2023年12月31日第251回「今月の映画」「ゴジラー1.0 」
(1)有り難いことに、12月22日(金)に、拙著の≪≪『交流分析』の『人生脚本』と『照見五蘊皆空』>>(文芸社)が「初版第2刷」として出版されました。私の人生にも、少しは幸運なことがあるものだと、感動しています。
・・・・・・・・・・・・・・ さて、今回の映画を観た後で、売店に行き、パンフレットを買いました。 そこで私が「この映画のタイトルは何というのですか?」と尋ねると、売店の女性の方は、「ゴジラ マイナス ワン」ですと教えてくださいました。 そして、「これから映画を見るのですか?」と尋ねるので、「いえ、今、見てきたのです」と答えると、私がお金を渡して、それからお釣りをくださるまで、売店の女性方は、ずーっと笑い通しでした。 パンフレットにはリアルなゴジラの写真が映ってあり、その絵の下に「-1.0」と書いてありますが、なんと読むのかサッパリ解りませんでした。 しかし、しかし、です。『リアルなゴジラの絵にプラスして「-1.0」』が「ゴジラ・マイナス・ワン」なんて、一体全体、何なんでしょうか? さて、この映画は、いろいろなメディアに取り上げられていて、評判が抜群に素晴らしいです。迫力満点、満点、満点でした。 月刊『Hanada』の編集長・花田紀凱氏も「夕刊フジの『天下の暴論』」(11月18日)で≪≪「ゴジラー1・0」で感動の涙≫≫と題してエッセイを書いていらっしゃいます。 |
(2)「STORY」
<呉爾羅(ゴジラ)、大戸島に出現!> 第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)。 しかしベテランの整備平・橘宗作(青木崇高)は、故障箇所が見つからないと敷島に言い、彼が何かを隠していることを見抜いていた。 橘は敷島に、零戦に装着された20ミリ砲で呉爾羅を撃つように進言するが、敷島は恐怖で撃つことができなかった。 この年の冬、引き上げ船で一緒になった橘は、敷島に亡くなった整備兵たちが持っていた家族写真を手渡した。 |
(3)「STORY」
<戦後日本 敷島と典子、運命の出会い。> 1945年(昭和20年)、冬。焼け野原になった東京へ帰ってきた敷島は、両親が空襲で亡くなったことを隣家に住む太田澄子(安藤サクラ)から知らされる。 生活のため、敷島は戦争中に米軍が残した機雷を撤去する仕事に就く。 彼らには仕事を続けるうちに仲間意識が芽生え、敷島と典子にも夫婦のような親しみが生まれていく。 決して自分だけが幸せになることなどできない。 1946年(昭和21年)、夏。米軍による核実験、「クロスロード作戦」がビキニ環礁で行われ、接収艦の戦艦・長門もこの実験によって沈没。 体は暴走したかのように巨大化し、それは以前の姿を遥かにしのぐ巨体と化していった。 1947年(昭和22年)。太平洋で謎の巨大生物によって米国の船舶が被害を受ける事故が続発。 |
(4)「STORY」
<ゴジラ対「新生丸」。海上の決戦。> 「新生丸」に、巨大生物を足止めしろという命令がくだる。 やがて「新生丸」の前に、体高50mへと変貌したゴジラが姿を現わす。 最後の機雷をゴジラの口の中に放り込み、これを敷島が機銃で爆発させた。 しかしゴジラは急激に細胞を再生させて完全復活。 一旦は水中に消えるが、ゴジラは鯨のようにジャンプして高雄に飛び乗り、船にダメージを与える。 たまらずゴジラは水中に落下するが、やがて海面が青い光に包まれ、ゴジラが吐いた熱線によって高雄は海の藻屑となって消えた。 ゴジラとの戦いによって気を失った敷島は病院で目覚める。 「自分は生きていてはいけない人間だ」と語る敷島。 そして翌朝、遂に東京へゴジラが上陸した。 |
(5)「STORY」
<銀座襲来。対ゴジラの「海神作戦」決行。> 鳴り響く空襲警報、そしてラジオからの緊急放送。 一方、山手線に乗っていた典子はゴジラの襲撃に遭い、載っていた電車の車両ごと持ち上げられるが、辛くも危機を脱出した。 二人で逃げ始めると、ゴジラの背びれが青く光り出す。 敷島だけが生き残り、彼はゴジラへの復讐を誓った。 やがて民間人が集まり、駆逐艦・雪風の元艦長・堀田辰雄(田中美央)をリーダーに「巨大生物對策説明会」が開かれた。 「新生丸」のメンバーも集まっている。その名も「海神作戦」。 第二次攻撃として、今度は大きな浮袋を深海で膨らませ、海底から海面まで一気にゴジラを引き揚げて、凄まじい減圧を与えることで息の根を止めようというのだ。 「誰も守ってくれない」 戦争を生き抜いた民間人たちは戦いを決意する。一方、野田たちとは別に、敷島は独自のやり方でゴジラに立ち向かうことを密かに決めた。 「海神作戦」と敷島の対ゴジラ戦への準備が進む中、遂にゴジラが相模湾に姿を現わした・・・・・。 |
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