2024年6月30日第256回「今月の映画」「BOB MARLEY ONE LOVE」
(1)映画館の案内に、次の紹介が掲載されていたので、是非、見たいと思いました。
≪≪≪1976年、対立する二大政党により国が分断されていたジャマイカ。国民的アーティストとなっていたボブ・マーリーは国内の政治闘争に巻き込まれ、銃撃されてしまう。 だがその僅か2日後、ボブは怪我をおして「スマイル・ジャマイカ・コンサート」のステージに立ち、8万人の聴衆の前でライブを披露。 その後、身の危険を感じロンドンへ逃れたボブは「20世紀最高のアルバム」(タイム誌)と呼ばれる名盤『エクソダス』の制作に勤しむ。さらにヨーロッパ主要都市を周るライブツアーを敢行し、世界的スターの階段を駆け上がっていく。 一方母国ジャマイカの政治情勢はさらに不安定化し、内戦の危機がすぐそこに迫っていた。深く傷ついたジャマイカを癒し内戦を止められるのはもはや政治家ではなく、アーティストであり国民的英雄であるこの男だけだった。≫≫≫ |
(2)「INTRODUCTION」
<ボブ・マーリーの生涯を描く 新たな音楽伝記映画の傑作が誕生!> ≪≪ジャマイカで生まれ、36歳で夭折した【世界で唯一無二(オンリーワン)】のアーティスト、ボブ・マーリー。全世界アルバム売上7500万枚以上を記録し、没後43年を経ても彼の歌声は世界中の人々に希望を与え続ける。≫≫ 制作には、ボブ・マーリーの子供であるジギー・マーリーとセデラ・マーリー、そしてボブ・マーリーが世界中で大活躍した36年間、彼を支え、また、自身も女性アーティストであった妻のリタが参加している。彼らボブ・マーリーの家族は、ほかにもロバート・テイテル、プランBエンターテインメントのデデ・ガードナーとジェレミー・クライナーといった製作陣や、製作総指揮のブラッド・ピット、リチャード・ヒューイット、オーリー・マーリー、マット・ソロドキーと共に製作を進めた。 この製作陣は、監督のレイナルド・マーカス・グリーンをはじめ、撮影監督のロバート・エルスウィット、美術のクリス・ロウ、音楽監督のスティーブン・マーリー、音楽総指揮のハーヴィー・メイソン・Jr.、音楽のクリス・バワーズ、衣裳のアンナ・B・シェパード、ヘアメイクデザイナーのナディア・ステイシー&カーラ・ファーマーなど、世界的に認められたスタッフと、ボブ・マーリー役のキングズリー・ベン=アディルとリタ・マーリー役のラシャーナ・リンチをはじめとした素晴らしいキャストを集めた。 何が人々を惹きつけるのか?彼が人生を懸けて伝えたかったメッセージとは何か?音楽で世界を変えたボブ・マーリーの≪真実の物語≫と≪魂の歌声≫がスクリーンに響き渡る! |
(3)「STORY」
1976年、対立する二大政党により国が分断されていたジャマイカ。国民的アーティストとなっていたボブ・マーリーは、国内の政治闘争に巻き込まれ、12月3日、自宅で銃撃されてしまう。 だがそのわずか2日後、ボブは怪我をおして「スマイル・ジャマイカ・コンサート」のステージに立ち、8万人の聴衆の前で人生で最高のパフォーマンスを披露。その後、身の危険を感じロンドンへ逃れたボブは、「20世紀最高のアルバム」(米タイム誌)と呼ばれる名盤『エクソダス』の制作に勤しむ。 さらにボブはヨーロッパ主要都市を回るライブツアーを敢行し、世界的スターへの階段を駆け上がっていく一方、母国ジャマイカの政治情勢はさらに不安になり、内戦の危機がすぐそこに迫っていた。 深く傷ついたジャマイカを癒やし、内戦を止められるのはもはや政治家ではなく、アーティストであり国民的英雄であるこの男だけだった・・・・・ |
(4)「BIOGRAPHY BOB MARLEY」
<ボブ・マーリー 1945年2月6日ー1981年5月11日 本名:ロバート・ネスタ・マーリー/Robert Nesta Marley> <ボブ・マーリーは、ジャマイカ出身のレゲエミュージシャン。その音楽はラスタファリ運動の思想を背景としており、彼の音楽・思想は、音楽関係者のみならず数多くの人々に多大な影響を与えている。「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第19位にランクされた。> *1970年 キングストン市ホープロード56番地に自身のスタジオ、レーベルであるタフ・ゴングを設立。 *1972年 アイランド・レコードと契約し、翌年メジャーデビューアルバム『キャッチ・ア・ファイアー』をリリース。 *1974年 エリック・クラプトンがカヴァーしたマーリーの楽曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が全米ビルボードチャート1位を獲得する。その後、バニー・ウェイラー、ピーター・トッシュがウェイラーズから脱退した。 *1975年 ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとして新たに活動を開始する。 *1976年 プロデューサーのクランシー・エクルズらと共に人民国家党(PNP)の政治キャンペーンに参加したことからマイケル・マンリー率いるPNPと、エドワード・シアガが率いるジャマイカ労働党(JLP)の二大政党の対立抗争に巻き込まれ、12月3日に狙撃され重傷を負い、亡命を余儀なくされる。 *1978年 ジャマイカに舞い戻り、“One Love Peace Concert”を開催する。このとき、コンサートを見に来ていたマイケル・マンリー(PNP)とエドワード・シアガ(JLP)の2人の党首をステージ上に招き、和解の握手をさせた。 *1979年 4月から日本、オーストラリア、ニュージーランドで公演を行った。さらにかねてからの念願であったラスタファリズムの聖地、エチオピアを訪問。このときの体験をもとにアルバム『サヴァイヴァル』を発表している。 *1980年 アフリカ訪問、さらにアルバム『アップライジング』発売。 *1981年 5月11日 脳腫瘍を患いアメリカ・フロリダ州の病院で死去。36歳没。同月21日、キングストンにて国葬された。 https://www.univeral-music.co.jp/bob-marley/biography/より転載。 |
(5)「THE RIGHT TIME その時がきた」
「初めから完成していたのも同然だった。何年もこの物語を伝えたいと思っていた。何度も製作に漕ぎつけたが、何度も白紙に戻すことになった」と、毎日撮影現場に顔を出し、父親をできるだけ忠実に描こうとしたジギー・マーリーは語る。「今がちょうどいいタイミングだったと思う」 「本作のような真のジャマイカらしさが観られるハリウッド作品は初めてだ」とジギーははっきりと言った。「この映画は、ジャマイカと、父ボブと、そして彼の音楽の創造をリアルに表現している。クリエイティブなアプローチをとり、感情的に描くのは控えた。真実を観てももらうことを重視し、僕の感情はこの真実を超越したところにある」 ジャマイカで活躍しているアーティストや新進気鋭のミュージシャンたちを起用したキャストとジャマイカ人スタッフたちが252人もそろい、それぞれの独自の文化と創造性を本作にもたらしている。 製作のジェレミー・クライナーは、「ボブ・マーリーの映画は100本作っても、それぞれが素晴らしいものになり得るだろう」と話している。そのため、製作初期での課題は、ボブ・マーリーのどの側面を描いたら彼の存在や音楽、メッセージに光を当てられるのかを見きわめることだった。 「だからこそ1976年から1978年の期間に焦点を当てたんだ」とクライナーは続ける。「ボブは混乱と危機の時代のなか、史上最高のアルバムの一つである『エクソダス』を録音した」 キングストン市ホープロード56番地にあるボブ・マーリーの邸宅を、武装した7人の男たちが襲撃。妻のリタとボブ、マネージャーのドン・テイラー、バンドアシストのルイス・グリフィスが撃たれたのは1976年12月3日のことだった。リタは頭を、ボブは胸を撃たれたが、奇跡的に命は助かった。 さらに信じられないことに、そのわずか2日後、マーリーは大胆にも故郷で開催された「スマイル・ジャマイカ・コンサート」のステージに立ち、人生で最高のパフォーマンスを披露した。その後は自らの意志でロンドンに移り、平和と団結のメッセージを可能な限り遠くまで広げていけると実感できるアルバム制作に取り組んだ。 『この世界で悪事を働く奴らに休みはない』 音楽には癒やしの力があるという信条を持ち、そのまま突き進もうという覚悟の下、マーリーは言った。「僕が休んでいる場合じゃない」 1977年6月3日に発売された『エクソダス』は、1999年に米タイム誌により「20世紀最高のアルバム」に選ばれた。ボブ・マーリーの曲といえば外せない「ジャミング」や「スリー・リトル・バーズ(3羽の小鳥)」、「ワン・ラヴ/ピープル・ゲット・レディ」メドレーなどが収録された驚異的な一枚で、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとアイ・スリーズの音楽の進化を示す機会ともなった。 「本作を通して、なぜこの音楽やアルバムがリリースされた瞬間がそれほどまでに重要なのかを観客に知ってもらうことができる」と語るのはアストン・バレット・ジュニアだ。彼は、ザ・ウェイラーズで演奏したアストン“ファミリーマン”バレットの息子で、本作ではその父親を演じている。また、同じくザ・ウェイラーズの子孫であり、実生活ではミュージシャンとして活動しているデヴィッド・カーが、本作では彼の父親であるジュニア・マーヴィンを演じている。 このように若手アーティストが自身の父親役を演じているが、演技も音楽も共に異様なほど素晴らしい仕上がりとなっている。しかしそれ以上に、家族が関わることで生き生きとしたダイナミクスが生まれ、レイナルド・マーカス・グリーンが真に親密な映像を撮る手助けとなってくれた。ボブ・マーリーの音楽同様、本作も人々を一つにしたのだ。 「これ以上の描き方はなかった」とデヴィッド・カーは言う。「ボブ・マーリーのことはほとんどの人が知っているが、若い人たちは何をした人でどんなメッセージを伝えたのか知らない人もいる。ボブ・マーリーの顔を知っていたり、マリファナを吸っていたことを知っていたりする程度だ。でも本作では、彼の伝えたメッセージに立ち戻り、ボブ・マーリーが世界と後生のために何をしたのか知ることができる。それを実現していることが素晴らしい。みんなに観てほしい作品だと感じている」 良かったのはタイミングだけではない。ジギーに聞くと、本作がついに公開される理由は、何十年もこの物語を伝えようとしてきたなかで初めて、全ての要素が調和したからだと言うだろう。「手法も最適、アイデアも最適、スタッフもキャストも最適だ」 ジギーは、グリーンが監督した『ドリームプラン』(21)を観て、父親の物語を伝える手助けをしてくれる最適の人が見つかったと確信したという。 グリーンにとって、本作に携わったことは、単に映画製作の機会を得たということではない。「この作品には個人的な縁を感じていた。僕のレイナルド・マーカス・グリーンという名前は、マーカス・ガーベイに由来する。父親が、自分たちの民族の歴史を覚えていてほしいという思いから付けた名前だ」と監督は、ジャマイカの汎アフリカ主義(最後に注釈あり)活動家について語る。1921年のガーベイのスピーチ「The Work That Has Been Done(原題)」にインスパイアされたマーリーは、「リデンプション・ソング」(80)のなかで、「Emancipate yourself from mental slavery(心の呪縛から自分を解き放て)」という歌詞を生み出した。 「僕の好きな数字は、42だ」とグリーンは続ける。「ボブは(『エクソダス』制作中の1970年代に、ロンドンのチェルシー地区の)オークリー・ストリート42番地に住んでいた。僕が本作を製作することは運命だったのかもしれない。ほかの人たちと同様に、ボブの音楽は我が家の必需品だった。彼の音楽は反逆的で戦闘的で、人々の声を代弁しているかのようだ。ボブの歌は、僕自身も自分の人生のなかで立ち向かおうとしている物事を歌っている。そのような整合性が本作の基礎となっている。僕は本作を撮るために生まれたような気がする」 父親同様にグリーンも、自分の子供たちには先人の存在を、そして、彼らがいかにあらゆる物事を整えてくれたかを、覚えていてほしいと思っている。「素晴らしいスタッフたちのおかげで、僕の子供たちにずっと覚えていてほしいボブ像を世に送り出せた」とグリーンは言う。 そして、監督としての責任感がのしかかっていることもグリーンは強く自覚していた。「何しろ、ボブだから!誰も下手な取り上げ方をしてほしくないに決まっている」とグリーンは笑う。「製作過程でよく言われたのが、『絶対に失敗するなよ』だったよ」 しかし、ボブ・マーリーが私たちに何かを教えてくれたとしたら、それは恐れないということだろう、「誰かが手を挙げて、『挑戦してみるよ』と言わなければ。人生で素晴らしいと思うことには、挑戦することが必要だから」とグリーンは言う。そして、グリーンにとってもヒーロー的存在であるボブ・マーリーの人生を余すところなく伝え、装飾を施して見かけを良くしたり、整えたりすることをせずに描いたグリーンの勇気に、ボブの家族はもっとも共鳴したという。 映画化するまで、理想的な創造性に富んだ相乗効果を見つけるには時間がかかったかもしれないが、時間をかけた価値はあったとマーリーの家族は感じている。最適なチームを揃え、ちょうどいいタイミングで最高の音楽を奏でることができたからだ。 「そのとおり」とセデラ・マーリーは言う。彼女は13歳のときに父親を亡くしている。「パパが今まだ生きていたら自分で話すだろうけど、いないから私たちが代わりに伝えているだけ。でも撮影中でさえ、いろんなキャストを通してパパが語っているように感じた」 特に、世界中の人が知るもっとも有名な人物の一人であるボブ・マーリー役を引き受けた、才能と勇気のある役者・・・・・「そう、キングズリーを通してね」とセデラは笑顔で言った。 ≪≪汎アフリカ主義・・・・・アフリカ人自らの手でアフリカ大陸を植民地支配から解放し、苦しみの経験を共有する有色人種の世界的連帯を奨励し、強化することを目的とした思想・運動のこと。19世紀末、アフリカ大陸から奴隷としてアメリカ合衆国及びカリブ海地域へ連れてこられたアフリカ人の子孫たちによって、自らのアイデンティティーを求める運動として始まった。≫≫ |
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