2022年7月31日第234回「今月の映画」「ELVIS エルヴィス」
監督:バズ・ラーマン 主演:オースティン・バトラー トム・ハンクス ヘレン・トムソン
(1)猛烈な暑さが続く毎日、コロナも猛烈な勢いで増えていて、今や、世界一の感染者数だとのことです。
日々のストレスが高まってきて、ストレスを発散できる映画を選んだのが今回の映画「エルヴィス」でした。私の思った感じとは少し違いましたが、この映画でストレスは発散できました。 ≪≪ブルース、ゴスペル、R&B,カントリーなど雑多な音楽要素を、雄大な才能と柔軟な感覚でまるごと呑み込み、新種の若者音楽“ロックンロール”として凄まじいセンセーションとともにシーンにぶちまけてみせた。≫≫ ≪≪いわゆる“ヒッピー”たちが様々な運動を展開。当時泥沼化しつつあったベトナム戦争に対抗して、花を飾って平和をもたらそうとするフラワー・ムーブメントが巻き起こり・・・≫≫ ≪≪そして68年、社会情勢はますます混乱。隆盛を誇った60年代前半の“強いアメリカ”の神話も崩れ去り、やがて混沌とした70年代へ・・・そんな流れの転機となった重要な年だ。4月、メンフィスでのマーティン・ルーサー・キング牧師暗殺を受けて全米168の都市で抗議運動が巻き起こり、2000人以上の死傷者が出た。2ヶ月後には大統領を目指して予備選を戦っていたロバート・F・ケネディ上院議員がロサンゼルスで暗殺された。ベトナムも大きく動いた・・・この混沌を背景に反戦運動も激化。≫≫ ≪≪混乱した社会に理想を抱き夢を見続けることの大切さを訴える「明日への願い」をエルヴィスは熱唱してみせた。原題「If I Can Dream」からも推測できる通り、この曲はマーティン・ルーサー・キング牧師の有名なスピーチ“私には夢がある(I Have a Dream)”へのアンサー・ソングとして書き下ろされたものだった。≫≫ 最後の(6)では≪≪生涯出演した映画は、全部で33作品。そのすべてが主演というのは、さすがエルヴィス!ここではイチオシの6作品を紹介します。≫≫ |
(2)「INTRODUCTION」
<数々の逆境を打ち破った伝説と、その裏側の危険すぎる真実とは・・?> 世界史上最も売れたソロアーティスト、エルヴィス・プレスリー。彼がいなければ、ビートルズも、クイーンも存在しなかった。エルヴィスの<誰も知らなかった>真実の物語を、『ムーラン・ルージュ』(01)の監督であるバズ・ラーマンが映画化! 若き日のエルヴィスは、ルイジアナの小さなライブに出演し、当時誰も聴いたことのなかった“ロック”とセンセーショナルなダンスを披露する。若者たちは魅了され、次々と叫び、熱狂する。その瞬間、やせっぽちの無名歌手は、スーパースターに変貌した・・・。 熱狂が瞬く間に全米へ広がるにつれ、センセーショナルすぎるロックとダンスは社会の大きな反発も生んでいく。数々の逆境を打ち破り世界を変えていくエルヴィスの生き様が、多くの伝説的なライブとともに描かれる。 若き日、無名の歌手だった頃から時代を背負うアイコンになるまでのエルヴィス役にオースティン・バトラーが大抜擢。多くのドラマなどに出演しティーンを中心に人気を博し、最近はタランティーノ監督作品やジャームッシュ監督作品に出演。本作ではほぼ全編にわたり吹き替えなしで歌唱とダンスを行ない、ラーマン監督に「エルヴィスそのもの」と言わしめる圧倒的なパフォーマンスを披露。バトラーは「エルヴィスのレコーディングか、僕のレコーディングかわからないようにまったく同じ歌声をやってみせることを目標にした」と語り、1年以上にわたって週6日以上のボイストレーナー等多くの専門家による猛特訓を受けた。『ボヘミアン・ラプソディ』(18)で主演のラ三・マレックの役作りも支えたポリー・ベネットがムーブメントコーチに就き、徹底的にエルヴィスの細かい所作を叩き込まれたオースティンは、最終的には「自然に自分の一部になった」と語る。 また、若き日のエルヴィスの才能をいち早く見つけ、生涯にわたりエルヴィスのマネージャーを務めた悪名高いトム・パーカー大佐役に、二度のアカデミー賞受賞俳優トム・ハンクス。見た目も実在のトム・パーカーにかなり似せ、これまでのキャリアになかったような役柄に挑戦している。 ロックを創り世界を変えたエルヴィス・プレスリーの真実を描き、圧倒的なライブパフォーマンスで誰もが知る名曲を、そして熱狂を体感する。本年度最注目のミュージック・エンタテインメントが誕生!
(3)「STORY」 <世界中を敵に回しても、俺は自分の歌を歌う> エルヴィス・プレスリーがロックを生んだ伝説のライブから熱狂は広がり、全米は揺らいだ。「次歌ったら、動いたら逮捕する」・・・エルヴィス(オースティン・バトラー)は社会を乱したとして、多くの逆境に遭うこととなる。破天荒な日々の裏側にあった危険な真実を知るのは、強欲なマネージャーであるトム・パーカー大佐(トム・ハンクス)だった。人気絶頂の彼を殺したのは何か・・・? |
(4)「REVIEW」
<1968年のアメリカと、エルヴィスがもたらしたルーツ、ロック・ムーブメント>(萩原健太・音楽評論家) 1968年12月3日、米NBCネットワークを通じて全米に向けてオンエアされ、42パーセントという空前の視聴率をあげた「エルヴィス」。ファンの間では“68カムバック・スペシャル”と呼ばれ、今回の映画でも中盤、象徴的に描かれているテレビ特別番組だ。本作とタイトルが同じなので混乱を避けるため以降そちらは「カムバック・スペシャル」と記させていただくが。 個人的な思い出話で恐縮ながら、ぼくにとってもあの番組がすべてのきっかけだった。日本では本国よりも1年ちょっと遅れて、70年の1月3日、フジテレビでオンエアされた。視聴率はふるわず、ほんの8パーセント程度だったと聞いているけれど、少なくとも当時中学生だったぼくにとっては、まさに人生を変える番組となった。同様の衝撃的な体験をなさった同世代の方も少なくないはずだ。 1954年、地元メンフィスのサン・レコードからローカル・デビューしたエルヴィスは、やがてトム・パーカーとの出会いを経て大手のRCAレコードに移籍。初の全米ナンバーワン・ヒット「ハートブレイク・ホテル」を皮切りに怒濤の活躍を展開していった。ブルース、ゴスペル、R&B,カントリーなど雑多な音楽要素を、雄大な才能と柔軟な感覚でまるごと呑み込み、新種の若者音楽“ロックンロール”として凄まじいセンセーションとともにシーンにぶちまけてみせた。 その後、58年に米陸軍に入隊し、ドイツでの2年の駐屯生活を経て活動を再開した彼は、より幅広い魅力を発揮。ロックンローラーとしての魅力はそのまま、カンツォーネやクラシックなどにまで触手を伸ばした、幅広く絶妙な歌心を聞かせるようになった。映画ではあまり詳しく描かれていない時期の話になるのだが、普通だったら共存しえない“ロックンローラーとしての味”と“ポピュラー・シンガーとしての味”を見事に併せ持つ、まさに“キング”へとこの時期、エルヴィスは成長していった。活動の“場”さえ間違えなければ、きっとその後の評価も大きく変わったはずだ。 が、マネージャーを務めていたパーカーの旧態依然とした戦略によって、60年代半ばに差しかかるころ、エルヴィスの活動の場はハリウッド中心になってしまった。ライブでもなく、テレビでもなく、映画。おかげでレコーディングといえば、どこか力の抜けたサントラ盤ばかり。そうやってエルヴィスがハリウッドでお定まりの青春恋愛映画を撮っている間、ザ・ビートルズを筆頭とする英国勢がテレビを通じて世界を席巻し、サイケデリック~アシッド・ロックのような新世代のロック・ムーヴメントがシーンを覆い尽くし・・・。エルヴィスはすっかり時代遅れの存在となってしまった。 こうした閉塞状況を打破するために用意されたのが、68年12月にオンエアされたスペシャル番組「エルヴィス」だった。銀幕の彼方に身を置いてばかりいたエルヴィスは、この番組でついに再び生身の観客の前にも姿を現し、もう一度、他の誰にも真似のできない雄大な資質を炸裂させた。“観客が金を払わないテレビには出るな”と指示していたパーカーの意向に背く形で制作されたこのスペシャル番組は、しかし多くのファンの心をとらえ、エルヴィスを時代の一線へと見事返り咲かせることになった。 番組放送の前年、1967年といえば愛の夏。サマー・オブ・ラヴ。既成の古くさい秩序や概念を打ち破るボヘミアン的存在として65年前後に登場しはじめた、いわゆる“ヒッピー”たちが様々な運動を展開。当時泥沼化しつつあったベトナム戦争に対抗して、花を飾って平和をもたらそうとするフラワー・ムーブメントが巻き起こり、ピークを形成していた。音楽的には、前述したサイケデリック・ロックが台頭。グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、ビッグ・ブラザーズ&ザ・ホールディング・カンパニーなどが、ドラッグによるトリップ感覚を助長するために様々なサウンド・エフェクトを多用したり、長尺なインプロヴィゼーションを展開したり、めまぐるしく原色の照明を交錯させるライト・ショーと同調したり、実験的なパフォーマンスを繰り広げていた。50年代に誕生して以来、卑俗で猥雑でやかましいガキ向けのガラクタ音楽と社会からまともに認知されることがなかったロックンロールも、歳月を重ね徐々に成長/深化。学生運動や反戦運動などある種の“思想”と結び付き、さらに自由と解放のシンボルでもあったドラッグと合体していったわけだ。 とともに、旧世代のロックンロール文化の象徴でもあったエルヴィス・プレスリーの存在感は薄れていった。もちろんヒット曲がなかったわけではない。エルヴィス・ファンの視点で振り返れば、この時期もエルヴィスは着実に活動を続けてはいたのだが、シーン全体を俯瞰してみれば、この時代、エルヴィスはいないも同然だった。 そして68年、社会情勢はますます混乱。隆盛を誇った60年代前半の“強いアメリカ”の神話も崩れ去り、やがて混沌とした70年代へ・・・そんな流れの転機となった重要な年だ。4月、メンフィスでのマーティン・ルーサー・キング牧師暗殺を受けて全米168の都市で抗議運動が巻き起こり、2000人以上の死傷者が出た。2ヶ月後には大統領を目指して予備選を戦っていたロバート・F・ケネディ上院議員がロサンゼルスで暗殺された。ベトナムも大きく動いた。1月に南ベトナムの共産ゲリラが蜂起、テト攻勢開始。3月、今度は米軍が南ベトナムのソンミ村で非武装のベトナム民間人を大量虐殺した。米軍の被害も甚大で、ベトナムに送り込まれた5万5000人の兵士のうち2万2000人が命を落とした。最終的にはこの年、米軍による北爆全面停止、南ベトナム解放軍のパリ和平会談の参加を声明するという、とりあえずの結論を見ることになるのだが、この混沌を背景に反戦運動も激化。 そうした情勢のもと、新時代のロックはカウンター・カルチャーを牽引する象徴へと祭り上げられ、シーンには浮かれ気分のロック共同幻想が蔓延した。こうした新時代の音が十分に“旬な商品”になりうることを知ったレコード会社らビジネス・サイドの性急な煽り立てもあって、60年代後半、ロック・シーン全体が浮き足立っていった。誰もがやみくもにヒップであろうともがいていた。 が、そんな中、エルヴィスは時流に惑わされることなく、自身の内側へと目を向け、自らのアイデンティティを再度見直そうとすることで復活を果たしたのだった。けっして、“エルヴィス、サイケデリック・ロックに挑戦”とか、そういう浮き足だった方向性ではなく、エルヴィスの体内にしみこんでいるにもかかわらず、ハリウッドでは発揮しきれずに眠っていた雄大なルーツ感覚を全開にしようという試み。そのことは、映画にも登場する「カムバック・スペシャル」のライブ・シーンにおけるエルヴィス自身のMCにも表われている。近ごろは様々な形態のロックが人気を博しているけれど、ロックのルーツはリズム&ブルースでありゴスペルなのだ、今こそそのルーツに目を向けなければいけない、と。エルヴィスはそこできっちりと、高らかに宣言していた。その後、70年代にかけてボブ・ディラン、グラム・パーソンズ、ザ・バンド、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル、ザ・ローリング・ストーンズらの活動を通じて盛り上がっていくことになるルーツ・ロック・ムーヴメントの先駆けとも言うべき、実に的確な先見の明だった。 そして、「カムバック・スペシャル」のラスト・シーン、クリスマス・ソングでアットホームなムードで番組を締めくくらせようというパーカーの目論見を腕尽くで振り切るよぅに、自らのルーツであるゴスペル~ブルースのフィーリングを全開にした感動的な歌声で、混乱した社会に理想を抱き夢を見続けることの大切さを訴える「明日への願い」をエルヴィスは熱唱してみせた。原題「If I Can Dream」からも推測できる通り、この曲はマーティン・ルーサー・キング牧師の有名なスピーチ“私には夢がある(I Have a Dream)”へのアンサー・ソングとして書き下ろされたものだった。 この瞬間を描いたシーンが個人的には本作『エルヴィス』中、最大の感涙ポイントだった。こうしてエルヴィスはさらなる黄金時代へと歩みを進めた。もちろん、その先にはさらなる葛藤が待ち受けていたわけだが。そうした前人未踏の歩みの中でエルヴィスはぼくたちに何を届けようとしてくれたのか、それを改めてポップ・シーンに思いだしてもらうために、本作『エルヴィス』が果たしてくれる役割は大きそうだ。 ≪≪萩原健太氏・・・1956年生まれ。音楽評論家、DJ。音楽評論の傍ら、音楽プロデュース、コンサート演出、作曲・編曲等も手がける。主な著書に「70年代 シティ・ポップ・クロニクル」(エレキングブックス)、「ボブ・ディランは何を歌ってきたのか」(エレキングブックス)、「ザ・ビーチ・ボーイズ・ディスク・ガイド」(ミュージック・マガジン)、「ポップス・イン・ジャパン」(新潮文庫)、「はっぴいえんど伝説」文庫版(シンコー・ミュージック)など。≫≫ |
(5)「エルヴィス・プレスリーの音楽と、アメリカン・ドリームの光と影」(ビリー諸川・全日本エルヴィス・プレスリー普及委員会会長)
本名エルヴィス・アーロン・プレスリーは1935年1月8日午前4時35分、ミシシッピ州東トゥペロの貧しい農家に双子の弟として誕生。兄のジェシー・ギャロンが死産だったため、エルヴィスはひとりっ子として育つこととなる。 エルヴィスは幼少時から、ゴスペルに慣れ親しみ、黒人居住区の近くに住んでいたため、白人と黒人、両方の教会音楽を毛穴から吸収した。10歳のときに、地元ののど自慢大会に出場し、5等賞を獲得。その褒美として、11歳の誕生日に両親からギターをプレゼントされた彼は、ラジオから流れてくるカントリーやブルース、そしてポピュラー音楽に合わせて独学で自分の歌のスタイルを作り上げていった。13歳のときに一家が無一文となってしまい、夜逃げ同然でメンフィスへと引っ越したことで、エルヴィスは歌手として身を立てることを自身の中で決意する。 16歳でそれまでのオーバーオール・ファッションと訣別し、黒人の伊達男がするようなファッションを身にまとい、もみあげを伸ばし、髪はリーゼントに整えるという独自のファッション・スタイルを打ち出した。高校を卒業してすぐの53年7月、地元にあるメンフィス・レコーディング・サーヴィス(サン・レコードと同体)で4ドルを払い、レコードを自費制作。このレコードがきっかけとなり、1年後の54年7月19日にサン・レコードより、「ザッツ・オール・ライト」で歌手デビューを果たした。エルヴィスの人気は次第に高まり、その人気に目をつけたトム・パーカーの手腕によって、55年11月21日に大手レコード会社のRCAに破格の4万ドルで移籍。 翌56年1月28日には、初の全米ネットワーク・テレビの「ステージ・ショー」に出演し、お茶の間にエルヴィスの扇情的なステージ・アクションが映し出されたことで、その名が一気に広がることとなった。1月にレコーディングした「ハートブレイク・ホテル」が全米でナンバー・ワンに輝くと、ハリウッドのスクリーン・テストにも合格。エルヴィスのい腰振りアクションは“Elvis the pelvis”(骨盤エルヴィス)と保守的な考えを持つ大人たちから非難を浴びた。いっぽうで若者たちからは絶大な支持を集めていたエルヴィスは、「ただ感じたままに音楽を表現するだけ」という自分の信念を貫き、時代の寵児として、全米を駆け巡った。 9月9日には、人気テレビ番組の「エド・サリヴァン・ショー」に出演し。82.6%という驚異的な視聴率は、エルヴィスが社会現象となっていることを示す顕著な数字だった。11月には、初の主演映画『やさしく愛して』も公開され、56年はエルヴィスのロックンロールによって、アメリカのそれまでの価値観が大きく揺り動かされることとなった。エルヴィスの人気は衰えることを知らず、翌57年には、映画『さまよう青春』と『監獄ロック』が公開され、レコードの売り上げもまったく衰えることがなかった。まさに“キング・オブ・ロックンロール”の名を欲しいままにエルヴィスは、この年の3月には、両親へのプレゼントとして、メンフィスの郊外に終の棲家となる邸宅グレイスランドを購入。まさにエルヴィスのアメリカン・ドリームが具現化した瞬間だった。が、人気絶頂のときに、徴兵制度により、陸軍に入隊。2年間のブランクを作ることになるが、トム・パーカーのアイデアと手腕によって、人気を保持することができた。 60年3月に除隊したエルヴィスは、50年代の反逆児のイメージから、好青年へと変貌を遂げていた。かつてエルヴィスに対して目くじらを立てていた大人たちも兵役義務を果たしたエルヴィスに好感を抱き、“アメリカの息子”としての存在を認めるようになっていった。そんなエルヴィスの60年代は『G.I.ブルース』を皮切りに、27本の映画に出演するという俳優業に専念。音楽活動は、サウンドトラックのレコーディングが中心となった。タイトルこそ変われど、ストーリー展開がまったく変わらぬワンパターン作品が続くなか、ビートルズやローリング・ストーンズといった新しいロックのアーティストたちの台頭により、エルヴィスは時代の彼方へと葬り去られつつあった。 そんな68年、クリスマスの特番として放送されたエルヴィスにとって初のワンマン・テレビ・ショーが瞬間最高視聴率70%を記録。これがきっかけで、翌69年からラスベガスのインターナショナル・ホテルで再び生の観衆を相手にライブ活動を再開した。 70年には、この年の8月のステージをフィルムに収めた映画『エルヴィス・オン・ステージ』が世界的な大ヒットを記録。再び精力的に歌手活動を展開。全米各地を駆け巡り、その模様は『エルヴィス・オン・ツアー』として、映画化された。 73年1月14日には、「アロハ・フロム・ハワイ」と題した衛星生中継コンサートをハワイで行ない、全世界で15億人の人が観るという前人未到のショーを実現してみせた。が、いっぽうで、プリシラ夫人との離婚、さらにはトム・パーカーとの確執、変わり映えのしないステージ・スケジュールなどで、エルヴィスの体調は急激に下降線を辿ることになってしまう。医者から過度に薬を処方され、スーパースターとしての孤独と闘いながら、それでもステージだけが生き甲斐だと嬉々として最後のコンサートまで熱唱した彼は、77年8月16日午後3時30分、心臓発作でこの世を去った。 ≪≪ビリー諸川氏・・・1957年生まれ。ロカビリー歌手。89年、エルヴィスのバッキング・メンバーたちとレコーディングしたアルバムでメジャーデビュー。95年に上梓した小説をきっかけに執筆業も開始。現在まで、14冊のエルヴィスやロカビリーに関する本を出版。2022年7月には、シンコーミュージックより、エルヴィスのムック本「エルヴィス2」が発売された。全日本ロカビリー普及委員会&全日本エルヴィス・プレスリー普及委員会会長。座右の銘は、“生涯ロカビリー”。≫≫ |
(6)「ELVIS ON SCREEN・・・スクリーンの中のエルヴィス・プレスリー」
1956年4月1日に、ハリウッドでスクリーン・テストを受け、見事合格したエルヴィス。生涯出演した映画は、全部で33作品。そのすべてが主演というのは、さすがエルヴィス!ここではイチオシの6作品を紹介します。 ①LOVE ME TENDER(邦題・やさしく愛して)1956年・・・エルヴィスの記念すべき初の主演映画。舞台は南北戦争直後の南部のとある農家。南北戦争で兄が戦死したと知り、兄の婚約者と結婚する4兄弟の末っ子の役がエルヴィス(役名クリント・リノ)。やがて、死んだはずの兄が突然生還。戸惑い、苦しみ、妻との仲が崩れゆく中で、最後は兄をかばって死んでゆくという難しい役どころを見事に演じている。 ②JAILHOUSE ROCK(邦題・監獄ロック)1957年・・・エルヴィス3本目の主演映画。酒場で些細なトラブルから、相手の男を殴り殺してしまい、刑務所に入ってしまう主人公のエルヴィス(役名ヴィンス・エヴァレット)。その刑務所で同房のカントリー歌手から歌とギターの手ほどきを受けた主人公が、出所後にレコード会社のタレント発掘を担当する女性と知り合い、一緒にレーベルを設立。人気歌手となり、有頂天になってしまう主人公。それを諭すヒロイン。芸能界の裏側を垣間見ることができる作品にもなっている。 ③G.I.BLUES(邦題・G.I.ブルース)1960年・・・エルヴィス・5本目の主演映画。除隊後、最初の作品となる映画で、2年間にわたる軍隊生活を終えたジャストなタイミングで製作されたもの。ストーリーは、戦車兵の主人公エルヴィス(役名タルサ・マクリーン)が、ナイトクラブのダンサーのヒロインと一夜を共に出来るかを仲間たちと賭け、賭けとは関係なく恋に発展。最後は彼女のハートを射止めてハッピーエンドというコメディ映画。 ④BLUE HAWAII(邦題・ブルー・ハワイ)1961年・・・エルヴィス8本目の主演映画。2年間の軍隊生活を終えて、両親と恋人、仲間が待つハワイ・ホノルルに戻ってきた主人公エルヴィス(役名チャド・ゲイツ)。パイナップル農園を営む両親の家業を継いで欲しいという思いに逆らって、ヒロインが勤める観光会社で働いたことから起きる様々なトラブル。観光地での歌あり、恋ありの、その後のエルヴィス映画の典型的パターンとなる最初のコメディ映画。 ⑤VIVA LAS VEGAS(邦題・ラスベガス万才)1964年・・・エルヴィス15本目の主演映画。ラスベガスで開催されるレースで優勝を目指す主人公のエルヴィス(役名ラッキー・ジャクソン)。その主人公が恋に落ちるのが、アン=マーグレット演じる水泳コーチのヒロイン。実生活でも恋愛関係にあったと噂されたふたりだけあって、息のあった見事な歌と踊りを見せてくれている。物語は、結果として主人公はレースに優勝、ヒロインのハートも射止めて、ふたりはめでたく結婚!で、ハッピーエンド。 ⑥SPEEDWAY(邦題・スピードウェイ)1968年・・・エルヴィス27本目の主演映画。人気カーレーサーがこの映画でのエルヴィス(役名スティーヴ・グレイソン)の役どころ。女性好きで、運転技術抜群の主人公。稼いだ賞金を競馬に注ぎ込む。相棒には才覚なしのマネージャー、ヒロインに国税庁から送り込まれた女性計理士らと、恋あり、歌あり、レースありといった、これまた60年代エルヴィス映画の典型的な作品のひとつ。ヒロインは、フランク・シナトラの実娘のナンシー・シナトラが演じた。 |
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