター「IZUMO」とノーベル賞受賞者である故・水口毅教授が生み出した最新AI技術、企業が開発した最新3D技術の総力を結集させた最強の偉人内閣だった!あらゆる混沌と動乱の時代から甦った歴史上の偉人たちは、そのリーダーシップと英知をもってどんな政策を打ち出し、日本の危機を打破するのか!? ≪用語解説≫ 【度量衡】租税・貨幣・土地制度確立のため、計量に用いる長さ(度)・体積(量)・重さ(衡)の基準を定めた制度。 【楽市・楽座】商工業の発展のため、座や市などの同業組合に特権を持たせず、万人に自由な商売を認めた制度。 【藩政改革】江戸時代、それぞれの藩が行財政再建のために行った政治・経済改革。 【儒学】孔子の教えをもとにした思想・学問。その一派、朱子学が江戸幕府の政治規範となった。 【武断政治】武力、強権による政治。 【文治政治】法令や教育の奨励で人心を治めようとする政治。 【追討の院宣】後鳥羽天皇による北条義時追討の命令書。 【国司】地方に置かれた役人。中央から派遣された貴族が就いた。 【戊辰戦争】1868年「鳥羽・伏見の戦い」に始める旧幕府軍と新政府軍の戦い。 【箱館戦争】戊辰戦争の最後の戦い。 |
(2)「We are 偉人」
<内閣総理大臣・徳川家康・野村萬斎> 1542~1616 戦国時代から江戸時代初期の武将、征夷大将軍(江戸幕府初代)。三河国岡崎城(現・愛知県岡崎市)城主・松平広忠と於大とのあいだに生まれたが、間もなく母と別れ、父も急逝し、織田信秀(信長の父)、今川義元のもとで足かけ13年近くの人質生活を送る。桶狭間の戦いで義元が信長に討たれたのを機に、今川家から独立。信長と同盟を結び、三河国・遠江国(現・静岡県西部)・駿河国(現・静岡県中部)3カ国の大名に成長した。本能寺の変で信長が横死すると、混乱に乗じて甲斐国(現・山梨県)・信濃国(現・長野県)の大半も併合し、5カ国の大名となるが、急速に台頭した羽柴(のち豊臣)秀吉と小牧・長久手の戦いで対決し、秀吉に従う。その後、国替えで関東6カ国余りを有する豊臣政権最大の大名となった。秀吉の死後、豊臣政権の主導権をにぎり、対立した石田三成らを関ヶ原の戦いで粉砕、江戸幕府を開く。さらに大阪の陣で豊臣家も滅ぼし、徳川の平和を実現した。 |
(3)「We are 偉人」
<農林水産大臣・徳川吉宗・髙嶋政宏> 1684~1751 江戸時代中期の征夷大将軍(江戸幕府8代)。紀州藩主・徳川光貞の四男に生まれる。将軍・徳川綱吉への謁見以降、栄達を重ねて紀州藩主に。綱吉の一字「吉」を賜わって、吉宗と名のる。藩政改革に成果をあげたのち、幕府将軍に就任。財政再建と行政改革を積極的に行ったが、とくに米の価格のコントロールや新田開発に熱中したため、「米将軍」と呼ばれた。庶民派で、広く世論を聞く目安箱を設け、桜の植樹、小石川養生所の設置などの事業も行っている。
<法務大臣・聖徳太子・長井短> 574~622 飛鳥時代の政治家。用明天皇の皇子。厩戸皇子、厩戸王などとも呼ばれる。仏教導入に反対する物部守屋を、当時の実力者であった蘇我馬子と共に討ち、叔母である推古天皇が即位すると摂政に就任。仏教にもとづく国づくりをめざす。馬子と共同で国政を行ない、能力制で役人を登用する「冠位十二階」や、わが国初の憲法となる「憲法十七条」の制定を行ったとされ、数々の太子伝説を生んだ。また遣隋使を派遣し、大陸の先進文明の導入に貢献したという。 |
(4)「We are 偉人」
<財務大臣・豊臣秀吉・竹中直人> 1537~1598 戦国時代から安土桃山時代の武将、関白。尾張国(現・愛知県西部)で農民の子に生まれたが、織田信長に仕え、その勢力拡大を粉骨砕身の働きで支える。近江国(現・滋賀県)北部の大名・浅井長政を滅ぼした際の功績で、長浜城12万石の大名となった。信長の命で中国地方の大大名・毛利氏と戦っている最中、本能寺の変が勃発し、信長が明智光秀に討たれると、山崎の戦いで光秀を撃破。さらには、対立する織田家筆頭家老の柴田勝家を、賤ヶ岳の戦いで打ち負かし、信長亡き後の織田家を簒奪した。その後、武家として初めて関白の位につき、大阪城(現・大阪市)を拠点として天下統一を実現(のち太閤へ)。石田三成らに“太閤検地”を実施させ、度量衡を統一して全国的な税制をしき、各地の鉱山や蔵入地(直轄地)から巨万の富を得た。さらには、大陸に利益を求めて文禄・慶長の役(朝鮮出兵)を行ったが、これが仇となって晩年の政権運営は不安定化した。
<経済産業大臣・織田信長・GACKTO> 1534~1582 戦国時代から安土桃山時代の武将、大大名。尾張国の大名・織田信秀の子として生まれ、父の死による混乱の中、同盟相手であった美濃国(現・岐阜県南部)の斎藤道三から後援を受け、自力で家督を勝ち取る。道三の死後は、子の義龍、孫の龍興と対立するが、一方で駿河国の大名・今川義元を桶狭間の戦いに討ち、尾張国を統一。さらに美濃国も併合すると、足利義昭をかついで京都入りを果たし、義昭を室町幕府15代将軍に就けてこれを後見、“天下静謐”に乗り出した。朝倉義景や、元同盟者の浅井長政、比叡山や本願寺などの宗教勢力、中国地方の毛利氏、甲斐国の武田氏などから攻められ、将軍義昭など同盟に裏切られるも、危機を脱して各個撃破。この間、安土城(現・滋賀県近江八幡市)を拠点とし、不要関所の撤廃、楽市・楽座、街道の整備などを行って経済・産業を活性化。南蛮貿易と鉄砲の街・堺を直轄とし、海外進出も目論むが、本能寺の変で横死した。
<内閣官房長官・坂本龍馬・赤楚衛二> 1835~1867 幕末の志士、土佐藩郷士。土佐国の裕福な郷士の家に生まれる。剣術修行のため江戸へ上り、北辰一刀流入門のかたわら佐久間象山の私塾にも入って砲術を学ぶ。一度、帰国してのち、二度目の江戸遊学をへて武市瑞山の急進的改革派・土佐勤王党に加盟。この頃、龍馬は勤王攘夷派だったが、党と相容れなくなり、脱退のうえ脱藩。その後、計二度にわたる脱藩の中で、長州藩、薩摩藩、幕臣などの志士と交流が生まれ、神戸海軍操練所を設立した幕臣の勝海舟に入門し、海舟の海軍塾頭となる。海舟が幕府の職を罷免されると、薩摩藩を頼って長崎に貿易結社「亀山社中」を結成。貿易業のかたわら、土佐藩郷士の中岡慎太郎らと共に、対立する薩摩・長州両藩の和解を斡旋し、薩長同盟締結にこぎつけた。直後、幕府役人に襲われる寺田屋遭難などをへて、「海援隊」を結成。幕府の大政奉還にも間接的にかかわるが、京都・近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺された。 |
(5)「We are 偉人」
<総務大臣・北条政子・江口のり子> 1157~1225 平安時代末期から鎌倉時代の女性、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の妻。伊豆の豪族・北条時政の娘として生まれ、平家によって伊豆へ流された頼朝と結ばれる。頼朝が平家打倒の兵をあげると、正妻として鎌倉幕府の成立を支えた。頼朝の死後、その子頼家、実朝も相次いで死んだため、鎌倉の総領的な役割をつとめる。幕府・執権となった弟・義時が、後鳥羽上皇から追討の院宣を出されるが、鎌倉の武士たちを前に力強く大演説をうち、幕府軍を勝利に導いたとされる。
<厚生労働大臣・徳川綱吉・池田鉄洋> 1646~1709 江戸時代前期の征偉大将軍(江戸幕府5代)。3代将軍・徳川家光の四男に生まれ、兄・家綱(4代将軍)の養子となり将軍職を継いだ。父・家光にならって儒学と「徳」を重んじ、武断政治から文治政治へ切りかえる一方、不手際のあった大名をつぶし、代官を取りしまるなど権力の独裁化を進めた。敬愛する母の働きかけで多くの寺を建立・復興、生命を大切にする法令群「生類憐みの令」を発したが、かえって社会の混乱をまねき「犬公方」と揶揄された。
<外務大臣・足利義満・小手伸也> 1358~1408 室町時代前期の征偉大将軍(室町幕府3代)。わずか11歳で将軍職を継ぎ、新しい御所・室町第(むろまちてい・花の御所)へ移ると、有力大名を統制して将軍の権力を強め、対立する南北朝の合一を実現。官位でも左大臣、准三宮(じゅんさんぐう)に上り、太政大臣に就任した。外交では明国に国書を贈り、100年以上も途絶えていた中国との国交を開いて、「日本国王」の称号を得る。義満が築いた豪華な北山第(きたやまてい・のちの金閣寺)では、中国書画の名品が収集され、北山文化が花開いた。
<文部科学大臣・紫式部・観月ありさ> 970?~1014? 平安時代中期の宮中女房、女性作家。藤原為時の娘。為時が越前国(現・福井県北部)に国司としておもむくと、これに同行する。帰国後、父と同じ受領(ずりょう・国司)階級の藤原宣孝(のぶたか)と結婚。夫が急逝したあと、ときの権力者・藤原道長の娘で、一条天皇の中宮(后・きさき)となった彰子(しょうし)に秘書兼教育係として仕える。この前後から、最古の長編小説と言われる『源氏物語』の執筆を始めた。『枕草子』の作者・清少納言とはライバル関係にあった、とされることが多い。
<財務副大臣・石田三成・音尾琢真> 1560~1600 戦国時代から安土桃山時代の武将。近江国(現・滋賀県)に生まれ、羽柴(のち豊臣)秀吉に仕えた。そのおり、秀吉に“三献茶”(さんけんちゃ)と呼ばれる優秀なお茶給仕サービスを行った逸話は有名。秀吉が天下統一を進めるなかで、検地奉行(田畑の測量と税収換算)など、さまざまな実務をになう官僚として几帳面に実績をあげ、秀吉の信頼を得て近江佐和山城主となる。秀吉の死後、徳川家康と対立して関ヶ原の戦いに発展。戦に敗れ、京都・六条河原に処刑された。
<警備隊・土方歳三・山本耕史> 1835~1869 幕末から明治時代初期の武士、新選組の副長。武蔵国多摩郡石田村(現・東京都日野市)に生まれ、剣術の天然理心流に入門して近藤勇と出会う。幕府が浪士組を組織すると近藤らと共に入隊し、京都へ。浪士組が新選組と改組されてからは、局長・近藤のブレーンとして、のちに“鬼の副長”と称されるほど冷徹に隊の運営を行い、坂本龍馬も含めた志士たちを警戒、京都を警備した。戊辰戦争へ突入してからも旧幕府側として戦い、箱館戦争で戦死した。 |
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